猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

やったねっ! 御嶽海、十両昇進!!

2015年05月29日 | 御嶽海、相撲
少し簡単すぎたので大いに反省して、昨日UPしたものより、写真増量、大幅に加筆しました 
もう一度お読みいただけると幸いに存じます。  




 


大相撲夏場所 (五月場所:平成27年5月10日(日)~ 平成27年5月24日(日) 於:東京両国国技館) を終えて、

5月27日の番付編成会議にて、御嶽海(22)=本名大道久司の十両昇進が決定しました。

幕下十両目格付けスタートで、今場所は幕下3枚目、2場所で十両昇進というスピード出世は、遠藤や逸ノ城らに並び11人目となる 最速記録 すごいにゃ。  
長野県からは1968年秋場所の 大鷲 以来47年ぶりの新十両となりました。
( 今場所の成績は6勝一敗。デビューしたての春場所も6勝一敗で、これで2場所続けての勝ち越しを決めました。 )

これで晴れて 「関取」 となりました             

おめでとうございます     



写真は 上が 「日刊スポーツ」 (5/28最終面-Fresh!信州 より)

下が 「市民タイムス」(5/28一面)  出羽海部屋前でガッツポーズをとる御嶽海。

手に持っているのは 信州のマスコット 「アルクマ」。
(信州名産のリンゴをかぶったクマさんで、アルプスと歩くをかけている)

十両昇進の決まった27日は、くしくも昨年9月27日に発生した地元 「御嶽山(おんたけさん)」爆発 から、ちょうど8カ月に当たる日で、
「何か運命のようなものを感じる。木曽だけでなく、長野県全体が元気になってくれれば。」

と、自分のしこ名 「御嶽海(みたけうみ)」 とのつながりを言葉にした。

     

同日市民タイムス 地元も大賑わいです  右写真は、十両昇進ニュースをネットで知り喜ぶ御嶽海のご両親。 

写真右は 5月25日 「信濃毎日新聞」 で、24日に勝ち越しを決め、両国に応援のため駆け付けたご両親と、十両昇進への手ごたえをつかみ喜び合った。
下は、その様子をTV観戦して勝利を喜び合う、御嶽海もかつて通った 「木曽町少年相撲クラブ」 の子ども達。



『挑戦』 という欄にて、毎日のように御嶽海を追っていた 「信濃毎日新聞」 は、この日も一面に。(5/28)

下の写真は、小学校のころ、毎日四股を400回踏み基礎体力を養っていたという、自宅庭一角にある庭石を見せる、父・大道春男さん(66)。



同、中南新版。 
写真真ん中は、27日夜に御嶽海の出身地 上松(あげまつ)町で開かれた 「祝う会」 に出席し、子供たちから花束を受け取る 父・春男さんと母・マルガリータさん(45)。

「皆さんの子どもだと思って応援してください。」 と春男さん。

厳しい父と優しい母に育てられ、自分には反抗期というものがなかったと御嶽海。
指導された先生や、相撲クラブ同期によると、御嶽海はまじめで練習熱心だったという。



同、スポーツ面。出羽海親方と昇進を喜び合う(写真上)。

下は、御嶽海のこれまでの歩み。



  

5月28日付 「市民タイムス」 で、街の公民館2Fバルコニーに、横断幕取付中の町職員  今日通り掛けに見たら、より目立つのに代わってました。   
(ネコタ撮影・なぜかかすみがかってますな  



最近、歴史好き女子= 「歴女(れきじょ)」 が流行りみたいですが・・・

「相撲女子」、「スー女」 なるものが秘かにブームとか   へ~え、中々しぶいですな。 

いろんなファンの方がいらっしゃるのですね。
でも、オッサンや年配の方ばかりより(笑)、若い女の子たちに囲まれ黄色い声援を受けたら、そりゃぁ、お相撲さんも嬉しいですよね・笑。

信濃毎日新聞 「週間:写真ジャーナル」 より。
友人M氏(写真、文) は祖父の代から三代続いた “筋金入りの” 相撲ファンだそうで、色んなことをとてもよくご存知です。
もちろん、仕事柄、他のスポーツや各方面に詳しいのですが、とりわけ相撲について語るアツさは、この記事の女子以上です。(笑)

あ、彼女たちのお目当ては、またちょっと違うのかな。 

最近 「和」 がブームなのでしょうか。

ニッポンの古来からあるものは、やはり趣きがあってよいですね。





 おまけ・・・



上松町本町通りで文房具店を営む原英紀さん(72)は、今場所より、交差点の信号待ちからもよく見える、店頭の目立つところの表窓ガラスに、自作の 「星取表」 を貼ったり、
御嶽海が東洋大4年でアマチュア横綱と学生横綱の2冠を達成した記念に、ワープロで 「優勝おめでとう」 と書いた幅30㎝、長さ1.2メートルの自作の 「懸垂幕」 を印刷し、町役場、商店街、小中学校に100枚以上配ったのが始まりで今も続く、懸垂幕作成と配布、などで応援するとともに、地元を盛りあげているという。(信濃毎日新聞・5/19)
なかなか、個人でこれだけのことをするのはすごいです。  


そして・・・
御嶽海の生まれは隣りの上松町ですが、小4より通った少年相撲クラブと、出身である福島中学、木曽青峰(せいほう)高校の所在地である、我が木曽町のあちこちの店頭には、御嶽海を盛り上げ地元を活気づけようということで、こんなポスターが。
( 以下の写真は4月に撮ったものです。 )



M陶器店



S自動車整備



O商会(自動車整備販売)  車の中からパチリ・・・



郵便局 (ただ今、外壁等を改装中です)



そして、我が店頭にも一枚もらってきて貼りました。
( どこでもらえるのかなぁーと思って教育委員会に聞いたら、現在品切れで印刷中?とのことで、後日町内在住でちゃんこ店経営の、木曽相撲連盟会長の植原延夫さん(75) が、直々に持ってきてくださり、えらく恐縮してしまいました。どうもありがとうございました。  )



これは、Mさんがゴールデンウィークに、取材帰りにチラと店に寄ってくれた時、撮ってくれたものです。

ひゃー、私の方が関取みたいだぞっと   はずかしー。 

Mさんはこの春から、再び松本支局に来られたそうで、またKで取材があれば、たまには寄ってくれることもあるのかなぁ~、なんて。
何だか近くなったとゆーだけで嬉しいです。 

なんつーか、店と家を往復するだけの毎日で、しかもKなので・・・ 

限りなく閉鎖的とゆーか、文化的刺激に飢えているので・・・。  
Mさんは、いるだけで 「文化の香り+情報」 を運んできてくれる、私にとって神様みたいな人です。
憧れの報道関係のお仕事だし・・・尊敬。   

しかも、開設当初よりMY・HPと当ブログをご愛読くださっているので、

なんて有難いんだぁ~         





【 注 】

 十両とは・・・大相撲の番付の一つで、正式名称は「十枚目」。
定員は東西14人ずつの28人以内で「関取」として扱われるようになり、本場所では幕下までは7番だった取り組みが15番に増え毎日組まれる。
その他、大銀杏を結うことや化粧まわしを付けることなども許され、付き人や個室もあてがわれるなど待遇に格段の差が出る。また、幕下は場所ごとに15万円の場所手当しか出なかったのが、十両以上の力士には毎月約100万円の月給が支給されるのも大きな違いである。

 木曽町で相撲が盛んになったわけ。
ネコタ高3の1978年に長野県にて開催された、第33 回国民体育大会・やまびこ国体の際、松本市が主会場であったが、競技により県内あちこちで開催され、木曽町(当時は木曽福島町)は 「相撲」 であった。
そのため、国体に合わせて町に客席や屋根のついた相撲場が作られたので、その後、それを生かすべく町少年相撲クラブができたり、町民相撲大会が開催されたのがきっかけ。
その後、木曽福島町町立福島中学相撲部が全国大会で優勝する(年度不明)など、相撲が盛んな街として知られている。
福島中学相撲部や木曽町少年相撲クラブの活躍などが、たびたびドキュメンタリー・ドラマとして長野県のローカルテレビでも紹介されている。

中学に相撲部が、また現在は木曽青峰高校に統合合併されたが、旧木曽山林(さんりん)高校 (林業科とインテリア科からなる県立の職業高校で、林業科のある高校は全国でも珍しく開校100年の歴史があった) にも相撲部があり、双方は歩いて行き来できるほど近くにあったので、かつては各相撲場を行ったり来たりして練習する子供たちが、その中間に位置するうちの店でたまに買い物をすることもあったように思う。
なので、幼少期の御嶽海ももしかしたら見たことがあったかも、ですが、何分にも子供で大勢で来るし、数年で代が変わるので、特に記憶にないのが残念。  

御嶽海~  
いつか横綱になって、 「思い出の場所」 とかいって、ぜひ尋ねに寄ってね。    

○○やのオバチャンも、頑張って応援するからね。 

御嶽海も、ガンバレ  











独断と偏見 & 職権乱用!? (マルちゃん・冷やしラーメン)

2015年05月27日 | J’s Favorite


冷やし中華は、 マルちゃんの 『冷やしラーメン』 に限る!! 

それも、生めんではなく ゼッタイに!! “インスタント麺” で、

ごまだれではなく、 “醤油だれ” でなければならない 

と思っているのだが、

最近、 スーパーから マルちゃんの 『インスタント・冷やしラーメン』 が 消えた      


インスタント麺だと、○清だったり、同じマルちゃんでも最近発売された 「丸ちゃん正麺の冷やし中華」 しかなく、

同じ商品だと、インスタントではなくて 「生めんタイプ/醤油だれ、ごまだれ各種・3食入り」 しか置いていない。

少なくとも、我が町のEとAではそうである。 (大きなスーパーが町に2つしかない)

これは非常に由々しき問題であり、それ以外の冷やし中華は、お店で出すちゃんとしたものでさえもイマイチ、という強い信念を持つ私は、(厳密にいうと母もそうなので、ネコタ家母娘は)

昨年、この商品はもう販売していないのかと思い、ネット検索してみる。

 果たして、販売されてました。

よほど1ケース注文しようかと思ったが、フト考えて、いつも店で売る食品やお菓子を注文している問屋に、同商品を扱ってないか問い合わせてみた。

 ありました、ありました    

この 「冷やしラーメン」 以前は店でも売っていたが、一度賞味期限を切らしてしまい、売れ残りを両親が冬にあっためて食べてたりして  エレー目にあったので、以来店では置かなくなった商品である。

 一度賞味期限を切らすと、物によっては置くのをやめるのが、当店の鉄則。
( ねりわさびとからし、板海苔、とんかつソースなど )

でも、どうしてもこの冷やしラーメンを夏には食べたいので、考えました。




じゃぁ~ん 

このようにですね、かごに入れて 『レジ回り商品』 にしてみたところ、

売れる、うれる    

( といっても、我が店での状況なので、以前と比べたら、とゆー意味ですが・笑 )

おまけに・・・



この、プライスカードに添えられた文句は、まさに 独断と偏見    

そして、自分が食べたいから入れる、とゆーのは まさに 職権乱用    

いーんですっ       

( みなさんも、騙されたと思って、ぜひ、食べてみてくださいね。   まぁ、好みは人それぞれですが・笑 )



それで、今年これを作成したのは、昨日ですが・・・

今日はまた、Kにしては バカあづい   コト    

そのせいか、よく寄ってくれるお客さん二人に売れちゃいました。 
( 一人はバラで2個、もう一人はバラで2個持ち出した後、こっちのが安いねと5Pの一個に替えました。 )

ほ~んと   こんなにあづい日にゃぁ、

冷やし中華が、 たべたぁ~~~いっ       

  ・・・   ・・・         


ぢ、ぢつは・・・ 

急に思い立って (またですかぃ 

おとといの “お昼から” ダイエットを始めたワタシ。 (また2、ですかぃ ) 

インスタントもの、そして糖質は、ダイエットの敵    


さあ、果たして、どーなるでしょうか・・・    自己流ダイエットなため、まだ全然効果出てないし・・・   

それより、

続くのか         今まで何度も挫折派。   三日坊主ならぬ、一日二日坊主。  



みなさん   

乞う、ご期待       

とりあえず、アイスは絶ってます・笑。 (甘いものは多少は食べてるが・・・ダメ 


まあね、今まで母の入院や退院、片付けなどで疲労やストレスがたまり食べまくり、ダイエットする気もなかったのが  
( 父にも頑張って乗り切ってほしいと思ったから、お昼に父の好きなカレー(レトルト)や、惣菜のカツやかき揚げを買ってきてカツ丼や天丼を割としょっちゅう作ってあげたり(もちろん自分も食べる)、たまにカップヌードルも食べてたし、夫の休みのたびに夫の作るラーメン(一応なま麺)が楽しみだったし。
仕事が遅いので、病院から戻った後で夜に食べるおやつには、クリームたっぷりのお菓子&調理パンを毎日食べ、夜食のような時間帯の夕飯にも、元気が出て疲れが取れると思って、大好きな 鳥の唐揚げやピザ、パスタなどを食べまくっていた。
 ちょっと凄すぎだけど 何しろ、頑張るためにはおいしいものを沢山食べることだったので。・・・仕方ないよね    )

ダイエット、する気になっただけ、マシってもんよね 

ねっ、 ねっ、 ねっ、       無理強い  



まだ、片付けは終わってませんが・・・   

いつも母の様子や片づけみたいな記事ばかりでは読むほうも飽きるので、また、片付けばかりだと自分も嫌んなるので、

忙中閑話でした。 



 おまけ・・・



畑で採れた 「みょうが竹」。  みょうがの子ども? よくわからない存在ですが、

とゆーのも、 「筍(竹の子)」 が育つと 「竹」 になるのですが、

みょうが竹 が育っても 「みょうが」 にはならないらしいので。

松の木の根元に生える松茸の様に、みょうが竹の根元にみょうがができるという説も・・・
( みょうが竹は土の上に生えるが、みょうがは土の中にできる )

また、一説によると、みょうが竹を取りすぎてしまうと、みょうががあまり沢山できないらしい。

写真右のものの、上の葉っぱみたいなところ(写真中)を取って、写真左のようにし、茹でてお浸しで食べます。

手間はかかるけど、なかなかおいしいです。 




こちらは 市販のものですが (畑のものは夏まで、まだ育ってませんので) 
なんとー   「ふたごちゃんのナス」 が入ってましたぁ~。 




アイス代わりの、無糖・無脂肪ヨーグルトの 「フローズンフルーツ」(果物の冷凍) 乗せ。

こちらは、生協で出している、ブルーベリー、ストロベリー、ラズベリーの入った 『ミックス・ベリー』 です。  
甘さが、ちょっとイマイチ。   

ダイエットの救世主  は、順次ご紹介しますね。  




本日のチョラチ  








母のその後 & 片付けその後・・・(^^;)

2015年05月19日 | その他 色々


日々の生活に追われ、庭を見る余裕もなかったのですが、
フト気づいたら、「金ぐさり」 がこんなに咲いていました。

もう何年も前に植えたけど、砂利っぽい場所だったせいか生育が悪く、なかなか房を付けてくれなかったのですが・・・

昨年秋にシルバーさんに庭木の剪定を頼んだせいか、こんなに花房を付けたのはたぶん今年が初めてです。 

感動     



こちらは、庭の入口当たりの 「コデマリ」。



つる薔薇もチラホラ咲き始め、やはり剪定効果なのか、つぼみを沢山つけてました。 



活けると、こんな感じ。 

下に写っているのは、今年も出ました  

K銘菓 「ほおば巻」 です。



その後母は、少しずつ台所もできるようになり、夕飯も私がそれほど用意しなくても母が何かしら作っているので、だいぶ楽になりました。

退院後の初受診後に、初めて買い物もしたと書きましたが、

今週日曜日に、同じ駐車場と店の入り口が近いAに、今日は駐車場から少し歩くEに、入院前に毎週のように行っていた、卵の安い 「火曜・夕市」 に、退院後に初めて行ってみました。

Eの方がスーパー内の通路も、会計後に買ったものを袋に詰めるカウンターもAより狭いので、母が他のお客さんのキャリーとぶつかったりしないか、ぶつかり所が悪くてまた骨折しても困るので、時々ちょっとひやひやして母の後をついて歩きましたが、何とか行ってこれたので嬉しかったです。

その他は、まだ本調子でないのか相変らずベッドで寝ていることが多いのですが、寝てばかりいてボケちゃうと困るので、たまに買い物に連れ出そうかと思っています。

幸い歩けるようになれたので、本当によかったです。

買いものから帰ると、杖を寝室に持って行きながら、
「もう家の中では杖がいらないので、玄関に置いといてもいいんだけどね」 なんて言ってました。


これだけ色々できるようになってきたので、もっとそれを喜ぶべきだと思うのですが・・・

時々思い違いをしていたりして、振り回される私はちょっと大変なこともあります。

近所の娘さんの話だと、一年ほど前におじいちゃん (その人にとってはお父さんに当たる人) が何か月か入院してたことがあり、退院してしばらくはボーっとしてたけど、ボケたんではなくて、そのうちに治るから大丈夫だよ、病院てとこはそんなふうになっちゃうとこだからねー、とのことでしたが・・・


2週間ほど前に、私がどんどん物を捨てちゃう、もうこれ以上やらないでほしい、私の家だ、と言って母が怒ったときに、

なんでもゴミ袋の中を見たら、自分が師範学校の時に、学徒動員で四日市かどこかの工場に奉仕活動に行ったことがあったのだが、何週間だか何か月の任期が終わりいよいよ帰郷することになった時にクラスメイトと伊勢神宮にお参りし、その時帰り道で売っていた 「地球儀」 を記念に買って帰った、その、大切な思い出の地球儀が捨ててあって切なかった

と言い張るのだ。

「え゛っ  あの地球儀は、私が小学生の時にお姉さんと私にって買ってもらったものだよ。嬉しくて、買ってもらった時のこともよく覚えてるもん、お母さんも学徒動員の帰りに買ったかもしれないけど、あそこにあるのは、それとは別のだと思うよ。」

と言ったのだが、絶対に違う、私が年を取ったから忘れるとかすぐに言うけど、あれだけは決して忘れない、自分で買ったのだ、の一点張り。

そんなはずないけどなぁー、どこかに証拠はないかしらん?

と思って、捨ててあった黒いビニール袋の中から地球儀を取り出してみると・・・

そこにはなんと 「教育地球儀 2500円」 というシールが貼ってあるではないですか 

戦時中 (せんじちゅう・第二次世界大戦の戦時下にあった時代をこう呼ぶ) に売っていたものに、こんな名称や値段はないわな、と確信したので、大威張りで母に見せると

さすがにそれは違う、と思ったのだろう。謝りはしなかったが、やっと間違いを認めたようで、ほんとだ、と言ったきり黙ってしまった。


ほとほと疲れたので、家に帰り夫に愚痴ったのだが、よく考えたら、 
「鬼畜米英 (きちくべいえい・戦時中、敵対国であるアメリカとイギリスは鬼、畜生であると言って国民の戦意をあおった)」 であった、国民の意識を教育的にも創りあげ、戦争へと駆り立てていった、あのものすごい戦時中に、 

「地球は丸い、人類みな兄弟」 みたいなことを思わせる 『地球儀』 というものを、学生が簡単に買えるような場所で、しかも当時としては非常に高価なものを、果たして売っていたのだろうか?

やっぱり、伊勢神宮に参った帰りに地球儀を買ったというのも、母の思い込みではないのかなーと思い、翌朝その話をしてみると、
「よく考えたら、友達が買ったんだと思う。私もほしかったけど、こんなところで買っても持って帰るのに大変だからやめて、友達が買ったんだね。」
とな。

そして、私が思い直して、ゴミの中から
「もしかしてお母さん、その時はこれをお土産に買ったんじゃないの?」 と拾い出した、相当古い 『二見ケ浦(ふたみがうら)の夫婦岩(めおといわ)という観光名所の壁掛け』 を差し出して見せると、

「私は、こういうものは買わないから、これは誰かにもらったんだよ。そんなものはいらないから捨ててもいい。」

だってさ。  

壁掛けはいらなくて、あくまでも 「地球儀」 が思い出の品だ、と言い張るところなど、いかにも母らしいと思ったものだが・・・  


その地球儀は、母と大喧嘩した記念? に、捨てるのはやめてきれいに拭いて、今、両親の寝室に飾ってあります。


  コレです 

そもそも、なぜ買ってもらった当時はとても嬉しかった地球儀を捨てようかと思ったかというと・・・
もうボロだし、あの当時とは国の名前などもだいぶ変わってきたから、これは処分して、いつかもっと新しくて、いかにも 「子供用」 みたいなものではない、インテリアにもなるような洒落たものを買おう、と思っただけなのだが・・・

そういう自分も、国名も変わった相当古い高校時代の 『地図帳』 を未だに愛用しているのだが・・・
( のちに中学時代のものはさすがに古いと思い処分し、3年新しい高校時代のものを、あの頃、世界史や日本史、地理などが大好きで、一生懸命勉強したので、その記念の意味もあって捨てられないのだ。単に間に合っていて便利なせいもあるのだが。 )




その地球儀には、 『月の地図』 がついていて、
1966年2月3日に、ソビエトの無人月調査機 「ルナ9号」 が、人類史上初めて 『月面着陸』 に成功したというので、日付と 「ルナ9号の着陸位置」 というのが、赤い点で描かれています。
(よく見ると、シールの左下に矢印と赤い点が見えます。)

1969年7月24日には、アメリカの月着陸船 「アポロ11号」 が、有人宇宙行の末月面に着陸、乗組員3人のうち2人が人類として初めて月面に降り立った。

1969年当時私は小学校3年生で、子供としては夜おそくまで “白黒テレビ” にかじりつき、その中継 (衛星放送) を見守り、 『月面着陸観察絵日記』 なるものをノートにしたためたほどで、当時の人たちにとっては、ものすごい画期的な、大興奮のニュースであった。
        

1966年のルナ9号の月着陸時は6歳、幼稚園年長だったので、あまり覚えていなくて、この、 「アポロ11号が月に降り立った」 というのを、ものすごくよく覚えている。

なので、写真の地球儀を買ってもらった時に、下の方に 「月の地図」 が半分だけとはいえついていたことと、地球を支える柱がロケットの形をしていたので、アポロ11号を思わせるようで、当時の限りない地球や宇宙へのロマンを駆り立てるものとして、大変嬉しく、飽くことなく眺めていたものだったことを、書いているうちにだんだん思い出した。


と・・・

そんな大事なものを捨てるなよなー、   

まさに、 怪我の功名  

記憶違いではあったが、もしかしたら母にとっても、子供に地球儀を買ってやった事 (つまりは自分の手に入れたようなもの) が自分でも嬉しくて、思い出の品だったかもしれなくて・・・

捨てなくてよかった。   

母に感謝である。


でもね、その次は、ベッド用のボックスシーツを買い、さらにその上に新しく買った夏用のさらっとしたベッドパットを敷いてあげたのに、

いいのだけど使っていると汚れるから、さらにその上からシーツをかぶせる (それも、和式の平織シーツを、私がパッドはゴムで簡単にはずせるから、汚れたら私が洗濯してあげるよ、和式の平織シーツは幅が足りないからベッドには向かないよ、と何度説得しても、私がそうしたいのに嫌なの? どうして? 思うようにやらせてよ ) と言い張ったり、

挙句、今まで使っていた敷布団の、羊毛パッドを敷いた下に、平織りのシーツがかぶせてあったはずだけどないから、私が捨てたんじゃないか (こちらも、結局母の思い違いで違う場所にあったのと、和式の平織シーツはベッドには使いづらいと自分でやろうとしてわかったらしく、しまいには折れたが) と怒ったり・・・

今日なんて、お昼に温泉卵を作ろうと思って、容器に確かにお湯を入れたはずだったけど、取り出して卵を割ってみたら生だったので、
そんなはずないと思うけど、こんなことは初めてだけど、もしかして水を入れたのかなぁー、とか。   


耳も聞こえづらいので、台所でヤカンでお湯を沸かしていて、湧いているのに気付かなかったり  水道の出しっぱなしはいいけど、火だけは危ないから気をつけてほしいのだが、あんまりいうと怒っちゃうし・・・
電話の音も聞こえないらしく、脚のせいではなく出ないので、色々不都合もある。
ラジオの音が馬鹿でかくて、私にはうるさすぎる・・・  ちょぃイライラ… 

それなのに、なぜか補聴器を入れようとしない。 


など不便もある。

温泉卵くらいではもう驚かないが、地球儀とシーツの時には大げんかになり、こんなに頑張ってるのに・・・    
と、片付けそのものや、人生さえもほとほと嫌になったものである。   

母だけでなく、両親ともに物忘れや聞こえ、その他もろもろ、老いて衰える機能に対して、もっと寛大な心を持たないといけないのかもしれないが、こっちも疲れてるし、中々むずかしいなぁー。  


今日はでも、午前中半年ぶりにバレエのレッスンに行ってきて、少しだけすっきりしたので、だいぶ気分がいいです。 

片付けは、クリーンセンターも3度行って、第一段階を突破したのと、途中で母と揉めたこともあり、ものすごく疲れたので、続きをヤル気がなくなり4、5日中休みをしたが、

新しい片付け場所に取りかかるたびに、ほんとに何から手をつけていいものやら途方に暮れ、溜息をつき、しばし座り込んでしまうほどのゴチャゴチャ加減なので、  そこまで母に言われたら、
「もう知らん やめた」   とよほどうっちゃりたい気分になるところを、
今、頑張ってやらなければずっとやらないことになるから、ここは何と言われようと頑張らなくては   
絶対そのほうがよくなって、最終的には使いやすくなったと母も喜んでくれ、ラクになるはず間違いないのだから    
と、今週日曜あたりから重い腰を上げて復活。 

今、8畳の、新しく寝室になった部屋に2間分もある押入れの大整理をしているのだが・・・

ほんとに大昔の古~ぃモノ、なんでこんなゴミみたいなものを取っておくんだろ、みたいなほこりまみれのものをどんどん捨てながら、

物を異様に大切にする両親から、どうして私のような子供が生まれたか不思議でしょうがないものである。   

私は、美意識に反するものは絶対に身の回りに置きたくないので、覚えておいでか、 「洗剤ボトル」 にまでこだわる人、なので・・・
( 「キティーちゃんのおそうじBOXなど」 2014年11月06日 | J’s Favorite  「キティーボトル、その後」 2014年11月16日 | J’s Favorite  などを参照 )

気に入るものをとことん探すか、目につくとこには置かずにしまうか、場合によっては処分してまで、徹底的に気に入ったもの、美意識が許すものを探し求める人なので、
そうして、
気に入った物に囲まれていること、気に入ったものを身に着けていること こそが幸せ     な人なので・・・

こんな私が、もったいない、まだ使える、あるもので間に合わせる、という両親と、合うわけがありません。    ・・・

おまけに、両親の家に置いてあるものは、40年も前に盛んに売られていた、花模様がついてるやつとか、変な色や形の安っぽくておしゃれじゃない、趣味も悪いプラスチックの容器や棚など、申し訳ないんだけど私からすると美意識に反するものがほとんどで、しかも整理せずにおいてあるので、使いづらいというだけでなく、そういうものに囲まれていると、悪いけどことごとくテンションが下がっちゃうんです。   



これは、洗面所の洗面ボウルにネコトイレが置いてあるので、どかすのが面倒でキッチンに置くようになった 「コンタクト洗浄保存液(中央)と目を洗う水(左2本)」 そして、レンズケースは、右のバリ島の 「アタ」 で作った小物入れに入れてあります。

目を洗う水のボトルは、煩雑な日本の文字の書いてあるフィルムをはがし、透明にました。
洗浄保存液のボトルは、許容範囲。
一番右の 「うがい薬」 は、キャップが赤なので気に入っていませんが、仕方なく・・・。


ふと思ったことには、

遅くにできた子ども (単に結婚が遅かっただけなのだが、母が34で父が31の時生まれたと思う。) なので、私の同世代の年齢の人の親より、両親が年を取っている、ゆえに大変なこともあるが、それだけではなく・・・

だいたい、親と子の年齢差は20歳くらいだと話も合ったり考えも近いと思うのだが、うちは30歳差。

戦前、戦時中の物のない貧しい時代に育った両親が、
戦後、復興と高度経済成長の真っただ中、日本が豊かになりつつある1960年代に生まれ育った私のものの考え方を理解するのには、

もんのすごい “ジェネレーションギャップ” がある のではないだろうか?      

これがさぁ、私が60代くらいだったらまだ、親の気持ちも今よりは理解できたのではないかと思えるのだが・・・

育った環境にもよるかもしれないが、単に性格や価値観の違いだけでなく、きっと時代背景もあるのではないかなぁーと最近つくづく思うワタシ。

もちろん、両親が頑張って働いてくれて、そのうえ無駄遣いもほとんどしなかったお陰で、あまりお金に困ることもなく、大学まで出してもらったという、育ててもらった恩には十分感謝しているつもりですが、

そして、両親ともに元気でいてくれて (母もだいぶ回復してきて、もう一息だし) 大変ありがたいのですが、


あんまり頑固だと、せっかく為を思って頑張ってる、こちらもやりにくいし・・・  
もう年なんだから、残りの人生をのんびりと、快適に暮らしてほしいではないですか 


( それに母は、料理など思いつきやできると思ってやるので中途半端だったりして、ちょっと世話が焼けることもあるけど、洗い物とか夕飯のお膳のセッティングとか、私が目をかけないとダメな部分もあり・笑
母も頼っているというか、フォローが当たり前になってきてるというか。入院中からかわいそうだと思って、ちょっと甘やかしすぎたかな。 
今、親の言うことに怒ったりしてしまうのは、入院中はかわいそうに思ったり、同室の人の目もあるのでことごとく言いたいことがあるのを我慢してきたので、それをしなくていい今になって爆発しちゃってるというのもある。
単に疲れがたまってたり、こんなに頑張ってるのに言い返されたり不満そうにされると、母の気持ちもわからないでもないが、あまりに不条理なことを言われたりすると、面白くないというか、悲しかったり腹ただしかったりしてしまう。
そんなこともあるせいなのか、母がたまに変なこと言うのを、寛大になれずに、つぃイラッとしちゃうというのもあって、それは少しだけ反省はするのですが・・・
1月からずーっとお世話が続いていて、退院してきてもそれなりにお世話は続いているので、やっぱ疲れてきてるのかなぁ。
最大の難点は店が休みにならないせいだが、母の世話には休みがないので、
いつまでこの状態が続くんだろう、早く、できれば足以外のことは入院前に戻ってほしいものだが、もう無理なのかなぁーとか悲観してしまったり・・・。 )




みなさん、どう思います?

あなたのおうちはどうですか?


また明日から、コツコツ片づけを頑張りますね。  


以上、中間報告でした。







本日もラブラブ    我が家の天使ちゃん。 



この、かっこよ。   二人とも、あおむけになってるの。   








母の日、その他

2015年05月12日 | 生活・行事、季節のもの



ちょっとした報告のつもりが、また2、ちょぉぉーーーにゃがくなっちまいまシタが・・・   

一昨日は母の日でした。

今年は生協に頼んで、母の日の4日前に届いてまだつぼみだったユリが、前日に1輪だけ咲き(左)、今日は3つくらい咲きました。(右・写真が暗いケド・汗)
台所でいい匂いがしています。 


 母の日の前日の9日に、4月1日に結婚 (入籍) した下の姪が、挨拶がてら旦那を連れて、姉夫婦と来ました。

都内ではなく、旦那の仕事の関係で横浜に住んでいます。

母は退院して2週間になりますが、まだ本調子ではなく昼間も寝ていることが多いので、姪達が来ることはわかっていたからもし調子が良ければ、みんなで外にお昼を食べに行こう、と言っていたのだけど、数日前から既に行く気になっていたので、当日はその時だけ店を閉めて、みんなで行きました。
母にとっては、退院後初めての外出ということになります。

メニューが豊富で、大好きな “ぶっかけそば” があるので割とよくいく、いつかも載せた、国道沿いのおそばやさん 「S屋」 へ。






退院後初めてのショットです。

母、割合元気そうでしょ? みなさん、安心してくださいね。   

父と姪が 「温かい天ぷらそば」、 母が 「温かいとろろそば」 で、姉が 「冷やしとろろそば」。
ここのは、とろろが 「おろし」 ではなく細かく刻んであるのが特色みたいで、初めて知りました。次来たときに頼んでみよっと。


 
姪の旦那と義兄(あに)は 「おろしぶっかけそば」 でした。




私は、 「きのこぶっかけそば」。 
おろしも天かすもけずり節もちょっとずつ付いてくるのでおトクです。

いつもなら 「かきあげぶっかけそば」 を頼むのですが、夫が前日天ぷらを揚げて食べたばかり、その日の夜も残りを食べる予定だったので、さすがにやめました。

きのこは、ほんとは 「市販の山菜水煮」 の方が好きなのだけど、ここのは 「いくち」 という山のキノコ (この辺の人たちが俗にいう “雑きのこ” のひとつ) なので、私はホントのこと言うとあんまり好きではないのですが・・・ (色が変でアミ茸でぬるぬるしてるから)

でも、おいしかったです 


母は退院以後ずっと、実はパジャマではなくて普段着で寝たり起きたりしているのですが、そして、毎日着替えないのだけど

この日は出かけるのでズボンと靴下を履き替え、上着も変えたので、みんなで手伝って大騒動。  

ズボンは自分ではけるのだけど靴下は無理なので履かせてあげたり、洋服が元の寝室だった6畳間にまだあるので、6畳と今の8畳間の寝室を行ったり来たりも大変でした。

何度も書きましたが、人口大たい骨は内側にひねったり深く曲げたりの “とってはいけない” 姿勢があるので、車の乗り降りも大変だったし、歩くのも杖を使ってゆっくりなのでだいぶ時間がかかってしまいましたが・・・

それでも、退院して初めての外出でしたので、

ちょっと心配はしていたけど、母も姉や姪が来たので嬉しそうにしていて結構元気だったし、ゆっくりとでも、なんとか歩けて出かけられることも分かったので、それがとてもうれしかったです。 

おそらく本人も自信になったのではないでしょうか? (家では杖を使わずに伝え歩きをしたり、ほんの少しなら立ったままでいられるのですが)

父も私もいい気分転換になったし、


なにより 

家の片づけが、やっと3分の1くらい終わったけど、夫に運んでもらって2回、私一人でも1回クリーンセンターまでゴミを捨てに行き、

ほんっとに   大変だったので・・・

ちょーぐったり        

していた上に、 まだまだ気が遠くなるほどやることがあって     

それなのに、というべきか、そのせいで、

私がどんどん物を捨てたり配置を変えるので、母が 「自分で使いやすく考えてそうしてきたし、ここは自分の家だから」 「もうこれ以上やらないでほしい」 と怒ってしまいケンカになっていて・・・     

母の気持ちもわかるけど、母に良かれと思いやっていたことだし、片付けに命を燃やしていたから、

そんなこんなでこっちとしては腹も立つし、がっくりとヒジョーに落ち込んでる時に姉たちが来たので、

姉にはメールで前の日に目いっぱい愚痴って迷惑もかけてしまったけど・・・

義兄は、ゴチャゴチャしてた時のことを多少は知ってるから、あれだけのものをよく片付けたよ、とか一人にやらせて悪いな、とかねぎらってくれたので (父も母も勝手にどんどん捨てられて迷惑だからどんなに片付けても決してほめてはくれなかったので) それだけでも嬉しかったです。

姉たちは、まだ母が本調子ではないから家に泊まることは遠慮してくれて、顔を見てお昼を食べただけで帰って行きましたが (帰りがけに夫の務めている焼き肉店へ顔見せに寄ってくれたようです。そしてその夜は、みんなで八ヶ岳のコテージに泊まると言ってました) そのくらいでちょうどよかったです。




翌日の残り物を写真に撮ったのでイマイチですが、夫が庭で育てている 「タラの芽」(写真左下) が、今年も採れたので、
初物は旦那の実家のS条へ送り、残り+αを一度揚げて自分ちと親の家にもおすそ分け。

これは二度目なのですが、姪達が来るというので前日の8日の夜、夫が仕事から帰ってから一生懸命揚げました。 (お陰で、旦那が寝た後の片づけがちょー深夜になり、翌日姪たちが来るというのに寝坊してしまったが。 だから、天ぷら揚げた後の片づけってちょー大変で嫌なの。  )

泊まるのはコテージで、夕飯は部屋で調理もできるし、食堂に食べに行ったりもでき、食事付を希望したようですが、夜の酒の肴にと、喜んで持って行ってくれました。



あと、この 「ワラビ」 も、夫が連休明けにやっととれた休みで行こうと思っていた山に、クリーンセンターに行ったりスタットレスを普通タイヤに替えてくれたりして午後までかかって行かれなかったからと、

なんとー 

翌日朝早起きして、仕事前に山に行って採ってきたものなのです。 
そこまでして採りたいとはね。    オドロキ。   
( ワラビとキノコが、私からすると異様に好きな夫 (たぶん採るのも好きなんだと思うけど、父の様に採ることだけが好きなのではなく、食べるのも好きみたいです) は、この時期は毎週ワラビ採りに山へ、秋にも毎週キノコ採りに山へ行くという、私以上にすっかりイナカナイズされてます・笑)

でも、3分の2くらいを姉たちにあげたら、喜んで持っていきました。  



でも、 「初物」 だからおいしかったですよ。   かつお節とお醤油をかけただけで頂きます。




姉たちが持ってきてくれた、トーキョの おいしくて洒落た お菓子 

左上は 「治一郎」 のバウムクーヘン、ラスク、米粉のカステラのセット。
左下は 銀座ウエストのクッキーです。 

美味しい洋菓子大好き  
わ~い       

もったいないから、毎日チビリチビリ食べてます。

右は、母が入院中、姉が食が進むようにと持ってきてくれた佃煮の中で、今半の 「牛そぼろ」 を一番気に入っていたというと、持ってきてくれた 「今半の 牛佃煮セット」。

あと、姪夫婦が 「内祝い」 として山本山の 「海苔のセット」 を持ってきてくれました。
初めて気づいたのだけど、包み紙の表は山本山のロゴなのだけど、裏には山本山の発祥の地、日本橋の江戸時代の地図が書いてありました。なかなか良いので、取っておこうかと思います。



     * * *   * * *   * * *   * * *   * * *



 母の日は、前日に姉たちが来たので、特にお祝いはせず、お土産の洋菓子を食べましたが  (ほんとは、母の調子がよかったら夜、快気祝いをしようと、夫は既にステーキのお肉を焼き肉店の系列スーパーから買っておいてくれたみたいですが、お昼を食べに行くくらいがやっとなので、前日に姉たちも来たことだし延期しました)

そして昨日、11日は、退院後初めて病院に経過を見せに行く受診日でした。

受信は午後2時からの予約だったので、
ガンバッテ午前中早起きして、伊那へ約3カ月ぶりにまつげエクステに行ってきたのですが (エクステとは、地毛を支えにして瞼の付け根に張り付ける増毛みたいなもので、一か月くらいならまだ何本か落ちずに残っているのですが、3か月行かれなかったのですっかり抜け落ちて地毛のみでさみしかったから、母が退院してやっと余裕が出たのでその週の金曜日くらいに入れていたのだけど、どうせなら病院に行く前に施術してもらいたいと思って急きょこの日に変更しました。せっかく?イケメンの担当医さんに久しぶりに会うのだし・(^^;あはは…)

病院には私が付き添ったのですが、レントゲンを撮りに行くだろうし、長い距離を行ったり来たりするのは嫌だからと、母が車いすに乗ることを希望したので、私も初めて車いすを押してやる経験をしました。

整形は午後なのに結構混んでましたが、最初にレントゲンを撮りに行き、 レントゲン室はリハビリ室のすぐそばだったので、車いすに乗りながら母は 「ここを、 さんざ (嫌になるくらい長く、とか沢山の意味。単独で 「さんざになる」 とも使う) 通ったねぇ」 と、しみじみ。

病室からリハビリ室へと、母は約4カ月近くほぼ毎日、気の遠くなるほどにせっせと通ったので、私が病院への道、今まではAというスーパーに行くのが町中で一番遠かったのだけど、その先を少し行ったところを右に曲がってという “病院ルート” を、もう通らなくてもいいんだな、と思ったのと似ているでしょうか。

せっかく近くまで来たのだからと、母が帰りにリハビリ室に顔を出したいというので、担当のY先生いるといいねぇ、と言いながら行くと、たまたまちょうどいらっしゃって、 

今、家の中では結構歩けているので本当にどうもありがとうございました、と母ともどもお礼を言いました。
先生も、退院後に顔を見せに寄ってくれたのでとても喜んでくださって、私も爽やかで礼儀正しく、親切な好青年なので (イケメンだし・笑) 経過をご報告に行かれて嬉しかったです。

ついでに、退院して2週間たつけど、体力や握力が落ちて、中々元気も戻らず昼間も寝ていることが多いのだけど、体力がつくリハビリのようなものはないですかね? と聞いてみましたが、

リハビリテーションとは、「本来あるべき能力への回復」 を目指すものだから、体力増進のようなことは目的が違うのでやらないみたいでした。(定期的なトレーニングの必要な脳梗塞後のマヒなどと違い、歩けるようになればそれ以上することはないので、退院後はもう通わなくていいと言われていたし、運動嫌いの母もその気はないようだったけど 

その後整形に戻って少し待つといよいよ受診に。
手術の執刀医は二人いたのですが、担当医はそのうちの一人若いほうのイケメン先生で、童顔なのか20代くらいに見えるけど、手術するくらいなので30はいっているでしょうね。
余談ですが、なんでもマラソンに出るのがご趣味だようで、母の入院中に長野市民マラソンに出て、一万人近い出場者中40番台だったそうで、話題になってました。
看護士さんの話では、朝出勤してくると夜勤明けでも毎朝走ってるとか、父も町中を走ってるのを見たことがあるそうです。
ひょろんとした色白の優男で、そんな風には見えないんですけどね、ちょっと尊敬しちゃうかも。

で、そのH先生が、最初の手術の時にすごく待たされて母の精神状態がおかしくなってしまったので、やんわりと 「なんとかなりませんか?」 と聞きに行ったり、その後も何度か再手術後も含めて、会うとわからないことを聞いたり、骨密度を上げる注射をしてくれるよう頼んだりしたので、うるさい家族だと思って苦手意識を持たれているのかしら? って気がしなくもなく、内心ちょっと憤慨してたんですが、退院が決まったあたりからホッとしたのか、急に愛想がよく? なってきて、

この日も母が 「もうだいぶ歩けるようになって、家の中だとたまに杖がなくても歩けるくらいです。」 というと 「では、その成果をぜひ見せてくれませんか?」 と言うので、

ほんとに杖を持たずに何歩か歩いて見せたら、ひどく感激してくれたようで、こちらも嬉しくなりました。

まあ、誠実そうなお人な感じはしてましたので、きっと素直なんでしょう。信頼はできると思います。

次は8月でよいとのことで、入院前からS医院で処方されていた血圧や骨粗しょう症などの薬は一か月分、眼科の薬と骨密度を上げる効果のあるフォルテオという注射は3か月分処方してもらい、フォルテオが終わる前の受診ということになるそうです。

そうそう、レントゲンの結果もちゃんと骨がついているようで安心しました。

まあ、どんどん歩けるようになってきている母を見ていたら、レントゲンは心配してなかったですけどね。

そんなこんなで丁重にお礼を伝え、診察室を後にしました。


その後、病院のすぐ近くの前出のAというスーパーが、入院前に火曜市に卵の安売り目当てで母と毎週通っていたEより、駐車場から玄関が近いので (しかも、今度からは母がいるときは堂々とより玄関に近い身障者用スペースに止められるし)、
母に寄ってみる? と聞くと、病院に行く前はあいまいな返事だったのが、寄るというので (退院後初めての買い物になります)、

そして行ってみたら、先日姪たちが来たときよりも車のシートへの乗り降りがスムーズになってきた感じがするし (手伝いもいらず一人で出来るし)、
コロコロのついたカートを押すので歩行も楽なのか、ちゃんと歩いて一人で買い物ができたので、えらく感激してしまいました。    うるっ

会計が済んだら、疲れたみたいだったので荷物は私が袋に入れることにし (自分かの買い物も別にあったので)、 母にはついて行って先に車に戻って座って待っててもらうようにしましたが、

これで、もうその気になれば出かけられるし、買い物もできることが判明、  

ほんとに嬉しかったです。   きらりん


二日前には姪達が来て半日起きていて外出もしたし、この日も、午後から半日起きていて病院、買い物として疲れたらしく、帰宅したらお茶以外はまたベッドで寝てましたが・・・

もう、朝はもちろん、お昼も母が簡単に用意できるため、私は今まで通り1時半出勤にもどったので、ずいぶん楽になりました。

でも、ご飯とお茶の時以外は寝てばかりいる母が、「そのうちよくなるでしょ」 というのを、年も年だし、ほんとによくなるのかしら? と不安になることもあるし、

体力、握力だけでなく、耳も目も、入院前よりも悪くなったように感じるし、ボケてるわけではないとわかるものの、物忘れだって入院前もたまにはあったけど、なんか、前よりひどくなったような・・・

そう思うと、多少の不安はあるのですが、
再手術後に、中々回復せず、ベッドの上でリクライニングを起こして、ではなく、腰かけてご飯を食べたがらない母を心配したり、その気がないのかと焦ったりしていた時に、ある日突然ベッドに腰掛けて食事と私を待っていた母にビックリして嬉しかったことを思いだし、

本人にその気がないわけではないらしいので、焦らずに温かく見守ってあげなくては、と思ったりしました。



   * * *   * * *   * * *   * * *   * * *
   


本当のことを言うと、退院はしてきたけれど、母は寝てばかりいて相変らず食事の支度などをしなければいけなかったうえに、父と違いああだこうだ食べ物にわがままを言う母にちょっと腹が立っていた (病院で さんざ 食べさせられたようなのに似ているおかずを毛嫌いしていたというのもあったし、入院中食べられなかったものが食べたかった、というのもあったようだが) し、

病院通いと父の世話と、変わらずにある自宅での家事に疲れ切っていたのに、店の休みもなく、精神的にも肉体的にも疲れ切っていたので、母が退院してきたら楽になれると信じていたのに、病院に通わなくてよくなったことのほかは全然楽にならず、がっかりしたりイライラしていたというのもあり、

おまけに、何処にもいかれず、自由にならない不満を、「家の中を徹底的に片付ける 」 ということに燃えることでぶつけようとしていたから、
母の反感を買ったことでブチ切れて、相当ひどい精神状態になっていたのですが・・・

姉や姪達が遊びに来て、食事に行ったり喋ったり、

そして初受診に行ってきて母と買い物したり、家の外に出てみたので、だいぶ心がほぐれて解放されました。     


ほんと、毎日半分嫌になっているのを鞭打って、       
心の中でアルフィーの 『終わりなきメッセージ』 のフレーズ


叩き壊せ! 

独り誰にも言えず 何処にも行けず


を、まさに言葉通りの心境だと呪文のように繰り返しては (ほんとは時代、世間、自身の内面に訴えかける力強い、全然違う意味のメッセージソングなのですが ) 黙々と片付けてましたが・・・

心が解きほぐれてよかったです。


母も、寝てばかりいて体も気持ちもいまいちの時、私が勝手に片付けちゃうのでイライラしたり切なくて怒りまくってましたが、ここ数日でだいぶ気分転換できたり心が解放されたようで、かなり機嫌がいいし、

私も、3回目にクリーンセンター行った時点でかなり疲れて、続きをやるのがちとしんどかったから、ちょうどいい 「中休み」 をもらったつもりで、

ブログも書いたし、また明日から、片づけをぼちぼちやろうかと思います。


母は、今さらお金をかけて改築する気もないし、台所と元の寝室の6畳間をつなげるつもりもない、頼むからやめてくれ、と言ってましたが、

姪達が来たとき外出するので着替える時、6畳と8畳を行ったり来たりして着替えて不便だったのを身をもって知ってるから、押入れを整理する、廊下を片づけるなどのことは了解してくれたし、
とにかく、お金をかけず改築もせずに、物を整理し、置き方を変えるだけでもっと便利に使いやすくできるアイデアと自信が私にはあるから、

見ててご覧なさい 
魔法の様に変えて見せるぜ  
エィエィ、オー――          です 


なので、片付けも、根を詰めたり、それ一辺倒にならない程度には続けるけど、


来週からバレエも再開するし、今まで母にかかりきりだったけど、
ようやく自分も大切にしなくちゃと思えるようになれたので、

なんとか気分転換も図りつつの、ぼちぼちガンバローと思います     

焦らず、力まず、ゆったりと・・・

 
なので、応援していてくださいね。  


※ 一つのことに集中しないとできないタチなので、
電子書籍などの、集中力やエネルギー、その他もろもろが必要なこと (そのことに全精力をかけないとできないもの) はとてもやれないので、しばらくは仕方ないからあきらめて、
母の補助 (結局フォルテオの注射は順番を覚えられないので私が毎日打ってあげることになったし、夕飯は母は自分で思いついたものをちょろっとするだけだから、いちいち母に聞いたものを私が作ったり準備したり、他の家事全般や母のお世話?など、色々と手助けが必要なのです) と、親の家の中の片付けに当分は集中します。

どうぞご了承くださいね。 




【 おまけ 】



おとーさんに甘えるソラチ。ちっちゃ… 



おかーさんの膝の上に飛び乗ってきて甘えるシロチを鏡に映してとりました  ふてぶシロチやなぁ~  
私が連れてくるのではなく、必ず、向こうからやってくるってのがカワイイです。


 
こっちは上から撮り   それなりにキャワイイ



チロチ、そんなにおかーさんのことがちゅきなの?  



ラブラブです 



2匹でいると、ちょーかわいいなぁ~     

二匹になると 可愛さもにぶぁぃ、にぶぁい    
てか、二乗で4倍になる 

最大の癒しですね   










我が家のGWと端午の節句

2015年05月06日 | その他 色々



皆さま、ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたか?

今年はうまくいけば5連休になったので、有意義に過ごされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。



 写真とコメントだけのつもりが、 また2にゃがく・・・      


我が店は、2日、3日くらいは、区や公民館の花見、春祭りなどでビールなどを頼んでくれたので、そして普通のお客さんも普段よりは、ちょぃ来てくれたので “若干” 忙しかったですが・・・  

まぁ、昨日くらいからヒマになってきて、

今日なんて どヒマ  です・・・


昨日は、端午の節句でした。



今年は生協で 「こいのぼりキティーちゃん」 があったので買いました。 かわいーでしょ   



こちらは前からあるやつです。

キティーちゃんと言えば、ちょっと 「いいもの 」 を買ったので、また今度ご紹介しますね。



こちらも毎年のミッキーと、こいのぼりチョコ(左奥)。

全体図は冒頭です。

今年は、うっかりしていて花を買い忘れました。
そして、我が家のチューリップなどは枯れかかっているので(笑)写真には入れず。

その代わり・・・



今年も 「菖蒲湯」 にしました。

今年は、色っぺえおみ足(笑)はナシです。

我が家に男の子ちゃん (ソラシロ) 達が来てから、端午の節句が祝えてうれしいです。  


でも、「柏餅」 は特に好きではないので、草大福と草団子を買ってきて食べ、下の方の理由で毎日疲れ切っているので、特におご馳走とかは作らず・・・ 



 その、とってもかあいー、やんちゃな男の子ちゃん達・・・、

我が家の 『白猫プロジェクト』  をご紹介しますね。 




最近、キッチンカウンターがお気に入りのソラチ。



珍しい場所で食べています。

 結局、冷蔵庫を左側に置くと 「動線」 が悪いので、元あったように右側に置きなおしました。

斜めに置かなくてもこの位置に置けるようになったのには、と、ある ヒミツ があるのですが・・・

長くなるのと まだ途中の段階 のため、完成したらご報告しますね。   でも・・・いったい、いつ    



ふてぶシロチは、ワンちゃんがお気に入り。 



ときどき、私が出かけるころを見計らっては玄関のタタキに降りてきて、

撫でてください  と言わんばかりに、ごろんごろんするソラチ。
( 見ている前で甘えると、シロチにあとでいじめられるので、シロチの見ていないところで甘える癖が・・・ううっ、いじましぃのぉーーー  )



こんなんなって  



こんなんなって       



ごろにゃん   



   もだえ悦んでマス・・・  



しっか  

撫でながら左手で動く物体をうまく写真にとれないもんスから・・・ 

実際はもっと激しく   「こっちも撫ででね  今度はこっちぃーーー 」 と言わんばかりに、あっちに向きを変え、こっちにまた変えてはゴロンゴロンしてるのが

ちょーーー  きゃわゆい   です。




ふてぶシロチ。どでぇーーーん 

な、なんか、 自分を見るよーな・・・   



でも、こーんなに 仲良しの時も。 



どんなにいぢめられても・・・  お兄ちゃんが好き  

 


「とうぶき」 といって 「沢ぶき」 より太い、いいフキをいただいたので、親の家で、高野豆腐と煮ました。
( さっと茹でこぼしたら皮をむいて、一晩水につけてアクをとり、次の日に味を付けて煮るので手間がかかっとるとですよ。 )


昼間煮て、トーゼン  自分ちにも持って帰ります。(左が親の家の分で自分ちのは右のタッパーのもの)

これがまぁ、自分でゆーのもナンですが・・・

めちゃうまっ     でシタ    


このように、店の仕事と親の家の片づけに日夜明け暮れて   ぐったり・・・   

ジミぃ~  に過ぎて行った、毎年おんなじ我が家の連休。

黄金週間とは、一体だれが名づけたか。

あー、つまらん、つまらん・・・     




 そんな中でも・・・



新しい冷蔵庫は、トビラにマグネットが貼れず横にしかダメなのですが・・・(でも電気屋さん曰く 「扉に物を貼るのは運気が落ちてあんまりよくないみたいよ」 ですと。)

これは、7月にまつもと市民に、また野村萬斎さんが来てくれるのです 

いつもなら、発売初日の10時きっかりに電話するのを、母のことがあるので迷っていて、連休前の夜中によしっ     と思い立ってネット販売 (劇場の運営している24時間ネットでチケットが買えるというサービス) を利用して買ったのですが・・・

7月でだいぶ先だから、その頃には母も元気になってるといいな、いるでしょう、と願いも込めつつ、しかも昼公演だから何とかなるでしょう、とふんで。  
( その代り、アコーディオン奏者の 「Koba」 さんと 和太鼓集団 「鼓動」 は、去年はどちらも長野だったのであきらめ、せっかく今年は運よく両方とも松本に来てくれるらしく、すごく嬉しかったのだけど・・・、公演日が萬斎さんのこの公演と近くて夜公演しかなかったので、次にいつチャンスが巡ってくるのかわかりませんが泣く泣くあきらめました。もちろん、万作萬斎親子が5月10日にせっかく一番近い塩尻のレザンに来てくれるのだけど、今行かれる状態でないからトーゼンあきらめてますし。  )

発売開始よりだいぶ日が過ぎていたけど、そんなに悪くない席がGet  でき、嬉しかったです。 

萬斎さん、この、飛び上がって空中で静止してるのが、カッコいいんですよね    
この写真を見ていたら、どうしても行きたくなってしまいました。

楽しみだなっと。  


下の松本幸四郎さんの 『ラ・マンチャの男』 が9月に松本に来るのも、どうしよっかなぁ~と思い、チラシを貼ってある。





 結局、大人向けバレエ雑誌 『クロワゼ』 だけでなく、子ども向けの 『クララ』 も定期購読し始めました。

キッチンのステップの隅、目につくところに積み重ねている。

やっぱりね、
もちろん客観的に見て “自分を含めて” 言うのですが、オバサン  (プロのダンサーさんのことではなく、教室訪問とかに写っている素人さんの生徒さんのことです、大変失礼ながらもごめんなさい)  のレッスン風景見てるより、
そりゃあ子供の方がお手本のモデルさんでも読者モデルでも、キレイでスタイルもいいし可愛いもんよー 

( 機会があれば、世界最高峰と言われるパリ・オペラ座やロシアのワガノワなどの 「バレエ学校」 のDVDをご覧になると、小さなバレリーナたちはまるで天使のように美しい&かわいいです。   )


まっ、現実がヒジョーに疲れてるんで、 現実逃避 と 癒し、 ですかね 

そんなわけなのでプチ筋は最近サボってますが、ストレッチだけはなるべく2日はあけずとやるようにしています。 

でも、さぼりがちだから未だに170度行かないし、開脚状態で上体 (シャレじゃないよ・笑) がべったりと床につくまで戻ってはいませんが・・・。   
( 開脚しなければ、床に座った状態で上体を前に倒して足にはつきます。ちょぃ、お腹がつかえてキツぃけど・笑 )




  母は、まだ本調子でなく、寝ていることが多いですが、退院した頃よりはいくらかよくて、食欲も以前よりは出て、杖を使わずに寝室から台所まで歩いていき、立ったまま、味噌汁を作ったり魚を焼いたりとかの簡単な調理程度ならできるようになったので、昼ご飯も任せられるようになり、ずいぶん楽になったし嬉しいです。

まだ、色々を依然手伝うことの方が多いですが。



  そして片付けは、祖父母の代からのものが未だに残っていたり、何十年も前から動かしてないんぢゃ・・・  
みたいなものだらけで (もっとも昔は店がちょー忙しくて子育てもあったし、母は片付けどころではなかったので仕方もありませんが。それに、お店やさんて、店のものが家の中にも進出してくるからよけいに片付かないのですよね、念のため)、

やってもやっても中々終わりませんが・・・              

11日に、なんと   また姉夫婦が 新婚の下の姪夫婦を連れて挨拶がてら来るので (もちろん、こんな時なので我が家には泊まらず、昼間顔を出すだけですが)

明日、連休明けなので夫に無理やり休みを取ってもらって、クリーンセンターにこれまで片付けて沢山出たゴミ&いらなくなった粗大ごみを捨てに行き、いくらかでもスッキリする予定なので・・・

新しいところに取り掛かるたびに、どこから手を付けてよいものやら座り込んで溜息をつくほど、どこもかしこもとんでもない状態なのですが、  
              ・・・   

乗りかかった船だし、今やらないと永久にやらないし、この際だから色々整理して綺麗にして (もう8畳間を通り抜けてトイレに行かれないので、物置になっていたつなぎの廊下を物をぜんぶなくして通れるようにもした)

母がもう2階へは行かれないので、父もそのほうが楽だから、2階にしまってある洋服を全部下の8畳の新しくしつらえた寝室に下して、今まで寝室だった6畳に置いてあったものも総て8畳間の押入れに移して、使いやすく住みよくしてあげたいし、

うまくいけば、ゆくゆくは台所と、隣の部屋で元寝室だった6畳を改築してつなげたら、広くて明るくて使いやすくなるので、それをできれば目指したいし・・・


毎日疲れ切って、やんなることも多いけど・・・それでも 


何事も

1000里の道も一歩から    

毎日コツコツと頑張りまぁ~す      









中原英孝監督、新たなる挑戦!!

2015年05月02日 | 松商、中原監督 関連
  


昨年7月16日付で10年間勤め上げた長野日大高校野球部監督を勇退された、名将中原英孝監督。 
( 『名将 中原英孝監督、長野日大高野球部 を退任』 2014年07月19日 | スポーツ カテゴリー参照 )

約半年に渡る休養期間を経てその進退が注目されていたが、
このたび 「日本ウェルネス高校筑北(ちくほく)キャンパス」※(注) の野球部監督への就任が決まった。
( 写真左、「スポーツニッポン」4/25付記事  写真右は同、5/1付最終面 <信州版> 記事 )

同校の大きな特色は “通信制の高校” である点で、学校法人タイケン国際学園が運営、愛知県に本部を置き、東京、九州、松本など全国5か所にキャンパスをもっているが、

この9月に、新たに信州筑北村に 「筑北キャンパス」 を開校することになり、その野球部監督として招かれることとなった。

筑北キャンパスは、過疎化に悩む筑北村を知名度を上げ活性化させたいと、村を挙げて誘致、開校に取り組んでおり、日大勇退後複数の誘いがあった中原だが、自分の出身地である池田町の隣村からの熱心な誘いに、強く心を動かされたのだという。

通信制の高校である点や、自身初となる創部からの立ち上げに、未知数の大変さも感じているようだが、

日大が最後かな、と思うこともあったのに、この年で、まだ監督として誘いがあることの幸せを感じ、

何より野球が好きで、もっと長野県の野球を強くしたい、体はどこも悪くなくて元気だから、

という3つの理由により、自身の集大成と位置付ける覚悟で3度目のユニホームに袖を通す。


この、3つの理由が、いかにも中原監督らしくてなんとも嬉しい限りだが、

中でも 「野球が好きだから」 という言葉が最初に出てくるところに、この人の本質を見る思いである。

また、同紙で語っていた、 「この年代でも頑張れることを示していきたい」 との言葉に胸を打たれた。


高校野球-生徒はみな平成生まれで、自分の孫のような世代。

1991年に長野県じゅうを興奮と感動の渦に巻き込んだ、松商野球部の甲子園での活躍は生れる前の大昔のことだし、後任の長野日大での活躍 (2008年春の選抜でベスト8、2009年夏の甲子園でベスト16) でさえ、当時小学生で記憶にあるかどうか、という子ども達である。

自分でも児童文学の世界に身を置いているのでよく思うことなのだが、
情熱とは裏腹に、対象物である子ども達(生徒) との年齢的な距離は離れていく一方である。

だが、そこを超える何かが、名監督中原英孝にはきっとあるのだ、と私は信じている。

長きにわたる母校松商学園での名将ぶりと、創部歴の若干若い就任当時は無名に近かった長野日大野球部を甲子園に連れて行ったことからも、その力は実証済み。


スポーツに力を入れている、 “スポーツをするための” 通信教育制度である、というのが学校が大きく掲げているコンセプトのひとつであるようだが、

「通信教育」 = 何らかの理由で、通常の高校に行かずに選んだ学びの形に、

私は 「野球人」 というより、まず 「人間力」 を育てていくことになるのではないかという気がしないでもない。


ともあれ、村を挙げて活性化を目指す築北村と、野球部の名を上げたい学園側が、壮烈なラブコールを送って実現した名将の就任は、その先に野球部の甲子園での活躍を当然視野に入れてのこと。


明言は避けたものの、自分には 「3年に一度」 というスパンがあるので、3年で一定のものは出したいと中原自身も語っているので、

今後の動向、活躍から目が離せない。

過去には、同じ長野県から 「地球環境高校」 が、2012年の第84回選抜高等学校野球大会に、同校及び通信制高校としては初となる甲子園出場を決めているので、

ひょっとするとひょっとするかもしれませんよ。

いずれにせよ、中原の熱血漢あふれる指導、采配がグラウンドを暴れまわる日が再びやってくるのかと思うと、わくわくするのである。



中原英孝監督、このたびは新天地での監督再開、本当におめでとうございました。


今年1月の初めに、このたび2006年に出した自拙著書 『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 を電子書籍にしたいので、つきましては、あれから既に9年がたち、選手たちのその後について一言でも触れたいので、監督さんともぜひ近々お会いしてお話をお聞きしたいのだと勇気を奮って電話してみた。

幸い監督からは快諾を得たものの、その矢先に母の骨折が判明、緊急手術入院してしまったので、落ち着くまで少し待っていてくださいと再び電話を入れたのだが、回復が長引き、再手術、長期入院とそれどころではなかったので、監督にも連絡を入れていた一部選手にも、その後電話を入れる余裕がなかった。

やっと先週退院できたので、心に若干のゆとりはできたものの、身体的にも家を空けられないのと、精神的にも電書に取り組む余裕がないので、落ち着くまで、夏ころまで待ってはいただけないかと、つい先ごろになってやっと連絡を入れることができた。

中原監督は、終始快活でお元気なお声で、そして変わらぬ気さくさ、腰の低さで私ごとき者にまで気持ちよく接してくださり、恐縮するとともに、日頃の不義理からくる不安を払しょくさせるかのようなお人柄に、本当に涙が出るほどに嬉しく、心底ほっとしたものである。

母の入院に関してもお気づかいをいただき、待ってくださるとおっしゃっていただき、
その時は正式発表前だったからか、監督の去就について、新聞に載っていたのに母のことで余裕がなく、うっかり気づかないでいた私であったが、
監督は自身のことはご自分からは何もおっしゃらなかったのです。

今思うと本当にお恥ずかしい限りであるが、遅ればせながらこちらに載せますので、それでひとまずは許していただきたいかと存じます。  翌日監督には、お詫びとお祝いのお電話を入れさせていただきました。 


と同時に、今この時期に中原監督の新天地就任が決まったことに、何か運命のようなものを感じる私。

上記自拙著書を出すにあたり、前年の暮れに91年に甲子園旋風を巻き起こした自称 “H3(エイチスリー)チーム” を含む 「3学年合同忘年会」 に取材にお邪魔した際、たまたま、同じように91年の活躍の、15年後の選手たちを追ったドキュメンタリー番組の製作を計画していた 「テレビ信州取材班」 と同席することとなり、地元でもないのに15年もしつこくその姿を追っている私の活動に興味を持ってくださったらしく、わざわざKまで来てくれて、私自身のことを取材し、番組に取り上げてくださった。

それが縁で松本匡礼(まさひろ)くん (元信濃グランセローズ2009~2012) のお母上であらせられる、松本久美子さん (実は高校の同級生) との縁が復活し、中原監督とその後幾度か会えるきっかけとなったものだったが、 
( 「『白球の青春、夢に向かって』 中原英孝監督・講演会・in K (2月19日)」 2011年02月20日 |  松商、中原監督 関連 カテゴリー、 
「がんばれ!松本君」2009年02月12日 |  松商、中原監督 関連 カテゴリー 参照 )

「TV見ました!」 と本を買ってくださった方がいらっしゃったかどうかは定かではないが、確実に宣伝効果があったのでは? と思えるので (夫の勤務する隣村の焼き肉店は、2度TVで紹介されたが、放送直後の効果は絶大であったという) 全くの偶然に、自分はなんてツイているのだろう! と思ったものである。


中原監督のウェルネス高監督就任のニュースは、明らかに自分にとっても追い風、

「この年代でも頑張れることを示したい  」  との監督の言葉は、


母の骨折、手術、入院と、退院してからも日々の生活に追われたり仕事の大変さなどですっかり疲れ切って、ヤル気と元気の余裕がなくなり、時に気弱になったりもしていた自分に、勇気と力を与えてくれました。  

監督、並びにH3の選手の皆さま、

母の体調と身の回りが落ち着くまで、まだ少しの間取り掛かることはできませんが、必ずあの時の本を電子書籍にしますので、もう少し待っていてくださいね。

そしてその際には、ぜひのご協力をお願い致します。 

それを目指して、日々を頑張って乗り切っていきたいです。   




【 各新聞記事 】

 

中原監督、ウェルネス高野球部監督決定に関する記事 (4月25日) 
写真上 『市民タイムス』 下 『信濃毎日新聞』



就任会見 (5月1日) の記事
写真上 『朝日新聞・長野中南信版』 下 『市民タイムス』

 

『信濃毎日新聞』 は、スポーツ面と総合面の2か所で取り上げてくださいました。


“長野県内でその名を知らないものはいない” (関川筑北村村長談) という名将の去就への関心の高さがうかがえます。


 



※注
▼『日本ウェルネス高校信州筑北(ちくほく)キャンパス』

スポーツに打ち込みながら高校を卒業することを目的にした高校で、学校法人タイケン学園 (理事長:柴岡三千夫 ) の、1998年に開校した 「日本ウェルネススポーツ専門学校」 が母体。 その後、専門学校、大学、高校と多数展開、多くのスポーツ選手、スポーツ指導者等を輩出している。

従来の、添削指導、スクーリングなどを得て所定の年数以上在籍し、所定の単位を習得すれば、学校に通わなくても 「高校卒業資格」 が得られる 『通信高校制度』 とは異なり、スポーツコース在籍者は週5日の登校を義務付けられている。

信州筑北キャンパスは、村内でこの3月で廃校となった小学校校舎を利用し、スポーツ、理美容師養成、ドッグトリーマー、総合の4つのコースを設け最大240人が学び、うちスポーツコースの生徒が全体の8割を占める見込みで、今年9月に開校予定。
野球部に中原英孝さんを監督に迎えたほか、蹴球部 (サッカー、フットサル) に元J1のFC東京、元フットサル日本代表でFリーグ大分監督経験を持つ伊藤雅範氏を同時に監督に迎えることとなった。

野球部は、練習拠点を 「村営グランド」 とし、選手は寮生活、来春4月の新入生を対象に部員を募り、まずは来春の県高野連加盟と公式戦出場を目指すという。



▼『中原英孝』(なかはら・ひでたか)

1945年5月30日生まれの69歳。(今年の誕生日が来て古希を迎える)
長野県池田町(いけだまち)生まれ。
現役時代は内野手として甲子園に出場、卒業後は明大に進み副主将を務める。主将は同期の高田繁 (現DeNA・GM) 、一期下には星野仙一 (元楽天監督) がいる。
卒業と同時に母校松商学園野球部の監督に就任、翌年には最年少監督としてチームを甲子園へ連れて行く。
一端退いた後に再び監督に就任、松商学園高校で2期22年、長野日大高で10年間硬式野球部監督を務め、春3度(うち松商で2度)、夏8度(同7度)の甲子園出場を果たした。
県内の高校野球指導者としては、歴代最多の甲子園通算14勝(うち松商で10勝)をあげているほか、上田佳範 (現中日コーチ) ら多数のプロ野球選手を育てている。 ( 「ありがとうの気持ちを直接伝えたい!」上田佳範感謝の集い 2009年01月19日 | スポーツ カテゴリー参照 )
松本市在住。

特に、1991年には上田佳範をエースとした松商学園野球部として、春の選抜準優勝、夏の甲子園ベスト8、国体優勝などの活躍を見せた最強チームを創りあげた名指導者として我々の記憶に長く残り続けている。

前出の自拙著書 『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 は、この年のチームの活躍がもとになっている。
(2006年3月 郷土出版社刊、絶版 ← ゆえに電子書籍化を目指しています。) 


また、当時野球部の寮の壁に

「報われない努力はない。努力すれば必ず報われる。報われないのはまだ努力が足らないからだ。」

という中原監督自身が紙に書いて貼ってあった言葉は、僭越ながらも私の座右の銘の一つとさせていただいております!!    
( 自身のHP、プロフィール欄にも明記 )





※ おまけ・・・ 



ぎゃー、ソ、ソラチ・・・   

監督の写真記事の上になんてのっかったら、ダメよー ダメダメっ     



か、かわいーんだけどね  



こーゆートコに無造作に置いとく私も悪いのか・・・。

いろんなものが置いてあって、クソもミソも一緒 の、
ぢつは キッチンカウンター