虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか。

2013-05-22 16:47:49 | 算数


最レベ問題集やトップクラス問題集を使って、親が教える時のポイント 2 の記事に

こんなコメントをいただきました。

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はじめまして。2歳の息子がいる父親です。昔、

友人が数学オリンピックに参加するほど数学ができましたが、数学者としては大成しませんでした。

数学オリンピックは「数」という枠にとらわれているからだと思います。

最近、「リーマン 人と業績」という本を読んで、現代数学は物理学を母とし、

言語学・哲学を父として解析学でつながっているのだと実感しました。

同様に、算数オリンピックに参加することによる弊害はないのでしょうか。

算数オリンピックにでるような問題に週1で取り組むことには意味があると思うのですが、

参加することの是非はいかがでしょうか。

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コメントをいただきありがとうございます。

わたしにはこの質問に答えられるだけの数学の世界との関わりがないのですが、

「現代数学は物理学を母とし、言語学・哲学を父として……」という言葉が強く心に響いて、

食後にのんびりしていた息子をつかまえて、「こんなコメントをいただいたんだけど、どう思う?」と

たずねてみました。

 

息子 「算数オリンピックの問題はクイズとして楽しめるし、

そうした難問とされる問題は、

すでにできるようになった技術を完全に理解するのを助けてはくれるよ。

でも、算数オリンピックを目指して、

必死になることは、それなりに弊害も生むと思う。

 

算数オリンピックで扱う問題は、数学オリンピックで扱う問題が「数」という枠に捉われすぎているのと同じで、

小学生の知識でも解けるという縛りのために、

どうしても問題が偏ってしまいがちだから。

 

将来、学ぶ知識を使えば難しくないものを

小学生の知識で解こうとするから無茶なやたら難しい解き方で解くことも起こりがちだしね。

この間、見せてもらった算数オリンピックの問題にしても、モッド(m0d)という概念を使えば

楽に解ける内容なのに、わざわざ小学生の知識で解けることを意識しすぎているために

解き方に不合理な点がある気がしたんだ。

 

数学オリンピックには、算数オリンピックのような問題はないだろうけど、

そっちにしても弊害がないかといえば、どうなのかな。

数学オリンピックでいい成績を収めることと数学者として成功することは、

短距離走でいい成績を出すことと、マラソンでいい結果を残すことくらい

違いがあるんじゃないかな。数学オリンピックはいい大会だし、それを目指して

得るものが多いとは思うけど。

 

でも、数学の世界では、長い目で見ると、完成されたプロセスよりも未完成である方が、

つまりわかるよりもわからない方が、

成長する可能性を含んでいるってこともあるからさ。

 

わからないってことは、まだ発想する余地があるということでもあって、

自分で新しい考えを組み立てていって新しい公式を生み出していく余白があることでも

あるよ。

全部の公式がわかっている状態でひとつの道筋を一度作ってしまうと、

新しい道筋を見つけ出しにくくなるから。

A→B→C→Dという手順で解いていく問題が

わからないということは、考えがA→Dに飛んでしまったりする場合だろうけど、

必ずしも悲観する必要はなくて、

DからEFGという新しい考え方が生まれないとも限らないよね。

 

算数オリンピックにしろ、数学オリンピックにしろ、

何か弊害となることがあるとしたら……

 

ぼく自身が受験勉強をしていて痛烈に思い知ったんだけど、

勉強で一番の足かせとなるのは、自分の中の固定観念でさ……

 

そこで成功してしまうほど、無意識に作りだした思いこみに縛られることも

起こってくると思う。

 

自分が学んでいく上での足かせとなるような固定観念は、

間違いを指摘されたり、新たな知識に触れるくらいでは

修正できないよ。

何年も……というか一生それで苦しめられることだってあるはずで。

 

高度な会話ができるような人に出会った場合だけ

そうした固定観念から解放されるのかもしれないよ。」

 

わたし 「お母さんも、算数オリンピックの問題は

算数の世界の面白さに気づかせてくれるし、★(息子)が言うように

子どもたちがそれまで知っていると思っていたことを、

より深い理解へと導いてくれるという点で、とても魅力的だとは思っているけど、

大会に参加させるのは、それがプラスになる子もいれば、

マイナスに働く子もいると思っているわ。

 

ただ、わたしたちが何となく使っている言葉や数について、

算数というフィルターを通して眺めることで、

ただ12という数だったものからも、

5つで60になって、

正三角形のひとつの角と同じになるとか、4でも3でも割り切れるとか、

5ずつ塊を作っていくと、2つ塊ができて、12にあたる数は、あまった数の2番目にあたる

なんて……いろいろな見え方ができるようになることが

いいな、と感じているの。

 

でも、算数オリンピックを目指して

生活時間や遊び時間を削って努力することは、

あまり賛成できないわ。

 

話が変わるけど、コメントにあった

……現代数学は物理学を母とし、

言語学・哲学を父として解析学でつながっているのだと実感しました……という部分、

どう思う?」


「ぼくもそう思うよ。

数学は脳がどれほど数式を上手く処理できるかという

脳の能力のすばらしさを競うものではなくて、

やっぱり物理学を背景に持っているから、

現象とそれに対する観察という現実世界を感受する感受性のようなものが

欠かせないと思う。

それに数学はコミュニケーションの一種という側面もあるから、

自分の中でもやもやっとわかったことを

みんなにわかるようにどう説明していくかや、

自分自身が理解できる形にして言葉でまとめていくかが

大事になってきて、

そういう点で、問題を発見して明確化したり、関係を整理していったりする

哲学が探究してきたプロセスに添っているんだと思うし、

確かに物理学を母とし、言語学・哲学を父として解析学でつながっているって

その通りだと思う。」

 

息子と話すうちに、「わからないこと、未完成であること」の価値を感じた

息子が小学生だった頃の出来事を思い出しました。

 

息子が4年生の時、夏休みも終わる頃に、「ホログラフィーが作りたい、それを自由研究にしたい」

と言いだしたことがあるのです。

といっても子どもですから、「わからないにもほどがある」というような

無謀なアイデア。

「部屋の中に冷たい空気の部分と暖かい空気の部分を作って

しんきろうを作りだせば、空間に3D映像を浮かべることができるんじゃない?」と

言い出して研究をスタートさせていました。

わたしは、「いくら何でもホログラフィーはできないでしょう?」と思って、

そのトンデモなアイデアにびっくりしていたのですが、

取りあえず、息子と友だちの実験に協力はしていました。

 

すると、最終的にグラス、ガラス製の人形、ガラスの鍋蓋の順番にセットして、

ガラスの鍋蓋に懐中電灯を当てると、グラスの中央の空間にガラスでできた黄色い鶏の人形が

浮かび上がっている像を作りだすことができていました。

もしかしてそんなことは珍しくもない原理で上手くいったのかもしれません。

でも、わけのわからないアイデアから出発して、実験する都度、気づいたことから、

新たなアイデアを生み出していくことで、偶然とはいえ、ホログラフィーができあがった

ことにとても感動したのを覚えています。

子どもって、まだ正誤の世界にあまり触れていないだけ、

不可能を不可能とも感じないところや、

わからないからこそ、先入観や固定観念から解放されているから、

面白いし、どちらの方向にも伸びていけるすごい可能性を秘めているんだな、と

実感しました。

ある決まったゴールのない遊びの時間にいる強みがあるなぁ、と。

 

そんな出来事を思い出しながら、まだ年端がいかないうちから

大人たちが人工的に作り上げた世界の中で

競争することで得るものと失うものについて

どちらが大きいのかとも考えました。

 

 

 

 


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1 コメント

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未完成な教育システム (biaslook)
2013-05-23 08:22:42
お返事ありがとうございます。草創期の学校の卒業生から世界的に活躍する人が出るのは、価値観を固定しない教育をされてるからなのですね。以前のエントリー「子どもの近くにいる大人に必要な隙ってどんなもの?」とにおける「未完成な親」や、大人が手を出さない「未完成な教育システムの塾」が、子供を伸ばす要因なのでしょうか。
逆に進学塾は、完成した教育でなければ子供が合格しませんから、長期に通うことは不適なのかもしれませんね。
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