ゆうもらすやわあ・・・
こちら。吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)。孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母の墓。
覗き込んでみる!四体の石像(猿石といわれている石像たち)がある。
それらはたしかに吉備姫王を護っているように見えるけど・・・なんで猿石?
お猿さんにみえるのはただひとつだけ。(私にはね・・・苦笑)
江戸時代に近くの水田から見つかったというこの4体の石像のお顔があまりにゆうもらすで・・・
造りもえらくおおらか・・・いいなあ。大陸的な像たちだ。
ところで・・・近くで見つかったとはいえ・・・なんでここにあるんだろ・・・天皇の母君のお墓に・・・
こちらが亀石。これまた巨大すぎる石に彫られてる「亀」。びっくりした。顔がとっても可愛い。
なんでこれが造られてここにあるのかというと・・・
なんでも・・・大昔大和が湖だった頃・・・
池の対岸の「當麻」とこの地「川原」の間で喧嘩が起き、長い喧嘩の後、池の水を當麻にとられてしまったという。湖に居た沢山の亀が死んだのだそう。村人がその後、死んでしまった亀たちをあわれに思い、大きな石に亀を刻んで供養したのだとか。
今、この亀は南西を向いているが、亀が万が一にも西を睨みつけた時には、大和盆地は泥沼になるといわれているらしい。ほんま?!
昨今の天変地異・・・恐い!
どうぞ・・・巨大亀が浮き上がるような洪水(睨みつけることはないと思える・・・苦笑)が今後起きませんようにと祈る。
天武天皇 持統天皇 檜隅大内陵
飛鳥水落遺跡
斉明天皇6年(660年五月)皇太子 中大兄皇子(のちの天智天皇)は日本で初めての水時計を作り人々に時刻を知らせたと日本書紀に書かれているのだと。
ただその場所が 日本書紀では語られていなかったそう。
1981年、水落に住むSさんが家を新築する時に、「水時計の痕跡」がこの地で見つかり掘り出されたのだそう。ほんの33年前のことなのだと説明にあった。
よく見つけてもらえましたね。
見つかるべくして見つかったのだと思う。埋もれたままでいたくなかった叫びがきっとあったのだわ!!
大和の国は今・・・どこを見渡してもおおらかで・・・おだやかで・・・時が緩やかに流れているように感じるのです・・・このままで・・・どうぞずっとずっとこのままであってほしい。
飛鳥寺を訪れました。飛鳥大仏さまです。
直ぐおそばで拝顔できました。日本で一番古い大仏様です。撮影も許されています。
平安、鎌倉時代と・・何度も何度も火災に遭われ・・・
それでも幾度も蘇られて・・・今はとても安らかなお顔です。
古の時よりどれほどの信仰を受け止めて来られたのでしょう・・・
不思議な親近感を覚えたのです。今は亡き・・・高倉健さんに似ています・・・
飛鳥寺
588年、蘇我馬子が発願し、596年創建。日本最古の寺。その名を法興寺、元興寺、飛鳥寺とも呼ぶ。近年(昭和31年。私が生まれた年、58年前)の発掘調査により、創建時の寺は塔を中心に東西と北にそれぞれ金堂を配する日本最初の本格的寺院で、その外側に回廊をめぐらし、更に講堂を含む壮大な伽藍であったということがわかる。
ご本尊、飛鳥大仏(釈迦如来座像)は、推古天皇17年(609年)天皇が鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像。
真言宗
私たちが目にしてきた(教科書などで・・)聖徳太子像です。(こちらも撮影OK)失礼します・・・
こちらの像だったのですねえ・・・
上は有頂天より下は奈落の底まで響けよかレと念じ静かに一度。
蘇我入鹿の「首塚」。今この地より入鹿の屋敷のあった甘樫の丘を望む。
飛鳥寺西門跡。
中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出逢い、645年に大化の改新を成し遂げる。この時二人は飛鳥寺に陣をかまえ、西門から甘樫丘の蘇我入鹿、蝦夷(えみし)の館をにらんでいた。672年の壬申の乱の時には広場を軍隊が埋め尽くし、その後は外国使節や使者を歓迎する宴会の場となり、噴水がおかれ、歌や踊りが満ち溢れたという。
西門はそんな飛鳥の歴史を見守ってきたのだとあった。
甘樫丘
自転車で飛鳥を走り抜けた一日。