大学時代に入っていたサークル、「児童文化研究会」の同期で、一番仲がよかったAさんが、約2年に及ぶ闘病の甲斐なく、10月31日の夜に亡くなってしまいました。
あとからご主人に聞いたことですが、ちょうどAが半年ほど前に、ケータイを水に落としてダメにしてしまい、連絡をする人がわからなくなっていたそうで、みなが訃報を知ったのは今月に入ってからでした。
それで、同じく同期の女子でWとIと連絡を取り合い、23日にお線香だけでもあげに行こうと話していたところ、同期の男子でA’とDも行きたい、というので、大勢で悪いと思ったけれど、総勢5人(同期のメンバーはAも入れて、男女同数の全10人いました)で、Aのおうちのある、房総半島の先っぽの方の町まで、お参りに行ってきました。
自宅のすぐ近くから、波が少なくて穏やかな館山湾の海が臨めるのんびりとしたところで、ここでAが、家族に愛され、おだやかで幸せな毎日を送っていたこと、支援学校の先生という、大変だけれどやりがいの持てる仕事にも就き、短かったけれども、精一杯生きたことなどが感じられました。
Aの遺影は、娘さんが二十歳のお祝いのときに撮った記念写真で、Aもとても気に入っていたものだということ。穏やかで清々しい、本当に幸せそうな優しい笑顔で、見ていると、ほんとにいなくなっちゃったんだなぁと、寂しい気持ちになりました。
祭壇を前にして、ご主人が探して持ってきてくれた、最初のお子さんが生まれたときに、Aがつたない指先で一生懸命刺した事をうかがわせるかわいい刺繍入りの、手づくりの布でカバーをかぶせた「アルバム」をめくりながら、愛情いっぱいの文字で埋め尽くされた、可愛らしいイラストカードが所々に挟まれた、きちんと整理された写真を見て、幸せそうなAの、家族への深い愛を感じたりしました。
お墓もすぐ近くで、もう埋葬されているというので、お墓へも行ってきました。遠くに海の望める、日当たりのよいとてもいい場所に建っていて、何より家のすぐ近くだから、ここなら寂しくないかもしれないなぁと思えました。
Aは治療のため、定期的に入退院を繰り返していたのですが、8月に入院して、10月31日に亡くなる直前の26日から、急に起き上がれなくなってしまうまでは、元気で、大好きな本を読んだり、与えられる食事や薬などのメモを、毎日つけていたそうです。それを娘さんが亡くなった後に見てみたら、病院の図書室で借りた、なんとかいう時代小説の第一巻を読み始めた、と書いてあったので、ご主人がその本を探して買ってきて、全4巻をお墓の中に入れてあげたそうです。
他にも、亡くなる少し前に尋ねてきたお義母さんに「いい人生でした。ありがとうございました。」と告げたという話。亡くなる当日の朝、もう、ほとんど会話もできなくなっていたのに、マッサージの人が来て挨拶すると、自分も「おはようございます」とはっきりとした声で返したという話。Aの生前娘さんが、病室の時計を見ながら「ここにいると時間が経つのが早いね」と話したことがあったそうなのだが、亡くなった後で見たら、ちょうど亡くなった8時40分頃の時間に時計が止まっていたという話。葬儀の直前に、係員が会場に赤い毛氈を敷いたところ、中から茶色の小さい子ねずみが飛び出してきて、会場に集まっていた人たちをぐるっと見渡して逃げていった話( Aは私たちと同じねずみ年なので、それは小柄なAの化身ではないかと家族で話した )、など、色んなお話をご家族の方から聞かせていただきました。
その中から、Aが最後まで前向きに、生きる意欲に燃えていたこと、ご主人をはじめとして、二人のお子さん(大学を出たばかりの娘さんと、大学在学中の息子さんで、行き会うことができました)お姑さんご夫婦など大勢の家族の愛に囲まれて、また本人も家族を愛し、最後まで家族を気に掛けて亡くなっていったことなどが伝わってきて、胸がいっぱいになりました。
他にも、病気で教職を一年間休んでいたのだが、その休暇期限が切れることになったので、更新するかどうか今年の年度始めに尋ねられたとき、「もうやめます」と言って、逆に学校から、本当に辞めてしまってもいいんですか? と聞き返されたという話。春に、近くにあるのだが、山の方なので行ったことがなかった、桜がきれいだといわれている場所へ、ご主人がAを連れて行ってあげたところ、「これが最後の桜かもしれないなぁ。今までありがとう」と言うので、「そんなこといってる奴に限って長生きするんだよ」とご主人がいって笑った話なども聞き、泣きそうになった。
Aは、自分で、何かを感じていたのかなぁ。
Aが生前、自分の心情を淡々と、だが、確かな目で書き綴っていてくれた、『児文研OBの掲示板』。
(掲示板を管理している同期のOが、Aの書き込みだけを拾い出して一箇所に整理してくれたので、それをプリントアウトして、ぜひ読んでもらいたかったので、ご主人にお渡ししてきました。書き込みは、病気になる前の2009年の3月と8月、そして明けた2010年の6月に自分の病気のことを伝えたことに始まり、今年の8月まで、退院してきては書き込む、という感じで、全部でA4で12枚分もありました。)
その、言葉のひとつひとつにも、「生きる意欲」や、毎日のあたりまえで穏やかな日常の中からこそ感じられる、「生きる喜び」に満ち溢れていたっけ。
人間、死ぬまで生きていくんだから。
ほんとうに大切な、ごく少ない人や物に囲まれて、シンプルに生きたいなぁ。
などというう言葉の中には、何かを悟ったような凄みさえ感じられて、私は身震いがした。
その、最低限必要な『人』の中に、果たして自分は入れてもらえているのだろうか・・・
そして、もしも私がAのような状況になったとき、もちろん、病後に初めて書き込んでくれるまで、治療中を含めて8ヶ月あったので、その間に色んな葛藤もあり、色んなことを考えたのでしょうけれど、それでもこんなに潔く、しかも前向きに、生きられるものなのか。
この日の白浜は穏やかに晴れて暖かく、みんなが来るからってAがお天気にしてくれたんだね、Aらしく、最後まで気を使ってくれて、と同期の仲間たちで話しました。
ほんとうに優しくて素直で、どうやったらこんな「いい子」が育つのだろう、と思うほど純粋で、心のきれいな人だったA。それでいて明るくユーモアにあふれ、一緒にいるととても楽しかった。
だから私は、Aには何でも話せたし、なんでも相談に乗ってくれるような気がして、私は大学時代から、卒業しても、彼女が結婚して遠くに行ってしまうまで、ずっとAに甘えてきたような気がします。
結婚してからも、時々手紙をくれては、今の状況や心情を報告したり、綴ってくれたA。だけど私は当時、自分の生きていくのに精一杯だったのと、Aの仕事の中身や子育てのことなどが実感としてわからなくて、Aにちゃんとしたお返事を書けていたのか、自信がありません。
今度の病気のことだって、Aがずっと、児文研の掲示板に書きつづっていたことを、私は一年も、知らずにきてしまったんだよ。
生まれて初めて、本当に心が許せる友に出逢えたと思い、かつて、あんなにAに甘えて頼っていたのに、お互い、とうに生きていく道が違ってしまったのだからと思い込んで、私は彼女が本当に自分を必要としてくれていたかもしれないときに、応えてあげられたのだろうかと思うと、自分のふがいなさや大人げのなさが、嫌になります。
でも、今年の3月に震災があったとき、海岸沿いに住むAを心配して、その時はもう、仲間から病気療養中だと聞かされていたので、そっちの心配もしつつ電話してみたとき、Aがものすごく喜んでくれたんだ。
それで、もしかしてAに嫌われてないかなぁとか、受け入れて貰えるかなぁ、という心配も吹き飛んで、本当に二人で、何年かぶりかで、心から楽しくおしゃべりができたのでした。
あの時は思いもよらなかったけれど、結局それが、Aと話したことの、最後になってしまいました。
Aの訃報に接して、驚きと悲しみで、毎日がつらくて、気持ちの整理ができなかった。Aとの思い出の数々、あんなことがあった、こんなことも、などと、30年近く前の楽しかったことなどを昨日のように思い出したり(仲間の家を泊まり歩いて、夜通し喋ったりしたよね。4年の夏休みに、千葉のT町にあるAの実家へ泊りがけで遊びに行ったときが、一番楽しかったなぁ。)、時々、いろんな後悔ばかりが襲ってきては、いたたまれなくなったりした。
だけど、あの時電話で話せていなかったら、私はもっと後悔していたと思うので、最後に電話で、楽しく話せたこと、それがせめてもの救いです。
神さまが与えてくれた、私への最後のお慈悲、ご加護なのかな、と思います。
こんな“お気楽なこと”を書いて、もしも病気のAが見たら、なんて思うかしら、とチラッと心配に思うこともあったけど、私のブログも読んでいるといってくれた。
そして、面倒くさい自分の現在の病状や色んな説明などしなくてすみ、本人も言っていたように、“気楽に”書きこめて、気楽な雰囲気で語れる『児文研の掲示板』に心情を綴ることが、Aの心の支えだったのかな、と思います。
Aの最後の書きこみは、2011年8月7日。入院の当日のようでした。文面からは、ご家族を思いやる気持ちと、そして同期の仲間からもらったお便りに関する、相談事へのアドバイスで終わっていました。
もちろん、これが最後の書き込みになるだなんて、私たちも、そして当の本人だって誰も思わなかったとは思うのだけれど、最後まで、ご家族や仲間を思いやってくれたことに、胸がいっぱいになりました。
Aにとって、かつての児文研の仲間は、ごく少なくていい、といっていた友人の中に入っていたのではないか、と信じたいです。
そして今回、同期の5人で集まって、Aのところに尋ねていけた。
それで気が済んだわけではないけれど、笑って?さよならできたから、これからは前向きに生きていきたいなと思います。
いつまでもメソメソ、グジグジしているようなのは、きっとAが好まないと思うし、そうしていかないと、最後まで精一杯生きたAに、申し訳ないから。
月並みな言い方になってしまうかもしれませんが、Aの分まで、みんなでがんばって生きて行こうね、悲しいことで会うのはもういやだから、これからは定期的にみんなで会おうよ、などと話しました。
行き返りの高速バスの中や、Dと落ち合った向こうの最寄り駅で5人でお昼を食べたり、帰ってきた東京駅で、残りの4人で軽く飲んだりして、色んなことを話しました。こんなに沢山喋ったのは、たぶん卒業以来で、4年間、一緒に苦楽を共にしただけあって瞬時に学生時代に戻れて、あの時とちっとも変わらない雰囲気で楽しく喋れたこと。だけど、お互い背負ってきた人生の分だけ、深く話せたことが、嬉しかったです。
仲間の大切さを、再認識できた一日でもありました。
Aさん、私たちに生きることの意味、そして人とのつながりの大切さを、身を持って教えてくれたのですね。
ほんとうに、今までどうもありがとう。
そしてこれからも、いつまでも私たちのことを、心の中で支えていてください。
あとからご主人に聞いたことですが、ちょうどAが半年ほど前に、ケータイを水に落としてダメにしてしまい、連絡をする人がわからなくなっていたそうで、みなが訃報を知ったのは今月に入ってからでした。
それで、同じく同期の女子でWとIと連絡を取り合い、23日にお線香だけでもあげに行こうと話していたところ、同期の男子でA’とDも行きたい、というので、大勢で悪いと思ったけれど、総勢5人(同期のメンバーはAも入れて、男女同数の全10人いました)で、Aのおうちのある、房総半島の先っぽの方の町まで、お参りに行ってきました。
自宅のすぐ近くから、波が少なくて穏やかな館山湾の海が臨めるのんびりとしたところで、ここでAが、家族に愛され、おだやかで幸せな毎日を送っていたこと、支援学校の先生という、大変だけれどやりがいの持てる仕事にも就き、短かったけれども、精一杯生きたことなどが感じられました。
Aの遺影は、娘さんが二十歳のお祝いのときに撮った記念写真で、Aもとても気に入っていたものだということ。穏やかで清々しい、本当に幸せそうな優しい笑顔で、見ていると、ほんとにいなくなっちゃったんだなぁと、寂しい気持ちになりました。
祭壇を前にして、ご主人が探して持ってきてくれた、最初のお子さんが生まれたときに、Aがつたない指先で一生懸命刺した事をうかがわせるかわいい刺繍入りの、手づくりの布でカバーをかぶせた「アルバム」をめくりながら、愛情いっぱいの文字で埋め尽くされた、可愛らしいイラストカードが所々に挟まれた、きちんと整理された写真を見て、幸せそうなAの、家族への深い愛を感じたりしました。
お墓もすぐ近くで、もう埋葬されているというので、お墓へも行ってきました。遠くに海の望める、日当たりのよいとてもいい場所に建っていて、何より家のすぐ近くだから、ここなら寂しくないかもしれないなぁと思えました。
Aは治療のため、定期的に入退院を繰り返していたのですが、8月に入院して、10月31日に亡くなる直前の26日から、急に起き上がれなくなってしまうまでは、元気で、大好きな本を読んだり、与えられる食事や薬などのメモを、毎日つけていたそうです。それを娘さんが亡くなった後に見てみたら、病院の図書室で借りた、なんとかいう時代小説の第一巻を読み始めた、と書いてあったので、ご主人がその本を探して買ってきて、全4巻をお墓の中に入れてあげたそうです。
他にも、亡くなる少し前に尋ねてきたお義母さんに「いい人生でした。ありがとうございました。」と告げたという話。亡くなる当日の朝、もう、ほとんど会話もできなくなっていたのに、マッサージの人が来て挨拶すると、自分も「おはようございます」とはっきりとした声で返したという話。Aの生前娘さんが、病室の時計を見ながら「ここにいると時間が経つのが早いね」と話したことがあったそうなのだが、亡くなった後で見たら、ちょうど亡くなった8時40分頃の時間に時計が止まっていたという話。葬儀の直前に、係員が会場に赤い毛氈を敷いたところ、中から茶色の小さい子ねずみが飛び出してきて、会場に集まっていた人たちをぐるっと見渡して逃げていった話( Aは私たちと同じねずみ年なので、それは小柄なAの化身ではないかと家族で話した )、など、色んなお話をご家族の方から聞かせていただきました。
その中から、Aが最後まで前向きに、生きる意欲に燃えていたこと、ご主人をはじめとして、二人のお子さん(大学を出たばかりの娘さんと、大学在学中の息子さんで、行き会うことができました)お姑さんご夫婦など大勢の家族の愛に囲まれて、また本人も家族を愛し、最後まで家族を気に掛けて亡くなっていったことなどが伝わってきて、胸がいっぱいになりました。
他にも、病気で教職を一年間休んでいたのだが、その休暇期限が切れることになったので、更新するかどうか今年の年度始めに尋ねられたとき、「もうやめます」と言って、逆に学校から、本当に辞めてしまってもいいんですか? と聞き返されたという話。春に、近くにあるのだが、山の方なので行ったことがなかった、桜がきれいだといわれている場所へ、ご主人がAを連れて行ってあげたところ、「これが最後の桜かもしれないなぁ。今までありがとう」と言うので、「そんなこといってる奴に限って長生きするんだよ」とご主人がいって笑った話なども聞き、泣きそうになった。
Aは、自分で、何かを感じていたのかなぁ。
Aが生前、自分の心情を淡々と、だが、確かな目で書き綴っていてくれた、『児文研OBの掲示板』。
(掲示板を管理している同期のOが、Aの書き込みだけを拾い出して一箇所に整理してくれたので、それをプリントアウトして、ぜひ読んでもらいたかったので、ご主人にお渡ししてきました。書き込みは、病気になる前の2009年の3月と8月、そして明けた2010年の6月に自分の病気のことを伝えたことに始まり、今年の8月まで、退院してきては書き込む、という感じで、全部でA4で12枚分もありました。)
その、言葉のひとつひとつにも、「生きる意欲」や、毎日のあたりまえで穏やかな日常の中からこそ感じられる、「生きる喜び」に満ち溢れていたっけ。
人間、死ぬまで生きていくんだから。
ほんとうに大切な、ごく少ない人や物に囲まれて、シンプルに生きたいなぁ。
などというう言葉の中には、何かを悟ったような凄みさえ感じられて、私は身震いがした。
その、最低限必要な『人』の中に、果たして自分は入れてもらえているのだろうか・・・
そして、もしも私がAのような状況になったとき、もちろん、病後に初めて書き込んでくれるまで、治療中を含めて8ヶ月あったので、その間に色んな葛藤もあり、色んなことを考えたのでしょうけれど、それでもこんなに潔く、しかも前向きに、生きられるものなのか。
この日の白浜は穏やかに晴れて暖かく、みんなが来るからってAがお天気にしてくれたんだね、Aらしく、最後まで気を使ってくれて、と同期の仲間たちで話しました。
ほんとうに優しくて素直で、どうやったらこんな「いい子」が育つのだろう、と思うほど純粋で、心のきれいな人だったA。それでいて明るくユーモアにあふれ、一緒にいるととても楽しかった。
だから私は、Aには何でも話せたし、なんでも相談に乗ってくれるような気がして、私は大学時代から、卒業しても、彼女が結婚して遠くに行ってしまうまで、ずっとAに甘えてきたような気がします。
結婚してからも、時々手紙をくれては、今の状況や心情を報告したり、綴ってくれたA。だけど私は当時、自分の生きていくのに精一杯だったのと、Aの仕事の中身や子育てのことなどが実感としてわからなくて、Aにちゃんとしたお返事を書けていたのか、自信がありません。
今度の病気のことだって、Aがずっと、児文研の掲示板に書きつづっていたことを、私は一年も、知らずにきてしまったんだよ。
生まれて初めて、本当に心が許せる友に出逢えたと思い、かつて、あんなにAに甘えて頼っていたのに、お互い、とうに生きていく道が違ってしまったのだからと思い込んで、私は彼女が本当に自分を必要としてくれていたかもしれないときに、応えてあげられたのだろうかと思うと、自分のふがいなさや大人げのなさが、嫌になります。
でも、今年の3月に震災があったとき、海岸沿いに住むAを心配して、その時はもう、仲間から病気療養中だと聞かされていたので、そっちの心配もしつつ電話してみたとき、Aがものすごく喜んでくれたんだ。
それで、もしかしてAに嫌われてないかなぁとか、受け入れて貰えるかなぁ、という心配も吹き飛んで、本当に二人で、何年かぶりかで、心から楽しくおしゃべりができたのでした。
あの時は思いもよらなかったけれど、結局それが、Aと話したことの、最後になってしまいました。
Aの訃報に接して、驚きと悲しみで、毎日がつらくて、気持ちの整理ができなかった。Aとの思い出の数々、あんなことがあった、こんなことも、などと、30年近く前の楽しかったことなどを昨日のように思い出したり(仲間の家を泊まり歩いて、夜通し喋ったりしたよね。4年の夏休みに、千葉のT町にあるAの実家へ泊りがけで遊びに行ったときが、一番楽しかったなぁ。)、時々、いろんな後悔ばかりが襲ってきては、いたたまれなくなったりした。
だけど、あの時電話で話せていなかったら、私はもっと後悔していたと思うので、最後に電話で、楽しく話せたこと、それがせめてもの救いです。
神さまが与えてくれた、私への最後のお慈悲、ご加護なのかな、と思います。
こんな“お気楽なこと”を書いて、もしも病気のAが見たら、なんて思うかしら、とチラッと心配に思うこともあったけど、私のブログも読んでいるといってくれた。
そして、面倒くさい自分の現在の病状や色んな説明などしなくてすみ、本人も言っていたように、“気楽に”書きこめて、気楽な雰囲気で語れる『児文研の掲示板』に心情を綴ることが、Aの心の支えだったのかな、と思います。
Aの最後の書きこみは、2011年8月7日。入院の当日のようでした。文面からは、ご家族を思いやる気持ちと、そして同期の仲間からもらったお便りに関する、相談事へのアドバイスで終わっていました。
もちろん、これが最後の書き込みになるだなんて、私たちも、そして当の本人だって誰も思わなかったとは思うのだけれど、最後まで、ご家族や仲間を思いやってくれたことに、胸がいっぱいになりました。
Aにとって、かつての児文研の仲間は、ごく少なくていい、といっていた友人の中に入っていたのではないか、と信じたいです。
そして今回、同期の5人で集まって、Aのところに尋ねていけた。
それで気が済んだわけではないけれど、笑って?さよならできたから、これからは前向きに生きていきたいなと思います。
いつまでもメソメソ、グジグジしているようなのは、きっとAが好まないと思うし、そうしていかないと、最後まで精一杯生きたAに、申し訳ないから。
月並みな言い方になってしまうかもしれませんが、Aの分まで、みんなでがんばって生きて行こうね、悲しいことで会うのはもういやだから、これからは定期的にみんなで会おうよ、などと話しました。
行き返りの高速バスの中や、Dと落ち合った向こうの最寄り駅で5人でお昼を食べたり、帰ってきた東京駅で、残りの4人で軽く飲んだりして、色んなことを話しました。こんなに沢山喋ったのは、たぶん卒業以来で、4年間、一緒に苦楽を共にしただけあって瞬時に学生時代に戻れて、あの時とちっとも変わらない雰囲気で楽しく喋れたこと。だけど、お互い背負ってきた人生の分だけ、深く話せたことが、嬉しかったです。
仲間の大切さを、再認識できた一日でもありました。
Aさん、私たちに生きることの意味、そして人とのつながりの大切さを、身を持って教えてくれたのですね。
ほんとうに、今までどうもありがとう。
そしてこれからも、いつまでも私たちのことを、心の中で支えていてください。