日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

そもそも、私たちにここが「日本」であるとか、あなたは「日本人」であるとかの「枠」に私たちを閉じ込め

2024-06-28 | 日記
そもそも、私たちにここが「日本」であるとか、あなたは「日本人」であるとかの「枠」に私たちを閉じ込めているというか縛り付けているのは、いったい何なのだろうか。もしそれは日本だとか日本人であるというのであれば、それこそ「トートロジー」であり、何も設問に答えられるものではあるまい。その答えとなるのは、言うまでもなく、私の語る「システム」(〈「システム」とその関係の歩み〉)に他ならない。それゆえ、どうしても「システム」について知ることが不可欠となる。ー私の語る「システム」論から、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉の中で生きている「意味」を再考するとき(続・続・続・続・続・続・続・続)




(最初に一言)


今回記事のタイトルも少し長くなったのだが、その意味するところは、日本とか日本人を語る際、いつもその思考の起点となるのは、「システム」であるということである。それは「東京都」であろうと、「都民」であろうとも、また然りであるということだ。都政(地方政治)と国政を一緒にしてはならない云々の話は、それゆえナンセンスな戯言でしかない。すべて「システム」と「システム人」の観点からとらえ直して議論されるべきはずなのだが。




 それでは本論に入るとしよう。まあ、こんなことを、選挙演説で話そうでもすれば、「お前は宇宙人か」、と相手にもされなくなるだろうから、都民や国民が食いつきそうな話をせざるを得ないのは仕方がないとはいえ、それにしても何か空虚な感しか覚えないのは私一人ではあるまい。それを噛みしめながら、さらに論を展開していきたい。 


 今回のタイトルで私の言わんとしているのは、次の点である。日本とか日本人を語る際に、これまでの私たちの見方は、たとえば丸山眞男氏の「超国家主義の論理と心理」(『世界』岩波書店、1946年)において、戦争行為に際して、日本の軍人がその最終的責任の所在として、神武天皇にまで遡る云々の話にも垣間見られるように、実は私の語る「システム」から位置づけ理解する日本と日本人ではなかったということである。それは、開国以降の日本と日本人は、それまでのいわゆる神武天皇から綿々として続く皇室の血統が明治維新の前後において「断絶」してしまったとは考えてはいない、ということを意味している。換言すれば、開国以降そして明治維新以降の日本と日本人は、「システム」によってつくり直されたのであり、それ以前の日本「固有」というか「独自」とされている歴史は消滅してしまったとは考えてもいなかったということである。


 こうした見方に立つ限り、おそらく今回記事の私のタイトルの意味は到底理解することはできないに違いない、と私はみている。それは、歴史を語る際に、神武天皇に端を発する日本と日本を主人公とする立場に立つことを意味している。それに対して、「システム」を主人公とする場合には、開国以降の、とくに明治維新以降の日本と日本人の歴史は「システム」がつくり出したというか、つくり直したとみる立場にあり、その意味では、明治維新を分水嶺として日本の歴史は「断絶」したものと位置づけ理解する立場にあるということである。


 付言すれば、それを踏まえて、「大日本帝国憲法体制」期と「日本国憲法体制」期の二つの憲法体制を、連続しているとみるか、あるいは連続していないとみるかの立場にさらに区分される、と私はみているのだが、ここでもさらに注意を要する問題がある。それは、明治維新以降の歴史を神武天皇から続くとする立場と、それが断絶した歴史であるとして理解する立場に分かれるということである。後者の観点に立つ人の中には、いわゆる「明治天皇すり替え説」を主張する論者が含まれている、と私はみているのだが、ここでも注意すべきは、そのすり替え説の論者が、明治維新の主人公を「システム」とみているかどうかの識別を要するということである。ただ単に、すり替えをしたとして、あくまでも神武天皇から続く系統の存続を前提とする論に立っているとすれば、その意味するところは、やはり異なってくるといわざるを得ない。


 ここまで少しややこしい話をしてきたのだが、私の強調したかったのはもうそろそろ「システム」を論の起点として、世界や日本を俯瞰する議論を盛んにすべしとの私の思いがそこには込められているのだ。今回の都知事選の選挙戦もそうだし、おそらく次回の国政選挙のそれもそうであると察するのだが、私たちが重要であると考える争点は何も語られないのだ。それはそれでいい?としても、少なくともいま日本が置かれている危機的状況・状態に関する真摯な議論が議会で行われないとすれば、これはもうーーー。「システム」から世界を日本を捉え直すとき、私たちが向き合うべき重要かつ大変な問題がすぐそこにあることに気が付くに違いない。


 もし「システム」論を前提とすれば、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」の存在を、否が応でも受け入れざるを得なくなる。何か難しく思われるかもしれないのだが、「システム」は、簡単に言うならば、「親分ー子分」関係を前提として、その時代を支配する時の親分に都合のいいように「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のグローバルな関係がつくり出されるという話であるということだ。ここで、親分を覇権国と非覇権中心国に、子分を半周辺国と周辺国に置き換えて考えてほしい。また「衣食足りて(足りず) 礼節を知る(知らず)」の営為のグローバルな関係に関しても、その中の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係を世界資本主義システムに、また「礼節を知る(知らず)」の営為の関係を世界民主主義システムに置き換えて考えてほしい。


 今のというかこれまでの親分の覇権国の米国が中心となってつくり出してきた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のグローバルな関係の中で、日本と日本人は組み込まれて生きてきた。それがこれから先には、その親分が中国へと替わろうとしているのだ。今はその移り変わりの時期としての米・中覇権連合の時代である、と私はみている。いずれにしても、これからの日本と日本人が向き合う相手はとても敵いそうではない親分となることは間違いないのだ。それゆえ、こうした親分連中とどのように付き合うべきなのかという問題は、いつも選挙のたびに争点にされてもしかるべきなのだが、それが全くと言っていいほどに何もおこらないのだ。


 これはいったい何を意味しているのだろうか。すぐわかるのは、「システム」を起点として議論することなど毛頭考えてはいない、考えられないということであろう。「システム」はその発展と存続のために、必ず「システム」に貢献する国を、すなわち覇権国をこれは歴代の覇権国の興亡史を紐解けば見えてくるに違いない。(これに関しては、特に『民主化の先進国がたどる経済衰退: 経済大国の興亡と自由民主主義体制の成立過程に関する一仮説 』晃洋書房 1995年を参照されたい。)その際、現覇権国と次期覇権国の間には覇権連合が形成され発展する歩みが見られる。そしてそれが何度も私の言う米・中覇権連合である。私たちはメディアを介して、こうした流れを何度も確認しているはずなのに、何故なのかそれを知覚できないままにあるのだ。試しに米中の政治的、経済的、軍事的、またその他の数多くの分野における交渉(会談)が、これまで数え切れないくらいに開催されたことを、私たちはどのように位置づけ理解しているのだろうか。まさか、それらは米・中覇権連合の形成と維持・発展には何も関係などはしていないと言うのだろうか。


 さらに、これが一番大事な話なのだが、「システム」は〈金の成る木〉としての存在をその最たる理由としていることから、いつも絶え間ない内乱や戦争を必要不可欠としている。その際、覇権国のバトンの受け渡しの時期において、大きな大戦が用意されるのである。そこには、「システム」の高度化の段階へと向かう歩みが大きく与っている。そして今がちょうどその時期に入りかけている、と私はみている。そして、その戦争では、米中は手を結ぶのは自明の理である。その米中両国の関係から、それでは弾き飛ばされるのはいったい誰であろうと推察するとき、蓋然性の最も高い国が日本ということなのだ。(これに関して詳しくは拙著『「日本」と「日本人」と「普遍主」』(晃洋書房 2014年を参照されたい。なお、このブログでも以前の記事で論及しているので、よければ参照してほしい。)勿論、これは私の「仮説」に過ぎない。私が残念なのは、国会や地方議会において、こうした論議が巻き起こらないことである。たくさんの仮説をぶつけあいながら、どうすれば私たちの命と暮らしの安全保障のレベルを高めることができるかを、必死になって考察すべきなのだ。




(最後に一言)


 今回記事もまた、詮無いことをここまで書いてきた。親分の米国との関係を子分の日本人がとやかく論じることなど、できやしないのは当然である。その意味では自公政権に奉仕する日本の政治家や官僚、メディア関係者、学識者に、ああだこうだと論難しても仕方のないことだろう。彼らは私たち以上に、子分として親分に従うことが求められているのだから。問題は、やはり私たちということになる。その私たちはと言えば、今や全国に拡散しつつあるクマ襲撃問題報道を見ていると、日本と日本人にはクマ対策もままならないようなのだ。こんなお粗末な人間集団に、どうして米国や中国の親分との向き合い方など論じることができようか。クマに対する私たちの向き合い方は、憲法第9条の文言を彷彿とさせるようなそれであり、これでは全く私たちの命と暮らしを守ることさえままならないだろう。


 誤解のないように、ここで急いで付言すれば、それではその9条を、その第2項を削除して自衛隊云々の文言をを明記すべきであるとか、あるいはまた、憲法それ自体を改正すべきであるとかの議論に対して、私は賛同しない。その理由は、日本国憲法は、また第9条は、米国から「押し付け」られた、と私はみている。その米国に、その憲法を第9条を日本に押し付けるように仕向けたのは、「システム」(の存在)であった、と私はみている。それゆえ、米国からいろいろと難癖をつけられて、第9条や憲法の修正や改正を指図されることがあったとしても、その米国の上位に位置する、つまりは日本国憲法や日米合同委員会や米国政府のさらに上位に位置する「システム」に「お伺い」を立てない限りは、おいそれと動くことは、はなはだ危険極まりない、と私はみているからである。ところで、その「システム」は敗戦後の{[A]→(×)[B]→×[C]}のそれではなく、今や{[B]→(×)[C]→×[A]}へとと様変わりしている最中なのだ。そうであればなお更のこと、米国だけではなく、中国は無論のこと、ロシア、インドやブラジル、アルゼンチン、南アフリカを始めとしたグローバルサウスとの意見交換は最低限、必要となるのは言うまでもなかろう。これらのことは、たとえ親分の米国に頭の上がらない子分であったとしても、何とか対応できる問題であると私は考える。
ただし、今の政治家や政党の惨状を見る限り、それは到底望むべくもない。決して子分であるから云々との理由だけでもないことを、私はここで強調しておきたいのである。


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