日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」についてーどうにもならない現実の中で、

2024-01-30 | 日記
(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」についてーどうにもならない現実の中で、どうしようもなく生き続けている私が感じていること(2)




 ここでいう「バリアフリー」とは


 例え話として、疲れた時にあんまをしてもらうと、心身ともにしこりが取れて、また気分が良くなったと感じることがある。それは体の血行が良くなり、新陳代謝が促進されるからだ。その際の血行というか血の流れを阻害しているのがいわゆる「バリア」だと想像してほしい。血行を阻害する要因は様々である。それによって、心身のバランスが崩れて、そこからいろいろな病気を併発して、つらい日常生活を送らざるを得ない人々も多いのではなかろうか。


 そうした例は、社会で生きている私たちの人間関係にも垣間見られる。私たちの人間関係がスムーズであり、それゆえ日々の暮らしも穏やかに過ごせるとき、私たちは「生きてて良かった」との幸せな思いを感じるに違いない。ところがそうした人間関係がうまく流れないで行き詰ってしまうとき、往々にして私たちは心身ともに不調に陥りやすくなることも、これまでの人生経験からわかるのではあるまいか。


 人間関係を先の血行に譬えるとき、それを阻害してなめらかかつ温和な流れを許さないのは社会に張り巡らされた幾重幾層もののバリアの存在である。そのバリアとその働きによって、私たちは相互不信に陥ったり、そこからさらに対立敵対し合う関係をつくり出すことになる。そこには、ある一つの小さなバリアから、さらに別の以前よりも少し大きなバリアが形成され、そして次から次へと雪だるま的にますます大きくなって、ついには私たちの力でもってもどうしようもないほどに巨大化してしまい、そうしたバリアの前で立ち尽くすしかないところにまで追い込まれてしまうのではあるまいか。


 本来ならば、それこそ政治の出番であるはずなのだが、これまでの政治の流れを振り返るとき、政治はそうした巨大化したバリアを少しでもこれまでより小さなバリアへ、そしてさらに、そこからバリアをなくしていく努力をするというよりは、むしろ逆にこれまでとは異なる新たな種類のバリアをつくり出すことに手を貸してきたという方が適切ではなかろうか。その意味では、これまでの政治は私たちの諸個人間、諸集団間、諸共同体間に見られる人間関係の流れを阻害し遮断して、良好な人間関係の流れをつくり出せないままに、多種多様な「社会の病気」の発症とその蔓延に手を貸してきたと言っても過言ではなかろう。


 私たちの身の回りを見渡しても、平気で嘘をついて金品を盗んだり、他人を殺傷したりする人たちが後を絶たない。そして、私たちはそうした社会の中で生きていることに何も疑問を抱かないままで、そうした不幸な出来事からとにかく自分だけは、自分の家族だけは巻き込まれないように努めるだけではあるまいか。それと軌を一にするかのように、今の私たちの社会では自己責任という声がこれまた常識となりつつある。


 元より、自分でできることは自分でするのが望ましいのは言うまでもないことだが、不幸なことに、それが生まれながらにして叶わない人たちも多数存在している。また人生の中途で残念ながら、自分一人での生活が難しくなり、どうしても他人の力を借りなければならない人も現実には存在している。かく言う私もその一人だ。私は家族の力も借りながら、またそれ以外の人の助けにすがらざるを得ないことから、社会を構成する人間と人間の関係がぎすぎすしたものとなって、至る所で人と人のつながりが阻害され人間関係がなだらかに穏やかに流れなくなる状況・状態に対して人一倍、危惧し懸念せざるを得ないのである。


 それゆえ、人間関係を阻害する社会の中のバリアを何とかして取り除く、あるいはそれが容易ではないとしてもできるだけそれをより小さなものへとしていくことができれば素晴らしいことだと、日々の生活で試行錯誤している。そこから中途視覚障碍者となった私が辿り着いたのが以下の試案である。すなわち、障碍者とその家族、そして彼らに生活上の助言をしたり一緒になって考え行動してくれる障碍者福祉関係の従事者が中心となって、それぞれが暮らしの中で日々悩んだり思いを巡らせている問題を総合的にまとめながら、それを社会に対して発言し発信していく組織の結成である。


 その組織を(仮称)「バリアフリーの会」として立ち上げると同時に、社会に向かっての発言や発信を具体的に社会の中で実現するための政党組織として、(仮称)「バリアフリー党」の結成を目指すことを、先ずは提言したいのである。そのバリアフリーの会とバリアフリー党には、当然ながら健常者の力が必要であるのは言うまでもない。ここでパラ陸上競技での障碍者と健常者がバデイとなって走る姿を想像してほしい。


 両者は彼らをつなぐ絆と呼ばれるロープを介してバディを成している。それは障碍者と健常者が一対の関係として成立する新たな人間関係の姿を、私たちに示すものである。換言すれば、障碍者は健常者と一対の関係を構成することで彼らの失われた人間の尊厳を獲得するのに対して、健常者は障碍者との関係を持つことによって彼らの失われた人間としての尊厳を回復できる、と私はみている。


 それを踏まえて述べるならば、障碍者間のバリアを、健常者間のバリアを、そして障碍者と健常者間のバリアを、それこそ侃々諤々の議論を経ながら、実現すべき会の目標と党の綱領作成のために共に知恵と汗を出しながら、自然と滑らかにそれこそフリーな関係にしていくことを目指したい。これらの話を基にしながら、もう少し論を展開していきたい。


 上述したように、私たちが目の当たりにする政治の世界では、世の中の人間関係をスムーズにしていくのではなく、むしろ逆に様々な障壁というか壁を人為的に張り巡らせて、人の流れを悪くしていると言えるのではあるまいか。諸個人や諸集団や諸共同体間の人間関係における相互理解と相互尊重を阻害する傾向が大なのだ。すなわち、そこには人間関係にとって問題となるバリアが存在しているということである。


 そうしたバリアに直接向かいながら、そのバリアによって凝り固まってしまった人間関係をもみほぐすことをこのバリアフリーの会とバリアフリー党は直接の目的とするものである。具体的なバリアとその弊害のの例として、ナショナリズムの過度の主張とそれによる武力衝突・戦争による婦女子や幼児や子供そして高齢者や障碍者といった身動きが容易に取れない人々が犠牲となりやすい。また経済戦争の激化によって、格差や生活困難者の増加とそれに伴う貧困や犯罪、社会不安と混乱が導かれてしまい、良好な人間関係からはるかに遠い地点に、私たちは立たされることになる、まさに現在の私たちの社会がそれを象徴しているのではあるまいか。


 これらの問題を考えていくとき、そこには人間と人間の関係を阻害する、つまり身体の血行を阻害するバリアの存在と同様に、様々なバリアがあることに気がつく。私たちの身の回りには数限りのない「バリア」が存在している。それによって私たちの存在自体が窮屈になったり、身動きの取れなくなったりと支障をきたすことがoにしてあることに私たちは気がつくのではあるまいか。そのバリアというかある種の壁を取り除いていくつまりフリーな状態にすることで、私たちの生活は大いに改善されることもあるに違いない。例えば道路上の段差とか、歩幅の狭くて急傾斜なつくりの階段などがそれに該当する。


 それらはできるだけフリーとなることが望ましいと言えるに違いない。その一方で、どうしても取り除けないようなバリアも存在している。たとえば民族間や国家間そして宗教間におけるさまざまな壁を取り除くことは、かえってより以上の摩擦や紛争に導くことも容易に推察できるであろう。その際のバリアフリーとは、すべてを同じくするのではなく、むしろお互いの違いを相互に確認し尊重しながら、それぞれの「棲み分け(すみわけ)」を認め合うという意味でつかわれた方がより適切であると考える。


 私たちの人間関係それ自体もバリアに成り得るが、そうしたバリアをフリーとするというときも、先ずはそれぞれの存在自体のすみわけを尊重しながら、同時にそれぞれが相互理解を介して共通の土俵に立てる関係を創ることを目指すとの意味でのバリアフリーを目的としている。障碍者であれ健常者であれ若者であれ高齢者であれ、それこそ老若男女の人間観におけるバリアフリーを私たちは目指すことを最重要課題とするものである。


 それらの課題の中には、社会におけるいじめや格差や貧困問題に顕在化しているバリアがあり、それらの原因究明とその解決に私たちは全力で取り組む覚悟を持つものである。そのために、私たちは同じ方向性を持つ人たちの緩やかな連帯から構成されるバリアフリーの会を立ち上げると同時に、社会の様々なバリアをフリーとしていく政治運動を目指すためのバリアフリー党の結成をどうしても目指すことが重要である。


 バリアフリーとは、社会のありとあらゆるバリアをフリーとすることを大前提としているのだが、それは決して社会の同一化、均一化のためのフリーではない。むしろ、多種多様な人間存在と人間関係における相互尊重と相互理解の推進のための諸個人間のそれぞれの人間存在としてのすみわけを許していくために、私たちの身の回りのバリアをフリーとすることを目的としている。


 最後に


 ずっと以前のブログ記事でも書いてきた話を、今回記事では、以前の記事にここ数年間の人生経験から学び直した少しだけ以前とは異なる「調味料」を使いながら記事の味付けを工夫してみた。


 以下に、もう少し露骨な「お金の話」を付け加えた記事を書き加えたいのだが、今回記事はこの辺にしておきたい。そこでの話の概要を少しだけしておくならば、社会を上流層、中流層、下流層とした際に、上流層と中流層の上・中の人たちは、彼らの命と暮らしを守ってくれる政党を用意しているのに対して、中流層の下と下流層の人たちはそうした政党を持ってはいないということが、最近の年金に関する経済記事からも知ることができるという話である。


 既に、私たちはトマ・ピケティの『21世紀の資本』からもそうした傾向を読み解くことができるのだが、どうも私たちというか私のような中流層の下カ下流層の上に今のところは位置していると計算している人たちは、この先も私たちの命と暮らしを守る政党を持たないままで構わないと思っているようであれば、それは今すぐ考え直した方がいいことを、次回記事では書きたい。棄権なんてとんでもない自殺行為なのだ。自前の自分たちの政党を創って、これまで既成政党が奪い合いをしてきた「税金を取り戻す」仁義なき戦争へと臨むべきことを提言したいのだ。


 与党とほとんど変わらない野党と、野党としての存在感も使命感もなくなった既成政党に、私たちはもうこれ以上すがっていてはダメなのだ。私たちが私たちの中に眠っている人間としての尊厳に対する意識を覚醒しない限り、私たちの社会に張り巡らされた幾重幾層ものバリアを少しだけでも解消・緩和することなど到底望めないのである。


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