日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№19私の語る「システム」論から、改めて「民主主義」社会の担い手としての「私」と「公」の存在を問い直すとき

2023-03-10 | 日記

№19私の語る「システム」論から、改めて「民主主義」社会の担い手としての「私」と「公」の存在を問い直すとき


〈前回までの記事において、私が強調していた論点〉

*私たちは、かつての日本国家・政府が仕出かしてしまった「侵略」戦争に対する責任を、「国民」だから、国家・政府と同様に引き受けなければならないと思い込んでいるとしたら、それは大きな誤解ではあるまいか。そもそも国民と言ってもそれは公的存在としてのそれではなく、あくまでも私的存在としての国民であるのだから。と言うのも、国家・政府それ自体が公的存在のそれではなく、単なる私的存在であったからなのだ。私的存在である国家・政府が、公的存在であるかのように、見事に化けていたのだ。

**それゆえ、私たちは私的存在としての個人である「私」と、そうした諸個人の集合体である私的存在としての国家・政府との「立ち位置」を異にしていることを、何よりも議論の初めに、明確にしておくことが重要となる。そこから、私たちは、日本の国家・政府が私たちを巻き込んでしまった戦争に対する損害賠償の支払いを、当該国家・政府に対して正当に請求できると同時に、その前に戦争を引き起こした国家・政府の速やかなる私的空間からの退場を、これまた正当に主張できるのである。また、その「退場」を、私たちの手で実現できたとき、私的空間は初めて、公的空間へと生まれ変わるに違いない。

 それはそうとして、私は一体どこへ(を)漂流しているのかと、自分でもわからなくなってきた。そんな中で記事を書いているのだから、相当に苦しいと言えばそうであるが、今はそれ以上に、自らの論の行方を楽しみながら?見守ってみたいところである。


(最初に一言)

 前回記事では、私の目の不自由さから、便宜上、『ウィキペディア』からのラスウェルの「政治的人間」のくだりを引用・紹介したのだが、それにしても、学生時代に読んだ彼の著作の内容は、私にとっては、今では「歴史叙述の神話」を構成する話としか思われないのだ。当時の自分が、あまりにも素直過ぎたことを、思い知らされる始末である。確か、以前のブログ記事でも、何か似たようなことを書いていたのではないか、と今そんな思いがした次第。
(*なお、〈「私」と私〉は勿論、その意味は違う意味だが、紛らわしいので、〈私=自分〉と、ここではしている。しかし、以下では自分ではなく、私をそのまま使っていることを、ここで断っておきたい。)


 ところで、そのラスウェルの話で注目すべき点を、もう少し引用・紹介しておきたい。それは、彼が次のように考えているところだ。すなわちーーー政治的人間タイプの問題点は権力を追及する行動が 、私的動機に基づいていることにある。民主主義的人間な人格に対して政治的人間タイプは本当の公共的な利益のために権力を行使するとは限らない。民主主義においては権力が人民によって共有されており、多数派の支持によらなければ指導や統治は成り立たない。このような社会の指導者に必要なのは政治的タイプとは反対の民主的人格であり、人間の破壊性を抑制することである。ーーーに示される彼の見方である。

 こうした彼の「民主主義」の位置付け方と理解の仕方は、それこそ後世の読者にとって「(民主主義に関する)歴史叙述の神話」となる傑作であったことは言うまでもなかろう。それにしても、「私的動機」と「本当の公共的な利益のためには」、あるいは「民主主義においては権力が人民によって共有されており」のくだりからも、」私的」と「公的」とは次元が異なるものであり、その「本当の公共的な利益のために」、「民主主義」とそれを担う「人民」が何の疑いもなく、あたかも当然であるかのように結びつけられているのには、驚かざるを得ないのだが、かつての自分は、このような見方を、それこそ「自然な関係」として、当然であるかのように受容していたのである。

 やはり、私にはラスウェルのこうした「民主主義」理解では、社会における巨大な力を持つ「私」によって、無力な多くの「私」の利益が、どれほど簡単に破壊されているのかについて、最初から何も見えてないようにしか思われないのだ。それにしても、「よくもまあ、こんな民主主義論がまかり通っていたんだなあ」、と当時の米国流の民主主義(論)に心酔していた私が、今更「よく言うよなあ」なのだが。

 私の周りには、今日のますますおかしくなっていく米国社会を目の当たりにしながらも、それにもかかわらず、今もなお「民主主義」様様の人々がなんと多いことか。彼らの多くは、決まって言うのだ。米国はダメだが、フランスは違う、と。それならば、「民主主義なるものが、どのようにして現実の民主主義となるのかを、一度でもいいから論及してみろよ」、と私は言いたいのだが。

 これに対しても、彼らはいつも「価値」としての、「理念」としての「民主主義」の話でごまかすだけである。「左翼?」の主張があまりにもくだらなく、かつ面白くなくなったのは、これについてほとんど語れないからだ、と私はみている。何しろ、日本共産党は、「共産主義」を語らずして、「自由民主主義」万歳なのだから、自民党と同じではないのか。否、自民党は、たびたび?リーダーが入れ替わるから、自民党から、「同じにするなよ」との批判の声が上がるかもしれない。


(最後に一言)

 若い頃に学習した内容を、30代以降に再度読み返して、そこからさらに、また以前とは異なる形として捉え直すことが、どれほど難しく、かつ苦しいのか、それを何度も追体験していく中で、やっと、これがそうではないのか、これこそ私の追い求めていたことではなかったか、と思案するばかりである。またまた、前回記事から後退した感のみ残りという具合だが、これまた致し方あるまい。(続)

 

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