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橋本 応其寺

2019-03-31 21:16:39 | 日記・つぶやき

蓮華が咲いていた。今年初めて蓮華を見る。

あまりに愛らしい狛犬?子犬たちが遊ぶ山門に目が釘付け!

南海高野線 橋本駅近く 応其寺(應其寺 おうごじ)にて。 紀伊西国第5番札所

スタンプラリーの・・・と書かれた張り紙が目に入った。

山門前にはしめ縄が張られた結界。

高野山真言宗の寺院。

開基は同地を開発した僧侶、木食(もくじき)応其上人。1587年開創。

境内にお上人(しょうにん)の坐像があり、その脇の石碑に書かれた文章を読んで初めて応其上人を知った。

近江国出身の武士。38歳高野山に上がる。出家してから上人は粗末な着物をまとい、木の実と果物(野菜?)だけを食べると言う木食行を13年間も続けた。

(木食を修した僧 )別名 木食応其上人が生まれたのです。深覚坊応其。

1582年信長が高野山襲撃を行った際には、小田原弥勒堂にこもり信長の調伏に当たる。

※調伏の意味を調べてみると、(ちょうぶく、じょうぶく、と読むらしい)仏教用語。

①心身を整え悪行を制すること

②祈祷によって悪魔、怨敵を下すこと、降伏(ごうふく)

③まじないによって人をのろい殺すこと

本能寺の変で信長は死亡。高野山攻撃は中止になる。

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1585年、天下統一を目指していた秀吉が根来寺、粉河寺攻略の際、高野山攻撃をも企てた時、上人は高野山を代表して一山の無事を願い和睦を申し出た。

秀吉は上人の誠意を認めその懇請を受け入れたため、高野山は戦火から免れた。高野山を戦火から守っただけでなくその後秀吉の熱い信任を得、高野山再興に尽力、金堂、大塔、青巌寺、奥院灯籠堂と建設、改修を手掛け、高野中興の祖と呼ばれた。

※天平年間後期(1573-92)応其上人は近隣の里人を集め現橋本市古佐田の荒れ地を開き、家を建て町を造り高野参詣の宿所とした。翌々年、上人は、ここに草庵(後の応其寺)を建てて住み、紀の川に長さ130間(約235メートル)の橋を架け交通の便をはかり、この地を橋本と名付けたという。

時の権力者からも認められた上人はこの地の繁栄のため税改正に着手したほか、秀吉に願い出て塩の売買の認可も得、又、灌漑用地を開拓し、村人たちが生活しやすい環境も整えた。行基の再来であるとも言われた。(これらにより、橋本は街道を行き交う人々と紀の川の物流にとにより、経済的に発展していくことになった。)

三十三間堂、平等院、醍醐寺、清水寺 、石山寺、東大寺、室生寺、厳島神社と・・・応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営、整備にあたってもいた。

1598年、秀吉の死後、高野山を去り生国近江に隠棲、俗塵をはなれ自然を愛し余生を過ごした。1608年10月1日、飯道寺で73歳の生涯を閉じる。

辞世は「あだし世をめぐり果てよと行く月のきょうの入日の空にまかせん」

高野山奥の院にほど近い場所に廟所がある。

可愛い山門の子犬たちに惹かれ・・・

高野山の・・・橋本の・・恩人。偉大な方を知りました。

高野豆腐の製法を発展させ、現在の高野豆腐に近い製法を確立されたのも応其上人らしいのです。