猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

和光大学児童文化研究会50周年の集い

2016年05月22日 | お出かけ、レジャー、イベント等



 5月15日に、母校の教室にて行われたので行ってきました。

和光大学 (東京都町田市) は、1966年に開設されたので、大学の歴史とほぼ同じだけ児童文化研究会の歴史もあるのです。

1960年生まれの私が今年の9月で56歳になるので、まさに大学も児文研も今年がジャストで50周年ということですね。




お花紙で作る 「花飾り」、 子ども会や行事の時よく作りましたね。

懐かしいです・笑。






 『50周年記念式典』 実行委員の、左より、もうメンドーなのでサークルネームで書いちゃいますが、

55Lで同じ文学パートだった 「なつこ」(男、プリティー路線、年は一緒)、同じく55Eだけど年は同じで、もと児文研部長、全体運営委員会という所で一緒に仕事もした 「ちくわ」(おでん路線)。
( 数字は入学年、L=人文学部文学科、H=同学部人間関係学科、A=同学部芸術学科、E=経済学部、の意味です。
ちなみに私は昭和54年入学なので 「54L0521」 という学籍番号でした。05は文学科の5組で21番ということです。
昭和が終わった時点で年号は西暦表記となり、その後大学の学部が全く新しい名称に代わったため、かつての学部は現在は名称としては全く存在せず、表現学部やPなどという学部があります。 )

現役大学生のふたり、

この人は、私が一年の時に5年生だったのか、大学には5年行ったけどもう卒業していて、たまに顔だけ出したのだったかちょっと忘れたけど 「エイトマン」、 
そして大会実行委員長で、私が1年の時4年生で、もと児童劇団 『風の子』 団員、 現、NPO法人 あそび環境Museum 『アフタフ・バーバン』 代表の 「ターザン」。




現役生の二人。ういういしいです。女性は現在の部長さんだそうです。



エイトマン。 ほんとはエライ人なのだと思うけど、やんちゃな感じでした。
卒業以来ずっと、出身地で居住区の神奈川県E市役所に努めています。職員募集してました・笑。

彼の 「エイトマン」 のテーマソングに乗って踊るエイトマンはサイコーでした。



人間関係学科の 「梅原利夫先生」。
(1979年より和光大学人文学部・人間関係学科、教育内容論担当の助教授。現在は現代人間学部・心理教育学科教授)

なんと、児文研50周年と聞いて、先生の方から希望してきてくださったということで感激しました。

和光のカリキュラムは、違う学部や学科の授業でも希望すれば自由に受けられるという面白いシステムで、
子供の文化を研究したり、児童関係の仕事を目指す人が多かった 「児童文化研究会」 メンバーの特徴として、経済、文学、芸術学科在籍の人が人間関係学科の “教育関係の授業” を取るパターンが割合多かったです。

私も和光を受験するに当たり、 『入学案内』 を読んで、色んな学部、学科の授業が受けられるということに非常に魅力を感じたものですが、いざ入ってみると、それぞれの学科の専門色が強かったので (特に一番受けてみたかった芸術学科などはなおさら) 外部の人間が受けられる雰囲気ではなく、たぶん違う学科の授業は受けなかったと思います。

なので、梅原ゼミだった人や授業を受けていた人が多かったようですが、私はたぶんお名前くらいしか存じ上げていないように思います。スミマセン・・・。

きっと当時はお若くて、学生にとって親しみやすい感じだったのではないでしょうか。




この方は、 「和光同塵会」(同窓会のようなもの) の方だったと思いますが、お名前を忘れました。すみません。



 なんと、児文研一期生の方が来てくださいました。(名前忘れました、スミマセン

一期生ということは・・・もしかして現在67、8歳くらいということでしょうか?   見えませんね。



退職後、奉仕活動で 「けん玉」 や 「腹話術」 などをして回っているということで、会場で披露してくれました。  
(興味津々で覘いているの女の子は、児文研OBの子ども)



日本で唯一 「けん玉のできる“腹話術師”」 として、テレビにも出たことがあるみたいで、その時の写真をパネルにして持ってきて回してくれました。




現役生の 「活動紹介」。

マイクで説明してくれた彼は、今は卒業して大学院生みたいです。

当時は大学の上に一年制の 「研修科?」 がありましたが、今は 「大学院」 があるんですね。すごいですね。




 初期60年代から70年代卒業生。一人一人自己紹介と近況などを話します。



 我々、70年代から80年代世代が一番多く、

椅子に座っている後ろ姿の左から、エイトマン、タスケ(51E、もと劇団 『ふるさときゃらばん』、現 『ミュージカルカンパニーふるきゃら』 団員。本名を 「小山田錦司-おやまだ きんじ」 といい、最初冗談を言っているのかと思いましたが、ほんとの名前でした)、モース(52E、本名が貝塚だから)もこの世代。

写真に写っているのは 前列が一期下の55の人たち、後列は二期下の56の人たちで、
51、52、53、54ときて、自分達のあいさつが終わり私も席に着いたので、初めて写真に撮ったものです。

私の自己紹介の時、53Lで同じ文学パートのキタローが、私のことを 「今でも充分変だ」? とか、55Lで文Pのなつこが、話しが長いから 「早く巻くように」 と合図があったり、
キンチョーの場面なのに、ナゼカ、キンチョーがほぐれ笑いが起きる場面が。  
な、なぜなんだぁ~。         し、しつれいな。    
( 二次会でセシルが私のことを 「愛されキャラなんだよね」 と言ってくれ、どちらかというと冗談半分とはいえ叱られ、からかわれ、バカにされ? キャラだったから、思わず聞き直しちゃいましたが・・・、え゛~、ほんとにぃ~?  )

そうそう、何度も言ってますが、HNも使っている “ジャレ” というネームは、新入生歓迎合宿の 『命名式』 の時に、52Aのダバハが、私の 「喋っている雰囲気とかが猫がじゃれているみたいだから」 と提案し、3つくらいの候補の中から多数決で決まった、れっきとした? “さずかりネーム” であり、元々は児文研の 「サークルネーム」 なのです。 
  


 一番新しい90年代から現代。先ほども書きましたが、昭和の崩壊と共に西暦表記に。

世代的にお子さん連れや妊婦さんなどもいました。


会は、自己紹介の後、みんなで前に出て輪になり、ターザンが司会で、普段自分たちのグループが子供たちにやっている遊びの一種だと思うけど、
世代の交流を目指した 「あそび」 を取り入れ、和やかに遊んだり交流したり、話したり・・・


最後に、上世代希望の 『青い空は青いままで』 をコール付きで、(こちらは単純なスタンダードナンバーなので覚えていて歌えましたが)

私たち世代希望で 『僕のひこうき』 をステージ上で振り付きで歌いましたが・・・

振りも全然覚えてなかったし、歌そのものをもう、忘れてたって・笑。      

ショック・・・。    


でもなー、もっと私は歌を沢山歌いたくて行ったようなものなので、2曲だけで、ちょっと残念だったかしらん?


 教室内は 「飲食禁止」 だそうで、終わった後に、外のテーブルに軽食とジュース (アルコールも禁止みたいですね) が用意されていて・・・



こちらは、特製の 『祝・児文研50周年ケーキ』。 残念ながらもう切れ目が入ってしまってました。






左側のトルティーヤで巻いたサラダ巻みたいなのにマヨネーズをつけて食べるのが、意外とおいしかったです。
右はクロワッサンにハムやチーズを挟んだサンドウィッチ。

会費、1000円ですから(笑)、でも、午後1時から5時とビミョーな時間帯で、みんなお腹が空いてたからあっという間に空に。

何しろ、新宿から小田急線で最寄りの 「鶴川」 まで40分、駅から歩けば20分もかかるんです。
新宿で12時にコムと待ち合わせて、時間がなかったので電車の中で二人でおにぎりを一個ずつ食べて(笑)

鶴川駅で懐かしい顔ぶれに会って大騒ぎし、駅前、30年前とだいぶ変わって近代的になっていて、タクシー乗り場もちゃんとあったので(笑)、みんなでタクシーに乗って行きました。

時間があって歩いて行った人もいたみたいだけど・・・とてもそんな元気ありません。


ここでの交流が、時間決めてなかったけどダラダラ、ダラダラ過ぎ(笑)  教室内での式典だけは、時間で決まっていたのでちゃんと片づけも含めて5時で終わりましたが。

私は、ここぞとばかりに  出したばかりの自分の 
『電子書籍の宣伝チラシ』 を50部プリントアウトして持って行った ので、
「よろしくお願いしまぁ~す  ニコッ」 と言って 一人一人に手渡しました (情宣活動・笑) が・・・

最終的に80人以上の参加があったということで、帰ってしまった人もいたけど、若干足りなかったかもです。

みなさん、チラシは持って帰ってくれたみたいなのですが、まだ、どなたも買ってくれてないみたいです・笑。    

 スポーツノンフィクションにとどまらない、 ≪ 人間感動秘話 ≫ ですので、
みなさん   ぜひ、買ってくださいねぇ~      

『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 Kindle版 680円 こちらで買えます  


 教室、大学外部の人間には貸し出すのが難しいところを、ターザンが一生懸命取ってくれたそうで、ありがとうございました。

昔は、もっと 「ユルイ大学」 だったのですが・・・時代とともに変わったんでしょうか。

オードブルにビールでも飲みながら、大騒ぎして歌を沢山歌う、お楽しみ的なのを想像していたので、ちょっと違ってましたが、

ここまで準備してくださった皆様、本当にありがとうございました。


次回は60周年?

今度は大学内でなくてもいいので (だって、遠いんだもん・笑) 集まりやすい広い場所で、飲食をしながら、沢山歌うのをぜひ、やりましょう。


 51の 「たきたて」(ご飯シリーズ) にシャッターを頼まれたので押してあげたら、撮ってあげるよ~と言ってくれ



階段下で撮ってもらいました。 (太ってて恥ずかしいですが 



そういえばご飯シリーズの方々(女性)、皆さんスマートになってて、56のタラちゃんなんて 「この方誰?」 思わずこっそり他の人に聞いちゃったほど、いい意味で面影が全くなかったです。(児文研とは思えぬほど・笑、垢抜けておしゃれさんで綺麗でした)

私のがよっぽどご飯シリーズだって・汗。

 坂を上ってきた学生達に目立つようにと、この階段を上り切った場所で、人形劇に使う人形やペープサートを持って、
みんなでギターに合わせて、振り付きのフォークソングを踊ったり歌ったりしながら、派手に新入生歓迎活動 (新歓) をしましたっけ。
(それが恥ずかしかったという人もいたが、自己解放と 「慣れ」 です・笑)

階段上の茶色の建物は当時のまま、階段途中に右手にある大きくて洒落た建物は、新しくできたものです。



 このあと、帰りはタクシーがないため、みんなでだらだら、だらだら20分もの道のりを駅まで歩きました。

途中、懐かしい建物もちらほらありましたが、
大学を背にして左の、30年前は畑や雑木林だったところにも、また右手の丘側にも、家がとにかく増えて、

まるで風景が変わっていました。

途中の 「新百合ヶ丘」 なんて、砂漠みたいで、駅の周りにはナンもなかったですからね、当時は。

しんゆり から 「小田急多摩センター」 行きという一駅だけの電車が出ていて、けっこう乗り換える人が多かったのですが、
こんな砂漠の奥に一体何があるんだろう、と、とても不思議でした。

当時から残っていたのは、大学坂下の 「東和楼」(とうわろう) という中華屋さん、 「かじのや」 という納豆を作る工場、
大学3年くらいの時にできた 「ショップ関」 というパンやお菓子を売る小さなお店、
そして当時、なぜか駅前ではなく、途中から出ていた、「職員と身障者の方 (和光大は身障者の方の入学を広く受け入れてましたので普通の学校より多かったと思います) 優先なので、普通の学生はなるべく歩くように」 と言われていたけれど、自分は歩くのが嫌で度々利用した “10円バス” 乗り場付近に立っていた 「赤荻(あかおぎ)酒店」、 くらいでした。

2年生くらいの時にできた 「甘味や」 さんと、子ども会に来ていた 「あやちゃん」 のお母さんが始めた、ヤギを飼っていたからついた 「ヤギや」 さんはもうなかったです。

当時、サークルの反省会などによく利用した 「黒鳥」(こくちょう) というご兄弟でやっていた喫茶店はもうないということでしたが、経営していた 「斉藤さん」 が名前と場所を変えて、どこかで喫茶店をやられているようでした。

駅前の、安いからよく利用した飲み屋 「万吉(まんきち)」、 喫茶 「野の花」、 お好み焼き屋さん、 喫茶「エメラルド」・・・

なつかしいけど、みんな今はありません。


あ、そういえば、中国在住なので、この日に合わせて二次会にやっと間に合った54A(同期)で文Pのオズ (その後は北海道の彼女の実家に寄るということで忙しい合間を縫っての参加でした。ちなみにご主人はアメリカ人です) が、大学後に進んだ研修科の時に住んでいたと思われる、線路脇の白いアパートがまだあって、

56A、文Pのフランクと、「きゃー、たぶんあれだよ~、残ってたんだぁ~」 と大はしゃぎしましたが・・・      

住んでいた本人がその場にいなかったので・・・正しいかどうかはわかりません。   


 そのあと、鶴川では大人数に対応できる適当な場所がなかったのか、町田まで出て、しかも駅からちょっと歩く居酒屋さんにて2次会、
入る前と出てからもだらだらダラダラしましたが・・・    

2次会も大盛況でした。


その後は3次会、 「お茶組」 と 「飲み組」 に分かれて、

 もちろん   私は飲み組ですが、駅前で軽く飲み、3次会が一番盛り上がったかもです。

参加者は、翌日が月曜日だったので、二次会にも出られなかった人が多かったのですが、3次会はさらに少なく

二次会から来た同期Eの 「はんぺん」(おでん路線)、56A 「フランク」(その美声から)、55Hの 「ビードロ」(長崎出身だから) と56の 「セシル」(男、プリティ路線)夫婦、 55Hの 「てんてん」(女、あちこち引越しをしたということから)、そして52Eの 「とっちり」(写真を撮るのが好きだったから) でした。 
(年は私が54Lですので、それを基準に計算してね・笑)

いやぁ、盛り上がったなぁ。      三次会が一番面白かったかも・笑。

ビードロとセシルはともに長崎出身ですが (全くの偶然で、お互い地元で知っていたわけではない) 結婚して、現在大分県湯布院町に住んでいるので、地震の時は大変だったみたいですが、とにかく無事でほっとしたけれど、
本人たち曰く、「50周年に出てくるまでは死ねない(笑)」 と頑張って飛行機で来てくれました。

現在も風評被害で、旅館業のセシルの痛手は大きいらしいですが・・・(ビードロは保母さん?なので大丈夫と言ってましたが)

4人子供がいて、大学や就職で東京に出てきている子供のところに、初めて泊めてもらうと言ってました。そういう年になりました。

子供が好きだから、ビードロさえよかったら、もっといてもよかったって。   


そういうのを聞くと、私はたぶん、本当の意味で 「子供好き」 なのではないかも、な気がしますが。   

今も、全然子どもと関係のないことをしてます。

まあ、そういう人も結構いますが・・・


 ただし、文学パート出身で今でもちゃんと 「書いている」 のだけが自慢  です。

たぶん、自分一人だけだと思う。

日本児童文学者協会と、信州児童文学会にも入れていただいているし。


確か自分が高校生くらいの時、新聞の質問コーナーに、 「童話作家になるにはどうしたらいいか」 という中高生くらいの読者の投稿があり、 
「童話作家になるためには、日本児童文学者協会と日本児童文芸家協会というのがあり、そこに入れてもらうのも一つの方法です。」 と書いてあり、当時自分の思っていたことと同じだったので切り抜いて大切に取っておいたのですが、

なんとなくそっちの方がカッコ良く聞こえたので、 「いつか自分も日本児童文学者協会に入りたいものだ」  と思ったので、

そういう意味では、子供時代の夢の一つは叶ったわけです。 
( そういえば53のカチンコが勤めていた縁もあったと思うけど、ちゃんと面接もして採用されて、たった一年半でしたが児文協事務局に勤務していたこともありましたっけ。もちろん会員などではない、20代のペーペーの頃のことです。 )

ただし、この協会に属するというのは一つの手段 (方法、肩書みたいなもの) であり、それが最終目的ではないので・・・

そして、自分の本当に書きたい文学は 「特に子ども向けではないのかも」 というのを、何年もかけてですが悟ったので・・・

そういう意味からすると、全然夢はかなっていません。   


大学を出てから、大学を出ても何もならない、むしろそれをことごとく否定せざるをえないような世界で生きてきたので・・・
(そういうことは往々にしてあることなのかもわかりませんが)

また、児文研でそれまでの人生180度くらい変わったけど、また、180度戻ってしまったので・・・   


それでも、

大学の4年間を和光大学で学び、児童文化研究会で過ごせたことは、かけがえのない時間であったと思います。


児文研で得たものは、
それまで個人主義だった自分が、集団の中で生きていく方法みたいなもの、そして  
何物にも負けない、あきらめない、不屈の精神    でしょうか?


その 「不屈の精神」 で、私は今、書いている作品に向かっているところです。




 おまけ・・・ 『賞状ファイル』 より



 大学3年の時に、サークル全体で打った 「児童劇」(2月公演)のポスターチラシ。(フランク:画)
劇パート以外の、全部員がキャストや裏方、台本、演出などをやり、大変だけど面白かったです。

この年(私が3年の時)は、ミヒャエル・エンデ原作の 『モモ』 より 『モモと時間どろぼう』。(モモ=コム)
2年の時は、松谷みよ子原作 『オバケちゃん』。(オバケちゃん=ビードロ)

この劇公演は私が大学1年の時に復活したもので、その年は、斎藤隆介原作 『天の赤馬』。
私は、主役 「ゲン」(男だが、2年生のドキがやる←女)の幼馴染でヒロインの “きよの” 役 を、実委の 「一年生のやる気を買おう」 という熱意だけでやらせてもらいました。

以来、主役はその年の一年生がやっている。




 ならなければ無用の長物ですが、唯一取得した資格でした。

が、今現在では、教員免許というものは10年に一度更新のための試験があるようになり、受けてないので、本物の無用の長物 (というか、有資格者としての効力がない?) になっちゃぃました。

でも、大学4年の時に出身中学でやらせてもらった 「教育実習」 は、大変だったけど楽しかったな。

その感動を後輩たちに伝えたいと思って、サークルに手紙を書いて送ったら、部室に貼ってあったので、可愛い後輩よのぉ~、と喜んで見たら、
ナントちくわが赤ペンで、たくさん 「誤字訂正」 してあったので、ちょー腹が立ちましたったら・笑。
今も昔も、おっちょこちょいというかあわてん坊なので誤字が多いです。 (自称 「誤字の天才」 と呼んでます・笑)



 大学の 「卒業証書」 および 「文学士」 称号認定証です。

「式典をやらない」 ことを一つの売りにしていた大学の、
入学は 「入学登録日」、卒業は、各クラスごとに教室での 「卒業証書授与」 でしたが、手渡されるとき先生に

「あなた方は今日から 『文学士』 です。」 と言われ、

「文学士かぁ~  」 と嬉しかったものです。




 こちらが、大卒証書よりも輝かしい   「卒児連証書」 で、たぶんなんですが、大学4年の3月の全国教育系学生ゼミナールか何か? で、全児連の後輩たちが用意してくれて、開いてくれた 「卒児連式」 にて手渡されました。
全国児童文化連盟は、全国の児文研や教育系学生の集まる会で、大学サークルの全国版。

全国の仲間というのは、短期間しか会わないため、たぶんいいところしか見えないせいもあると思うが
全国の会議に出てくるような人は、各大学でも力のある人が多かったので、皆魅力的で、楽しくて、けっこう全児連の活動に燃えました・笑。

大学2年の時に北海道が会場 (北海道教育大学主催) で、夏の大会が行われた時には、自ら進んで 「文学パート」 の 「議運長」 というものをやらせてもらいました。

仙台に行ったときに、大学サークルで来たときは会議がらみだったのでほとんど観光できず、と書いたのは、この、全児連サ代でのことで、

3か月ごとに開催会場 (大学) が変わっての 「サークル代表者会議」(通称:サ代) があり、夏の 「全国大会」 がありました。

他に全国教育系学生ゼミナールの3月大会と、その関東版の大会が12月にありました。(通称、全関教ゼミで、基本的には全児連とは別組織だったがダブって入っている団体は多かった)

前出のタスケは全児連の会長をしていたので、学生時代全国を飛び回っていて、今また、劇団で全国を飛び回っています。


卒児連式の時、自分が言った言葉は今思うとちょぃ恥ずかしいんですが、ちゃんと覚えていますが・・・いつか、またの機会があればお話ししましょう。

まあ、あの頃の若者特有の、純粋だったり、理想に燃えていた、でも、多分に頭でっかちで、地に足を付けていない学生の空想論にすぎない部分もあったかと、今は思います。

私は、闘士ほどではないけれど、やりだすとのめり込むタチなので・・・   

70年代後半から80年代初め、和光大学ではまだ、学生運動の火がかすかに燃え残っていた頃でした。
( 学生運動といっても60年代にテレビをにぎわしたような過激なものではなく、学生が対社会的な活動をすることを指します。 )


なぜ、今回このようなものを載せてみたかというと・・・

その後の人生で大卒であることが無意味な社会で生きてきたのと、実家に戻ってからは、自分が東京に行っていたことや大学を出たことは、近所の人はみんな知ってるけど、聞かれない限り自分からは絶対に言わないので (個人商店を営んでいるため特にお客様に対してや、近所の人などに対する礼儀と処世術のため。逆の立場だったらそういうことを言う人のことをやだなあと思うだろうから、自分が聞いて嫌だろうことは絶対言わないのです。ここでは、めちゃめちゃ言っちゃってますが・笑。反動 

そうだ、私、大学でてたんだわ、と思い出し、懐かしくなって載せてみることです。    




 10年前2006年に 「児文研40周年」 を開催した時に行かれなかったので、
その数年後の2012年、アルフィーの相模大野コンサートに参加した際に、大学3,4年の時に大野に住んでいたので、相模大野散策と大学探訪をしました。

相模大野は 「都市開発」 により、駅前が全く違う街並になっていて、面影が皆無、
そんなこととは思わず、住んでいたアパートの建っていた番地だけでも控えていけばよかったのに、それをしなかったので (そんなことをしなくても行けばわかると思い込んでいたので)、
せめて番地だけでもわかったら、ああ、この辺に住んでいたんだなって思えたのに、それすらもわからず、大変なショックでした。
     

仕方ないので、荷物を預けておいた宿泊ホテルに取りに戻った際、悔し紛れに
「自分が大学生だった80年初頭にここに住んでいたけど、全く変わってしまって何もわからなかった」 とボヤいてみたら、
偶然にも実家が相模大野だという女性スタッフさんがいて

「ああ、駅前のケーキ屋さんありましたね。ああ、その神社、ありました、ありました。」
などと話が弾み、本当にホッとしたものです。

私は当時からケーキが大好きだったのですが、
駅前にユーハイムともう一軒あり、特にユーハイム (バウムクーヘンが有名ですが、当時は生のケーキも売っていたんですよ。ダークチェリー・トルテとマロンのなんとかトルテというタルトがお気に入りでした) が大好きで、一つだけ買って、小さな紙袋に入れてもらっては帰ったことや、
もう少し歩いたところにも小さな個人でやっているケーキ屋さんがあって、4年のクリスマス頃に頼んでバイトさせてもらったこともありました。

あと、駅構内のオダキューOXでも、ばら売りしていた 「あぜつみ・草ちん」 というヨモギの香りの濃い草もちと、 「レーズンウィッチ」 という、バターたっぷりのクッキーにレーズンクリームがはさんであるのが大好きで、たまにひとつふたつと買って食べていました。

後年になり検索してみたら、『レーズン・ウィッチ』 は、鎌倉の 「巴裡 小川軒」 さんのもので、今でも販売されている銘菓でしたが、 『あぜつみ・草ちん』 というのはわかりませんでした。


アパート近くにあった神社と公園は、卒論が書けなくてしんどい時に行っては、鉄棒やブランコなどをしていました。

あの時初めて 「胃が痛くなる」 という経験をしました。


 相模大野に宿泊し、大野駅前探検をしたのちには、鶴川に行き、一人で大学探訪をしました。

その時に、大学周辺や校内、児文研などをカメラに収め、人物には 「掲載許可」 まで取ったのに・・・
当時、どうやって書こうか思いあぐねているうちに、ついに載せそびれてしまいました。

50周年に参加するにあたり、写真を見返していて、会が終わったら載せようと思っていたのに、戻ってみたらパソコンのフォルダーのどこを探しても見当たらないのです。      

それで二日くらいずっと、写真を探し続けましたが・・・
遂に見つかりませんでした。       

考えられることはただ一つ、右クリックして出るメニューの中の 「名称変更」 を押したつもりが、寝ぼけていて 「削除」 を押してしまったとしか考えられません。

それで、 「ごみ箱」 の中まで一生懸命探したのですが・・・遂にわかりませんでした。

エーン、エーン、エーーーーーン。                     


大ショック 


あのとき、BOXと呼ばれていた部室が、サークル棟の同じ場所にまだあって大変感動したのだけれど、
ドアが閉まっていて 『新入生歓迎会:於○○』 という張り紙が。

向かいのダンス部だという子たちにその場所を聞いて行ってみたら、数人のサークル員が。
自分は児文研OBだと名乗り写真を撮らせてもらい、掲載許可もちゃんともらったのに・・・   

もし、これを読んでいる後輩で、その時にコンパ室 (我々が在学中のそれとは別の場所) のようなところで、新入生歓迎のための 「なべ」 を作っていて、写真に写ったのは自分だ    

という方がいらしたら、ぜひ、名乗り出てください。


あー、惜しいことをしたなぁ。(いつか、もしも見つかったら載せますが・・・)


それにしても・・・

あの頃は、朝、登校すればまず部室に顔を出し、休講が出れば部室で暇をつぶし、お昼休みにも顔を出したり、もちろん放課後も入りびたり・・・
大学へはサークル活動をしに行っていたようなものだったから (でも、大学の授業もちゃんとそれなりには受けてましたよ)、

自分も周りもそんな人が多かったので、BOXに人がいないことなんてまず考えられなかったので・・・
ちょっとだけさみしかったです。


それでも、他大学では、けっこう廃部になっているというのに、
こぉ~んな地味なサークル活動を、細々とでも続けてくれている後輩たちには、とても感謝です。



和光大学児童文化研究会よ、永遠なれ           


今回会えなかった人も含めて、
みなさん、60周年にまた、ぜひお会いしましょうね。     



※ ついでに・・・
学部の編成し直し、増改築により、一部を除きすっかり様変わりしてしまった大学ですが、
当時のことを色濃く伝えているものがあり、私はそれをずっとお伝えしたく思っているのですが、

長くなりますのでまた今度・笑。


テメー、これでも充分なげーぢゃんよ       












  

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