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猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

新年、その3 ・・・ 書くこと、『松商の本』発行延期のお詫びなど

2019年01月05日 | 松商、中原監督 関連



 新年から連チャンでブログをUPしておりますが・・・

店は3日から営業、

仕方なく、毎日いやいや在庫調べをしながら、終わってからブログを書いております。   
(在庫調べはちまちま3日に分けてやり、今日やっと終わった)


 2017年からツイッターとフェイスブックを始め、

言葉が短く写真など簡単にUPできることなどから、すっかりブログが減ってしまいましたが 


 2017年6月に母が 「蜂窩織炎」(ほうかしきえん) になり、入院を勧められたけど通院だけで治した時に

絶対安静と言われていたため、
私が親の家の夕飯を作ったのを機に、

病気が治ってもずーーーーーーーーーーーーーーっと親んちの夕飯を作り続ける羽目になり 
(帰宅して今度は自宅の夕飯も作っているため、日に2度も夕飯を作り、これが意外と時間に追われている、疲労とストレスが蓄積する)   

その他、両親ともに高齢なので (母が92歳で父が89歳) 二人とも元気で店などもやってくれているのですが、

前よりいろいろ世話が焼け
特に母はなまじ元気なので、自分でできるつもりになり、買い物を頼まれたり、買い物行けばいちいちついて回って世話を焼き、帰ると私が親の冷蔵庫に詰めたり、結局やらない、できないので、私が手伝ったり尻拭い?することになる時もあり、食べたいものを作ってあげなければならないなどの台所の世話のほか、

両親とも私を頼るので、色々言動に振り回されることになるのだ。 

それがけっこう負担になったり、普段の日常生活でもけっこうストレスになるのに


昨年は、暮れから一月にかけて父が鼻血をしょっちゅう出しては止まらなくなりそのたびに病院へ行ったり
(数年前にはやはり母がそのようなことがあったが、大丈夫と言われてもそのたび心配になる)、
1月に父が配達先の階段から転げ落ちて救急車で病院に運ばれたり
(幸い頭を5針縫っただけで血も止まり、他にレントゲン、CTでも異常なく意識もあり元気だったので帰宅、その後抜糸、3カ月たっても特に何もなくてひと安心したり)
6月には母が体調崩して夜救急車で病院に行くと急性腎盂炎(-じんうえん)とわかり10日ほど入院したり(その後元気になり退院)

二カ月に一度眼科や内科など病院に定期的にかかっている父は運転して一人で行って来るが、

母は長い距離を歩くのに大変なため、病院には私が付き添い車椅子に載せて移動するのだが、昨年はその他にも眼科(3か月に一度)、整形(半年に一度)、耳鼻科、皮膚科、婦人科(半年に一度)とけっこう世話になったので・・・付添にも忙しく、
秋には膀胱炎のちょっとひどいのになって血尿というより出血があったので、内科に2度行き婦人科も受診して大騒ぎしたり、

その他、母が耳鼻科で耳垢をとって貰った時に耳がちょっと炎症を起こしているというので耳の差し薬を約一か月、爪水虫の薬を数か月、毎晩私が注してあげてた時期もありましたし、

とにかく、病院付添や薬を注すのだけでも結構忙しかったです。
秋には風邪を引いた父が、寝ているうちに体調が悪くなったから救急車を呼んでくれというので慌てて付き添い病院に行ったところ、少し検査したが特にひどいことはないから帰ってもいいと言われ、安心したような、心配だから一晩くらい置いてほしかったけど戻ってきたり、
その後は普通の風邪と同じように回復したのでよかったのですが。

なので昨年は両親合わせて3度も救急車のお世話になり、そのたび大慌てで大変な思いをしました。
(特に自分は次女で、のほほんと甘えて育ったため、ドーンと構えれなくて、気も小さいし頼りがいないので余計に負担が 
こんなとき、夫がいてくれてよかったなーと思ったりします。両親の性格を一番知ってるのは夫なので、よくわかるので、愚痴なんかもよくこぼしちゃうし。)

まあ、年が年なので仕方ない部分もあるし、いつ何時何があっても不思議ではないと思っていなくてはならないのですが、

それでも二人とも回復して、年の割には元気になり普段の生活を送れてますのでほんとうによかったです。   


今年はどうか何事もなく、両親ともに元気で、穏やかに過ぎて行ってほしいと願うばかりです。      



が、そんなこんなで年の前半は心労が絶えず、疲労とストレスがけっこう極地で発狂寸前でもありました。  

            



『松商物語第3部』 の執筆もそんなわけで中々思うように取り掛かれなかったのですが、

そちらに集中しようとすると今度は、調べ物をしたり頭を切り替えるような別の長い文が書けなかったというのもあるけど、


日々そのようなストレスと疲労が蓄積していると、

そうすると自然と自信もやる気も喪失気味になり、ブログを書くどころではなかったというのもあります。


そんなことを書き始めていたら延々長くなって、暮れのご挨拶がUPできなかったのですが・・・

色々書いていると、つぃ癖でダラダラ長くなって、面白おかしく書こうとしても、どうしても愚痴っぽくなるので、

いや、これは違う    

と、3回くらい書きなおしてたら、時間切れとなってしまいました。     



 でも、新年になったので、気持ちも新たにブログを書いていたら、あら不思議。

なんだか元気になってきた、じゃぁ、あーりませんか     

そうか。

やっぱ、書いてないとダメなんだな、私。 


しかも、ちゃんとした作品とは別に、ブログみたいなお気楽な日常や心情を綴ったものの存在が大きいことに気づきました。    


大袈裟に聞こえるかもわかりませんが、自分が自分でいられること、

自分の存在価値のようなものが 「書いていること」 で証明され、救われるんです。


これはもう、理屈じゃない。


 2000年だから、もうかれこれ19年も前 (40歳、結婚して6年目くらいの時) になるが、

所属するサークル拓の同人誌 『あける』 に載せた1ページエッセイ何年分かを拾い出し、 『りんごちゃん便り』 というエッセイ集をまとめたことがある。

ワープロ原稿をコピーしホチキスで留めただけの簡単なもので、

その前年発行の 『あける13号』 に載せた自伝的小説を友人知人に送りつける(笑)にあたって、近況報告のお便りみたいなつもりでまとめただけなのであるが

その 「あとがき」 に、こんな言葉が書いてある。



いつかまた、書きたくなる日が来るだろうと思っていた。

不思議なもので、どん底のときにはとても書く気力など湧いてこないが、幸せな時にも、書こうなんて気は起らないものである。

いうなれば、どん底から這い上がろうとするとき(精神的にはやや上昇しつつあるとき)、

あるいは、一見平穏な日々の中にも、不満だの苦しみだのが充満していて、それに打ちひしがれることなく、なんとかしなくてはと立ち向かおうとしているとき、

書きたい、

という強い衝動が沸いて来るものではないかと、私は思う。  (原文ママ、読みやすくするため改行だけしました)



まあ、今回は、ブログを書いてなかっただけで作品の方はちゃんと少しずつではあるが書いていたので、全く書かなかったわけではないが
(そう思うと逆に、あの精神状態でよく書けたものだと思わなくもないのだが 

その時の心境にちょっと似ているのだろうかと、古い文章を思い出した。



 在京時代に、現在は会員となっている 「日本児童文学者協会」 という団体の事務局員として働いていたことがあるのだが

その事務局長の 藤田のぼる さんが、

「書く人には二通りあって、若い頃に早くから芽が出る人、年を取ってから書き始めて芽が出る人」

二通りがあるそうだが

「若いころからずっと書いていて、長くやっていても芽が出ない人というのは、たぶん素質がないと思うので、あきらめたほうがいいかもしれないね」

と言っていたことがある。


当時私はまだ20代前半だったので、半分は他人事? のように聞いていたにすぎなかったが、

今ならさしずめ、 どっきぃ~ん     

である。     



 でも、今さらもう後戻りはできないので、私はおそらく、これからも書き続ける。


書きたい気持ちに理由などはない。


そこに 「書きたい材料」 があって、

「書きたい気持ち」 があれば、延々死ぬまで人は書き続けられる。



傍から見たらきっと馬鹿げた、滑稽に見える行為かもしれないが


続けられることもまた才能ではないかと思っているので、

私はこの行為をやめることはないだろう。



 尊敬する元松商学園高校野球部監督で、現日本ウェルネス高校筑北キャンパス野球部監督の 中原英孝さん が、

松商野球部の寮に、こんな言葉を記した紙を貼っていた。


「報われない努力はない。

努力すれば必ず報われる。

報われないのは まだ努力が足らない からだ。」




(1992年、猫田撮影。書籍にも載っています。白黒なのでわかりづらいが、やや色の変わっている文字の部分が本当に赤ペンで書かれていた。)


この言葉は不肖私メの座右の銘の一つとして、くじけそうになったときに思い出させてもらっているが、


 ほぼ18歳のころから物書きを目指してきたので (子供のころから物を書く人になりたかったが、ちゃんとやり始めたと言えるのがこの年)  

その間の挫折は数え切れず、何度もくじけてきた。


そのたびに起き上がってきたので、自分はそうとう打たれ強いと思っている。



また、しつこいのも取柄で

だいたいから15年もたってから 「その年、その時」 でなければ誰も見向きはしないという

タイムリーさを要求される 「高校野球部」 の話を本にしようだなどという酔狂な人間は、私をおいて他にはいないと自負している。



と、こんなことは、年が明けて強気になっているからこそ書けるのだが   


 秋の終わりに、 「松商の話の第3部ですが、年内に仕上げることができなくて、おそらく来年の春頃になってしまいます」


という事情説明とお詫びを書いたハガキを、かれこれ25年も前からずっと、いつもお世話になっていて大好きな 高橋強子(つよこ)さん (H3高橋巧君のお母様で、ブログにも時々登場する方で、たびたびお手紙のやり取りをしている) に書いて送ったら

こんなお返事をいただいた。



来年の2月でも3月でも楽しみに待っています。

第一号の発行の時は何年待ったでしょうか。

諦めずにずっと待っていたことを思えばチョロイものです。



読んで、思わず泣けた。   


1作目の本の時も、強子さんは私に本を出すという決心と、その背中をそっと、だが力強く押してくださった 「恩人」 なのだ。
(詳しくは本文にてご紹介させていただくつもりです)
   


「ハガキを手帳になんてはさまないでよ。恥ずかしいじゃないのよ~。

私が強子さんにいただいた手紙を、いつも手帳にはさんでお守りのように持ち歩いてるんですと書いたら、最後にそんな言葉で締めくくられていた。



昨年試しに使ってみた 「バレエ手帳」 が、大きくて持ち歩くのにやや不便だったことと、
たぶん対象の子供に合わせたのだろう、月曜始まりのため使いづらくて、

今年手帳を、もう何年も愛用している日曜始まりの小さいタイプの物に戻してしまったので、ハガキは持ち歩けなくなったが、

代わりに店のパソコンのところの、ベアーちゃんの陰で文章は見えないように隠して(笑)はさんで飾ってある。(写真冒頭)


「玲子さん おハガキありがとう 


の文字だけが見え、私を優しく励ましてくれる。







 2019年の “運試し”



有難い 「アルフィー招き猫大明神」 の 「おみくじ」 は、今年は幸ちゃんネコで 「小吉」。






 私がお願いすると、自分も買うついでだからと、いつも嫌な顔一つしないでグッズを買って来てくれるありがたいお友達が、

暮れの武道館で売り出されていた記念フラッグを両日2本と、そして 「あるふぃー絵馬」 を私の希望通り3枚買ってきてわざわざ年内に送ってくれた。


裏には、欲どおしく(笑)3つの願い事を書いて、しかるべき場所にこっそりと隠し置いた。




 昨年、30年来の大ファンであるバンド THE ALFEE のリーダーであり、バンドのほぼすべての楽曲の作詞作曲を長年にわたって手掛けている

敬愛する、大好きなお方である 高見沢俊彦さん が、

一昨年から昨年にかけて約半年にわたり 雑誌『オール読物』 に連載した作品をまとめて昨年夏、一冊の書籍として刊行した。

作家になりたいというのは、ちょっと驚いたことに、実は子供のころからの夢だったそうで、彼の数々の文学的、一編の物語風な歌詞同様、

作品も、いわゆるタレント本、ファンは確実に買うから売れるだろうという憶測をはるかに超えた素晴しい出来栄えで、正直、失礼ながらも大変驚いたものだが



本のおまけでついてきた、彼の言葉による 「しおり」 の文面が心に沁みた。




(写真は 「愛蔵版」。筆名は 髙見澤俊彦。

「通常版」書籍には、ネット販売6書店での購入特典として全6種類の栞がついており、表が髙見澤氏の写真、裏には『音叉』の本文よりそれぞれ印象的な一文が添えられていた。「愛蔵版」のみが髙見澤氏自身の言葉によるものである。)



THE ALFEE の方々は、今年で全員が64~65歳となるが、生意気を承知で言わせてもらえば、

還暦を過ぎてから、その活動の場や、人間としての幅を広げたように思う。



彼らを見ていると、年を重ねるのも悪くない、還暦も怖くないと思えます。


私も還暦まで、なんとあと1年半となってしまいましたが   

その準備期間を有意義に過ごすため、


負けずに頑張りたいです。      




 そんなわけで、松商の本、第3部の関係者の皆様、

発行が大幅に遅れていて大変申し訳ありませんが、

春の発行を目指して


最後のラストスパート、頑張ります。

(現在H3をほぼ書き終えたので、あと半分くらいでしょうか。)



どうか温かい目でお見守りくださるよう、ご理解ご協力を頂けますとともに、


応援のほど、よろしくお願いいたします。   



 パソコンの待受けは、気合を入れるために第3部の表紙を、そして一昨年の忘年会の写真も飾ってあります。(写真冒頭)













ウェルネス高校3年目の夏・・・

2018年08月08日 | 松商、中原監督 関連
長らくのご無沙汰、申し訳ありませんでした。やはりこちらは載せておかなければとがんばりました。




先週末テレビ信州にて、日本ウェルネス高校硬式野球部の軌跡として 『3年目の夏。白球の記憶』 というドキュメンタリー番組が放送されました。

テレビ信州は、日本ウェルネス高校信州筑北キャンパスが2015年9月25日に開校するにあたり、学校開校時から、その年の秋から冬にかけて開催された、翌年4月から入学する第一期生となる野球部員を募集する為の 「オープンキャンパス・野球練習会」(おそらく人材開発も込みであろう)から取材を始め、

それらを特集した

『夢 希望となる』・・・中原野球、新天地にていよいよ始動!! テレビ信州 1/23放送  2016年01月30日 | 松商、中原監督 関連カテゴリー

その年の夏には一年めの夏を

 TVドキュメンタリー 『小さな村のベースボール協奏曲』 テレビ信州:7月30日放送  2016年08月16日 | 松商、中原監督 関連カテゴリー

放送してくれました。

と、ここでハタと気づいたのだが・・・   

私は彼らが1年の時の練習試合、夏の県大会と見に行って、昨年2年生になったときの夏の県大会も見に行っている。(春秋の北信越大会長野大会は諸事情で行っていないが)

なのに、なぜ昨年2017年のTV特番についての記事がないのか   

TV特番そのものがなかったのか、それとも見落としていたとしたらほんとうにごめんなさい。   

しかも、今頃気が付くなんてぇ~       (TV放送情報は偶然TV見ていて予告で知ることが多いので)



と、ちょっと横道それましたが    

つまりは、TV信州さんはずっと中原監督やウェルネス野球部を追ってきてくれて、今回その 「最終章」 までを取り上げてくれて嬉しいです。          


毎回放送があるたびに、放送が見られない現在県外に住んでいるかつての中原監督の教え子の皆さんたちにも知らせてあげたいとの思いから

テレビ画面をたくさん写真にとってUPするのですが・・・

それには番組を見るためと写真を撮るためと2度番組を見なければならず、また写真を撮るために何度も静止画面を繰り返したりの膨大な時間がかかり

ブログにそれをUPするのにも時間がかかって、現在その時間がないので・・・


誠に申し訳ありませんが、今回は最低限の写真だけで、TV放送があったということだけにとどめさせていただきます。

悪しからずご了承くださいませ。ほんとうにすみません。    



今年は作品に集中するためブログをほぼ休んでいるので、 Twitter と FeceBook にてちょこちょこと載せていたのですが・・・

ちょっとTVからはそれるのですが、


 「夏の大会ハイライト」 を    



今年は、こぉ~んなのがあると知って、ナント   地区予選からすべての試合がパソコンで見られるのでした。    

なので、全部ではないけど時々気にしてみてましたが




 ご覧のように、7月10日、一回戦を上伊那農業と戦い6対3で勝ち


 7月12日に、友人 (元信濃グランセローズ、現松商学園コーチ松本匡礼くんの母で高校同級生のK子) が乗せて行ってくれたので、
長野オリンピックスタジアムまで、2回戦 対 長野戦 を見に行ってきました。





朝からよく晴れて暑かったですが、元気よくグラウンドに駈け出すウェルネスナイン。



両校挨拶。



試合は、ウェルネスが面白いように打ち、点が入り、コールドにこそなりませんでしたが 9対5 で勝利しました。       



久しぶりに聞く校歌はやはりいいです。    



スタンドに挨拶するウェルネスナイン。


試合の後、K子と共に中原監督にもご挨拶してきましたが、上機嫌で快活に話してくれて嬉しかったです。    

K子はシニア時代から現ウェルネスの主将河野健太郎君ご一家と親交が深く、河野君のお父様ともお話しできました。    

昨年の夏にご紹介いただいてから向こうでも覚えていてくれて、たまにブログなど見てくださっているようで嬉しいです。

息子友哉君の応援に来ていたH3の内藤玉樹君にはLINEで来場を告げていましたが、試合後にスタンドで見つけて向こうからご挨拶してくれて嬉しかったです。   



 3回戦は7月14日に 岡谷工 と戦い、7対0 の 8回コールド勝ち し 16強入り を果たしました。   



   
 4回戦は 東海大諏訪 と戦い、これまた 10対0 の 5回コールド勝ち。

面白いように勝ち進んで 夏の選手権大会長野大会で 初の 「ベスト8入り」 を果たします 

                      


ここまでは、会場が長野オリンピックスタジアム、準々決勝からは松本市野球場になることになっていたので、

そこまで進んでもらって、ぜひもう一度試合を見に行きたい、と思っていました。

望みどおりの結果になったわけですが、直前になり都合がつかなくなって行かれなくなってしまったのです。     


 仕方ないので、準々決勝は例のバーチャル高校野球を使ってスタートからPC画面より観戦しました。        

中原監督は3回までに点をやらなければ勝算はある、と言っていたらしいので、祈るような気持ちで見ていましたが・・・

中原監督の予言が今度はいい方に働かなくて、序盤で佐久長聖の方に点を許してしまい、

ウェルネスの反撃もむなしく、 3対10 の、まさかの8回コールド負けしてしまいました。 






3回戦4回戦と、コールドゲームを制してきたのはウェルネスの方だったので、本当にまさかと思いましたが・・・

佐久長聖はその後県大会で優勝、2年ぶりの甲子園出場を果たしたうえ、夏の選手権大会一回戦を北北海道の旭川大高に、今大会初の延長14回、春夏通じて初のタイブレークを制し5対4で勝ち二回戦に駒を進めたので

やはり強かったということですね。


それでも、昨年秋の北信越大会長野県大会では、決勝戦を佐久長聖と戦ってウェルネスの方が勝っているので (佐久長聖は春の北信越県大会の覇者だが)
それを思うと、もう少し後で当たりたかったと思わなくもないです。



 テレビドキュメンタリーは、準々決勝で惜しくも敗れ去り号泣するウェルネスナインの姿から始まります。


昨年秋に県の頂点に立ち、


「市民タイムス」より


「スポーツニッポン」より

北信越本大会に初出場。

県大会決勝戦で肩にボールを受け続投不能となり途中退場したエース高山の怪我は完治したとのことだったが、まだ完全ではなかったのか、北信越の壁は厚かったのか、北越に 5対0 の大差で一回戦敗退し、春の選抜の夢は断たれるのですが・・・



慢心があったのか、あるいは1年の夏から試合に出続けて来たので絶頂期がずれてしまったのか、相手チームに研究し尽くされてしまったのか

今年の春の北信越長野大会地区予選では、 2回戦(シード校の為初戦となる) を強豪松商学園と当たってしまい・・・、
昨年秋には同校に中信地区予選と県大会とで2度も当たってしまい、でも2度とも勝っているのだけど、
その時の雪辱とばかり相手は闘争心満々で11対2の大差でまさかの初戦敗退を喫してしまいます。


そこから這い上がり、夏を目指すのは並大抵のことではなかったと思うので、
それだけ考えると、よくベスト8まで、とも言えますが


毎年、中原監督の誕生日には部員たちがお金を出し合ってケーキとささやかなプレゼントを贈っているそうですが、
今年は 「73」 のろうそくの乗ったケーキと、 「nakahara」 のネーム入りの運動靴。

3年間の感謝の気持ちと、甲子園への夢とが託されています。


部室の黒板には部員たちの文字で、

「中ちゃん(なかちゃん、と読むのでしょうか。H3の時代には影でチュウと読んでいたそうですが、さすがにそれはできないのか、それとも、今や愛称も公認なのか、誕生日プレゼントといい子世代と孫世代の違いを感じさせます) を (優勝して甲子園出場を決めて) 胴上げしてあげよう!!
 
心臓が止まらないように短めに!」

とのジョークまで交えたスローガンが掲げてあります。


途中、初めての宿泊を伴う遠征試合中に訪れた中だるみや、村の人たちとの交流、新築された寮での生活、1年生部員の台頭なども描かれ、

ベンチを外れた3年生やデータ分析係の部員の姿なども写しだします。

ベンチ入りした部員たちが、ひと針ひと針、不器用ながらも心を込めてゼッケンをユニフォームに縫い付ける姿は、
3年間の野球部への思い、これから迎える試合に対する熱くて深い想いが詰まっています。


そうして迎えた初戦決戦の日、黒板の文字は消されていました。


試合経過は先に挙げたとおり。

夢に見た甲子園への出場切符は、惜しくも3つ前の試合で彼らの手からすり抜けていきました。



私も、もう少し行ってくれるんじゃないかと思っていたので残念な気持ちや、この日試合を見に行かれなかったことへの後悔、

そして、1年の時から3年間もずっと見てきたチームは、実はウェルネスが初めてだったので、
明日からもう、このチームの試合は見られないのだ、というさみしい気持ちになって数日間がっくりきていましたが・・・



試合終了後、甲子園出場経験に長け、何度も迎えた修羅場、窮地を乗り越えてきた名将は、ベスト8で敗れ去ったのに意外にさばさばしていました。




一番最初のドキュメンタリー番組の中で、
「(甲子園出場は)そんな甘いもんじゃないです。」

と言い切った。


酸いも甘いも噛み分けた名将の言葉。


「野球よりも3年生の進路の心配の方が大変。」

「(彼らは)“成長”という意味では、一番ふり幅が大きかったんじゃないですか?」


野球うんぬんよりまず、当たり前のことができるようにさせたい。

中原監督の取材をした折の言葉に、中原監督の恩師、島岡吉郎の 『人間力』 が頭をよぎりました。


監督室の片隅には、今年一月に惜しまれつつもこの世を去った、恩師島岡監督の元、同じ釜の飯を分け合った、明学野球部で一級下の星野仙一さんとともに写っている若き日の中原監督のスナップが飾ってあるのがテレビ画面から垣間見れます。


卒業していく3年生に贈る言葉。





この日に焼けた笑顔が皆を魅了するのです     



 “中原劇場” の続きは、この本で・・・。



中原監督が本を出されました。

こちらで買えます。

  『お前たちなら必ずできる』 中原英孝著 洋泉社刊  (2018/8/1) 



 ベスト8に散った翌日の新聞記事










 K出身の熊谷秀明君は6回に代打で出て、ちょうど名古屋場所で連勝中だった御嶽海関と絡めてTVでも紹介されました。

そして彼の打った犠打が得点へと結びついたので・・・      

中原監督の粋な計らいに感謝です。 


熊谷君、遠くKから一人で乗り込んで、楽しいことつらいこと沢山あったと思うけど、よくがんばったね。

去年の夏、お父さんがお店に寄っていろんな話を聞かせてくれたけど、熊谷君は照れ臭かったのか、現役時代は一度も来なかったね。


卒業したら、いつか突然ひょっこりやってきて元気な姿を見せてくれるんじゃないかって、○○屋のおばちゃんは楽しみに待ってるからね。       





 消されていた黒板に、主将の河野健太郎君が文字をしたためます。




ドラマの最後の方、いろんな感情がこみあげてきて、自分も泣けて仕方がなかったです。       



 改めましてウェルネス第一期生のナインの皆さん、3年間も楽しませてもらってありがとう      

通信制の高校だということ、開校、創部したてということ、名将中原英孝監督の3度目の挑戦地だということ、村を上げて応援、期待されている事などから
話題性があり、一年のころからずっとマスコミなどに注目され続けてきて、

嬉しいこともあったかもしれないけど、やりづらかったりプレッシャーを感じたり、色々大変だったと思います。

3年間よく耐えて頑張りましたね。


だけど無名の高校がここまで注目されて、しかも1年の入部のころからずっとレギュラーとして試合に出続けるだなんてことはそう滅多にあることではありません。

ウェルネス一期生の皆さんは、なんて幸せなのでしょう。


人生これからが勝負です。     

野球部で得た経験を宝物に、これから更なる飛躍を目指して、もっと大きく羽ばたいていってほしいです    


ガンバレ      ウェルネス一期生ナイン       


中原さんが監督であり続ける限り、ネコタは今後もウェルネス高校を応援してまいります。   

新制ウェルネスもガンバレ          



  
   



 中原英孝監督率いる松商学園野球部H3チームの、上田佳範を投手に擁し選抜準優勝まで駆け上がった1991年の快進撃の模様と、24人のチームメイト全員を徹底取材した彼らの栄光と挫折、その後の15年の歳月を追ったネコタ渾身のスポーツノンフィクションも合わせてご覧ください。

こちらで読めます。

  『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 Amazon Kindle版 


この続編となる “第三部” H3の下の2学年までをも網羅し、忘年会に集う43人へ精力取材した 
『26年目の真実~すべての道はつながっている~』 はただいま執筆中   

9月刊行予定。 乞うご期待ください     




 ウェルネス野球部、松商野球部(H3~5)、中原英孝監督関連については、当ブログの同カテゴリーにてその他いろいろと書いてございます。
合わせてご覧いただけますと幸いです。   

 現在執筆に専念するためブログをお休みさせていただいております。
代わりに? 情報発信源としてたまに呟いておりますので Twitter を覗いてみていただけると幸いです。

アカウント名 nekota-jare★『松商物語』第三部ただ今執筆中! @jarejare7    

宜しくお願い致します。      







※ ドキュメンタリードラマの間に他の覚書が入っているので時間経過等読みつづらいことをお詫び申し上げます。   

TV画面のものは、全てテレビ信州制作のドキュメンタリードラマより写真に撮らせていただきました。

新聞記事は出どころを明記、他の写真はPC画面を含めてネコタが撮っております。    














      


執筆遅れに関するお詫び(母の入退院など)

2018年06月24日 | 松商、中原監督 関連
なんかこんなことばかりでお恥ずかしい限りですが・・・

実は母が6月3日の夕方くらいから体調を崩しまして、4日の夜にどうも様子が変だったので救急車を呼び病院で検査してもらったところ

尿路感染から腎盂炎 (じんうえん) になっているということですぐ入院、幸い敗血症には至らなかったので点滴治療が上手くいき、よくなれば退院できると言われてホッとしました。

ですが何分にも91(今年の9月で92)歳と高齢なので、40度の高熱を出して入院後2,3日は熱もまだ少しあり色々心配しました。

昨年の6月中旬頃、蜂窩織炎 (ほうかしきえん) という感染症になったときは、腫れたのはひざ下で本人もそれ以外は元気で入院は嫌だというので

私も、2015年正月に母が大たい骨骨折をして2度の手術と3カ月近く入院した時に、毎日お昼と晩のご飯の時と1日2度病院に通い、帰ると父の晩ごはんの世話をする日々にすっかり疲れ切ってしまったので

蜂窩織炎は毎日一度病院に点滴に通えば、家では両親の晩ごはんの世話を1日一回、二人一度にするだけで済むからと私もそっちが楽かと思い、ついに入院せずに治したのですが
(一日一度の点滴は一週間、その後週二回の通院が一回になり、約三週間くらいで回復)

実はそのころから両親の晩御飯を私が作ることになってしまい、両親とは別居なので、つまりは実家と自宅と1日2度晩ご飯を作ること、

しかも母は父と違い、あれを買ってきてほしいとか、これが食べたいとか、自分でできるだけに味付けにまで色々わがままを言うのに日々疲れ切っていたので

これは母が入院すればその間母の食事は病院が作ってくれるから楽かも (父は何を出しても文句を言わないので父だけなら晩ごはんの支度も翌日の炊飯器セットも凄く楽なので)、 とちょっと思ってしまった。(今度は1日2度の病院通いの方が楽かもと思えた)

もちろん、今回は蜂窩織炎と違って体調がすごく悪そうだったので入院でなければ絶対心配だったというのももちろんありますが、

母の入院 (体) の心配と同時くらいに、看護 (世話焼き) の心配が来てしまってなんであるが、それだけ疲れ切っていたせいもあり・・・


幸い、91歳の割には体力と生命力もあったのか、入院翌日から少しずつ熱も下がり食欲も徐々に回復、
そのうち毎日リハビリもしてもらい (嬉しいことに骨折の時にお世話になったリハビリのH先生が今回もついてくださって安心だったし、凄くいい方だし嬉しかったです) 
1週間で退院できると言われました。

でもあまりにも急に言われたので準備ができてなくて周りも本人も不安だったため、それから 「緩和(かんわ)病棟」 というのに移って、
6月4日(月)の深夜に入院して、6月14日の木曜日に退院の、10日ほどで退院できました。 

そして、病院でゆっくり寝たり、点滴で抗生剤や栄養剤などを入れてもらったせいか、体力面など心配した割にはけっこう元気で、
なんか入院前よりも元気になったのでは? と思えるほど。

それでこんな時に何ですが、前からチケットを取っていたので、アルフィーの春のツアーのひとつが、6月17日(日)岡谷であり、

岡谷は十分日帰りできるのですが、ツイッターを通じて去年あたりから仲良くさせていただいている方が遠方から参加して泊まるというので、
私も便乗して泊まる予定にしていたのを、途中で母の入院があり、コンサートも行かれないかも、ましてや泊まるなんて、と思い直前まで迷ったのですが

思ったより母が元気そうだったのと、入院中私の疲労もピークだったので、夜遅くにあの怖い国道19号をコンサート疲れの後で運転して帰るよりも翌日の方が安全だろう、
ここまで私も頑張ってきたのだから、ホントは何もしないで丸1日家で休みたかったけどそれができないので、
せめてコンサートの後に打ち上げとお泊りをして、申し訳ないけどたまには家族やペットの世話から解放されてのんびりさせてもらおう、
と思い参加させていただきました。
( ちなみに親の方針で店が年中無休の為、どこかに出かけでもしない限り店も親の世話も一日たリとて休めないのです。
しかも、めったにどこへも出かけておりませぬ。 )

実は昨年も、母の蜂窩織炎の点滴の送り迎えをしながらアルフィーの名古屋ファイナルに泊りがけで参加したので・・・

端から見ると、そうまでして参加したいか、とあきれられそうですが、参加したいのです。
参加せずにはいられないのです。

コンサートはホントに楽しくて普段の自分から解放されるのと、30年以上ずっと曲を聞き続け、勇気や力をもらっているので・・・

泣いてしまった曲も2曲ほどあるのですが、素直に泣けることも大事だと思うのです。

なので、アルフィーのコンサートはただのお楽しみとは違う次元で、
自分が参加を決めているのは、年間 約60本 の公演のうちの、ほんの7、8回 (2Daysを2回と数えるとです。1回と数えれば5、6回です。それでもはたから見ると充分多いのでしょうけど) あるのですが、
自分にとって生きる糧、エネルギー源として必要不可欠なので・・・、



まあ、そんなこんなで執筆がすっかり中断してしまいました。
( 入院中はやはり母のことが心配で他のことが手につかなかったのと、やはり1日2度の病院通いは肉体的にも大変で執筆どころではなかったです )

でも、その後も1週間ほどたつのに自分の心身を建て直せていないのは自分のせいなのでお恥ずかしい限りですが、


両親ともに高齢 (父は今年6月で89歳になった) なので、いつ何時何があるかわからないのを肝に銘じつつ、

実は10年前に書籍を発行した時より確実に自分の体力もなくなっており、疲れやすく無理が効かないこともあるので・・・
( あと、言い訳になってしまうのですが、親のうちの晩御飯の支度や片づけ、買い物などを私がしているのでその分時間が減り、疲れも増えているので )

まあ無理をしてもいけないのですが、これから気持ちを引き締めて執筆を頑張りたいと思います。   


今回も電子書籍にアップする作業などを、もうかれこれ10年以上お世話になっているパソコンの先生にお願いしているのですが、

出来上がっている分のデータや写真などをお送りする予定になっているので、これから頑張って送り、気持ちを切り替えていこうと思います。


そんなわけで、またまた延期のご報告でお心苦しいのですが       

予定としましては 8月27日(月)大安 発行 目指して頑張ります          



関係者の皆さま、どうかご理解いただき、ひき続きの応援とご協力を宜しくお願い致します。   








 昨日、長野大会の組み合わせも決定しました。


今年はずっと試合が長野オリンピックスタジアムなので、ちょっと遠いので行かれるかどうかわからず・・・   

なんとか準決勝の松本市民球場まで進んでもらって、ぜひとも応援に駆け付けたいです。      
    


日本ウェルネス筑北ナイン

どうか全力で 最後の夏をきらめいて                 

がんばれー       











『松商物語』第三部、執筆中間報告!!(関係者の皆さんへ)

2018年05月04日 | 松商、中原監督 関連



只今、執筆中です。


選手の皆さんに一応ご了承いただきたいのは、順不同の無作為で書いておりますので

ご本人にチェックしていただくための「完成原稿」がまだ届いていなくても心配しないでください。

また、実際本になったときの「章立て」には意味を持たせますが、書く順番には特に意味はありませんので深く考えないでください。(笑)


人によって長さに差がありますが、単に枚数制限しなかったからなので、長さにもあまり意味がありません。(長いからいいというものでもない)


ただし、後から書いた人は書籍からの「引用」があるために長くなっている場合もあるので、最初の方に書いた人のものを検討する場合もあるかもしれません。(ないかもしれませんが)

原稿は練りに練った、現時点での完成品をお届けしているつもりですが、もしも検討する場合は何卒ご容赦ください。

(バランスということもあり、ちょっと今、書きながら考え始めてしまいましたので・・・)



章立ては一人一章のショートストーリーで、

たぶん、ですが

H4、H5、H3 の順番になるかと思われます。(現段階での予定)



ですが、人物をよく知っているという点で書き易いかと思ってH3から書き始めましたが、ちっとも書き易くなかったです。(笑)


下の学年の方はまだ少し先になりますので、気長に待っていてください。   


中原監督はもちろんですが、選手以外の +アルファ の方たちや、「番外編」? もちょこっと載ります。(章立て未定)



当初の予定より若干作業が遅れているような気も致しますが    

頑張っておりますのでご理解ください。      



だんだん気弱になってくるんですが(笑)

8月5日の夏の選手権開幕までには 何とか発行したいです        遅めに言っとく 



#拡散希望





この写真をPC前に飾って頑張ってます。



  





『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 Amazon Kindle 版 
好評発売中
  

ぜひ、お買い求めください       





   


『松商物語』 第三部・発行延期 (7月頃刊行予定) のお知らせ

2018年02月19日 | 松商、中原監督 関連



昨年の忘年会でもお詫びとご説明をさせていただきましたが

2016年を中心にその翌年にかけてH3(全員)~H5(忘年会参加者を中心に)総勢43名の取材を行ってまいりましたが、

家庭の事情等様々な要因にて執筆が滞り、発行が延び延びになってしまいました。     



忘年会では、 熱意と根性とで 「今年3月末の発行を目指す とお伝えしましたが・・・   

一昨年の実家の片づけのところで、


世の中には

意地と根性を出せば何とか乗り切れる   ことと

いくら根性を出しても 『物理的にどうやってもできない』   ことの二つがある、    

と書いたのですが・・・


『松商物語』第三部 に関しても、よく考えたら後者であったのです。


つまり、

第2部のように1人一章のショートストーリー仕立てにするため、

1人二日としても43人で最低でも86日、 約3か月ないと「実質的に書き終わらない」 ことが判明しました。
( というのは、既に取材中におよそ気づいていたことなのですが、勢いが先行するあまり3月いっぱいで書き上げなきゃという想いの方が強く出てしまっていました

また、下の2学年は試合ビデオを3つずつ見てチームの様子をまとめるのに約一週間ずつ、

中原監督や周りの方々にも触れたいので

それらのことをトータルで考えてざっと見積もったところ書き終わるのに5月中旬までかかるという事がわかりました。


写真の取入れや文章を起こして電子化できるようにあげる作業はすでに発売になっている書籍と同じくパソコンの先生に手伝ってもらい、作業は書きながら並行して行うのですが、

「電子化して発売する」のはおそらく6月頃になってしまいます。


楽しみにしていてくださっている方には大変申し訳ありませんが、何卒ご理解ください。m(_ _)m


お手伝いいただくパソコンの先生には2月の初めにその旨お伝えして確認を取り、

松商メンバーへの皆さんへは対象者全員にバレンタインチョコと一緒に 「発行延期のお知らせ」 を送りました。


14日に到着するように前々から準備していましたが、前日に宛名書きや封筒入れをしたところ、46人分というのは思いのほか時間がかかりその日の夕方の便に間に合わず、14日に出したので・・・   

残念ながら県内など、早くて15日着となってしまいました。お詫びいたします。      



夏の選手権大会(甲子園)は今年で 100回目。

長野大会は 7月7日から その戦いの火ぶたが切って落とされます 

それまでには完成させるべく、頑張ります。   



  ※ 追記

少し作業が遅れておりますが 現段階の発売予定日は 7月2日・大安 もしくは 7月8日・大安 です。

最悪でも 

長野大会は 7月22日に決勝
第100回記念・選手権大会(夏の甲子園)は8月5日から開幕 なので

そのころまでには必ず発行します。        

なにとぞご理解と   
応援よろしくお願いいたします。      (3月14日記)






甲子園 スサノオ神社。(2017年3月参拝)









第3部の取材がうまく行き、ちゃんと書き上げて発行できるようにと絵馬をしたためてきました。

取材は大変うまく行きました。



おみくじもバッチリです。


 聖地、甲子園へ・・・松商・取材関連ニュースその7(前編) 2017年03月25日 | 松商、中原監督 関連 カテゴリー

ご参照ください。



【 追記 】

 1月20日、忘年会にて確約を取っていた H5の 市川直樹 君 に会っていただきました。

一昨年、連絡を取っていたころにアキレスけんを切り手術、入院していたということで、一回は取材は遠慮したいとのお申し出があったのですが

幸か不幸か発行が伸びてしまい、3度目の忘年会に行くことができたため、めでたく取材できることになりました。

今風のクールな方なのかと思っていましたが、中々爽やかな好青年でした。  

お忙しいところお時間を作っていただき、どうもありがとうございました。


これで43人全員の取材が終了しました。

   



※ 書き上げるまで、しばらくブログをお休みします。   


 たまに、Twitter facebook への投稿があることもありますので、そちらもチェックしていただけると幸いです。

Twitterアカウント @jarejare7   









3度目の忘年会・・・(^^;

2018年01月09日 | 松商、中原監督 関連
 巻末に、上田佳範投手(当時)、中原英孝監督の略歴を追記しました。
また、拙著書の紹介もさせていただいております。

ほか、ちょこちょこ書き加えたり直しているのでもう一度お読みいただけますと幸いです。      




大変遅くなりましたが、昨年も12月29日に、毎年恒例、 「松商野球部3学年(H3~5)合同忘年会」 が松本市某所で泊りがけで開かれましたので、

中原監督やH3メンバーにお願いして、取材とご挨拶を兼ねて同席させていただきました。



この忘年会、今をさかのぼること13年前、最初の書籍が郷土出版さんより刊行される前年の2005年にお邪魔させていただいたのが最初で



写真を本の中でもご紹介させていただきました。(書籍掲載分ページを写真に撮ったので画像が悪くて申し訳ありません 


書籍発行から10年、書籍が完売絶版となっていたことから(のちに発行元も閉社)この本を「電子書籍化」しようと思い立ち、

それから私の、この本に対する再びの長い取り組みが始まりました。


手始めに、この本を電子化して売り出すこと、ついては

「発行から10年後のH3メンバー」 と、今回は

“3学年続けて甲子園に出場し、今でもその3学年で毎年欠かさず合同忘年会を行っている” という 

「下の2学年をも取材し書き加える」(物語『第三部』) ということを前提にお邪魔させていただいた、2015年の忘年会写真です。




( 第三部表紙使用予定 )



ところが、この時の忘年会で、H3メンバーも10年ぶりにお会いしたことから話が長くなり下の学年まで話が聞けなかったことや

やはりこれは時間がかかっても、お一人お一人に会って、じっくりお話を聞きたいものだ、ということから下の2学年も含めた方たちにアポを取り取材を始めたところ、

総勢40名にも及んだため、意外と時間がかかり年内に取材が終わらなかったので・・・        



仕方がないので、その年のH3幹事の青木崇君に、忘年会の差し入れと年内に本が出なかったお詫びのお手紙を送り代読してもらうことにしました。
(実際読んだのはH4の成澤洋君のようですが 



その時に撮ってもらった2016年の写真がこれです。

その後2015年の忘年会には欠席したけれど16年には参加したという方も取材対象に加えて、お話しを聞きました。



取材は、H3は連絡のつくチームメイト全員、下の2学年は忘年会に参加した方を中心にお話を聞きましたが

何しろ総勢で40人にも及ぶ取材は思いのほか時間がかかってしまいました。

加えて昨年は自分の身辺に親の病気やその後の補助などの事情もあって、思うように執筆が進まず・・・


よもや、3度目の忘年会に、「本の発行が伸びてしまったお詫びや来年3月には必ず出すという宣言」 などを兼ねてお邪魔することになろうとは、

取材当初全く思いもよらぬことが起こってしまいました。     


ここに10年の変遷を載せたのは自慢でもなんでもなく、むしろお恥ずかしいことなのですが、

勇気を出して載せてみます。



ただひとつ、

H3のメンバーの方々には1991年の甲子園での活躍の、翌1992年の高校卒業前後から取材を始めたので、25年前から何度もお会いしているのですが

下の学年の方々は、2015年の忘年会を除けばたった一度しかお会いしていない。

その後取材でじっくりお会いし、お話を伺った下の学年の方たちも、みなさんとても魅力的な方たちばかりで

大変さも苦労も吹き飛ぶほどのとてもいい取材ができたので・・・


この方たちに、たった一度しか会わないのは残念だ、なんとかして本が出た暁にでもいいからもう一度お会いしてみたいものだ、

でも、難しいことだなぁー   

と思っていたところ、


図らずも     

書籍が発行できなかったお陰で  


もう一度下の学年の方たちにお会することができたのは まさに 「怪我の功名  とでも言いましょうか・・・   


忘年会の受け付けはホテルロビーの一角で、夕方5時~宴会の始まる7時ちょっと前まででしたが、
今年の幹事さんである、荒井敏幸くん(H3)、小沢智治くん(H4)、岩間竜也くん(H5)たちの雑談を聞きながら後ろの方に控えていて、来た人全員に 「今日はよろしくお願いします」 とまずご挨拶しておいて・・・

宴会では幹事さんにお願いして、始まる前にひと言、お詫びや経過などのご挨拶(報告)をさせていただき、


今度は下の学年の方々から順番に回って行き、取材で一度お会いしているからか皆さん打ち解けて和やかに話が弾んだこと、

今年は残念ながら参加人数が少なかったことなどもあり、一次会だけで下の学年の参加された方、全員を回ることができました。


同じホテルに部屋を取っていたので、その後は学年別に分かれるというH3メンバーの2次会、3次会にお邪魔させていただき・・・

取材なので飲食はしないつもりだったのですが、気心の多少は知れたH3メンバーの、会も深まったこと、この楽しい席で取材は勘弁と思ったのもあったのか

はたまた、一次会で飲食しないのを気遣ってくれた選手に、私は取材が終わってから部屋で一人ゆっくり飲むからいいの、飲み物も持参したんだから、

と心配ご無用という感じで冗談ぽく伝えたのを逆に不憫に思ったのか   

「もう取材ってもんでもないで、飲みましょ。」(松本訛りで) と言ってくださり、

お言葉に甘えて私もちょっとだけ飲んで2次会の焼き肉と3次会のラーメンを一緒に食べてしまいました。(すみません 


邪魔にならないように、皆さんが和やかに談笑しているのをただ聞いているだけでしたが・・・

私の存在が眼中にない様な会話に(笑)逆にそれだけ気を許して信用してもらっているのかもしれない、気を使わない存在でいられてるのかも、

と、よい方に解釈させていただきました。    


久しぶりに楽しそうなメンバーを見ているのは、こちらも楽しかったです。    


というわけで、最初はこんなに発行が伸びてしまって、どのツラ下げてお邪魔できるかしら、

一年に一度のお楽しみの席に、こうもたびたび部外者が邪魔しに行くのは気が引ける・・・などと案じ、こわごわ? 参加したのですが   

皆さん温かく迎えてくださって心より感謝します。   
   

( 特に発行が伸びたことについてご理解いただき、快く迎え入れてくださった中原監督、忘年会参加への勇気を与えてくれたH5深澤友和君の暖かいお言葉には深く感謝します。
また、忘年会には参加できなかったけれど、元の勤務先だったよしみで直前だったにもかかわらず即座にお部屋を取る手配をしてくれたH4雨宮清隆君にも感謝です。    )



そして、自分の言葉で発行が伸びたお詫びを伝え、3月の発行を約束できたのは自分に喝を入れるという意味でもとてもよかったと思うし、

なにより 

とても素敵な魅力あふれる野球部員の皆さんたちにもう一度会うことができて、心から嬉しかったです。


本当にありがとうございました。



この忘年会を糧に、これから集中して全力で作品を書き上げる所存ですので、どうか待っていてくださいね。    


どうぞよろしくお願いいたします。





会場には開局26周年と高校野球夏の選手権大会100回記念を控えて長野朝日放送(ABN)の方々も取材に見えていました。

91年、ABN開局の年に松商の甲子園での快進撃がおこり、当初から若き日のABNの松坂さん(左端)、草田さん(左から二人目、辻利行主将で捕手の右隣)はチームの取材にしょっちゅういらしていたからか、選手たちも顔なじみ、また懐かしくもあり、この笑顔。

草田さんの右、上田佳範投手(※注1)、その右、高橋巧遊撃手。

(※ 各選手ポジションは当時。)





最後列真ん中の、長野県大会TV中継の野球解説でもおなじみの松商野球部OB 北原要作さん の会社が同じ日の違う部屋で忘年会だったそうで

終了後に駆け付けて下さり、選手たちは懐かしく頼もしい 「アニキ」 の思わぬ来訪に驚きつつも大はしゃぎ。
肩を寄せ合って写真に納まります。

シャッターは北原さんの会社の若い方が押して下さいました。(会の終了時なので皆さん一杯やった後で一段と和やかです)


中原英孝監督(※注2)は私の右隣の方で、冒頭の写真の方がいい笑顔です。

この日も、新天地での活躍もあってか上機嫌で絶好調      

変わらぬ豪快な “中原節” がさく裂、冗談も飛び交い、とても楽しかったし、よいお話しもたくさん聞け嬉しかったです。    


25年の年月を経て、
中原監督に出逢った頃の、監督の年を優に超えてしまった私ですが、選手たちが今、その頃の監督のちょうどいい頃あいの年齢となりました。





 


 おまけ・・・



高校野球夏の選手権大会100回記念を控えて、朝日新聞にて昨年11月7日よりスタートした “あの夏・シリーズ ”「1991年 松商学園 × 四日市工」。

夏の甲子園での延長16回の死闘の意外な幕切れと試合の全記録を追った、第1回目の記事。



翌日からは小さな記事になりましたが全20回にわたり連載。

 

最終回では、松商野球部を1991年の選抜準優勝、夏の選手権大会ベスト8へと導いた名将 監督中原英孝さんの、72歳からの新たなる挑戦を紹介しています。


選手や監督の証言をもとに丹念に取材し、試合描写も含めてよく描かれていました。



ですが・・・

25年間彼らを追い続け見つめてきた、自分にしか書けない物語がある。

それを信じて、私もこの記事に負けないように、頑張ります。    




※ 写真は特にブログへの掲載許可を取っておりませんが、お一人一人電子書籍に登場することの許可は得ておりますのでそれに変えさせていただきます。
ご了承ください。   





【注1】
※ 上田佳範(うえだ よしのり)

1973年松本市生まれ。
投手として1991年選抜大会において2回戦〜準決勝まで3連続完封勝利を挙げ、35イニング連続無失点記録を達成。
松商学園を決勝へと導きながらも自らのミスにより負け試合の幕を引いてしまったことから「悲劇のヒーロー」と呼ばれ、その甘いマスクともあいまって甲子園のアイドルとして野球などの雑誌の表紙まで飾り人気も全国区となる。
また、夏の選手権大会対四日市工業戦では延長16回もの死闘を投げ抜き、自らの右肩に受けた死球によりサヨナラ勝利を掴むというドラマチックな幕切れまで体験する。
91年ドラフト1位指名により日本ハムファイターズ入団、中日ドラゴンズを経て現横浜DeNAコーチ。


 1991年甲子園を沸かせた上記2試合を始め、中原英孝監督率いる上田佳範を投手に擁した松商ナイン、その強さの秘密とチームの魅力に迫った “快進撃・全記録” は、こちらで読めます。



Amazon Kindie版 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』



【注2】
※ 中原英孝(なかはらひでたか)監督

1945年長野県池田町生まれ。
63年、松商学園高校野球部3年生の時に甲子園出場、その後進んだ明治大学にて故島岡吉郎(きちろう)監督の元『野球道』を徹底的に叩き込まれる。
(同野球部にて元巨人、元日本ハム、現横浜DeNAゼネラルマネージャー高田繁とは同期、故星野仙一元中日、元中日、阪神、東北楽天監督は一期下)
68年卒業と同時に帰郷、母校松商学園野球部監督に就任、翌年就任2年目にしてチームを甲子園へと導き最年少監督として話題となる。

以後、松商学園で2期通算22年間、長野日大高で10年間監督を務め、春3度(うち松商学園で2度)、夏8度(同7度)の甲子園出場を果たす。
県内の高校野球指導者では“歴代最多”の甲子園出場回数と、甲子園通算14勝。
過去最高成績は、選抜大会準優勝、夏の選手権大会ベスト8、国体優勝(いづれも1991年松商学園、上記H3チームの時)

2016年より日本ウェルネス高校筑北キャンパス野球部に就任。
開部(開校)からわずか一年6カ月となる2017年10月秋の北信越大会長野県大会にて1,2年生だけで作られたチームを優勝へと導くという驚異を達成。
今後の活躍が期待されている。72歳。(敬称略)



★ 当ブログ 「松商、中原監督 関連」カテゴリー他の記事 もご参照 ください。         

















ウェルネス高野球部を追いかけた日々

2017年11月16日 | 松商、中原監督 関連
 中原英孝監督が一昨年の秋に新しく開校した日本ウェルネス筑北高に赴任し、翌4月から初めての生徒を迎え入れて指導を開始して今年で2年目になりました。


昨年夏、創部僅か数ヶ月で初めて一勝し
(見に行きました  やったぁ~! ウェルネス筑北初勝利!! 2016年07月14日 | 松商、中原監督 関連カテゴリ)、

その年の秋、今年の春は諸事情でうっかりしていて試合を見に行かれなかったのですが、

今年の夏から秋にかけて楽しませてもらいました。   






 


 夏の選手権大会県予選、7月12日、諏訪湖スタジアムにて行われた中原監督前任の長野日大との試合には、一段と力が入ります。



今年も球場で、H3の 高橋巧君 のお母様で、25年前から大変お世話になり大好きな強子(つよこ)さんと、特に約束してなかったのにまたまた遭遇。(笑)

いっしょに観戦させていただきました。




残念。負けてしまいました。   



シード校だったのでこれが第一戦め。短い夏が終わりました。



中原監督が最後に教えた1年生が3年生となり臨んだ試合。

双方、内心では心中複雑だったのではないでしょうか・・・。

(負けた試合なのに、終わった後はいつものように監督に会っていただけましたが。←差し入れもお渡ししたかったしせっかく来たんだから一目ご挨拶したいじゃないですか。) 



 秋は、中信地区予選にシード校のため第二戦から参加、9月3日、塩尻志學館に11対ゼロコールドという大差で勝利した翌週の、

9月10日、準々決勝、松商学園との試合を松本市野球場に見に行きました。(そう度々出かけられないため、勝ち進むと予測しこちらの試合に賭けた)

なぜか 「因縁対決」 が続きます。      


この試合は、初めて元信濃グランセローズ、現松商学園コーチの 松本匡礼君 (松商学園時代に中原監督に師事、甲子園にも出場) のお母様で高校の同級生のK子と観戦。

心中複雑なのかな、と思いきや、そうでもなかった  ようで  一度見たかったというかつてお世話になった恩師の試合としてウェルネスも応援しつつ・・・ 


松商学園は今年の夏の県大会覇者で夏の甲子園でも見事一勝した実力で、

3年生が抜けた後の新チームになったとはいえ、残っている2年生のメンバーも何人かいたのですが

なんと  7対ゼロのコールドで勝利し、同時に初の県大会進出が決まりました。  

         







中原監督にも試合後にお会いしましたが、この日は本当に嬉しそうで快活に笑っていらっしゃいました。

K子も監督と会うのは久しぶりとのことで嬉しそうでした。

監督さんを待っているときに、H3の 高橋巧君 と 辻利之君 に会いました。

後から聞いたら 二村武君 もいらしてたみたいですが (なんと今年から二村君も松商のコーチをしてるんだそうです) 残念なことに会えませんでした。

球場内で、H4の 岡村健太郎君 を今年も見かけ、今度はすぐ近くを通ったのでご挨拶できたんですが、一度しか会ってないので私だってわかってくれたかしら?

もちろん、息子智哉君 がキャッチャーとしてウェルネスで頑張っているH3の 内藤玉樹君 にもお祝いの言葉を伝え


それからK子がシニア時代から家族ぐるみでお付き合いしているという、ウェルネス主将の 河野健太郎君(伊那出身) のお父様をご紹介いただきました。

そんな近しい間柄だったとは初めて聞き、びっくりです。   

ちゃっかり電子書籍の紹介と宣伝や、ブログの紹介などもさせていただくと、なんと 「ブログ、読んでますよ。」 とおっしゃっていただき 

ブログで顔を知っていたので、これまでも球場で私を見かけたことがあったけれど声をかけていいものか迷っておられたそうで、なおびっくりしました。   

これでもう面識ができたことですし、今後ともよろしくお願いしますと御挨拶。


K子とも久しぶりに会ったのですが、試合後に近くのお店でお昼を食べ、ご両親の介護について話しが弾み? 
お互い家業を継ぎながら(K子は一人娘)ほぼうちの両親と年の同じ自分の親が両親ともにいて、同居又はそれに近い形で面倒を見ることの大変さなど、

よく考えてみたら、卒業以来そのような深い話をすることがなかったので、びっくりしつつもお互い共感できる点も多く、
やはりこういう話は似たような経験がないとわからないものだねー、などと言い合って現地で解散しました。(球場へは別々の車で出かけたため)

もしも県大会まで進んだら上田だと思うけど見に行く? もしも北信越に行ったら遠いけど見に行こうよ、などと約束しながら・・・


 中信地区予選準決勝も松本市営球場だったので見に行くつもりだったのですが、たまたま雨で順延になるかと思いきやならなかったりのタイミングが合わず見に行きそびれてしまったのですが、    

9月16日、創造学園に2対5と敗れてしまい、

翌日同球場にて行われた3位決定戦も同じような理由で行きそびれてしまったのですが、   

なんとしたことか  松本第一に1対5と敗れてしまいました・・・。   



それでも、県大会出場切符は手にしていたので、

ウェルネスは9月23日、上田県営球場 (電車では遠いのと、頼みの綱の運転手K子が行けないと言ったので試合観戦は断念) にて、野沢北を6対3で制し、

翌24日には同球場にて2回戦を長野商業と戦い、これも4対9で下し、     




 9月27日、準々決勝、上田西との試合を延長11回の末、5対4で制し 「4強入り」 を果たしました       




 その後、中心地区予選で勝利したのに3位決定戦から復活、県大会に進んだ松商と、なぜか再び準決勝で当たることとなり・・・   

今夏甲子園出場の強豪校であり中原監督因縁の相手とあってか、かつてのH3チームのように、強いとされる相手にこそ、負けん気、強気で臨むのか

松商には強いらしく、8対3で下し (この時点で北信越大会本大会への出場切符を手に入れる) 

なんと、中信地区予選4位だったのに、あれよあれよと決勝戦へと進むこととなりました        



 決勝戦も上田県営球場でしたが、せっかく決勝戦に進めたので、電車を乗り継いでも初の車ででも、なんとしてでも応援に駆け付けたかったのですが、
この日は前日から泊りがけで、父が松本での同級会のため不在だったので私まで店を空けるわけにいかず、泣く泣く応援に行くのを断念しました。

( 中信地区予選、対松商の時には用事で行かれなかったとのことで会えなかった高橋強子さんが、その後の中信地区予選試合の応援に駆け付け、特に約束はしてなかったけどきっと会えると思い球場で私の姿を探し続けてくれたとお葉書をいただいたので申し訳なくて・・・     
県大会前には事前に電話を入れ、私は遠いから行かれないけど代わりに応援よろしくお願いしますと伝えておいたのですが、
勝ち進むたびに、地元上田で観戦していた強子さんに電話し勝利を分かち合っていましたが、決勝戦ももちろん行く  と興奮したように語る強子さんに、行かれない私の思いを託しました。 )


決勝戦当日、いつもなら午前中は自宅にいて家のことや用足しをしているのだけど、この日は父が前日から不在だったため朝から店に行き、

母はよく寝室で横になりながらラジオを聞いているのだが、たまたま入った寝室の母のラジオからなんと決勝戦の実況が始まり・・・

きゃー、ラジオで試合中継するんだー      

と、偶然の重なりを喜び、それからはお昼の用意をしながら聞き、食べながらも聞き、途中父を駅まで迎えに行く間も車のラジオで聞き、戻ってからも聞き・・・

と、かたずをのみ試合の行方を見守りました。

最終回で、ここまで全試合を一人で投げ抜いてきたエース高山が、右肩に相手方の打球を受け無念の降板をするなど        

ハラハラドキドキしましたが・・・    


なんと    

佐久長聖を3対1で下し、北信越大会長野県大会 初出場にて 「初優勝」   を成し遂げました。 

                        

やったぁ~     バンザイッ    




ウェルネス勝利の瞬間。



表彰式を終え、メダル、優勝旗を掲げウェルネス側応援席付近にて記念撮影中の選手たち。

※ 写真提供2枚とも:H3 高橋 巧 (既にTwiter、face Book掲載時に掲載許可済み)


巧君は、 自称 「中原さんの追っかけ」 の母の強子さんと、同じくお父様に加え、今回は奥様も一緒に一家で観戦。

ウェルネス勝利に、大袈裟ではなく、これはもしかしたら長野県の野球が変わる  と確信したとmailをくれました。     


私も、勝利の瞬間に鳥肌が立ち、これはひょっとして・・・と、別のあることを思いました。    

いづれにせよ、ウェルネスの快挙は 「中原野球」 を追い続ける私にとっても、間違いなく “追い風”  になってくれるような気がして、そういう意味でも興奮しました。





翌朝の 「スポニチ」。

  

「市民タイムス」。




北信越本大会へ向けてのウェルネス特集記事。10月5日「スポニチ」

1回戦で対戦の北越(新潟)を破れば、2回戦にて、1回戦で北陸(福井)をもしも星稜(石川)が破れば、両者が当たることになり、
中原監督の因縁の宿敵と対戦することになる、というもの。


 その意気込みで14日、北越(新潟)と福井県営球場にて対戦したのですが・・・



うーん、残念。

初回にエース高山にまたしても今度は脇腹に3番打者のライナーが当たり、わずか53球にて無念の降板。

北越は新潟4位だったので、長野1位のウェルネスがひょっとしたらと思っていたのですが、5対0にて初回戦敗退となってしまいました。   

県大会決勝で受けた右肩の打球の腫れは完治したということですが、もしかしたらまだ完全ではなかったのかもしれません。


北信越大会は、26年前にも金沢国体を応援に行き、目の前で中原松商H3チームの日本一を目撃した思い出の地で縁起もいいし

めったに行かれないかもしれないんだから遠いけど行きたいね、などとK子と話していましたが、直前にK子のお父様が亡くなられたそうで行かれなくなりました。

中信地区予選でいろいろ話を聞いていただけに、お気の毒と同時に長い間の介護、看護、本当にご苦労様でしたと思いました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。



今回の快進撃に、なかなか思うように応援に駆け付けられなかったので・・・

こうなったらもう、来年、甲子園に連れて行ってもらうしかないです。        




その、1週間後となる10月21日、ウェルネス校野球部から応援に対する礼状が届きました。

あまりに早い対処に驚きましたが、その対応の速さは、悔しい思いの深さと反比例しているのだろうと察しがつきました。


この悔しさをバネに、来年春からのシーズン、もっともっと大暴れして、手に汗握らせ、私たちを感動の嵐に巻き込んでほしいものです。


早いもので、新制ウェルネス中原がスタートして、来年で3年目、

最初に育てた子供たちの “集大成” であり “最終年” がやってきます。    


   


 北信越一回戦を迎える当日に、ウェルネス主将河野健太郎君の事が新聞で紹介されました。





ウェルネス開校前に行われた「合同練習」に参加していた中学生たち数人のコメントが、中原野球を特集するテレビで紹介され、

( 『夢 希望となる』・・・中原野球、新天地にていよいよ始動!! テレビ信州 1/23放送 2016年01月30日 | 松商、中原監督 関連カテゴリ )

この中で何人が野球部に入るのだろうか、と思いましたが、この可愛らしい子が 



この人だとは、最初すぐにはわかりませんでした。



主将としてたくましく成長しながら、最終年をチームを引っ張り、頑張って戦い抜いてほしいです。




 大幅に遅れておりますが  

来春3月に必ず 『松商物語・第三部』

(電子書籍化を記念し書籍発売からさらに10年後のH3メンバーと、
3学年連続甲子園に出場し今でも毎年忘年会に中原を慕い集まっている下の2学年をも追った感動のドキュメンタリー、第2弾) 

を完成させるとともに、     





来シーズンも中原野球とウェルネス筑北高校を追いかけます      



 
 こちらもご参照ください。

TVドキュメンタリー 『小さな村のベースボール協奏曲』 テレビ信州:7月30日放送 2016年08月16日 | 松商、中原監督 関連カテゴリ

ほか、同カテゴリ、ウェルネス筑北関連記事、中原監督関連記事など。



 中原野球の原点である26年前の甲子園での快進撃、その強さの秘密と魅力に迫った、
またチームを支え続けた控え選手をも含めた全選手24名の栄光と挫折の日々にも焦点を当てた

中原ファン必見の著自書
 
『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』(Amazon Kindle版) 
も会わせてご覧ください。宜しくお願いします。   

 こちらで買えます。   








※ 新聞は特に記載がないものはすべて「スポーツニッポン」長野県版です。










松商・取材関連ニュース その7.(後編)

2017年04月07日 | 松商、中原監督 関連



松商関係者の皆さま、大変長らくお待たせしてしまいまして申し訳ございませんでした。    


 25年後の選手の皆さんに出逢う旅・・・


昨年2016年10月27日に H3 花岡 忠 君 (38人目) の取材をせていただき、

12月29日 (2016年の3学年忘年会のあった日) に 『松商・取材関連ニュースその6.』 をUPしてから、

ほんとに長い時間がたってしまいましたことを深くお詫びいたします。


まず、年が明けてから、2015年の忘年会には来なかったが2016年には参加した方などを中心に新たに取材を増やしました。



 明けた2017年1月14日 H5 上條 雅也 君。

H5のレギュラーメンバーの方で取材辞退された方がいらしたため、忘年会に参加はしていないけれど、どなたか近場でレギュラーだった方を、と紹介していただきました。

上條君は現在伊那市在住で、その日は朝から大雪でしたがうまく会うことができました。

当時のことを懐かしそうに話しながら、野球が自分を救ってくれた、控え選手の人が頑張ってくれたので僕らが試合に打ち込めた、
あの学年、全員で1つのチームだ、と強調していたのが印象的でした。

帰り際のひと言も忘れられません。

上條君、雪の中をわざわざお時間を作っていただきましてどうもありがとうございました。



 1月24日 H4 降旗 哲也 君で2016年参加組。

仕事でたまたま本木に会って、たまには忘年会に来いよ~、というから出たのに、あいつ来ないんですよ・笑。

久しぶりに行ったら、小沢と池本が誰だかわかんなかった。(笑)

など、まじめでとてもおとなしそうな、この人が野球をやるのかしら、と思うほどもの静かな中にもユーモアのにじみ出る降旗君。

とてもいいエピソードも聞けて、お会いできて本当によかったです。ありがとうございました。



 1月30日は、中原英孝監督 に、
この本を電子書籍化しようと思った2015年の12月、誰よりも最初に会っていただいてから1年がたち、
ウェルネス野球部も始動し、それらも含めての 2度目の取材 をさせていただきました。

今回は 『とうげの旗・スポット』 での取材にいつも同行していただいていた、とうげの旗編集長でカメラマンの 松永 ひろし さんに写真を撮っていただきました。

松永さんは3人で歓談したのちあちこち要所の写真を撮り、私より先に退室したのですが帰り際、

「監督、最後に一つだけ聞いていいですか?」 と、監督のベンチでの采配について質問し、その受け答えに感激した模様、

戻ってからのメールで
「中原監督のお人柄には感服いたしました。
たいした人ですね。」

と、一言。
あれだけの短い時間でそれを悟った松永さんにも恐れ入りましたが

私はこの日、ずっと聞けなかったあることをお聞きしたり、これまで自分が思っていた以上に監督の凄いところを感じ入ることができ

本当に本当に感服いたしました。     


中原監督は、これまでもそうでしたが、それ以上に、とてもとても スゴイ人     というのを改めて再認識しました。

それをうまく言葉にできるようにと願います。    




監督さんとのツーショット。   たぶん、本には載らないと思いますので、こちらに。



 2月5日 H4 小沢 智治 君。

彼も2016年の忘年会だけ参加組で、増やした人です。

とても面白くて、ある意味お調子者? の小沢君。

「以前にも一度会ってますよね?」 の問いに 「いや、初めてだと思いますよ~。」 と答えましたが

思い出しました 
1992年、松商学園高を尋ねたときに多分会ってます。

証拠写真となったのは、こちら。





金森写真さんのアルバムからですが、後列左右どちらからも3人目、草田アナの真上が小沢君。

何年か後にこのアルバムを見ていた時に、突然  「うわぁ、たぶんこの人、あの時のアイツだぁ~ 」 と思ったものですが、何分にも忘れていたんです、大昔のことですから。

そして、今回初めて小沢君に会った時にも思いだせなかったのだけど・・・
小沢君に会った後にまたもや偶然このアルバムを見て、これだっ  と思い出しました。
で、次に会った山口君に 「この人は誰ですかね?」 と聞いたらやっぱり小沢君だというので・・・
やっとつながったというわけです。(意味、わかりますかね? 

それにしても・・・25年前に逢った時も調子よかったですが、昨年忘年会に出たのは自分だって久しぶりだったくせに、
「自分が今年幹事なんですよ~、猫田さんも忘年会来ればいいのに。招待しますよ」 ですって。 

ねっ? お調子者でしょ  
それにしても小沢君、そのことは抜きにしても、楽しいお話を色々とありがとうございました。   

種明かしエピソードは、もしもまたお会いできたら、その時にでも。(笑)



 25年後の選手たちに出会う旅、最後の取材となりましたのは 42人目、H4の 山口 伸 君。 2016年参加組です。

彼は、H3のチームに入っていなかったのに、下級生で二人だけ10年前の本に名前入りで写真が載った2人のうちの一人 (もう一人は雨宮君) です。





証拠写真。(書籍より)


自分で会社を興し社長となっている彼は、言葉にも説得力があり、本当に生き生きとして自身に満ち溢れていました。

帰り際、ご馳走になったお礼にと仕事用にと持ち合わせていた 「野沢菜漬け」 をお土産にくれて、
待たせてあった迎えの部下の車に飛び乗り、さっそうと去ってゆきました。


控え選手の多くの方々がそうですが、

山口君、あのときの悔しさをバネにして這いあがって行った、典型的な魅力あふれる人でした。



 最後に、3月27日、金森写真館の 金森達夫さん に会っていただきました。





1991年、センバツ準優勝に始まる一年間の松商学園野球部の活躍をまとめた写真集 『夢をありがとう - 青春の軌跡 -』。(写真:金森達夫氏)

青春の 「軌跡」 のアルバムなのですが

前出の小沢君の写真もですが、
本が出る少し前、何度か通っていた松本市内のあるお店にいたスタッフさんが、どうもアルプススタンドに写っている女子生徒とよく似ているなあと思い・・・

もしや、と思ってわざわざアルバムを持って行って聞いてみると、まさしくその人であったりと、

私にとって色んな 「奇跡」 をも運んできてくれました。


そして、アルバム裏表紙となったこの写真





センバツ決勝戦に惜しくも敗れ、準優勝となり、ガックリと肩を落として行進するナインの姿に心を打たれ

元になったカラー写真を探してもらって本の表紙に使わせていただいたのがこちらです。





なので、金森さんとは本当にご縁が深いのです。

お会いするのも10年ぶり。

10年前の二度を合わせて、今回でたぶん3回くらいしかお会いしていないのですが、その熱血感に溢れて男気のあるところ、大変魅力的な方で、

今回も第三部の表紙に使わせていただくこと、
また、この写真集を含めて金森さん撮影の下の2学年の 「卒業記念アルバム」 より何枚か使わせていただくことを快く承諾してくださいました。

本当にありがとうございました。      




写真館が学校近くに建っていることもあり、何十年と生徒たちを見てきているけれど、

あの時のチームのことは今でも覚えている、礼儀から生活態度から野球に対する姿勢など、全てを含めて最高のチームでしたね、
中原監督がすごいということですよねと、

忘年会の写真をお見せしたらぜひ下さいと、昨年、一昨年と2枚とも持っていかれ、
「うわぁ~○○くん、変わっちゃったなぁー」 などと嬉しそうに眺めていらっしゃいましたが、下の学年の人たちのことも本当によく覚えていました。

松本市内なので、たまにメンバーにも会うことがあるようで、 「またみんなに会いたいなぁ」 とおっしゃっていらしたのも印象的でした。


電子書籍化するとお伝えしてからご挨拶が大変遅れてしまいましたが、金森さん、やっと今回お会いできてよかったです。





2016年の忘年会写真です。(2015年のものが表紙になり、こちらは本文中に使わせていただきます)




忘年会に差し入れた (H3幹事の青木君宅に送り、会場まで持って行ってもらったもの) お酒を、
会場ホテル勤務の雨宮君が気を使ってこんなに立派にして提供くださいました。・・・恐縮です。        


これで、当初の予定と若干変わりはしましたが、ほぼ全員の方々の取材が完了しました。

お忙しい中わざわざお時間を作っていただきまして、

また、25年も前のことを一生懸命思い出して、
中にはあまり思い出したくないこともあったかもしれないのに、みなさん色んなことをたくさん語ってくださって

本当にありがとうございました。   


あとはこれを 

どのように料理し、味をつけ、

素材が最も輝く形 で 読者の皆様に提供する こと。   

それこそが私の使命です。         


諸事情色々あったにせよ、発行がここまでズレ込んでしまったことを深くお詫びしますとともに    

夏の選手権(甲子園)大会開催予定 の 8月6日 前 までには、必ず発行  いたします。


どうか温かい目でもう少し待ってやってくださること、

そして、選手の皆さんは、スナップ写真提供や校正にご協力をよろしくお願いいたします。     

   

ネコ、がんばる      





 おまけ・・・



取材ノートは8冊になりました。




『甲子園 素戔嗚神社』 で買った 「トラのおみくじ」 も

なんと   大吉  

こりゃ、縁起がいいなぁ~~~       




おみくじは店の引きだしにそっとしまい、トラさんはPC前に飾りました。

お札は、自宅書斎に飾るつもりです。      












聖地、甲子園へ・・・松商・取材関連ニュースその7(前編)

2017年03月25日 | 松商、中原監督 関連
関西ツアー3日目の午前中、京都に立ち寄る前にまず向かったのは、前日行かれなかったここです。






25年前の1992年、始めて観戦に行った夏の甲子園

松商 対 近大付属

本にもなったH3のチームではなく、その翌年のH4チームの試合で、でした。


昨年一年間松商チームを応援してきたけれど、テレビ観戦のみで甲子園に行く機会は逃してしまったので

ぜひ一度、甲子園での試合というものを体感してみたかったから。


知り合いもなく、当時住んでいた東京から一人新幹線に乗り、初めての関西(西宮)に到着。

球場で人づてに、どうにか松商側の応援スタンドを探し当て、当時は知る選手もなく、ひっそりと一人で応援。(笑)


甲子園球場は噂通りにとても暑くて、試合は残念ながら負けてしまったけれど、

始めて見た甲子園は、大観衆と、球児たちの若さとエネルギー、それらを包み込むものすごい熱気にあふれ感動的でした。   


そのとき、試合や球場周辺の写真を確かにとったはずなのに、何故かどこを探してもなかったので・・・   

今回はその、写真を撮り直す意味合いも含めて訪れたのですが・・・


   

ガーン    

今は冬。

この壁を覆い尽くしているはずの名物 “甲子園のツタ” は、まだ “ツルだけ” でした。

オー、マイガッ       

ツタって落葉樹だったのね・・・    


せっかくなので、 「甲子園歴史資料館」 目指して歩いていきます。




かなり歩いて、やっとたどりついたかな、と思ったら・・・




ガーン・・・Part2    





『月曜は休館日』ですと。

ちょうどセンバツを控えてか球場整備にあちこち業者の人が入っていたので、その辺にいたオジサンに聞いてみると

「プロ野球自体が月曜日は休みですからね。」 とまた2オドロキの答えが。      


そーだった、そーだった。      

うかつだった。
ホテルでぐだぐだしてないで、やはり頑張って昨日来るべきだったのだ。    


それでちょっと気を取り直して、長い間疑問? だったあることを聞いてみる。

「甲子園駅の構内に神社があると聞いてきたんですけれど・・・。」

「駅の構内にはそんなのはないような気がするけど・・・球場内だったらナントカ神社ってのがありますよ。」

「球場内にあるなら、私の聞き間違いかもしれないので、たぶんそれのような気がします。   


オジサンに神社の場所を聞き、ふと見ると反対側にはこんなものが。




それは、歴代甲子園大会 (夏の選手権大会と春のセンバツ大会) の優勝校を記した碑だった。




あれはもしや・・・



ありました 

選手権大会第14回大会優勝

昭和3年 松本商(松商学園高の前身)(長野)

きゃーーーーー           


そして・・・



あまり見たくはなかったけど          



平成3年 春のセンバツ第63回大会 優勝 広陵(広島)


せっかく決勝まで上り詰め、ここに名前が刻まれなかったことが、何とも残念である。    


あのとき決勝戦で敗れたことが、その後の色んな人たちの人生を変えた。
( といっても、もう一度ここに戻ってきたのだから、どちらかというといい方に、だとは思うが )


もしも優勝していたら・・・


私はこの話を書くことはなかったかもしれない。


それがよかったのかどうかはわからないが

人生狂った? よなぁーと苦笑いをする。    





来た道を戻ると、すぐそれが目に飛び込んできた。

あれに違いない。

今にも駆け出したい気持ちを抑えて、ゆっくりと歩いていく。






甲子園 素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)。     ( ※スサノオ神社というのは全国あちこちにあるらしいです。 )

厳密にいうと球場内ではなく、隣接する場所に建っている。




ドキドキしながら鳥居をくぐる。





水場のすぐ近くには 「夢」 と書かれた野球ボールがバッドで囲われた台の上に載せられている石碑が。




境内の感じ。




神社の方に、まずいわれをお聞きしてみると(ご本人撮影許可済み)、ご神体は 「古事記」 に出てくるスサノオノミコト。

ヤマタノオロチを退治し、その尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を姉である天照御大神(アマテラスオオミカミ)に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなるなど

力強くて英雄としての誉れ高いことから

甲子園球場を本拠地とする阪神タイガースファンや、甲子園に憧れる高校球児たちに支持され、祈願される神社としても有名だそうだ。


26年前の1991年、春のセンバツ野球大会に悲願の出場を決め、ここ甲子園の地にやってきた信州松商学園高校。

初戦、鈴木一朗(現メジャーリーガーのイチロー)擁する愛工大名電(愛知)を破り、

二回戦を奈良の天理と戦うことになった4月1日の朝、松商OBの宮坂真一氏がホテルの中原監督が泊まっている部屋を尋ねると、
中原が 『甲子園駅構内にあるナントカいう神社』 のお札を床の間に挙げ、一心不乱に拝んでいる。

「今日、エイプリルフールに起こった出来事は嘘かもしれないが、明日の朝、“松商、天理を破る” と新聞に出るニュースは本物だよ。」

中原は天理に勝つ気でいるのだ・・・

神がかっていた。

恐ろしくなった宮坂は、そっと部屋を出た。


と私は、10年前に発行された自著書 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 の中で書いた。


その神社が本当にあるのかずっと知りたかったのだが、若干聞き間違えていたようである。

( 早く訂正しなくちゃ。  知ってた人、間違ってるっておせーてよ、もぉ~~~  )




沢山のお守りや絵馬などが売られていたが、ここは監督と同じお札を買わなくては。    

と思い、



いや、監督のはもっと高いのだったかもしれませんが・・・

お札とご朱印を。




神社のいわれを書いた紙と、甲子園のツタで作ったというお守り(中身は秘密です)

それから、おみくじを一つ買いました。 (のちに載せます)




ご神前に、やっとここまで辿りつけたお礼と、それから本の執筆成就と売れますように祈願。    



せっかくだから絵馬も書こうかなと思い、左にある 「野球塚」 に



ボール型の絵馬を買い求め、本に関するお願い事を書き、吊るしてきました。   



『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 第三部を、無事書き上げることができますように・・・。

本ができるだけたくさん売れますように・・・。       



月曜日でお休みだったせいか、球場は静かで、それもまた、私にとっては感慨にふけるのに絶好の時間でした。

( 単なるマヌケ    )
 

今日この時に、ここに来れてよかった。



身の引き締まる思いで、沢山の想いを胸に秘めながら薄曇りの球場を後にしました。





 松商関連ニュースその7(後編)へ続きます・・・。      





 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』(Amazon Kindle版)  は、こちらで買えます。     

( 2006年、郷土出版社刊 の書籍は好評につき完売。絶版となりました。  )


1991年、悲願の春のセンバツに乗り込んだ “松商ナイン”。
無名のダークホースが次々と強豪校をなぎ倒し、優勝まであとひとつ。

エース上田佳範を擁し、甲子園に旋風を巻き起こした「山国の風雲児たち」。
彼らの手から、なぜ、優勝は零れ落ちたのか・・・。

その年長野県じゅうを熱狂の渦に巻き込んだチームの強さと魅力を、補欠を含む全選手に徹底取材。

さらにその15年後を生きる彼らの姿を描いた第二部も必見。
「それぞれが主人公である」球児たちの光と影を追った、著者初めての渾身のドキュメンタリー。

書籍発売から10年、あの感動がついに電子書籍化されました!!

夏の甲子園で球史に残る延長16回を四日市工業と戦った劇的な幕切れの瞬間、
“あの”イチローやゴジラ松井とも戦った名場面など、秘蔵写真も満載。


野球ファンはもちろん、そうでない方にもお楽しみいただける 「人生ドラマ」 です。


まだお読みでない方は、ぜひお買い求めいただきますよう、よろしくお願いいたします。


 書籍の評価はこちら。
猫田ジャレHP 『なんとなく、イナカタル』 より、 書籍ページ


 第三部とは、 「電子書籍化」 に当たり、書籍化よりさらにその10年後を生きる選手たちの姿を

H3のみならず、続けて3年間甲子園に出場し、今でも毎年監督中原の元に集う下の2学年のチームを含めて、
丸一年をかけて総勢40人以上に取材を行った 著者渾身のドキュメンタリー第二弾 

ただ今執筆中       

乞う  ご期待ください      












松商・取材関連ニュースその6.

2016年12月29日 | 松商、中原監督 関連
 関係者の皆さま、大変長らくお待たせしてしまいまして、申し訳ございません・・・。         



 「松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~」
第三部 『 25年目の真実~すべての道はつながっている~ 』 (仮題)  
( 書籍発行から10年、
あの年の快進撃より25年の時を経て “現在(いま)を生きる” 選手たちの姿を、
H3メンバーとその下の2学年も含めて精力取材した、著者渾身のドキュメンタリー 「第2弾」  )

は、取材人数が40人もの多きにわたり、思いのほか時間がかかってしまったこと、
その間に当方の単発行事や、1か月半にも及ぶ親の家の片づけが緊急を要して入る、などの事情もあって
執筆に取り掛かるのが大幅に遅れてしまいました。             


ですが頑張って、なんとか来年、2017年 球春到来春 (3~4月) の発売を目指します    


皆さま、応援よろしくお願いいたします。           



   表紙デザイン(仮)決定     


 『25年後の選手たちを追う旅』 (ネコタの取材日記    


 取材 第六弾 は、8月後半~9月以降に会った方々をまとめてご紹介します。



 8月22日 H4、下村 誠 君。

現在、下伊那郡にお住まいなのですが、なんでも亡くなられたお父様のご実家が開田高原で、ちょくちょく行くことがあるから、とのことで
お休みの日のこの日、わざわざKまでお越しくださっての取材となりました。      

そして、野球で土日が埋まることが多いため、今日はお母様を買い物がてら外に食べに連れて行く約束をしているので、とお昼も辞退されて帰って行かれました。

心優しい親孝行の下村君、貴重なお時間を割いて、わざわざお越しいただき、どうもすみません & ありがとうございました。


 8月27日 H3、 小口 康生(やすお) 君。

現在地元市役所の観光課にいるため忙しいとのことで、取材が伸びに伸び、やっと会ってもらえましたが、この日は下の息子さんの野球の日で、
その練習試合中の合間を縫って、抜け出してきてくれての取材となりました。

家族思いの小口君、お忙しい中、時間を工面してくださって、どうもありがとうございました。


 9月3日 H3、 中島 昭夫 君。

穏やかな中にも、確かな自信に裏打ちされた仕事への姿勢が、かつて名マネージャーとして中原監督からも信頼されてきた当時のままの姿に、こちらの身も引き締まる思いでした。

大阪に単身赴任中のところ、帰省の合間を縫って、わざわざお時間を作っていただきまして、どうもありがとう & すみませんでした。


 9月22日 H3、 安藤 健司 君。

仕事が忙しいのと、息子さんがバスケットをしているため土日も埋まっているとのことで、最初はメールでとおっしゃっていたのを、
できればお会いしたいのでと食い下がり (笑) やっと時間を作ってもらいました。

そして、やはりお会いできて本当によかったです。  どうもありがとうございました。


 10月20日 H3、 丸山 雅治 君。

丸山君も、仕事が忙しくて伸び伸びになっていたところを、やっと会ってもらえました。
この日も午後から仕事だとのことで現場へ直行、貴重なお時間をさいて会っていただきまして、どうもすみませんでした。

10年前はまだお一人でしたが翌年結婚され、なんと、3人のお嬢ちゃんのお父さんになってました。
おとうさん、ガンバレ  


 10月22日 H4、 宮澤 太一 君。

宮澤君も休みが不規則なのと忙しいので、取材は、ボクはいいですよ~(ニコニコ) とおっしゃるのを、そこをナントカ  と食い下がり、
しつこく言い続けて気長に待ち、やっと会ってもらいました。

そして、やはりお会いできてよかった、のひと言です    本当にありがとうございました。   


 10月27日 H3、 花岡 忠 君。

実は一度急な都合で流れていましたが、この日上京する予定があったので、もう一度お時間を作っていただきました。
本を読みなおしてみたところ、シャイな花岡君、本が出た時点で、15年前 (1992年) も最後の方でやっと会えたけれど、今回 (2006年) も最後の方でやっと会えたと書いてありました。
今回 (2016年) もやはり最後の方になってしまい・・・、一人心の中で、同じだなぁ~と苦笑いしました。

シャイでナイス・ガイな花岡君、お仕事中のお昼休みにお時間を作っていただきまして、どうもありがとうございました。



これで、予定人数、当初の40人のうち、 38人の取材が完了 しました。

メンバーの皆さま、ご協力ありがとうございました。   



 本日12月29日は、毎年恒例の 『松商学園硬式野球部 H3~H5 3学年合同忘年会』 の日で、松本市内の某ホテルに泊まりがけで皆さんが集っています。

ネコタは昨年お邪魔させていただいたのですが、はじめはH3の方々のみ、最初の書籍発行より10年後のメンバーの皆さんの現在を、ほんの少し書き加える程度のつもりでした。

それが、何度も言いますが・笑、昨年の忘年会H3幹事、小口君の
「3学年の忘年会に来るんだったら、下の学年の話も聞いてやってくれよ。」 の一言から、

ネコタの、3学年、総勢40名近い方々への 『25年目の真実を追う旅』 がスタートしました。


当初は、それは最もだけれど・・・実際問題として、果たしてできるのだろうか、

の、心配をよそに、ほぼ初対面に近い下の学年の方々、会う人会う人みなさん、とても魅力的な方々ばかりで

もちろん、甲子園だけがすべてではありませんが・・・

やはり、3学年続けて甲子園に出場したような人たち (この場合、レギュラーとして実際に試合に出ていたかではなく、チーム=学年としての総合力的なものを指します) というのは、何か違うものだなぁと思った次第です。


H3の方々は、もうすでに何回もお会いしていますが、下の学年の方々は、忘年会の時を除けば、取材の時にほぼ一回のみ、

もう一度お会いしたいなぁ、会えるとしたら忘年会がチャンスかも、    
忘年会でしか会えない人もいそうな気もするし・・・

と、今年も忘年会にお邪魔したいという衝動にもちょっと駆られましたが、


皆さんの年に一度のお楽しみの会に、発行が伸びてしまったからと、そう度々赴いて邪魔しても申し訳ないと思ったのと、

40人近くの方々にお酌して回ったとしても、おそらく時間内には全員終わらないだろう、
そうするとまた、ご挨拶できなかった方に申し訳なかったという心残りや悔いが残るので・・・

ここは心を鬼にして控えるべきだろう、と判断いたしました。


なので、

忘年会には、H3の今年の幹事、青木君に差し入れをお送りし、お手紙の代読と今年の写真撮影をお願いし、

メンバーの方々へは、 『取材のお礼と発行延期のお知らせとお詫びハガキ』 を一人一人に書いて郵送しました。
( 昨日昼頃に出したので本日中には届いていると思います )


今頃は、2次会?3次会? で盛り上がっているころでしょうか?


年が明けましたら早々に執筆に取り掛かりたいと思います。
( 取材しながら並行して書く、というよりは取材をだいたい全部終わらせてから一気に書き上げたいタイプなので。 )

また、取材辞退された方もいらして、別の方の取材が決まったり、忘年会後に何か変化があるかもしれません。


下の学年に関しましては、H4は成澤君、H5は深澤君に、引き続き連絡係 (パイプ役) をお願いしました。   


電子書籍がめでたく発行となり、来年のシーズンオフには、 「出版お礼の会」 などできたらいいなと思っておりますので、
その時に皆さんにお逢いできたらいいな、と思います。


それにはまず、ちゃんと書き上げることですよね。





ただ今6冊となった 『取材ノート』。(一番右端の7冊目は今後の方用)

膨大な量で、これを解読できるのは私だけ、な書き殴りですが・・・    

皆さんたちの写真を見ていると、不思議とどなたか、ちゃんと特徴を持って思い出せるのです。(集中力が対象にだけ、極端に発揮できる人)

ただし、 「声」 までははっきりとは思いだせないので・・・
ノートに書き留める派なんですが、録音しなかったことが悔やまれないと言ったら嘘になります。(これだけ時間もたってしまいましたし)


ですが、描き分けられる自信はあるので・・・      

頑張ります。   


どうぞ皆さま、温かい目で見守りつつ、応援していてくださいませ。   

よろしくお願い致します。    




  『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』(第一部、二部)  は、
既に 「Amazon kindle」 より電子書籍として発売されております。

お買い求めいただけましたら幸いです。


また、最初に出た書籍についての詳しくは、

 著者 田中玲子HP 『なんとなく、イナカタル』 <仕事>  もご参照ください。

よろしくお願い致します。