のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

雲洞庵の土踏んできた

2009年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム

090612_2  「越後は今年も豊作でございます。百姓が喜びまする。」上杉景勝が言いそうな田植え後の景色。

 タケノコを手土産に越後の国の塩沢(現在は南魚沼市)の知人宅を訪ねたら「にしゃ(あなたは)今年はウントアン(雲洞庵)の土踏んだかや?」と言うので、3月に寺の外側だけ見に来たというと、それなら連れて行ってくれるということになり、参拝料300円でお寺の中をお参りして来ました。

090612a_3  雲洞庵の土踏んだか。と言うのは、この山道の石畳の下に法華経の経文を一文字ずつ書いて埋め込んであるため、この山道の石畳を歩くだけで功徳があるといわれています。

 地元民の説ではこの石畳の下に経文を書いた石が埋め込まれているそうで、敷石をはがしてみた人がいないのではっきりわからないが、山門から鐘付堂の前あたりまでの長さ80m程度の石畳の下に経文を書いた石が埋められているそうです。鐘付堂より本堂よりの参道には埋められていないことを今日はじめて知りました。
090612b_2  雲洞庵といえば余六(直江兼続の幼少名)と喜平次(上杉景勝の幼少名)が子供の頃にここで学んだことで有名になりましたが、幼少期の余六が上杉謙信に謁見した時に「わしはこんなとこ来とうはなかった!」と叫ぶシーンが印象的でした。
 さすがは粋な禅寺、早速「わしはこんなとこ来とうはなかった」手ぬぐいが作られて販売されていました。

 先代の石龍禅師の頃はお寺の中のあちこちに石龍禅師の書が貼られていて、これが妙に皮肉が混じった面白い言葉が多くて気に入っていました。今は昔ほど書が貼られていません。

090612c_2   NHK「天地人」に出てくる第十代北高全祝大和尚のイメージは先代の石龍禅師と重なってしまいます。
 その昔、デートで雲洞庵に来たとき、老齢の石龍禅師がお寺の中を走り回る子供達をとっつかまえて「お前達はお寺をなんと心得る!」と一括。若い両親に向かって「お前達も親なら子供の躾をしっかりせんか!しつけは親の責任ぞ!」と大声で怒鳴っていたのが印象的でした。

 北高全祝大和尚の元で学ぶ兼続と景勝。この部屋で勉強していたようです。
090612f  北高全祝大和尚と言えば、今の山形県の北畠家の出身で、雲洞庵住職歴任の後に武田信玄に招かれて今の長野県佐久市の龍雲寺住職になっています。孫子について詳しかった僧侶だそうで、武田と言えば「風林火山」の旗。孫子ですね。

 上杉景勝の元に和議の証として敵の武田信玄の娘が嫁ぐ裏にも北高全祝大和尚が関わっていたのではなかろうか?と地元民のおっさんは申しています。

090612e  北高全祝大和尚については塩沢出身の鈴木牧之の「北越雪譜」にも書かれています。

 雲洞庵の近くに三郎丸と言う地区があります。ここで北高全祝大和尚が葬式に呼ばれ出棺の時に、にわかに空が暗くなり吹雪になり、尻尾が二本ある犬猫のような妖怪が現れる。

 葬儀の村人達は棺桶を放り出して逃げたが、北高全祝大和尚が鉄の如意棒でその妖怪の頭を叩き割ると空の雲も晴れて、人々も戻ってきて葬儀が再開されたと言うエピソードで、このときに北高全祝大和尚が来ていた袈裟は、火車落しの袈裟と呼ばれ残っているとの話です。

090612d_2  雲洞庵から見える坂戸山。左のピークの上に坂戸城の本丸があったようで、今は赤い屋根のようなものがうっすら見えます。
 坂戸山の右手に雲洞庵の山号になっている金城山があり、この山を登ったときに坂戸山にも足を運び城跡を訪れたことがありましたが、当時は本丸跡らしき整地された肺らがあるだけで、何もありませんでした。

 戦国時代の戦争は本丸を落としたところで勝負あったの時代だったので、山の上にあるのは本丸だけで、武士も毎日この山の上まで通っていたわけではありません。山の麓に行政機関に当たる役所がありました。
 上杉の元祖長尾家の末裔の屋敷は長崎と呼ばれる地区にあったと記憶しています。

090612e_2  曹洞宗の禅寺なので座禅のための部屋もあります。

 雲洞庵は元々は律宗→真言宗のお寺で、1300年前に藤原房前の母が庵を作ってこの地に住み着き、底から尼僧院として600年ほど歴史を刻んだそうです。その後曹洞宗が入ってくるわけですが、尼僧院の名残かな?と思われるような柔らかい顔立ちの仏像があったり、当然真言宗を経験していますから多様な仏像が祀られています。
 曹洞宗など禅を組んでいればその姿そのものが仏なんですから、余計なものいらないのですが、こうした土着の歴史を取り入れてそれぞれのお寺が違う風習を取り入れています。排他性を持たない日本的だと思う。

090612h  本道の隅にあった仏様。中央が「雨降り地蔵」右が稲荷様、左が不動明王と毘沙門天。
 農村ですから雨降りは死活問題、このお地蔵様が真ん中に大きく祀られているのも良くわかります。

  我が家の界隈では葬儀のあと近所の組の人たちの念仏がありますが、浄土宗が少ない地域でなんで念仏が?と考えると、葬式にお寺が来てくれない貧しい農山村やお寺に住職がいない土地などでは、近所の人たちが念仏を唱えて浄土に送り出した風習の名残が今に残っているようです。
 念仏と言っても念仏歌のようなもので、道の端の六地蔵 唱え申してご威徳寺 四十八施をのがれ申し すぐに浄土へ南無阿弥陀仏 とこれがまた情けなくなるようなメロディーで弔うわけですが、なぜこういった風習が生まれたのかなんて考えると、人々の暮らしの中に興味深いものは多々あります。

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