日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№18韓国の元徴用工は、本来的には筋論としては、先ずは何よりも、韓国国家・政府に対して、戦争被害者としての損害賠償を請求すべきであるー私の語る「システム」論から、改めて問い直すとき

2023-03-09 | 日記

№18韓国の元徴用工は、本来的には筋論としては、先ずは何よりも、韓国国家・政府に対して、戦争被害者としての損害賠償を請求すべきであるー私の語る「システム」論から、改めて問い直すとき


*私は以前のブログ記事で「嘘」ばかり述べていた。「私」が二人以上集まって「公」となると指摘していたが、「私」がたとえいくら集合しても「私」でしかないということに、この最近になってやっと気が付いた次第。そこには、私の思い込みがあった。米国の政治学者のH・D・ラスウェルの「政治的人間」に関する内容に、見事に「洗脳」され続けてしまったと言える。

 彼に従えば、ーーー政治的人間は私的な動機を公的な目標に転化して、公共の利益の名の下に合理化するーーー云々と述べるのだが、ここには「私」と「公」とが何か異なる次元に位置しているかのような描き方をしている。私はずっとこうした両者の関係をそのまま受け入れてきたのだが、私的な事柄は、結局のところ、たとえ転化して合理化したとしても、私的なそれに留まったままである、と私は捉え直したのだ。

**さらに、上のくだりに関連して言えば、私たちがしばば安倍元首相の政治手法を批判する際に、「彼は国家とその権力を〈私物化〉している」云々との話は、やはり再考すべきではあるまいか。むしろ、私たちは問い直すべきではあるまいか。すなわち、どうして私的権力に過ぎなかったものが、これまでずっと公的な仮面を被って、私たちを支配し続けることができたのか、と。


 **それにしても思うのだが、韓国の元徴用工や従軍慰安婦の人たちは、彼らの戦争被害の訴えを、先ずは彼らの自国国家・政府に対して行うのが筋ではなかろうか。というのも、彼らを救うことも守ることもできなかった国家・政府こそが、批判されるべき対象だろう。それゆえ、仮に日本国家・政府を訴えるにしても、その前に、彼らの立ち位置を明確にしておいた方がいい。彼らの国家・政府とは一線を画した存在であるという立場の表明である。

 ところが、これがなかなか容易ではないというか、できないのだ。それは日本の国民も同様である。米国による原爆投下の被害にあった当時の関係者たちは、原爆投下に関連した放射性物質による被害の救済はもとより、その前に彼らをそのような危険な状態から守れなかった日本国家・政府に対して、損害賠償の支払いを要求すべきであろう。彼らの他にも、米国戦闘・爆撃機からの空襲・空爆によって命や財産を失った人々も、同様に訴えるべきであり、その請求権は、今の国家・政府に対しても有効であるとみるべきではあるまいか。

***それにしても。私はそれこそ小さい頃から公立の学校と私立の学校という呼び方を当たり前のように見聞きしてきたし、その際、官公庁という言葉が、そこに重なっていたこともあって、物心の付いた時には、「私」と「公」とは、次元の異なるものとの理解が空気のように、何も不思議には感じられなかったのだ。誤解のないように、再度ここで付言しておくと、両者は、異なる次元の関係に位置すべきである、と私はみているのだが、それが現実には実際には、そうではなく「私」的な存在がそのまま「公」的存在に化けてきたということを、批判的に再考すべきであるとの論を展開しているのだ。

 私はこれまでの記事において、何度も、私たちは「システム」を担い支える「システム人」として国民の前に存在している云々と論じていたくせに、そのシステム人と国民の、それこそ「私」と「私」の関係を、的確に描くことができないままに済ませてきたのである。もう少しストレートな物言いをすれば、私の頭の中では、「私」と「公」の関係としての理解の方が強かったのだ。と同時に、なお、私は「システム」それ自体を、「私」的な存在として見るのか、それとも、「公」的存在として見るのかについての考察も、おこなわないままであったのだ。

 ところが、やっとその考察を不十分なままに、これまで私の語る「システム」論は云々と論を展開してきたことに気が付いたのだ。それを確認した途端、私の中で「お前はこれまで一体何を書いてきたのか」との叱責する声が聞こえてきた。そこから、私はこれまでの記事内容を、再検討・再考察する必要性を認め、少し前の記事から、それを踏まえた内容を論じているのだが、ある意味では新鮮というかワクワクする思いだが、同時にまた、これまで以上に、重苦しさを感じているというのが、正直な感想である。。


 それでは、今回記事に入るとしよう。最初に確認しておきたいのは、明治維新で誕生した明治国家とその国民は、あくまでも、「システム」を担うその一部としての「日本」と「日本人」であると同時に、国家も国民も、「公」的仮面を被らた私的権力と私人としての存在であるということである。その意味では、最初からずっと私的権力と詩人のままであったのだ。それはいわゆる、市民革命発から何も変わっていないのだ。(続)

 

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