ご報告が大変遅くなってしまいましたが、
去る5月25日、所属する信州児童文学会において1988年~2006年という18年間の長きにわたって第4代目となる会長を勤められ、現在は顧問であられた 宮下和男先生が88歳(満87歳)にてご逝去され、
5月28日に先生の地元飯田市にある 「アイホールいとう」 にてご葬儀があったので参列させていただきました。
長年教職にあられたこと、信州や伊那谷の児童文学に貢献されてきたことなどから会葬人数の多いことが想定され、ご葬儀の前にお焼香だけの席が設けられ、その後ご葬儀。
現信州児童文学会会長(第7代目、2013年~)の和田登先生、第3代会長(79~87年)で現顧問の高橋忠治先生、現信州児童文学会副会長で黒姫童話館館長の北沢彰利さんなど、さすが文学を書いていらっしゃるだけあって、ツボと泣きどころを押さえた名文に感心、感動させられた弔辞が続きます。
中でも、宮下先生と古くから親しいご友人関係でもあられ、夏の会にはいつでも両ご夫婦でいらして奥様ともども仲の良かった高橋先生の、さすがは詩人であられる語りかけるようなお言葉が、先生の凛と響く朗々たるお声で読み上げられた時には、所々で号泣してしまいました。
ほか、宮下先生のご学友でもあられる信州大学教育学部第一期生の方、元同僚であられる教職員の方などが、やはりその道の方々らしい心に沁みる弔辞を読まれました。
しかしながら、総勢10人(組)もの弔辞の中でも一番印象に残ったのは、宮下先生の4人のお孫さんたちと、そして宮下先生より数年前に先に亡くなられたという実の弟さんのお孫さんだという中学生の少年の弔辞には、本当に心温まる気持ちがして感動しました。
私は実は、大人のご葬儀の際に子供が弔辞を読むというのを始めて見たのですが、
宮下先生が私達文学を志す仲間から慕われ愛されていただけでなく、お孫さんたちを本当に可愛がり、お孫さんたちからもとても慕われていた 「優しいおじいちゃん」 だったのだという事がものすごく伝わってきて、微笑ましい、暖かい気持ちになりました。
(上、本年度に発行された 『信州児童文学会創立60周年記念誌』 より表紙、宮下先生のページ。以下、写真は総て同誌より)
宮下先生との出会いは今をさかのぼること10年前、
私が生まれて初めての著書 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 を上梓した2006年の夏、日本児童文学者協会と信州児童文学会に入会させていただいたのですが、
たまたま信州の会はその年が創設50周年。
10月14日に信濃町にある黒姫童話館にて50周年の記念式典と、夜には場所を移して泊りがけのお祝い交流会が催されたのですが、おそらくお送りしてあった本を読んでくださってのことだと思うのですが、お会いしてすぐくらいの、まだ私という人物をほとんど知らないのに、
「『とうげの旗』という会が発行している読み物雑誌があるのだけど、その中に子供たちを取材して書くページがあって、今私がやってるんですけど、いずれはそれを猫田さんに任せたい。」
というようなことをおっしゃっていただき、本当にびっくりしました。
その時はまだ 『とうげの旗』 という雑誌自体を見ていなかったこともあって何だかよくわからないながらも、そんな大事なものを本当にまかせていただけるのだろうかと、驚きや喜び、戸惑い、そしてなぜか、まさかね、聞き間違いかも、ともちょっとだけ思ったものです。
( 50周年記念の親睦会の翌朝。東京からわざわざお祝いに駆けつけてくださった童話作家松谷みよ子先生も信州の会5代目会長を務められたはまみつを先生も既に鬼籍の人となられました )
そのお話がいよいよ本当のことなのだ、とわかったのは、たぶん2007年か2008年頃に、その担当ページ(「スポット」というのですが)を引き受けてほしいと宮下先生から直接お電話をいただいた時でした。
本来ならとても喜ばしいことで二つ返事でお引き受けしたいところなのですが、その時私は体調を崩していて、とてもお引き受けできるような状態ではありませんでした。
それで宮下先生には、大変嬉しい気持ちはあるのだけれど、今は体調が悪くてとてもお受けできないのだということを病状とともに正直にお話しし、
いずれ体調が回復した時に、もしもまだ後継の方が決まっていないようでしたらその時は喜んで引き受けさせていただきます、とお伝えしました。
そうしましたら、後継の方が見つからなかったのか(笑)見込んでくださったのかはわかりませんが、その一年後くらいにもう一度宮下先生からお電話がかかってきて、 「『スポット』のあとを引き受けてくれないか。」 とおっしゃってくださったのです。
一年間待って、再びお電話をいただいたことの嬉しさと申し訳なさ、丁度その頃、少しずつ病気が快方に向かいつつあるのではないかと思いはじめていたことなどから、これはもう、お断りしてはいけないのではないか、との思いから、正直まだ完全ではないので自信はなかったけれど、「スポット」のお仕事を引き受けさせていただく決心をしました。
詳しいことはいつか書くので省略しますが、病気回復への大きな糸口となったのだなぁ、と思えることがあって、
それは15年ぶりに人生2度目の参加をした 「アルフィーのコンサートとアルフィーという存在」。
そして、「スポット」 を担当させていただけたこと。
その二つが大変大きかったのではないかと思っています。
「スポット」 により書く場所を与えていただき、それにより、私の書いていかれる道、自分の存在できる場所を与えてもらった。
「書くこと」 が、その時も今も私のすべてなので、
アルフィー と 「スポット」(その場を与えてくださった宮下先生) は、まさしく “命の恩人” だと今でも思っています。
毎年8月初めに開かれる会恒例の 「夏の会」(一泊二日の観光、交流も兼ねた勉強会) に初めて参加したのは50周年の翌年2007年。(2006年は秋に50周年記念式典と交流会があったため夏の会がなかった)
実はこの時すでに体調が悪かったのだけれど、自分にとって入会後初めての夏の会だったことや、なんとか病気回復の糸口をさぐりたくて参加しました。
(はま先生ご所望の白鳥ボートに乗ったり会自体は大変楽しかったのですが、体的には結構しんどく、暗中模索は続きました。写真は笑っていますが表情が今一で薬のせいなどで過去最高に太っていました・笑)
2009年の夏の会は浅間山の麓にある 「あさま山荘」。
『とうげの旗』 は季刊で、 「スポット」 を担当したのはその年の秋号からでしたので、まだ雑誌になったのは一冊、取材も2冊分くらいしかしていなかったのですが、
「スポットは大変やりがいがある。やらせていただけて嬉しい。ずっと担当したい。」 などと懇親会で勢い余って豪語しました。(笑)
翌日横浜へ飛び、アルフィーの、私にとっては最初で、最後となった “野外の” 夏のイベントに初日の一日だけ参加しました。
そんな風に “正に水を得た魚、この場所は誰にも譲りたくない” と思っていた 「スポット」 でしたが、
少子化や時代の波に押され購読者数が激減した “親子で読み合う雑誌”『とうげの旗』 は財政難から廃刊を余儀なくされ、信州児童文学会の会員は、新たな発表の場を探るべく、廃刊に至るまでの2年間を故はまみつを先生を会長(当時)に、協議を続けました。
『とうげの旗』 は、子供達に直接届くものではない、同人誌として再々スタートする (創設当時はその形態、第2期が子供に届く雑誌なので第3形態になる) という案がほぼ決まりつつあった、翌年の春号を最終刊として迎える前年2011年の夏の会。
その時の話し合いの様子や、その後のことは、私にとって決して大げさではなく、あらゆる意味で生涯忘れられない日となってしまいました。
詳しいことは書けないのですが、私は発言を求められるままにつぃ言ってしまったことを後々まで後悔し、その言葉を受けてだと思うのだけれど、宮下先生が発言された言葉も、今でもはっきりと覚えています。
その後自分は3月の総会や夏の会から遠ざかってしまったので、図らずもこれが宮下先生に生前お会いした最後となってしまいました。
(2010年6月「はまみつをの童話の世界展」を開催し、その後大町で開かれた夏の会に出席されたのを最後に2011年2月にはま先生が急逝された、その年の夏のことです。)
ここ何年か体調不良のため、開催地が長野市と遠いこともあり3月の総会、懇親会、夏の会にも出ていらっしゃらなかった宮下先生ですが、
昨年は先生の地元飯田支部担当で開催されたので、宮下先生も久しぶりに出席し講演会をされるご予定でした。
私も、宮下先生がいらっしゃるなら久しぶりに参加してみようかな、と思ったのですが、日程が合わず断念しました。
ところが後で聞いたところによると、何としたことか、その直前に宮下先生はご自宅で転倒され入院、講演会は幻と終ってしまったのです。
その後宮下先生は入退院を繰り返され、今年5月23日に肺炎で入院され、残念ながら25日にお亡くなりになってしまわれました。
第1回日本児童文学者協会新人賞に選ばれるなど、輝かしい経歴と沢山の著書をお持ちの宮下先生ですが、
それよりも、特に会長職を辞されたのちの近年に、度重なる病などに悩まされながらも、
231枚からなる自伝的長編小説 『分教場ものがたり』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第6号-2014.2.25発行:掲載)
『里山少年期・続分教場ものがたり』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第12号-2016.7.25発行:掲載)
評論 『椋(むく・椋鳩中のこと)文学の源流をさぐる』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第10号-2015.6.25発行:掲載)
著書 『炎は踊る―手づくり花火の里阿智村清内路』 新葉社刊 (2010/09)
信州阿智(あち)村清内路(せいないじ)で毎年秋祭りに打ち上げられるという、この地に280年も続く伝統の手作り花火。
他の地域では見ることのできない幻想的な手作り花火がどのようにして守られてきたか、その魅力と秘密を宮下先生の精力的な取材により見事に結実させた一冊。
また巻末には自作の童話4編も収録されている。
など、精力的に執筆されてきたお姿には頭の下がる思いです。
私は、あの日つい本音を口走ってしまったこと自体はとても後悔しているのですが、
それがどう取られるかは別として、大変生意気ながらも、自分の思っていることが間違っているとは今でも思ってはいません。
(というか、人はどうであれ私はそのスタンスをめざし貫きたいと思う)
それでも、私を見いだしてくださって、書く場所を与え、育ててくださった宮下先生には今でもとても感謝しているし、そのご恩を忘れることは生涯決してありません。
そして、あの日宮下先生がおっしゃったお言葉と、
先生の 「書くことへの情熱」 と、ご立派なお姿、姿勢も生涯忘れることはないだろうと思います。
今更遅いかもしれないけれど、先生への謝罪と感謝の気持ちを込めて、遺影に深々と手を合わせ、
もしも償えることがあるのだとしたら、
これからも、私のやり方で、私の言葉で書き続けること、それしかないのだと
誠に勝手な解釈かもしれないけれども、宮下先生がそう、私に書け、と言ってくださっているような気がして、
このたびの先生のご訃報は、誠に残念ながらも、たいそう身の引き締まる思いがしたことです。
宮下先生の朴訥な風貌、飄々としたユーモラスな味わい、暖かいお人柄を表すかのような、お心のこもった暖かいご葬儀でした。
宮下先生が、まさしく身を削るようにして書いてこられた、 『とうげの旗』 に掲載された 『分教場ものがたり』、『里山少年期・続分教場ものがたり』 は、
『里山少年たんけん隊』 として、来月ほおずき書籍出版より刊行されます。
発売を待たずに逝かれたことは、誠に残念でなりませんし、今となってはまるで遺言状のような書籍ですが・・・
きっと本の中で永遠に、宮下先生は生きておられるのだなぁと私は思います。
死した後も作品として、作品の中で生き続けること。
それこそが、書く者みんなの願いです。
『里山少年たんけん隊』刊行準備会事務局 代表人 北沢彰利さん のフェイスブックに載せられた、本の表紙写真と校正原稿。 (北沢さんの承諾を得て掲載)
ご葬儀の際配られたご本の注文書 (私もその場で記入、申込みしてきました) の裏に掲載された、亡くなられた後に発見されたという宮下先生直筆の 「本のあとがき」 は、ご病気のせいか行がやや曲がっているけれど、先生の几帳面な文字で埋め尽くされていて、胸が熱くなります。
下お二人は本のご推薦人の方々です。
5/30 新聞『南信州』 に掲載された、北沢彰利さんが寄せた宮下先生の追悼記事。 (北沢さんの承諾を得て掲載)
【 追記 】
『とうげの旗:155号』(写真右端) の 「スポット」 は、飯田市立動物園に行きました。
読者から募った、名所めぐりにいっしょに参加してもらう “子ども探検隊” というのを自分で考案し企画したのですが、
その第一回目だったので、飯田市と周辺にお住いの 宮下和男先生 と 第14代「とうげの旗」編集長を務められた 北原幸男先生 にお願いして、ご自身のお孫さんやその友人たちを誘って、内緒で参加してもらいました。
(後列左端が北原先生、二人目が宮下先生ですがお名前は明記していません)
うっかりして調べ忘れていたので、ご葬儀の時に宮下先生のこの時参加された内孫さんとお話ができず、あとから残念に思った次第ですが
この時、訪問場所が動物園だったので、自分も動物や子供たちとも触れ合えたことでとても楽しかったこと、
また、宮下先生に自分が企画した 「子ども探検隊」 の様子やその後の記事を読んでもらえたことがなんだかとても嬉しくて、今でもとてもいい思い出です。
「スポット」 での取材は、もちろん大変な事もありましたが、どの場所も、そこで頑張っている子供たちや大人も魅力的で、とても楽しくかかわらせていただき、本当にやりがいのある、どこも大変に思い出深かったです。
私が3年間担当した記事は
こちら
HP「なんとなく、イナカタル:仕事」 『とうげの旗:スポット』 で読めます。
宮下和男
1930年、長野県飯田市生まれ。
信州児童文学会第4代会長。顧問。 元日本児童文学者協会会員。元飯田女子短期大学教授。
信州大学教育学部卒業後信州児童文学会に入会。長年にわたり国語と音楽で教鞭をとりながら児童文学を精力的に書き続ける。
1968年「きょうまんさまの夜」(福音館書店)で第1回日本児童文学者協会新人賞。
主な著書に「ばんどりだいこ」(ポプラ社)、「しかうちまつり」(大日本出版)、「春の迷路」(ほるぷ出版)、「少年の城」(岩崎書店)、「落ちてきた星たち」(岩崎書店)、「少年・椋鳩十物語」(理論社)、「野生のうた・椋鳩十の生涯」(一草舎)等、多数。
自身の執筆、研究の傍らで後進の指導にも当たり、多くの童話作家を育てた。
2006年には、信州児童文学会が発足して50年、児童文学誌 『とうげの旗』 を発行し会員の創造的活動を通して長野県内での児童文学普及に努めたことにより 『第13回信毎賞』 を受賞。
授賞式に出席された、信州児童文学会の先生方。
(前列左から北原幸男、高橋忠治、宮下和男。後列左から羽生田敏(はにゅうだ さとし)、和田登、はまみつを諸氏。敬称略)
前列左から三番目、晴れやかにブロンズ像を手にしておられる宮下先生。
ご自身の長年の夢であった
「この賞を取るために長いこと会長職を続け、アピールし続けてきたんだに?」 という柔らかな飯田訛りが、今でも聞こえてきそうです。
改めまして、宮下和男先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
※ 「信毎賞」 とは長野県下の文化・社会・教育・産業・スポーツなどに貢献し実績顕著な個人、団体に贈り県民文化の発展に寄与することを目的とする賞で推薦委員会などの推薦に基づき、審査委員会が審査し、信濃毎日新聞社社長・信毎文化事業財団理事長を会長とする表彰委員会が決定する。
正賞にはブロンズ像と副賞(賞金100万円)が贈られ、毎年信濃毎日新聞創刊記念日(7月5日)に贈呈式をおこなう習わしとなっている。
【注】
その他
『信州児童文学会50周年記念誌』
信州児童文学会会員 原田康法氏ブログ
『美和の里児童文学館』(宮下和男先生のページ) 等も参照させていただきました。
深くお礼申し上げます。
唯一私が所有している宮下先生のご著書 『春の迷路』(1982年 ほるぷ出版)。