学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「負け」を知って「勝ち」を知る

2023-10-13 16:24:34 | 日記
  今月は二人の英雄がテレビ、新聞を賑わせた。『大谷翔平、メジャー日本人初の本塁打王!』『藤井聡太、八冠達成!』、全くこの二人には非の打ち所がない。二人の得意分野で花を咲かせた快挙にどのような表現が当てはまるのか分からない。どちらも謙虚で「まだまだ先が…」と努力研鑽を力説する。なんともいえない敬愛の念を抱きながら、勝者と敗者について考えた。
 何か素晴らしいことを成し遂げる勝者は、社会が作る規格という名の箱に納まらない人が多い。日常のどこかに型破りな生活が隠れている。変わった人と呼ぶのか、稀な努力の人と呼ぶのか、あるいは集中力を発揮できる人と呼ぶのか、どのような名前が当てはまるのかは分からない。ただ周りの人間にとっては教えられることが多いのだ。彼らからの僕の学びは「成功につながるエレベーターはない。成功したければ階段を使うことだ」などと自分に言い聞かせる。そう言えば、「失敗したから賢くなった。賢くなったのは学びがあったから」などという言葉にも賛同、納得する。いずれにしても人生、夢は持たねばならない。でも計画と行動と信念が要求されることを忘れてはならない。一方、敗者といえば反省の言葉が口をついて出てこざるを得ない。それを口実、言い訳だと呼ぶ人もいる。でも本当は、次に向かっての意思表示だ。あーでもない、こーでもない、と想像を巡らしているのは外野の一般の人、他人はなんでも好き勝手にコメントする。気にすることはない。勝ったり負けたりそれが人生というものだ…だよね?

雲のが教える「雲散霧消」

2023-10-10 16:26:44 | 日記
 ここ二、三日は曇りがちの日が続いて空気は一気に秋を感じさせる。そんな折、いまにも雨を降らせそうな暗く垂れこめる黒雲が行き交う空を見ていたら、世界で見受けられる“暗雲漂う危険な状況”を写し出しているように見えてくる。残念なことだ。人間には共存するという知恵は備わっていないのかと首をかしげてしまう。
 嫌なことはさておいて空を見上げているといろんなことを考えさせられる。特に秋の雲の種類は豊富で、雲を鑑賞するには最適の季節なのだろう。魚に関する雲などをひと塊にして名前を覚えたりしたこともある。鱗(ウロコ)だの、サバだの、はたまたイワシ雲だのに混じって僕の干支(干支)の羊雲もある。雲を楽しむ人は想像力がある人などと言われて見上げていると確かに雲はいろんな形に変化し続けて止まることがない。数分目を離すと犬のように見えていた雲の塊は形を変えて猫の形になっていたりする(ホンマか?)。ま、冗談はさておき、僕は時には雲の変化は人間の感情が長続きしないことの証明などと思ったりする。つまり雲は例えば考え過ぎたりすることなく、ただ広い空を漂っているだけなのだ。“悩む、考える”という行為はとにかく厄介なもので毎秒毎分変化して落ち着かないことに気がつく。いわゆる “あーでもない、こうでもない”の状態だ。行き詰まった時には空を見上げるのが一番だ。雲はどんな物でも不変のものはなく変化し続けるということを教えてくれる。抱えた悩みは雲のように、しばらく見つめていると雲散、消えてしまうのだ。世界の情勢を見ていると幸せだってボケっとしていると消えてしまうことを教えてくれる。

お年寄りの皆さんへ、「老害」にご注意を

2023-10-06 16:07:19 | 日記
 公害といえば空気や水や土壌の汚染、えーとそれから騒音などが頭に浮かぶ。その公害をもじって「老害」という言葉があることにショックを受けた。老人が周りの若者に迷惑をかけているのだという。そんなことはないだろうと思っていたら、次々と明らかになる若者にとっての迷惑行為だというオンパレード。昔話ばかりすること、お説教、自分の趣味に関する演説ともいえる講釈、それから孫自慢や馴れなれしく人に話しかけ過ぎる、などが指摘されている。要注意、世のお年寄りたち。受け取る若者の側にも問題があるかも知れないけれど、年寄りの我々も注意しないといけないなと反省は“少しだけ”しておくこととする。
 “少しだけ”、と強調するのにはわけがある。上記、老害の最後に指摘された「慣れなれしさ」。昨今のギクシャクした世の中で人と人が気楽に声かけができるようになるのはいいことだと思っている(場所や状況を考えて)。理由はアメリカに住んでいたときは全く見知らぬ他人同士でも目が合えば「はーい( Hi!)」と会釈する。すごく気分の良い安心感がある。日本人はそういった声掛けに違和感を感じるのはなぜなのかなぁ。歳をとるということの収穫は過去に経験したしんどいことや苦しいこと、また楽しい事や嬉しい事の数々が、たとえ他人であったとしても気楽に接することの大切さを年寄りに教えてくれたのかも知れないなどと考えている。最近は老人が元気だと言われることが多いのはいいことだ。でも年齢などというものは単に数字が多いだけ、などと調子に乗っていると気づかないことも多々あるのだと気付かされた。

もしアカンかったらどうする?

2023-10-03 16:29:44 | 日記
 この時節、僕は庭に出て季節を感じるのが大好きだ。軽い庭仕事で毎日合計すると2時間は庭で過ごすことになる。閑静な住宅地、道路が我が家の塀を隔ててすぐそばを走っているので、道行く人の会話が自然と耳に入ってくる。今朝の僕の“聞き耳(?)”は自転車に乗った二人のおばさんの会話。大きな声で「あかんかったらどうするのよ?」という声だけが聞こえた。この大阪弁、解説すると、“もしもうまくいかなかったら、どうするの?”ということになる(英語なら What-if?)。前後関係がわからないけれど何かの相談と助言をしている会話だということはわかる。
 何か新しいことをするときは人は誰でもどうしてもWhat-ifs(複数)を考えてしまう。とはいえ、そんなことを考えていると何もできない。失敗したら…などと考えていると臆病になってしまうからだ。大人になるに従ってこの虜になってしまうことを学んだ。若い時には勢いがある。がむしゃらに前に進むうちに方向が見えてくる。人間が生きる一瞬一瞬は偶然で成り立っている。とにかく悪い偶然は信じず、良い偶然だけを信じることだ。そうこうしているうちに自分の人生を変えるかも知れない人物との出会いがある。時間、場所、状況の偶然で人と人は出会う。人生における出来事や人との出会いというものは偶然か必然か、昔から繰り返される議論が思い出される。さて「偶然」とは、思いがけなく、たまたま、という意味で、「必然」とはそれ以外になりようがないこと、となる。偶然などというものはないという人もいる。全ての物事は前もって決められた人生の道に置かれたものだという見解だ。あなたはどっち派?