終生の愛読書の一つである。 小学校低学年の時、はじめて読んで以来、何度読んだかわからない。新潮文庫から出されているこの版、ドイルの原作の素晴らしさもさることながら、訳者延原謙氏の見事な訳文--その流麗さにうっとりしてしまう。
内容の面白さは、言うに及ばず、舞台となった英国はデヴォンシャー州のダートムアの荒涼たる風景描写が素晴らしい! 依頼を受けたホームズに代わって、最初ワトソンがこの地に出向いた際の描写--「・・・青銅いろの蕨や、斑いりの茨が、沈みゆくうす陽に映えて、路hsどこまでも少しずつ登っていった。やがて小さな石橋をわたると、こんどは灰いろのなめらかな石の間を白い泡をたて、矢のように流れる渓流にそって登ることになった。・・・・しかし私は、年ごとに荒れゆく寂しい山村の風光を憂鬱な気持でながめた。朽葉は路にも散りしていたし、過ぎゆく私たちの頭上にもはらはらと降ってきた。そして車輪のひびきすらおし殺す朽葉の堆積--」 こうした名文が次々と続き、百年以上も前の(この本の出版は、1901年)英国南部の田舎の情景が眼前に迫って見える。
怪奇な犬伝説の残る地に、代々領主として君臨してきたバスカヴィル家。 だが、周囲は教育のある者はほとんどおらず、寂しい村がぽつんとあるだけという僻遠の地である。 陰鬱なバスカヴィル館の描写はもとより、少し離れた寂しい一軒家に住む、博物学者ステープルトン兄妹の人物描写が際立っている。 蝶や蛾を昆虫網を振り回して、採集する青白い顔をしたステープルトンに、エキゾチックな美貌を持つその妹。 あたり一帯は、広大な沼沢地で、一度踏み込むと、抜けでられなくなる底なし沼がところどころあるというのも不気味( 本当に、こんな場所が、英国にあるのだろうか?)。 馬や動物が沈み込み、濃霧が道を見えなくしてしまうという、土地・・・さすが、「嵐が丘」を生んだ国だけある! こんな気味が悪く、しかも魅力的な場所が小説の舞台となるだなんて!
しかも、ここには、太古の人類が住んでいたといわれる円形住居の跡地が、小山に幾つもサークルのように並んでいるのだ。 物語の後半、その住居に隠れ住んでいたホームズとワトスンは、再会するのだが、蘇ったかと思われていた魔犬の正体が巨大な犬に燐を塗って、発光させていたというくだりまで、全編がミステリーというより、怪奇小説の雰囲気である。 だからこそ、私の好みに100%はまっていると言えるのだが・・・。
ダートムア--ここは、私の憧れの場所である。いつか英国を旅することがあったら、ベアトリクス・ポーターの湖水地方と並んで、訪れたい土地。 この沼と先史時代の遺跡が残る神秘的な場所には、今も荒々しい野猪の紋章を持つ古い館と、 蝶のガラスの標本箱を壁じゅうに飾っている、青白い男の住む不気味な一軒家が佇んでいるような気がするのである。 そして、夜ごとその家に、黄色い灯りがともるのを見れば、百年の歳月など夢のように消えてしまうに違いない。