猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

新年、その3 ・・・ 書くこと、『松商の本』発行延期のお詫びなど

2019年01月05日 | 松商、中原監督 関連



 新年から連チャンでブログをUPしておりますが・・・

店は3日から営業、

仕方なく、毎日いやいや在庫調べをしながら、終わってからブログを書いております。   
(在庫調べはちまちま3日に分けてやり、今日やっと終わった)


 2017年からツイッターとフェイスブックを始め、

言葉が短く写真など簡単にUPできることなどから、すっかりブログが減ってしまいましたが 


 2017年6月に母が 「蜂窩織炎」(ほうかしきえん) になり、入院を勧められたけど通院だけで治した時に

絶対安静と言われていたため、
私が親の家の夕飯を作ったのを機に、

病気が治ってもずーーーーーーーーーーーーーーっと親んちの夕飯を作り続ける羽目になり 
(帰宅して今度は自宅の夕飯も作っているため、日に2度も夕飯を作り、これが意外と時間に追われている、疲労とストレスが蓄積する)   

その他、両親ともに高齢なので (母が92歳で父が89歳) 二人とも元気で店などもやってくれているのですが、

前よりいろいろ世話が焼け
特に母はなまじ元気なので、自分でできるつもりになり、買い物を頼まれたり、買い物行けばいちいちついて回って世話を焼き、帰ると私が親の冷蔵庫に詰めたり、結局やらない、できないので、私が手伝ったり尻拭い?することになる時もあり、食べたいものを作ってあげなければならないなどの台所の世話のほか、

両親とも私を頼るので、色々言動に振り回されることになるのだ。 

それがけっこう負担になったり、普段の日常生活でもけっこうストレスになるのに


昨年は、暮れから一月にかけて父が鼻血をしょっちゅう出しては止まらなくなりそのたびに病院へ行ったり
(数年前にはやはり母がそのようなことがあったが、大丈夫と言われてもそのたび心配になる)、
1月に父が配達先の階段から転げ落ちて救急車で病院に運ばれたり
(幸い頭を5針縫っただけで血も止まり、他にレントゲン、CTでも異常なく意識もあり元気だったので帰宅、その後抜糸、3カ月たっても特に何もなくてひと安心したり)
6月には母が体調崩して夜救急車で病院に行くと急性腎盂炎(-じんうえん)とわかり10日ほど入院したり(その後元気になり退院)

二カ月に一度眼科や内科など病院に定期的にかかっている父は運転して一人で行って来るが、

母は長い距離を歩くのに大変なため、病院には私が付き添い車椅子に載せて移動するのだが、昨年はその他にも眼科(3か月に一度)、整形(半年に一度)、耳鼻科、皮膚科、婦人科(半年に一度)とけっこう世話になったので・・・付添にも忙しく、
秋には膀胱炎のちょっとひどいのになって血尿というより出血があったので、内科に2度行き婦人科も受診して大騒ぎしたり、

その他、母が耳鼻科で耳垢をとって貰った時に耳がちょっと炎症を起こしているというので耳の差し薬を約一か月、爪水虫の薬を数か月、毎晩私が注してあげてた時期もありましたし、

とにかく、病院付添や薬を注すのだけでも結構忙しかったです。
秋には風邪を引いた父が、寝ているうちに体調が悪くなったから救急車を呼んでくれというので慌てて付き添い病院に行ったところ、少し検査したが特にひどいことはないから帰ってもいいと言われ、安心したような、心配だから一晩くらい置いてほしかったけど戻ってきたり、
その後は普通の風邪と同じように回復したのでよかったのですが。

なので昨年は両親合わせて3度も救急車のお世話になり、そのたび大慌てで大変な思いをしました。
(特に自分は次女で、のほほんと甘えて育ったため、ドーンと構えれなくて、気も小さいし頼りがいないので余計に負担が 
こんなとき、夫がいてくれてよかったなーと思ったりします。両親の性格を一番知ってるのは夫なので、よくわかるので、愚痴なんかもよくこぼしちゃうし。)

まあ、年が年なので仕方ない部分もあるし、いつ何時何があっても不思議ではないと思っていなくてはならないのですが、

それでも二人とも回復して、年の割には元気になり普段の生活を送れてますのでほんとうによかったです。   


今年はどうか何事もなく、両親ともに元気で、穏やかに過ぎて行ってほしいと願うばかりです。      



が、そんなこんなで年の前半は心労が絶えず、疲労とストレスがけっこう極地で発狂寸前でもありました。  

            



『松商物語第3部』 の執筆もそんなわけで中々思うように取り掛かれなかったのですが、

そちらに集中しようとすると今度は、調べ物をしたり頭を切り替えるような別の長い文が書けなかったというのもあるけど、


日々そのようなストレスと疲労が蓄積していると、

そうすると自然と自信もやる気も喪失気味になり、ブログを書くどころではなかったというのもあります。


そんなことを書き始めていたら延々長くなって、暮れのご挨拶がUPできなかったのですが・・・

色々書いていると、つぃ癖でダラダラ長くなって、面白おかしく書こうとしても、どうしても愚痴っぽくなるので、

いや、これは違う    

と、3回くらい書きなおしてたら、時間切れとなってしまいました。     



 でも、新年になったので、気持ちも新たにブログを書いていたら、あら不思議。

なんだか元気になってきた、じゃぁ、あーりませんか     

そうか。

やっぱ、書いてないとダメなんだな、私。 


しかも、ちゃんとした作品とは別に、ブログみたいなお気楽な日常や心情を綴ったものの存在が大きいことに気づきました。    


大袈裟に聞こえるかもわかりませんが、自分が自分でいられること、

自分の存在価値のようなものが 「書いていること」 で証明され、救われるんです。


これはもう、理屈じゃない。


 2000年だから、もうかれこれ19年も前 (40歳、結婚して6年目くらいの時) になるが、

所属するサークル拓の同人誌 『あける』 に載せた1ページエッセイ何年分かを拾い出し、 『りんごちゃん便り』 というエッセイ集をまとめたことがある。

ワープロ原稿をコピーしホチキスで留めただけの簡単なもので、

その前年発行の 『あける13号』 に載せた自伝的小説を友人知人に送りつける(笑)にあたって、近況報告のお便りみたいなつもりでまとめただけなのであるが

その 「あとがき」 に、こんな言葉が書いてある。



いつかまた、書きたくなる日が来るだろうと思っていた。

不思議なもので、どん底のときにはとても書く気力など湧いてこないが、幸せな時にも、書こうなんて気は起らないものである。

いうなれば、どん底から這い上がろうとするとき(精神的にはやや上昇しつつあるとき)、

あるいは、一見平穏な日々の中にも、不満だの苦しみだのが充満していて、それに打ちひしがれることなく、なんとかしなくてはと立ち向かおうとしているとき、

書きたい、

という強い衝動が沸いて来るものではないかと、私は思う。  (原文ママ、読みやすくするため改行だけしました)



まあ、今回は、ブログを書いてなかっただけで作品の方はちゃんと少しずつではあるが書いていたので、全く書かなかったわけではないが
(そう思うと逆に、あの精神状態でよく書けたものだと思わなくもないのだが 

その時の心境にちょっと似ているのだろうかと、古い文章を思い出した。



 在京時代に、現在は会員となっている 「日本児童文学者協会」 という団体の事務局員として働いていたことがあるのだが

その事務局長の 藤田のぼる さんが、

「書く人には二通りあって、若い頃に早くから芽が出る人、年を取ってから書き始めて芽が出る人」

二通りがあるそうだが

「若いころからずっと書いていて、長くやっていても芽が出ない人というのは、たぶん素質がないと思うので、あきらめたほうがいいかもしれないね」

と言っていたことがある。


当時私はまだ20代前半だったので、半分は他人事? のように聞いていたにすぎなかったが、

今ならさしずめ、 どっきぃ~ん     

である。     



 でも、今さらもう後戻りはできないので、私はおそらく、これからも書き続ける。


書きたい気持ちに理由などはない。


そこに 「書きたい材料」 があって、

「書きたい気持ち」 があれば、延々死ぬまで人は書き続けられる。



傍から見たらきっと馬鹿げた、滑稽に見える行為かもしれないが


続けられることもまた才能ではないかと思っているので、

私はこの行為をやめることはないだろう。



 尊敬する元松商学園高校野球部監督で、現日本ウェルネス高校筑北キャンパス野球部監督の 中原英孝さん が、

松商野球部の寮に、こんな言葉を記した紙を貼っていた。


「報われない努力はない。

努力すれば必ず報われる。

報われないのは まだ努力が足らない からだ。」




(1992年、猫田撮影。書籍にも載っています。白黒なのでわかりづらいが、やや色の変わっている文字の部分が本当に赤ペンで書かれていた。)


この言葉は不肖私メの座右の銘の一つとして、くじけそうになったときに思い出させてもらっているが、


 ほぼ18歳のころから物書きを目指してきたので (子供のころから物を書く人になりたかったが、ちゃんとやり始めたと言えるのがこの年)  

その間の挫折は数え切れず、何度もくじけてきた。


そのたびに起き上がってきたので、自分はそうとう打たれ強いと思っている。



また、しつこいのも取柄で

だいたいから15年もたってから 「その年、その時」 でなければ誰も見向きはしないという

タイムリーさを要求される 「高校野球部」 の話を本にしようだなどという酔狂な人間は、私をおいて他にはいないと自負している。



と、こんなことは、年が明けて強気になっているからこそ書けるのだが   


 秋の終わりに、 「松商の話の第3部ですが、年内に仕上げることができなくて、おそらく来年の春頃になってしまいます」


という事情説明とお詫びを書いたハガキを、かれこれ25年も前からずっと、いつもお世話になっていて大好きな 高橋強子(つよこ)さん (H3高橋巧君のお母様で、ブログにも時々登場する方で、たびたびお手紙のやり取りをしている) に書いて送ったら

こんなお返事をいただいた。



来年の2月でも3月でも楽しみに待っています。

第一号の発行の時は何年待ったでしょうか。

諦めずにずっと待っていたことを思えばチョロイものです。



読んで、思わず泣けた。   


1作目の本の時も、強子さんは私に本を出すという決心と、その背中をそっと、だが力強く押してくださった 「恩人」 なのだ。
(詳しくは本文にてご紹介させていただくつもりです)
   


「ハガキを手帳になんてはさまないでよ。恥ずかしいじゃないのよ~。

私が強子さんにいただいた手紙を、いつも手帳にはさんでお守りのように持ち歩いてるんですと書いたら、最後にそんな言葉で締めくくられていた。



昨年試しに使ってみた 「バレエ手帳」 が、大きくて持ち歩くのにやや不便だったことと、
たぶん対象の子供に合わせたのだろう、月曜始まりのため使いづらくて、

今年手帳を、もう何年も愛用している日曜始まりの小さいタイプの物に戻してしまったので、ハガキは持ち歩けなくなったが、

代わりに店のパソコンのところの、ベアーちゃんの陰で文章は見えないように隠して(笑)はさんで飾ってある。(写真冒頭)


「玲子さん おハガキありがとう 


の文字だけが見え、私を優しく励ましてくれる。







 2019年の “運試し”



有難い 「アルフィー招き猫大明神」 の 「おみくじ」 は、今年は幸ちゃんネコで 「小吉」。






 私がお願いすると、自分も買うついでだからと、いつも嫌な顔一つしないでグッズを買って来てくれるありがたいお友達が、

暮れの武道館で売り出されていた記念フラッグを両日2本と、そして 「あるふぃー絵馬」 を私の希望通り3枚買ってきてわざわざ年内に送ってくれた。


裏には、欲どおしく(笑)3つの願い事を書いて、しかるべき場所にこっそりと隠し置いた。




 昨年、30年来の大ファンであるバンド THE ALFEE のリーダーであり、バンドのほぼすべての楽曲の作詞作曲を長年にわたって手掛けている

敬愛する、大好きなお方である 高見沢俊彦さん が、

一昨年から昨年にかけて約半年にわたり 雑誌『オール読物』 に連載した作品をまとめて昨年夏、一冊の書籍として刊行した。

作家になりたいというのは、ちょっと驚いたことに、実は子供のころからの夢だったそうで、彼の数々の文学的、一編の物語風な歌詞同様、

作品も、いわゆるタレント本、ファンは確実に買うから売れるだろうという憶測をはるかに超えた素晴しい出来栄えで、正直、失礼ながらも大変驚いたものだが



本のおまけでついてきた、彼の言葉による 「しおり」 の文面が心に沁みた。




(写真は 「愛蔵版」。筆名は 髙見澤俊彦。

「通常版」書籍には、ネット販売6書店での購入特典として全6種類の栞がついており、表が髙見澤氏の写真、裏には『音叉』の本文よりそれぞれ印象的な一文が添えられていた。「愛蔵版」のみが髙見澤氏自身の言葉によるものである。)



THE ALFEE の方々は、今年で全員が64~65歳となるが、生意気を承知で言わせてもらえば、

還暦を過ぎてから、その活動の場や、人間としての幅を広げたように思う。



彼らを見ていると、年を重ねるのも悪くない、還暦も怖くないと思えます。


私も還暦まで、なんとあと1年半となってしまいましたが   

その準備期間を有意義に過ごすため、


負けずに頑張りたいです。      




 そんなわけで、松商の本、第3部の関係者の皆様、

発行が大幅に遅れていて大変申し訳ありませんが、

春の発行を目指して


最後のラストスパート、頑張ります。

(現在H3をほぼ書き終えたので、あと半分くらいでしょうか。)



どうか温かい目でお見守りくださるよう、ご理解ご協力を頂けますとともに、


応援のほど、よろしくお願いいたします。   



 パソコンの待受けは、気合を入れるために第3部の表紙を、そして一昨年の忘年会の写真も飾ってあります。(写真冒頭)













新年、その2

2019年01月04日 | その他 色々



生まれてからこの方元日しか店の休みがなかったのを、昨年、親を説得してやっと2日まで休むことにこぎつけたので、

今年はもう一歩進んで3日まで休もうよ~ 

と言ったのですが・・・

母の 「3日まで休むことないわ」 のひと言であえなく玉砕      


ま、この押し問答は今に始まったことではないので (店が年中無休なのもそんなわけなのでして)

あきらめ、

せっかくなので時間を有効に使おうと、


2日の日は午後から家の中のいろいろ、普段できなかったことをやりました。


大晦日にどっちかの猫がソファカバーにおしっこたれちゃったので (最近前よりはましになっては来たけど、時々粗相? マーキング? してくれるので  

それらを洗濯しがてら、布団カバーの衣替えなどをしました。



 3年前柴犬のチビが我が家にやってきて、真冬の “厳寒”期 に可哀そうだからと “玄関” に入れたことによる、たぶん焼きもちからだと思うのだけど

ソラシロのおしっこスプレーやマーキングに悩まされ 「おしっこノイローゼ」 になったので、      


その対策の一つとして、リビングのソファー二つと、

使ってもいない 「無用の長物」 であり、今や猫の 「おしっこまり場」(信州弁で、おしっこを「する」ことを「まる」というのです)
 
と化している廊下のマッサージチェアには、完全防水のソファカバーをかけ、


寝室のベッドには、撥水加工してあるベッドカバーをかけているので、

季節ごとにお気に入りのミッキーの布団カバーを少しずつ揃えて、かけ替えるのを楽しみにしていたのだけど、

ベッドカバーをかけたら見えないからすっかりどうでもよくなっていて、最近ではとんと掛け替えなかったりカバーも付けなかったりしたのだが



 昨年秋から 「秋用カバー」 をかけるのを復活したので、

この日は頑張って 「冬用カバー」 につけ替えました。





普段はクリーム色のベッドカバーをかけてるから見えないのだけど、温かみのある色と、

パイル地なので、肌触りも良くて、綿と違ってひんやり感がなく暖かいのです。


奥が私で、猫のおしっこ対策の一つとして床の間を利用した 「押入れクローゼット」 から変更した、ルーバー調の組み立て家具の 「クローゼット」 も、悔しいけど夫に手伝ってもらってやっとこさ、完成 
(夫のクローゼットはその右隣の押入れを利用したもの、その他に組み立てのロッカーダンスが3つ、玄関に一つ、書斎に一つクローゼットがあります。
古い日本家屋の一部改築のため、収納スペースがやたらと多いのと、古いだけにそこを利用した模様替えや、古さを感じさせずにそこでいかに快適に暮らすかの工夫のし甲斐があるのだ 

ベッドスカートと、枕はしないので “飾りの”フリルカバー枕、ネコ脚コンソールと 「姫系」 してます。      


落ち着いたらベッドも 「姫系」 に変えたいです。



 それから、洗面所のタオルかけが、何度つけても外れるので、違うものに交換。

上の長いものは、元々はつっぱりカーテンポールだったもので、弱いので、真ん中にも支えを入れるのに片側しか外れなかったので付け替え、      

やっと完成したかと思ったら、洗面台の三面鏡キャビネットの扉が開かなくなって付け替え、   

そんなことをしていたら、タオルかけだけで一時間以上かかってしまいました。    

おまけに、正月でやっと治ったと思った右おやゆび腹の手荒れが、ドライバー回し過ぎてまた荒れまくってしまったの・・・      

電動ドライバーも買ってあるんですが、ついやりやすい昔からのねじ回しが好き。      




でも、とりあえず、まあまあの出来栄えに満足。

“ホテルライク” な洗面所を目指しているので (笑) タオルは白、タオルかけも一応オサレで高級そうなの? を使ってたのですが・・・   

これでよしとしましょう。

下二つは色つきのがヘアドライタオルで、バスタオルは髪を乾かすまで濡れて冷たいから肩にかけてるタオルです。  意味わかる?

その手前に見えているステンレスのパイプは、洗面所で髪を乾かしたりする時に座ったり脱衣所の衣類置きにもなる椅子のアームです。

下のタオルかけにかけてあるピンクの袋は、今はヒミツの、と、あるものが入ってます。 (いつかお話しします )  




こちらが夫のバスタオルで、お風呂場 (右手奥) から近いところで、洗濯機にマグネットのタオルかけにかけています。  



 これだけやっていたらけっこう夜になっちゃって   




暗がりの玄関通るたびに、何かくれるかと思ってチビチ君がお座り。

かわいい。     




リビングでは、ソラとシロが寝そべっていて・・・穏やかな時が流れて


シアワセ            


完全防水のソファカバーの上に、更におしっこシートも敷いてるから・・・ちっとも穏やかじゃないけど        


でも、おうち大好き人間なので、


こうやって家にいて、のんびり家事なんかをしてるのが幸せなのです。     





 すっかり 「物置」 と化している6畳間ですが・・・

ここも暮れの荷物やらいろいろ置いてあったのを “これでも” 片付けました。    


一応バレエのレッスンバーと鏡、ポアント用のリノリウムを敷いているのです。(ポアント履けないけど理由があり)   

鏡の向こうに写っているのが、上の方で書いた 「別名・おしっこまり場」 となっているマッサージチェアです。

わかりづらいけど、右手のクリーム色のフリルがついているのは手作りのカバーのついたベンチにもなる、45ℓのゴミ袋がすっぽり入る 「ゴミ箱」。

白いボックスは 「愛用の工具箱」 です。(笑)


カーテンは、普段お出かけできないので、ここを 「アジアン(ハワイアン)リゾート風」 のお部屋にしたかった時に買ったもので、ちょっと浮いてます。(笑)

いつか窓から坪庭か海の眺められる、家に居ながらにして温泉またはリゾート気分の味わえるおうちに住むのが夢です。(笑)


その他にも、いちいち書くほどではないけど、気になっている家の中のちょっとしたことをして、掃除機かけたりお風呂を洗ったり満足~の一日でした。    



極めつけは夜寝る前に、初“セルフネイル”に挑戦しましたが・・・    

そちらの方は Twitter にでも UP しますね。        

 

日常に追われ、疲れ切っている? と心もすり減ってきたりしますが、      
  

いつも、持ち物、着るもの、住む場所、そこに置くものなど、自分の 「好きなもの」 に囲まれて暮らしていたい。

その 「好きなもの」 とは、ブランドとか高価なものでは決してなく、お気に入りのものや、自分の感性、便利にあったものです。


そして、

普段の何気ない生活を楽しみ、慈しみ、タオルかけを取り替えるような小さなことに喜びを感じていられるような、

心豊かな、いつでも、そんな自分でありたいものです。    






※ その3へ続く。










あけましておめでとうございます。

2019年01月03日 | その他 色々



旧年中は色々とお世話になりました。

大晦日に一年の締めくくりの記事を書いていたのですが、時間がなく、UPできませんでした。

どうもすみませんでした。    


去年も一年間色々ありましたが・・・ 


両親、私達夫婦、ソラとシロ、チビ、皆揃って元気に年を越せたこと、感謝します。




晴れた、穏やかな正月でした。









Twitterやフェイスブックに簡単にUPできるので、ブログが減ってしまいましたこと、お詫びいたします。

本年も変わらぬご愛読のほど、どうぞよろしくお願いいたします。    







   
元日は、夫の作ってくれたお節を食べながら、飲んでダラダラしました。       



黒豆、田造り、紅白なますは母の手作り。

普段は以前より料理をしなくなってきた母ですが
(両親の夕飯は一年以上前から私が作ってあげている。帰宅してから今度は自分ちの夕飯づくりと一日に二度夕飯を作っている私 )、

正月料理は自分で作らないと気が済まないようで、私も一緒に買い出しに行ったのですが、材料を買った時点でまずびっくり、

本当に作ったので、なおびっくりしました。      


だし巻き卵、茶わん蒸し(M茸入)などすべて夫作。揚げ物も出来合いではありません。

年取りの夜は4人で食卓を囲むのですが、元旦は両親と子供世帯は別々に過ごすので(店も休みます)、

同じものをすべてお重に入れ、両親の元にも暮れのうちに届けてあります。

それぞれの得意の正月料理を交換し合います。


他に冷凍のM茸の入ったお雑煮などです。

奥は夫の故郷、新潟名物 「のっぺ」 です。


夜、人けゼロの神社に初もうでに行った帰りに、実家に寄って

年賀状と、暮れから元旦にかけて母が少しずつ完成させた 「お煮しめ」 をもらって帰りました。


  

こちらが母の作った品のいい(笑)お煮しめ。

物忘れや、前より確実に老いを感じるわけですが、92歳でこれだけ作れれば大したものですよね。




※ その2へ続く。







 

遅ればせながら誕生日に寄せて・・・。

2018年10月03日 | その他 色々



9月26日に誕生日を迎えました。   


今年は、目標に掲げていたことをまだ、実現できていないので・・・    

心苦しくて、辞めようかと思ったのですが


それでも毎年心を新たにする日なので    




誕生石のサファイアのストラップのついたお花を自分に贈りました。

お花が終わった後も、花器を花瓶として使えます。




カードも添えられたので・・・

注文時に、まだ57歳だった自分が、58歳になる自分に宛ててメッセージをしたためておきました。




中身は忘れていたので・・・

届いた日に改めてカードの文字を読んでみたら

なんだか我ながらいじましくて涙がじんわり。    


時には自分をほめてあげることも大事かもしれませんね。


この一年、大変なことも多くなってきたし、

できないこともたくさんあった。

自分を恥じたり、イライラしたり、疲れ切ってしまったり・・・


でも、楽しいことも沢山あったし、

何より

この一年、それなりによく頑張ったね、自分。



そして、

これからも気負うことなく、頑張りすぎずに、ゆるくガンバリましょー。   



あと2年で還暦・・・。



時間は無限にあるように思えて気にも留めていなかった若い頃に比べると、

残りの時間の方が少ないのだと気付かされます。           



自分にとって本当に必要なものは何か、日々を大切に、愛しみながら大事に生きていきたいな。   




  


    

  


   




※ 松商関係者の皆様へ・・・

諸事情で作業が大幅に遅れていまして申し訳ございません。

『松商物語・第三部』 は、来年3月の発売予定 です。

今しばらくお待ちくださいませ。

重ね重ねお詫び申し上げます。      










ウェルネス高校3年目の夏・・・

2018年08月08日 | 松商、中原監督 関連
長らくのご無沙汰、申し訳ありませんでした。やはりこちらは載せておかなければとがんばりました。




先週末テレビ信州にて、日本ウェルネス高校硬式野球部の軌跡として 『3年目の夏。白球の記憶』 というドキュメンタリー番組が放送されました。

テレビ信州は、日本ウェルネス高校信州筑北キャンパスが2015年9月25日に開校するにあたり、学校開校時から、その年の秋から冬にかけて開催された、翌年4月から入学する第一期生となる野球部員を募集する為の 「オープンキャンパス・野球練習会」(おそらく人材開発も込みであろう)から取材を始め、

それらを特集した

『夢 希望となる』・・・中原野球、新天地にていよいよ始動!! テレビ信州 1/23放送  2016年01月30日 | 松商、中原監督 関連カテゴリー

その年の夏には一年めの夏を

 TVドキュメンタリー 『小さな村のベースボール協奏曲』 テレビ信州:7月30日放送  2016年08月16日 | 松商、中原監督 関連カテゴリー

放送してくれました。

と、ここでハタと気づいたのだが・・・   

私は彼らが1年の時の練習試合、夏の県大会と見に行って、昨年2年生になったときの夏の県大会も見に行っている。(春秋の北信越大会長野大会は諸事情で行っていないが)

なのに、なぜ昨年2017年のTV特番についての記事がないのか   

TV特番そのものがなかったのか、それとも見落としていたとしたらほんとうにごめんなさい。   

しかも、今頃気が付くなんてぇ~       (TV放送情報は偶然TV見ていて予告で知ることが多いので)



と、ちょっと横道それましたが    

つまりは、TV信州さんはずっと中原監督やウェルネス野球部を追ってきてくれて、今回その 「最終章」 までを取り上げてくれて嬉しいです。          


毎回放送があるたびに、放送が見られない現在県外に住んでいるかつての中原監督の教え子の皆さんたちにも知らせてあげたいとの思いから

テレビ画面をたくさん写真にとってUPするのですが・・・

それには番組を見るためと写真を撮るためと2度番組を見なければならず、また写真を撮るために何度も静止画面を繰り返したりの膨大な時間がかかり

ブログにそれをUPするのにも時間がかかって、現在その時間がないので・・・


誠に申し訳ありませんが、今回は最低限の写真だけで、TV放送があったということだけにとどめさせていただきます。

悪しからずご了承くださいませ。ほんとうにすみません。    



今年は作品に集中するためブログをほぼ休んでいるので、 Twitter と FeceBook にてちょこちょこと載せていたのですが・・・

ちょっとTVからはそれるのですが、


 「夏の大会ハイライト」 を    



今年は、こぉ~んなのがあると知って、ナント   地区予選からすべての試合がパソコンで見られるのでした。    

なので、全部ではないけど時々気にしてみてましたが




 ご覧のように、7月10日、一回戦を上伊那農業と戦い6対3で勝ち


 7月12日に、友人 (元信濃グランセローズ、現松商学園コーチ松本匡礼くんの母で高校同級生のK子) が乗せて行ってくれたので、
長野オリンピックスタジアムまで、2回戦 対 長野戦 を見に行ってきました。





朝からよく晴れて暑かったですが、元気よくグラウンドに駈け出すウェルネスナイン。



両校挨拶。



試合は、ウェルネスが面白いように打ち、点が入り、コールドにこそなりませんでしたが 9対5 で勝利しました。       



久しぶりに聞く校歌はやはりいいです。    



スタンドに挨拶するウェルネスナイン。


試合の後、K子と共に中原監督にもご挨拶してきましたが、上機嫌で快活に話してくれて嬉しかったです。    

K子はシニア時代から現ウェルネスの主将河野健太郎君ご一家と親交が深く、河野君のお父様ともお話しできました。    

昨年の夏にご紹介いただいてから向こうでも覚えていてくれて、たまにブログなど見てくださっているようで嬉しいです。

息子友哉君の応援に来ていたH3の内藤玉樹君にはLINEで来場を告げていましたが、試合後にスタンドで見つけて向こうからご挨拶してくれて嬉しかったです。   



 3回戦は7月14日に 岡谷工 と戦い、7対0 の 8回コールド勝ち し 16強入り を果たしました。   



   
 4回戦は 東海大諏訪 と戦い、これまた 10対0 の 5回コールド勝ち。

面白いように勝ち進んで 夏の選手権大会長野大会で 初の 「ベスト8入り」 を果たします 

                      


ここまでは、会場が長野オリンピックスタジアム、準々決勝からは松本市野球場になることになっていたので、

そこまで進んでもらって、ぜひもう一度試合を見に行きたい、と思っていました。

望みどおりの結果になったわけですが、直前になり都合がつかなくなって行かれなくなってしまったのです。     


 仕方ないので、準々決勝は例のバーチャル高校野球を使ってスタートからPC画面より観戦しました。        

中原監督は3回までに点をやらなければ勝算はある、と言っていたらしいので、祈るような気持ちで見ていましたが・・・

中原監督の予言が今度はいい方に働かなくて、序盤で佐久長聖の方に点を許してしまい、

ウェルネスの反撃もむなしく、 3対10 の、まさかの8回コールド負けしてしまいました。 






3回戦4回戦と、コールドゲームを制してきたのはウェルネスの方だったので、本当にまさかと思いましたが・・・

佐久長聖はその後県大会で優勝、2年ぶりの甲子園出場を果たしたうえ、夏の選手権大会一回戦を北北海道の旭川大高に、今大会初の延長14回、春夏通じて初のタイブレークを制し5対4で勝ち二回戦に駒を進めたので

やはり強かったということですね。


それでも、昨年秋の北信越大会長野県大会では、決勝戦を佐久長聖と戦ってウェルネスの方が勝っているので (佐久長聖は春の北信越県大会の覇者だが)
それを思うと、もう少し後で当たりたかったと思わなくもないです。



 テレビドキュメンタリーは、準々決勝で惜しくも敗れ去り号泣するウェルネスナインの姿から始まります。


昨年秋に県の頂点に立ち、


「市民タイムス」より


「スポーツニッポン」より

北信越本大会に初出場。

県大会決勝戦で肩にボールを受け続投不能となり途中退場したエース高山の怪我は完治したとのことだったが、まだ完全ではなかったのか、北信越の壁は厚かったのか、北越に 5対0 の大差で一回戦敗退し、春の選抜の夢は断たれるのですが・・・



慢心があったのか、あるいは1年の夏から試合に出続けて来たので絶頂期がずれてしまったのか、相手チームに研究し尽くされてしまったのか

今年の春の北信越長野大会地区予選では、 2回戦(シード校の為初戦となる) を強豪松商学園と当たってしまい・・・、
昨年秋には同校に中信地区予選と県大会とで2度も当たってしまい、でも2度とも勝っているのだけど、
その時の雪辱とばかり相手は闘争心満々で11対2の大差でまさかの初戦敗退を喫してしまいます。


そこから這い上がり、夏を目指すのは並大抵のことではなかったと思うので、
それだけ考えると、よくベスト8まで、とも言えますが


毎年、中原監督の誕生日には部員たちがお金を出し合ってケーキとささやかなプレゼントを贈っているそうですが、
今年は 「73」 のろうそくの乗ったケーキと、 「nakahara」 のネーム入りの運動靴。

3年間の感謝の気持ちと、甲子園への夢とが託されています。


部室の黒板には部員たちの文字で、

「中ちゃん(なかちゃん、と読むのでしょうか。H3の時代には影でチュウと読んでいたそうですが、さすがにそれはできないのか、それとも、今や愛称も公認なのか、誕生日プレゼントといい子世代と孫世代の違いを感じさせます) を (優勝して甲子園出場を決めて) 胴上げしてあげよう!!
 
心臓が止まらないように短めに!」

とのジョークまで交えたスローガンが掲げてあります。


途中、初めての宿泊を伴う遠征試合中に訪れた中だるみや、村の人たちとの交流、新築された寮での生活、1年生部員の台頭なども描かれ、

ベンチを外れた3年生やデータ分析係の部員の姿なども写しだします。

ベンチ入りした部員たちが、ひと針ひと針、不器用ながらも心を込めてゼッケンをユニフォームに縫い付ける姿は、
3年間の野球部への思い、これから迎える試合に対する熱くて深い想いが詰まっています。


そうして迎えた初戦決戦の日、黒板の文字は消されていました。


試合経過は先に挙げたとおり。

夢に見た甲子園への出場切符は、惜しくも3つ前の試合で彼らの手からすり抜けていきました。



私も、もう少し行ってくれるんじゃないかと思っていたので残念な気持ちや、この日試合を見に行かれなかったことへの後悔、

そして、1年の時から3年間もずっと見てきたチームは、実はウェルネスが初めてだったので、
明日からもう、このチームの試合は見られないのだ、というさみしい気持ちになって数日間がっくりきていましたが・・・



試合終了後、甲子園出場経験に長け、何度も迎えた修羅場、窮地を乗り越えてきた名将は、ベスト8で敗れ去ったのに意外にさばさばしていました。




一番最初のドキュメンタリー番組の中で、
「(甲子園出場は)そんな甘いもんじゃないです。」

と言い切った。


酸いも甘いも噛み分けた名将の言葉。


「野球よりも3年生の進路の心配の方が大変。」

「(彼らは)“成長”という意味では、一番ふり幅が大きかったんじゃないですか?」


野球うんぬんよりまず、当たり前のことができるようにさせたい。

中原監督の取材をした折の言葉に、中原監督の恩師、島岡吉郎の 『人間力』 が頭をよぎりました。


監督室の片隅には、今年一月に惜しまれつつもこの世を去った、恩師島岡監督の元、同じ釜の飯を分け合った、明学野球部で一級下の星野仙一さんとともに写っている若き日の中原監督のスナップが飾ってあるのがテレビ画面から垣間見れます。


卒業していく3年生に贈る言葉。





この日に焼けた笑顔が皆を魅了するのです     



 “中原劇場” の続きは、この本で・・・。



中原監督が本を出されました。

こちらで買えます。

  『お前たちなら必ずできる』 中原英孝著 洋泉社刊  (2018/8/1) 



 ベスト8に散った翌日の新聞記事










 K出身の熊谷秀明君は6回に代打で出て、ちょうど名古屋場所で連勝中だった御嶽海関と絡めてTVでも紹介されました。

そして彼の打った犠打が得点へと結びついたので・・・      

中原監督の粋な計らいに感謝です。 


熊谷君、遠くKから一人で乗り込んで、楽しいことつらいこと沢山あったと思うけど、よくがんばったね。

去年の夏、お父さんがお店に寄っていろんな話を聞かせてくれたけど、熊谷君は照れ臭かったのか、現役時代は一度も来なかったね。


卒業したら、いつか突然ひょっこりやってきて元気な姿を見せてくれるんじゃないかって、○○屋のおばちゃんは楽しみに待ってるからね。       





 消されていた黒板に、主将の河野健太郎君が文字をしたためます。




ドラマの最後の方、いろんな感情がこみあげてきて、自分も泣けて仕方がなかったです。       



 改めましてウェルネス第一期生のナインの皆さん、3年間も楽しませてもらってありがとう      

通信制の高校だということ、開校、創部したてということ、名将中原英孝監督の3度目の挑戦地だということ、村を上げて応援、期待されている事などから
話題性があり、一年のころからずっとマスコミなどに注目され続けてきて、

嬉しいこともあったかもしれないけど、やりづらかったりプレッシャーを感じたり、色々大変だったと思います。

3年間よく耐えて頑張りましたね。


だけど無名の高校がここまで注目されて、しかも1年の入部のころからずっとレギュラーとして試合に出続けるだなんてことはそう滅多にあることではありません。

ウェルネス一期生の皆さんは、なんて幸せなのでしょう。


人生これからが勝負です。     

野球部で得た経験を宝物に、これから更なる飛躍を目指して、もっと大きく羽ばたいていってほしいです    


ガンバレ      ウェルネス一期生ナイン       


中原さんが監督であり続ける限り、ネコタは今後もウェルネス高校を応援してまいります。   

新制ウェルネスもガンバレ          



  
   



 中原英孝監督率いる松商学園野球部H3チームの、上田佳範を投手に擁し選抜準優勝まで駆け上がった1991年の快進撃の模様と、24人のチームメイト全員を徹底取材した彼らの栄光と挫折、その後の15年の歳月を追ったネコタ渾身のスポーツノンフィクションも合わせてご覧ください。

こちらで読めます。

  『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 Amazon Kindle版 


この続編となる “第三部” H3の下の2学年までをも網羅し、忘年会に集う43人へ精力取材した 
『26年目の真実~すべての道はつながっている~』 はただいま執筆中   

9月刊行予定。 乞うご期待ください     




 ウェルネス野球部、松商野球部(H3~5)、中原英孝監督関連については、当ブログの同カテゴリーにてその他いろいろと書いてございます。
合わせてご覧いただけますと幸いです。   

 現在執筆に専念するためブログをお休みさせていただいております。
代わりに? 情報発信源としてたまに呟いておりますので Twitter を覗いてみていただけると幸いです。

アカウント名 nekota-jare★『松商物語』第三部ただ今執筆中! @jarejare7    

宜しくお願い致します。      







※ ドキュメンタリードラマの間に他の覚書が入っているので時間経過等読みつづらいことをお詫び申し上げます。   

TV画面のものは、全てテレビ信州制作のドキュメンタリードラマより写真に撮らせていただきました。

新聞記事は出どころを明記、他の写真はPC画面を含めてネコタが撮っております。    














      


執筆遅れに関するお詫び(母の入退院など)

2018年06月24日 | 松商、中原監督 関連
なんかこんなことばかりでお恥ずかしい限りですが・・・

実は母が6月3日の夕方くらいから体調を崩しまして、4日の夜にどうも様子が変だったので救急車を呼び病院で検査してもらったところ

尿路感染から腎盂炎 (じんうえん) になっているということですぐ入院、幸い敗血症には至らなかったので点滴治療が上手くいき、よくなれば退院できると言われてホッとしました。

ですが何分にも91(今年の9月で92)歳と高齢なので、40度の高熱を出して入院後2,3日は熱もまだ少しあり色々心配しました。

昨年の6月中旬頃、蜂窩織炎 (ほうかしきえん) という感染症になったときは、腫れたのはひざ下で本人もそれ以外は元気で入院は嫌だというので

私も、2015年正月に母が大たい骨骨折をして2度の手術と3カ月近く入院した時に、毎日お昼と晩のご飯の時と1日2度病院に通い、帰ると父の晩ごはんの世話をする日々にすっかり疲れ切ってしまったので

蜂窩織炎は毎日一度病院に点滴に通えば、家では両親の晩ごはんの世話を1日一回、二人一度にするだけで済むからと私もそっちが楽かと思い、ついに入院せずに治したのですが
(一日一度の点滴は一週間、その後週二回の通院が一回になり、約三週間くらいで回復)

実はそのころから両親の晩御飯を私が作ることになってしまい、両親とは別居なので、つまりは実家と自宅と1日2度晩ご飯を作ること、

しかも母は父と違い、あれを買ってきてほしいとか、これが食べたいとか、自分でできるだけに味付けにまで色々わがままを言うのに日々疲れ切っていたので

これは母が入院すればその間母の食事は病院が作ってくれるから楽かも (父は何を出しても文句を言わないので父だけなら晩ごはんの支度も翌日の炊飯器セットも凄く楽なので)、 とちょっと思ってしまった。(今度は1日2度の病院通いの方が楽かもと思えた)

もちろん、今回は蜂窩織炎と違って体調がすごく悪そうだったので入院でなければ絶対心配だったというのももちろんありますが、

母の入院 (体) の心配と同時くらいに、看護 (世話焼き) の心配が来てしまってなんであるが、それだけ疲れ切っていたせいもあり・・・


幸い、91歳の割には体力と生命力もあったのか、入院翌日から少しずつ熱も下がり食欲も徐々に回復、
そのうち毎日リハビリもしてもらい (嬉しいことに骨折の時にお世話になったリハビリのH先生が今回もついてくださって安心だったし、凄くいい方だし嬉しかったです) 
1週間で退院できると言われました。

でもあまりにも急に言われたので準備ができてなくて周りも本人も不安だったため、それから 「緩和(かんわ)病棟」 というのに移って、
6月4日(月)の深夜に入院して、6月14日の木曜日に退院の、10日ほどで退院できました。 

そして、病院でゆっくり寝たり、点滴で抗生剤や栄養剤などを入れてもらったせいか、体力面など心配した割にはけっこう元気で、
なんか入院前よりも元気になったのでは? と思えるほど。

それでこんな時に何ですが、前からチケットを取っていたので、アルフィーの春のツアーのひとつが、6月17日(日)岡谷であり、

岡谷は十分日帰りできるのですが、ツイッターを通じて去年あたりから仲良くさせていただいている方が遠方から参加して泊まるというので、
私も便乗して泊まる予定にしていたのを、途中で母の入院があり、コンサートも行かれないかも、ましてや泊まるなんて、と思い直前まで迷ったのですが

思ったより母が元気そうだったのと、入院中私の疲労もピークだったので、夜遅くにあの怖い国道19号をコンサート疲れの後で運転して帰るよりも翌日の方が安全だろう、
ここまで私も頑張ってきたのだから、ホントは何もしないで丸1日家で休みたかったけどそれができないので、
せめてコンサートの後に打ち上げとお泊りをして、申し訳ないけどたまには家族やペットの世話から解放されてのんびりさせてもらおう、
と思い参加させていただきました。
( ちなみに親の方針で店が年中無休の為、どこかに出かけでもしない限り店も親の世話も一日たリとて休めないのです。
しかも、めったにどこへも出かけておりませぬ。 )

実は昨年も、母の蜂窩織炎の点滴の送り迎えをしながらアルフィーの名古屋ファイナルに泊りがけで参加したので・・・

端から見ると、そうまでして参加したいか、とあきれられそうですが、参加したいのです。
参加せずにはいられないのです。

コンサートはホントに楽しくて普段の自分から解放されるのと、30年以上ずっと曲を聞き続け、勇気や力をもらっているので・・・

泣いてしまった曲も2曲ほどあるのですが、素直に泣けることも大事だと思うのです。

なので、アルフィーのコンサートはただのお楽しみとは違う次元で、
自分が参加を決めているのは、年間 約60本 の公演のうちの、ほんの7、8回 (2Daysを2回と数えるとです。1回と数えれば5、6回です。それでもはたから見ると充分多いのでしょうけど) あるのですが、
自分にとって生きる糧、エネルギー源として必要不可欠なので・・・、



まあ、そんなこんなで執筆がすっかり中断してしまいました。
( 入院中はやはり母のことが心配で他のことが手につかなかったのと、やはり1日2度の病院通いは肉体的にも大変で執筆どころではなかったです )

でも、その後も1週間ほどたつのに自分の心身を建て直せていないのは自分のせいなのでお恥ずかしい限りですが、


両親ともに高齢 (父は今年6月で89歳になった) なので、いつ何時何があるかわからないのを肝に銘じつつ、

実は10年前に書籍を発行した時より確実に自分の体力もなくなっており、疲れやすく無理が効かないこともあるので・・・
( あと、言い訳になってしまうのですが、親のうちの晩御飯の支度や片づけ、買い物などを私がしているのでその分時間が減り、疲れも増えているので )

まあ無理をしてもいけないのですが、これから気持ちを引き締めて執筆を頑張りたいと思います。   


今回も電子書籍にアップする作業などを、もうかれこれ10年以上お世話になっているパソコンの先生にお願いしているのですが、

出来上がっている分のデータや写真などをお送りする予定になっているので、これから頑張って送り、気持ちを切り替えていこうと思います。


そんなわけで、またまた延期のご報告でお心苦しいのですが       

予定としましては 8月27日(月)大安 発行 目指して頑張ります          



関係者の皆さま、どうかご理解いただき、ひき続きの応援とご協力を宜しくお願い致します。   








 昨日、長野大会の組み合わせも決定しました。


今年はずっと試合が長野オリンピックスタジアムなので、ちょっと遠いので行かれるかどうかわからず・・・   

なんとか準決勝の松本市民球場まで進んでもらって、ぜひとも応援に駆け付けたいです。      
    


日本ウェルネス筑北ナイン

どうか全力で 最後の夏をきらめいて                 

がんばれー       











『松商物語』第三部、執筆中間報告!!(関係者の皆さんへ)

2018年05月04日 | 松商、中原監督 関連



只今、執筆中です。


選手の皆さんに一応ご了承いただきたいのは、順不同の無作為で書いておりますので

ご本人にチェックしていただくための「完成原稿」がまだ届いていなくても心配しないでください。

また、実際本になったときの「章立て」には意味を持たせますが、書く順番には特に意味はありませんので深く考えないでください。(笑)


人によって長さに差がありますが、単に枚数制限しなかったからなので、長さにもあまり意味がありません。(長いからいいというものでもない)


ただし、後から書いた人は書籍からの「引用」があるために長くなっている場合もあるので、最初の方に書いた人のものを検討する場合もあるかもしれません。(ないかもしれませんが)

原稿は練りに練った、現時点での完成品をお届けしているつもりですが、もしも検討する場合は何卒ご容赦ください。

(バランスということもあり、ちょっと今、書きながら考え始めてしまいましたので・・・)



章立ては一人一章のショートストーリーで、

たぶん、ですが

H4、H5、H3 の順番になるかと思われます。(現段階での予定)



ですが、人物をよく知っているという点で書き易いかと思ってH3から書き始めましたが、ちっとも書き易くなかったです。(笑)


下の学年の方はまだ少し先になりますので、気長に待っていてください。   


中原監督はもちろんですが、選手以外の +アルファ の方たちや、「番外編」? もちょこっと載ります。(章立て未定)



当初の予定より若干作業が遅れているような気も致しますが    

頑張っておりますのでご理解ください。      



だんだん気弱になってくるんですが(笑)

8月5日の夏の選手権開幕までには 何とか発行したいです        遅めに言っとく 



#拡散希望





この写真をPC前に飾って頑張ってます。



  





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『松商物語』 第三部・発行延期 (7月頃刊行予定) のお知らせ

2018年02月19日 | 松商、中原監督 関連



昨年の忘年会でもお詫びとご説明をさせていただきましたが

2016年を中心にその翌年にかけてH3(全員)~H5(忘年会参加者を中心に)総勢43名の取材を行ってまいりましたが、

家庭の事情等様々な要因にて執筆が滞り、発行が延び延びになってしまいました。     



忘年会では、 熱意と根性とで 「今年3月末の発行を目指す とお伝えしましたが・・・   

一昨年の実家の片づけのところで、


世の中には

意地と根性を出せば何とか乗り切れる   ことと

いくら根性を出しても 『物理的にどうやってもできない』   ことの二つがある、    

と書いたのですが・・・


『松商物語』第三部 に関しても、よく考えたら後者であったのです。


つまり、

第2部のように1人一章のショートストーリー仕立てにするため、

1人二日としても43人で最低でも86日、 約3か月ないと「実質的に書き終わらない」 ことが判明しました。
( というのは、既に取材中におよそ気づいていたことなのですが、勢いが先行するあまり3月いっぱいで書き上げなきゃという想いの方が強く出てしまっていました

また、下の2学年は試合ビデオを3つずつ見てチームの様子をまとめるのに約一週間ずつ、

中原監督や周りの方々にも触れたいので

それらのことをトータルで考えてざっと見積もったところ書き終わるのに5月中旬までかかるという事がわかりました。


写真の取入れや文章を起こして電子化できるようにあげる作業はすでに発売になっている書籍と同じくパソコンの先生に手伝ってもらい、作業は書きながら並行して行うのですが、

「電子化して発売する」のはおそらく6月頃になってしまいます。


楽しみにしていてくださっている方には大変申し訳ありませんが、何卒ご理解ください。m(_ _)m


お手伝いいただくパソコンの先生には2月の初めにその旨お伝えして確認を取り、

松商メンバーへの皆さんへは対象者全員にバレンタインチョコと一緒に 「発行延期のお知らせ」 を送りました。


14日に到着するように前々から準備していましたが、前日に宛名書きや封筒入れをしたところ、46人分というのは思いのほか時間がかかりその日の夕方の便に間に合わず、14日に出したので・・・   

残念ながら県内など、早くて15日着となってしまいました。お詫びいたします。      



夏の選手権大会(甲子園)は今年で 100回目。

長野大会は 7月7日から その戦いの火ぶたが切って落とされます 

それまでには完成させるべく、頑張ります。   



  ※ 追記

少し作業が遅れておりますが 現段階の発売予定日は 7月2日・大安 もしくは 7月8日・大安 です。

最悪でも 

長野大会は 7月22日に決勝
第100回記念・選手権大会(夏の甲子園)は8月5日から開幕 なので

そのころまでには必ず発行します。        

なにとぞご理解と   
応援よろしくお願いいたします。      (3月14日記)






甲子園 スサノオ神社。(2017年3月参拝)









第3部の取材がうまく行き、ちゃんと書き上げて発行できるようにと絵馬をしたためてきました。

取材は大変うまく行きました。



おみくじもバッチリです。


 聖地、甲子園へ・・・松商・取材関連ニュースその7(前編) 2017年03月25日 | 松商、中原監督 関連 カテゴリー

ご参照ください。



【 追記 】

 1月20日、忘年会にて確約を取っていた H5の 市川直樹 君 に会っていただきました。

一昨年、連絡を取っていたころにアキレスけんを切り手術、入院していたということで、一回は取材は遠慮したいとのお申し出があったのですが

幸か不幸か発行が伸びてしまい、3度目の忘年会に行くことができたため、めでたく取材できることになりました。

今風のクールな方なのかと思っていましたが、中々爽やかな好青年でした。  

お忙しいところお時間を作っていただき、どうもありがとうございました。


これで43人全員の取材が終了しました。

   



※ 書き上げるまで、しばらくブログをお休みします。   


 たまに、Twitter facebook への投稿があることもありますので、そちらもチェックしていただけると幸いです。

Twitterアカウント @jarejare7   









3度目の忘年会・・・(^^;

2018年01月09日 | 松商、中原監督 関連
 巻末に、上田佳範投手(当時)、中原英孝監督の略歴を追記しました。
また、拙著書の紹介もさせていただいております。

ほか、ちょこちょこ書き加えたり直しているのでもう一度お読みいただけますと幸いです。      




大変遅くなりましたが、昨年も12月29日に、毎年恒例、 「松商野球部3学年(H3~5)合同忘年会」 が松本市某所で泊りがけで開かれましたので、

中原監督やH3メンバーにお願いして、取材とご挨拶を兼ねて同席させていただきました。



この忘年会、今をさかのぼること13年前、最初の書籍が郷土出版さんより刊行される前年の2005年にお邪魔させていただいたのが最初で



写真を本の中でもご紹介させていただきました。(書籍掲載分ページを写真に撮ったので画像が悪くて申し訳ありません 


書籍発行から10年、書籍が完売絶版となっていたことから(のちに発行元も閉社)この本を「電子書籍化」しようと思い立ち、

それから私の、この本に対する再びの長い取り組みが始まりました。


手始めに、この本を電子化して売り出すこと、ついては

「発行から10年後のH3メンバー」 と、今回は

“3学年続けて甲子園に出場し、今でもその3学年で毎年欠かさず合同忘年会を行っている” という 

「下の2学年をも取材し書き加える」(物語『第三部』) ということを前提にお邪魔させていただいた、2015年の忘年会写真です。




( 第三部表紙使用予定 )



ところが、この時の忘年会で、H3メンバーも10年ぶりにお会いしたことから話が長くなり下の学年まで話が聞けなかったことや

やはりこれは時間がかかっても、お一人お一人に会って、じっくりお話を聞きたいものだ、ということから下の2学年も含めた方たちにアポを取り取材を始めたところ、

総勢40名にも及んだため、意外と時間がかかり年内に取材が終わらなかったので・・・        



仕方がないので、その年のH3幹事の青木崇君に、忘年会の差し入れと年内に本が出なかったお詫びのお手紙を送り代読してもらうことにしました。
(実際読んだのはH4の成澤洋君のようですが 



その時に撮ってもらった2016年の写真がこれです。

その後2015年の忘年会には欠席したけれど16年には参加したという方も取材対象に加えて、お話しを聞きました。



取材は、H3は連絡のつくチームメイト全員、下の2学年は忘年会に参加した方を中心にお話を聞きましたが

何しろ総勢で40人にも及ぶ取材は思いのほか時間がかかってしまいました。

加えて昨年は自分の身辺に親の病気やその後の補助などの事情もあって、思うように執筆が進まず・・・


よもや、3度目の忘年会に、「本の発行が伸びてしまったお詫びや来年3月には必ず出すという宣言」 などを兼ねてお邪魔することになろうとは、

取材当初全く思いもよらぬことが起こってしまいました。     


ここに10年の変遷を載せたのは自慢でもなんでもなく、むしろお恥ずかしいことなのですが、

勇気を出して載せてみます。



ただひとつ、

H3のメンバーの方々には1991年の甲子園での活躍の、翌1992年の高校卒業前後から取材を始めたので、25年前から何度もお会いしているのですが

下の学年の方々は、2015年の忘年会を除けばたった一度しかお会いしていない。

その後取材でじっくりお会いし、お話を伺った下の学年の方たちも、みなさんとても魅力的な方たちばかりで

大変さも苦労も吹き飛ぶほどのとてもいい取材ができたので・・・


この方たちに、たった一度しか会わないのは残念だ、なんとかして本が出た暁にでもいいからもう一度お会いしてみたいものだ、

でも、難しいことだなぁー   

と思っていたところ、


図らずも     

書籍が発行できなかったお陰で  


もう一度下の学年の方たちにお会することができたのは まさに 「怪我の功名  とでも言いましょうか・・・   


忘年会の受け付けはホテルロビーの一角で、夕方5時~宴会の始まる7時ちょっと前まででしたが、
今年の幹事さんである、荒井敏幸くん(H3)、小沢智治くん(H4)、岩間竜也くん(H5)たちの雑談を聞きながら後ろの方に控えていて、来た人全員に 「今日はよろしくお願いします」 とまずご挨拶しておいて・・・

宴会では幹事さんにお願いして、始まる前にひと言、お詫びや経過などのご挨拶(報告)をさせていただき、


今度は下の学年の方々から順番に回って行き、取材で一度お会いしているからか皆さん打ち解けて和やかに話が弾んだこと、

今年は残念ながら参加人数が少なかったことなどもあり、一次会だけで下の学年の参加された方、全員を回ることができました。


同じホテルに部屋を取っていたので、その後は学年別に分かれるというH3メンバーの2次会、3次会にお邪魔させていただき・・・

取材なので飲食はしないつもりだったのですが、気心の多少は知れたH3メンバーの、会も深まったこと、この楽しい席で取材は勘弁と思ったのもあったのか

はたまた、一次会で飲食しないのを気遣ってくれた選手に、私は取材が終わってから部屋で一人ゆっくり飲むからいいの、飲み物も持参したんだから、

と心配ご無用という感じで冗談ぽく伝えたのを逆に不憫に思ったのか   

「もう取材ってもんでもないで、飲みましょ。」(松本訛りで) と言ってくださり、

お言葉に甘えて私もちょっとだけ飲んで2次会の焼き肉と3次会のラーメンを一緒に食べてしまいました。(すみません 


邪魔にならないように、皆さんが和やかに談笑しているのをただ聞いているだけでしたが・・・

私の存在が眼中にない様な会話に(笑)逆にそれだけ気を許して信用してもらっているのかもしれない、気を使わない存在でいられてるのかも、

と、よい方に解釈させていただきました。    


久しぶりに楽しそうなメンバーを見ているのは、こちらも楽しかったです。    


というわけで、最初はこんなに発行が伸びてしまって、どのツラ下げてお邪魔できるかしら、

一年に一度のお楽しみの席に、こうもたびたび部外者が邪魔しに行くのは気が引ける・・・などと案じ、こわごわ? 参加したのですが   

皆さん温かく迎えてくださって心より感謝します。   
   

( 特に発行が伸びたことについてご理解いただき、快く迎え入れてくださった中原監督、忘年会参加への勇気を与えてくれたH5深澤友和君の暖かいお言葉には深く感謝します。
また、忘年会には参加できなかったけれど、元の勤務先だったよしみで直前だったにもかかわらず即座にお部屋を取る手配をしてくれたH4雨宮清隆君にも感謝です。    )



そして、自分の言葉で発行が伸びたお詫びを伝え、3月の発行を約束できたのは自分に喝を入れるという意味でもとてもよかったと思うし、

なにより 

とても素敵な魅力あふれる野球部員の皆さんたちにもう一度会うことができて、心から嬉しかったです。


本当にありがとうございました。



この忘年会を糧に、これから集中して全力で作品を書き上げる所存ですので、どうか待っていてくださいね。    


どうぞよろしくお願いいたします。





会場には開局26周年と高校野球夏の選手権大会100回記念を控えて長野朝日放送(ABN)の方々も取材に見えていました。

91年、ABN開局の年に松商の甲子園での快進撃がおこり、当初から若き日のABNの松坂さん(左端)、草田さん(左から二人目、辻利行主将で捕手の右隣)はチームの取材にしょっちゅういらしていたからか、選手たちも顔なじみ、また懐かしくもあり、この笑顔。

草田さんの右、上田佳範投手(※注1)、その右、高橋巧遊撃手。

(※ 各選手ポジションは当時。)





最後列真ん中の、長野県大会TV中継の野球解説でもおなじみの松商野球部OB 北原要作さん の会社が同じ日の違う部屋で忘年会だったそうで

終了後に駆け付けて下さり、選手たちは懐かしく頼もしい 「アニキ」 の思わぬ来訪に驚きつつも大はしゃぎ。
肩を寄せ合って写真に納まります。

シャッターは北原さんの会社の若い方が押して下さいました。(会の終了時なので皆さん一杯やった後で一段と和やかです)


中原英孝監督(※注2)は私の右隣の方で、冒頭の写真の方がいい笑顔です。

この日も、新天地での活躍もあってか上機嫌で絶好調      

変わらぬ豪快な “中原節” がさく裂、冗談も飛び交い、とても楽しかったし、よいお話しもたくさん聞け嬉しかったです。    


25年の年月を経て、
中原監督に出逢った頃の、監督の年を優に超えてしまった私ですが、選手たちが今、その頃の監督のちょうどいい頃あいの年齢となりました。





 


 おまけ・・・



高校野球夏の選手権大会100回記念を控えて、朝日新聞にて昨年11月7日よりスタートした “あの夏・シリーズ ”「1991年 松商学園 × 四日市工」。

夏の甲子園での延長16回の死闘の意外な幕切れと試合の全記録を追った、第1回目の記事。



翌日からは小さな記事になりましたが全20回にわたり連載。

 

最終回では、松商野球部を1991年の選抜準優勝、夏の選手権大会ベスト8へと導いた名将 監督中原英孝さんの、72歳からの新たなる挑戦を紹介しています。


選手や監督の証言をもとに丹念に取材し、試合描写も含めてよく描かれていました。



ですが・・・

25年間彼らを追い続け見つめてきた、自分にしか書けない物語がある。

それを信じて、私もこの記事に負けないように、頑張ります。    




※ 写真は特にブログへの掲載許可を取っておりませんが、お一人一人電子書籍に登場することの許可は得ておりますのでそれに変えさせていただきます。
ご了承ください。   





【注1】
※ 上田佳範(うえだ よしのり)

1973年松本市生まれ。
投手として1991年選抜大会において2回戦〜準決勝まで3連続完封勝利を挙げ、35イニング連続無失点記録を達成。
松商学園を決勝へと導きながらも自らのミスにより負け試合の幕を引いてしまったことから「悲劇のヒーロー」と呼ばれ、その甘いマスクともあいまって甲子園のアイドルとして野球などの雑誌の表紙まで飾り人気も全国区となる。
また、夏の選手権大会対四日市工業戦では延長16回もの死闘を投げ抜き、自らの右肩に受けた死球によりサヨナラ勝利を掴むというドラマチックな幕切れまで体験する。
91年ドラフト1位指名により日本ハムファイターズ入団、中日ドラゴンズを経て現横浜DeNAコーチ。


 1991年甲子園を沸かせた上記2試合を始め、中原英孝監督率いる上田佳範を投手に擁した松商ナイン、その強さの秘密とチームの魅力に迫った “快進撃・全記録” は、こちらで読めます。



Amazon Kindie版 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』



【注2】
※ 中原英孝(なかはらひでたか)監督

1945年長野県池田町生まれ。
63年、松商学園高校野球部3年生の時に甲子園出場、その後進んだ明治大学にて故島岡吉郎(きちろう)監督の元『野球道』を徹底的に叩き込まれる。
(同野球部にて元巨人、元日本ハム、現横浜DeNAゼネラルマネージャー高田繁とは同期、故星野仙一元中日、元中日、阪神、東北楽天監督は一期下)
68年卒業と同時に帰郷、母校松商学園野球部監督に就任、翌年就任2年目にしてチームを甲子園へと導き最年少監督として話題となる。

以後、松商学園で2期通算22年間、長野日大高で10年間監督を務め、春3度(うち松商学園で2度)、夏8度(同7度)の甲子園出場を果たす。
県内の高校野球指導者では“歴代最多”の甲子園出場回数と、甲子園通算14勝。
過去最高成績は、選抜大会準優勝、夏の選手権大会ベスト8、国体優勝(いづれも1991年松商学園、上記H3チームの時)

2016年より日本ウェルネス高校筑北キャンパス野球部に就任。
開部(開校)からわずか一年6カ月となる2017年10月秋の北信越大会長野県大会にて1,2年生だけで作られたチームを優勝へと導くという驚異を達成。
今後の活躍が期待されている。72歳。(敬称略)



★ 当ブログ 「松商、中原監督 関連」カテゴリー他の記事 もご参照 ください。         

















明けましておめでとうございます。

2018年01月03日 | 生活・行事、季節のもの



大変遅くなりましたが、2018年、明けましておめでとうございます。    

               


また、暮れには一年のご挨拶もできませんでしたご無礼をお許し下さい。

更に昨年は、年間を通してブログへの投稿が著しく減ってしまったことも重ねてお詫び申し上げます。



まず、昨年1月より始めた Twitter により、つい、そちらで済ませることが増えたため

写真アップの手間がかかり文章の長いブログが必然的に減ってしまいました。   



また、言い訳のようですが昨年は色んなことが起こり   

まず冬から春にかけての数か月を、おそらく犬、猫の複数飼いによる焼きもちやストレスなどから、ネコが変なところにおしっこをしてしまい
洗濯や片づけに追われ、精神的にすっかり参ったという事件もあり・・・      

挙句、もしもおしっこをしてしまった時に被害が少ないように、片付けがしやすいようにと色んなものを買い揃えたり部屋の模様替えまでする羽目となり

それが数か月、あるいはつい最近まで片づけ完了しませんでした。


また、母が6月に 「蜂窩織炎」(ほうかしきえん) という足の炎症を起こして約一ヶ月病院に通ったことをきっかけに(その少し前から色んな言動に振り回されて大変だったのだが)
実家(店)の両親の夕飯の準備や片づけをするようになり、

そのため店にいる間は比較的自由に使えた時間に日々追われ、ブログを書く時間がなかなかつかめなかったこと、

それに伴う疲労やストレスなどから書くことに向き合えない日々が続いた、などがあります。


動物を含めた家族環境の変化は突発的事項で、ある意味仕方なかったとはいえ、

例えば、新しい世界を知る喜びや、またその世界に慣れようとするあまりにツイッターにのめり込んだり、
フォロワー間のリプやご挨拶習慣に戸惑いながらも時間を割いたり、交友関係が広がり楽しかった半面、なぜか人間関係に悩む?ことがあったりなど、

ひとえに自分の読みの甘さ、意志の弱さなどが原因していると深く反省する次第です。    



 暮れは、2012年より恒例となっている、アルフィーの武道館イブコンサートに行ってきました。

( アルフィーの武道館公演自体は毎年23、24日の2Daysあるのですが暮れのこの時期はホントは1日出かけるだけでもNGでずっと我慢してきたけど、
今は店も以前よりは暇なので試にイブだけ参加してみたら、以来行かずにはいられなくなってしまったのです。でも泊まりだし1DAysだけで我慢してます。  )









いつものようにとても素敵なコンサートで、お友達と初めてイブにコンサート後の打ち上げを兼ねて食事したりホテルをシェアしたりなども含めて、とても楽しい素敵なイブとなりました。

良い区切りができたので、4月にあるタカミーのバースデイコンサートに晴れて参加することを目標に、
これから3か月、ちょうどアルコンも 「オフ期」 なので(笑)、 「アルフィーを封印」 して書く方に専念します。      



 また改めて写真なども含めてUPしますが、
暮れに恒例の 「松商野球部・3学年合同忘年会」 にご挨拶と取材を兼ねてお邪魔させていただきました。

そこで今年中に本が出せなかったお詫びと、来春3月には必ず出すと約束してきました。     


そんな風に意気込みも新たに帰ってきたら、
父が昨日の夜中から鼻血が止まらなくなったといい、両親とも数年前に一度ずつそういう事があったので初めてよりは心配しなかったものの、
それでも心配だし止まらないのは困るので、午後父を乗せて病院の緊急外来に。

母は自分で鼻の付け根を押さえて血を止める努力をしていましたが父はそれをしていなかったらしく、ただ鼻にティッシュで栓をしていただけだったので
それじゃ止まらないでしょーと看護師さんに付け根をぐいぐい押され、医者に鼻の奥深くまで突っ込むというガーゼの栓を右に二枚、左にも1枚入れてもらって帰ってきました。

幸い血は止まったようでしたし、血圧も病院で計ったら正常だったので特に心配することもなさそうでしたが
それでも、健康な人がこんな風になることはないので、体が少し弱っているのかも、ということで、ご馳走もあまり食べれないし飲めないから可哀そうだし、

大みそかは、料理人である夫が自宅で作った手料理を二人で親の家に運び、終わったら片づけて帰ってくる、(親が)上げ膳据え膳の家族4人そろっての年取りの食事会は新年会に延期、

私が生まれてからこの方、正月は1月1日しか店は休みではなく、二日から仕事だったのですが

今は昔と違い元旦からやっている店がいくらでもあってうちの店は暇だし、開けるメリットもなく、お父さんもこんなだから3が日休もうよー、
と懇願したのだけど・・・

ようやく二日まで休んで三日からは開ける、ということでしぶしぶ妥協してもらいました。経営者である母に。
( 2日から開けて大変なのは私なんですが、従業員に決定権はないので  )


そんなこんなで、今年は例年になくゆったりとした年末年始でしたが

大晦日は買い出しに行ったり、
私は食事の世話だけで手いっぱいなので、今度からダスキンの 「家事お手伝いサービス」 に月一で、自宅は既に決めてあったけど、実家(店)の方にもお掃除に入ってもらうことを親に承諾してもらい、12月に初めてやってもらったのだけど

それから日が経っているのと、仏間と茶の間はやってもらわなかったことなどもあって
結局、神棚、仏壇の掃除も含めた実家の一階部分の全掃除などをしていたら
すぐに親の夕飯の用意をする時間になり(母の希望で年越しそばを作ってあげた)食べ終わると片付け、元旦は私は来ないため新年の食卓の準備もおおよそして帰宅したら

ちょー疲れちゃって、帰宅後はじぶんちの掃除機かけや正月飾りを出したりしたし、

ブログで一年の締めくくりのご挨拶をする時間も余裕(元気)もなかったです。    

くわえて、せっかく年取りにしては驚異の10時半頃には帰宅できたのだけど(例年だと親の家を片づけてる間に年が変わる)
スマホを使おうと思いいつも入れて歩くバッグを見たらなかったので、もしかして店に忘れてきたのかも  と思って戻ったのに店にもなくて   

どこを探せどどちらにもなくて、店と自宅を行ったり来たり2往復して、最後にもう一度バッグをよく見たら、思わぬところから見つかった (あれだけ何度もしらみつぶしに探したのに、なぜあの場所に気づかなかったのだろうか ) という事件まであって、せっかく早く帰れたのに3,40分も時間をロスしたのにも、疲れが3倍増しました。 

( やれやれと思ったら、今度は昨年10月頃に早々と買っておいた2018年度のスケジュール手帳がどこにしまったのか見つからないんだよねぇ…  )





元旦は、昼頃に起き、食事会がなかったので大晦日にお風呂に入れたので今年は元旦の朝風呂はなく、

母の作ってくれた黒豆や紅白なます、田造りなどの縁起物 (手前の色つきの器の物で、91歳ででこれだけ作れれば大したもの。今日はお煮しめまで作りました) の他、

毎年恒例の、夫の手料理 (フライ、だし巻き卵、出身地の新潟名物「のっぺ」、雑煮など) を食べながらTVを見つつ、元旦だけの特権でダラダラ飲み (あー極楽極楽・笑)      

ちょっとウトウトしてから夜、人けのなくなった町内のS神社にチビを連れて初詣。


あっという間に一日が終わりました。

晴れて、穏やかな正月でした。





※ 二日の夜に作ったというのをお裾分けでもらってきた、ごった煮で田舎料理みたいな(失礼)「のっぺ」やK名物の「おおびら」と違い、薄味で品のいい(笑)料亭の味(笑)と、私たちが陰で呼んでいる、母の「お煮しめ」。

今年も作ってくれたので嬉しかったし、できることに安心しました。


子供のころからこれに慣れているので、のっぺは最初私も好きではなかったですが、20年かけて徐々に慣らされて(笑)好きになりました。
でも母は、夫が気を効かせて (沢山作るし他のフライや卵焼き、茶わん蒸しなどはいつもお裾分けしているので)「のっぺ持ってきましょうか?」 と聞いても、以前食べたことはあるけどあんまりお気に召さなかったのか、最近では 「いらない」 と正直に言うそうです。         







大晦日の夜、厳密にいうともう年は開けてましたが、急いで飾ったお飾り。   

ソラシロがかじるので、生花(真ん中の物)は直前でないと飾れないのです。      






元日の、我が家の 「戌年」。(笑)  



ゴンの子どもたちが生まれてから、初めて巡ってきた 「戌年」 で、チビの姉妹の 「小夏」 ママからも小夏モデルのお年賀状を頂きました。     




我が家の 「猫年」(笑)達は、おとーさんの育てた 「ネコ草」 に夢中です。




 そんなわけで、今年はまだ年賀状を書いてないので・・・お心当たりのある方は明日書きますので、どうぞお許し下さいませ。   

代わりに? その場しのぎでつなぎで、昨年 Twitter と共に始めた LINE で 「あけおめメール」 を親しい友人に出そうとしたところ、

「お年玉くじ付きの年賀メール」 があったので、何人かに出してみました。

誰も当たらなかったよ~とメールくれたのですが、そのうち二人からは、お返しに私にもお年玉メールをくれたところ・・・




そのうちの一人からもらったくじが、見事  4等        

「今年は良い年になりそう」 というメッセージが書かれていて、ちょー嬉しかったです。


初詣の神社は、夜に行くと縁日もなければ灯りもほとんど消えているので (それだけ元旦の夜になどお参りに来る人がいないということです。ちょー田舎。でも、人に会わずに済むのでわざわざ夜に行くのですが 

大好きなおみくじを引けることはなく・・・どうしようかと思っていたところ

そういえば、一昨年のアルフィー・ファイナルシリーズ・コンサート限定販売だった 「アルフィー招き猫みくじ」 が4体買ったうち、まだ3つは開封してなかったことにハタと、気付き・・・

昨年はタカ猫ちゃんだったので、今年から順番に左から開けようと思いました。(みくじはタカ猫ちゃんだけ2つ、あとは各一人ずつ買いました。) 




昨年は 「大吉」 でしたが今年は 「中吉」。

でも、 “招福ソング” はこれまた大好きな 『SWET & TEARS』 だし、 “願望” は 「あきらめずに願い続けることが大切」。

また “金運” が 「猫手形」(星)5つ(最高位) で 「恵まれます」 とな        やったぁ~。 バンザイ  



自宅書斎キーボード辺り。昨年開けたタカ招き猫みくじは右手奥のアルフィー時計前に。



アルフィー&タカミーグッズがありすぎて、書斎だか何だかわかりませんが   
デスク横本棚、上の棚には ちゃんと霊験あらたかな 「長谷寺」 の 「後立観音さま」 のお札の前に 「招き猫みくじ」 が飾ってあるのです。     



そして、昨日も休みだったので、ちょー嬉しくて     

夕方5時に小一時間ほど実家に寄って両親の様子を見がてら世話焼きに行った (二人とも思ったより全然元気で安心しました) ほかは

昼頃ゆっくり起きて、一日中、洗濯したり家事をして過ごせて、基本店休日がないため、どこにも行かずに家にいて一日中家のことをして過ごすことがなく、それをやるのがここ何年かの夢だったので、本当に有意義でした。

特に、まだ途中だった片付けものをし (主に寝室のクローゼットや引き出し関係、そこにしまう衣類やバッグなど) 
やりはじめからなんと半年以上かかったけど、やっとほぼ完全に終わらせられたたのが、チョーゼツ、嬉しかったです。     

そして、年末から仕事が忙しくて、大晦日も出になっちゃって、元日一日だけ休んだだけで暮れから仕事で午前様が続いていた夫が早めに休んでくれたので、ラッキーと思って  

夜中遅くまでかかって、一年たって、またまたカオス状態と化していた書斎もすっきり片付けちゃえました。          


私的には、ちょー充実した、「オマケの休み」 の正月二日めでした。       




今年も家族がみな健康で元気に一年を過ごせますように。   

そして、なるべく腹を立てずに、ゆったりと過ごせますように・・・   


まずは3月の電子書籍完成を目指しますので、

ブログも減るかと思われますが、今年も変わらぬご支援、ご愛読のほどを、よろしくお願い致します。    




 オマケ・・・



大晦日の夜にチェックしたところ、ブログの訪問者数と閲覧数が、新しく書いていないのにもかかわらず、異様に伸びていて・・・



この時間の数値が最も多く



原因はコレでした。

3番目の 「レコ大企画賞」 の記事は、昨年の 「ザ・カンレキーズ」 のものではなく、一昨年の 「ウルトラマン・タカミー」 のことを書いたものなのですが
(昨年のカンレキーズ同賞受賞につきましては、いつか書きますのでご容赦いただきますこと、気長にお待ちくださいませ)

今年のレコ大放送をテレビで見た方が、タカミーに興味を持ち検索したところ引っかかったのでしょうか?

いづれにしても、タカミー還暦のお祝い記事を、一年後の61歳の誕生日の時に書いたという2年前の記事が、今頃になって一人歩きをして、知らずのうちに仕事をしてくれたことに驚きと喜びを禁じ得ませんでした。



これが、昨日片付けがほぼ完了したことに次いで、最近最もうれしかったことでしょうか。   


私にとって 「書けること」 が一番の幸せなのですが 「それを読んでもらえること」 は、それと同じくらいに幸せで嬉しいこと。


これからも信じた道を、迷うことなく突き進めるといいなあと思います。    





※ 過去のブログ全体への閲覧者数が最も多かったのが 堂本光一 『SHOCK』 の観劇レポをUPした時の700以上。
続いては 『大ちゃんのソチ五輪』 について書いた時の500以上で、私的にはとても多く(いずれも、記事に対するアクセス数は不明) 
この 『Takamiyお誕生日』 は、大ちゃんの時とほぼ同数となります。

ほか、中原監督とウェルネス野球部を特集したTVドキュメンタリー 『小さな村のベースボール協奏曲』 についても、放送からかなりたった10月19日 (北信越本大会のころでしょうか) に異様に閲覧数が伸びたことがあり、びっくりしました。






これです。

アクセス数が100を超えるのは、ワタシ的にはかなり驚異で、とても嬉しいこと、励みになります。