日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私は一体どのような社会の実現を目指しているのか

2024-02-27 | 日記
私は一体どのような社会の実現を目指しているのかー私の語る「システム」の前では「バリアフリーの会」や「バリアフリー党」云々の話など「戯言」に過ぎないのは初めからわかっていることではないのか


(最初に一言)


 それにしてもなのだが、長渕剛の歌にある「ろくなもんじゃねえ」の毎日に、さすがの私も参った、参ったである。それでも、子供や孫に少しはええ格好をしておかなければとの思いから、私にしては相当に無理をして生きている。それでもそうしなければ終活は、もっと惨めになるだけだから。




 私の語る「システム」に何とか一矢報いたいものだと、ダメ元ながら「バリアフリーの会」や「バリアフリー党」のアドバルーンを打ち上げてはみたものの、なんとも言い難い、し難い現実を前にして絶句するのみ。もっとも、そんなことは最初から分かりきったことであるから、何度落ち込んだとしても、嘘を言い続けるしかないと、私自身はさばさばなのだが、それにしても私自身の甘さというかバカさ加減にはあきれてものが言えない。。


 別に美しい空間を目指しているのではない。ただただ今よりは少しでもましな空間をの思いからあれこれと思案しているのだが、現実は厳しい。障碍者であれ健常者であれ、「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で繰り広げられる戦争・センソウに四六時中動員というか組み込まれて生きていかざるを得ないことから、そうそうきれいごとばかりを言っているわけにもいかないのは、当然なことだと割り切ることしかあるまい。


 だが、だからと言って、あらゆることが許されてしまったら、それはいくらなんでもダメだろうとなるはずなのだが、現実はそうでないから、どうにもならないのである。例を挙げればこれまた切りがない。世界の最富裕層の1%が背後に控えているイスラエルの傍若無人なる蛮行を前にして、誰も歯が立たない現実の中で、私は生きている、生きていかざるを得ないことを悟るとき、人権がどうの、いじめがどうの、平和がどうの、自由がどうの、民主主義がどうのなんて語ること自体が薄っぺらく思えて、どうにもならないのだ。


 だが、それでもよく分かったのは私たちの従来の普遍的価値や普遍主義に関する議論は、すぐ上で指摘した世界の1%を占めるに過ぎない最富裕層が、彼らの御用学者や御用メディア、御用国際機関等々を介して垂れ流してきた〈神話〉に過ぎないということではあるまいか。それゆえ、私たちはそれとは異なる別の新たな「ふへんてきかち」と「ふへんしゅぎ」を探求しなければならない、と私はみている。




(最後に一言)


 今回記事のタイトルは、私自身を慰めるために書いたものだが、私は私自身が生きていると実感するのは、誰かに騙されて情けなくなった時に、ホンマに馬鹿だよ、何度騙されたら気がつくのかと、そんな情けなくも悲しくなった時なのだ。そんな時こそ、「ろくなもんじゃねえ」を聞きながら、元気を出そうと。


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