猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

君よ、光の中をゆけ・・・高橋大輔引退表明に思う

2014年10月25日 | フィギュア(高橋大輔等)
※ 大変遅くなりましたが 10/27 加筆訂正しました。(特に下の方に戦績表を追加) もう一度お読みいただけますと幸いに存じます。





だいぶ遅くなってしまいましたが、

10月14日にフィギュアスケーター高橋大輔選手が、競技者としての選手生活にピリオドを打つ、 「現役引退」 を表明されました。

この日、彼を中学の時から支え続けた岡山市の 「両備(りょうび)てい園記念財団」 の第36回目となる助成金奨励賞の、 “第一回スポーツ進行奨励大賞” を高橋大輔が受賞することを受け、

その、贈呈式での受賞後の高橋のスピーチに、両備てい園記念財団理事長であり岡山県スケート連盟会長でもある 小嶋光信 さんが、「今後はどうされるんですか?」 と水を向ける形での引退表明発表となった。
そしてその授賞式終了後に、高橋単独の引退会見が行われたのだが、

実はこの授与式に、なんとなく予感めいたものを感じた小嶋さんが高橋本人への出席を求めたところ快諾を受け、表彰式数日前には 「地元岡山でマスコミへ引退を発表する囲み取材を受けたいので協力してほしい」 という要請があったので、極秘で準備してきたものであるらしい。
( 予想を上回る取材の多さに、急きょ直前に正式な引退会見へと変更したらしいが、“両備グループの社名ロゴ入りボード” の前での会見は高橋のたっての希望であったという。 )

スポーツ進行奨励大賞授与式には、高橋大輔を育てた “三人の母”、 
生みの親である 高橋清登(きよと)さん、高橋を発掘し世に出した、岡山県スケート連盟理事でもある 佐々木美行(みゆき)監督、彼を中学のころから指導し続けた 長光歌子コーチ (最初長光コーチは出席を辞退したらしいのだが、小嶋氏のたっての希望での出席となったようだ) にも出席してもらい、ささやかなお礼であり花道を作ったと小嶋氏は自身のHPで語っている。


私が、なぜこのようなことを書くかというと、高橋大輔がいかに地元の人々に愛され、また現在は大阪に住み、そこを拠点にしている高橋自身も地元のことをいつも気にかけ大切にしているか、ということを伝えたいからなのだが、

少なくとも、彼が引退を表明した場というものが、普通とは違っていたため、
彼が受けたのは一体どのような表彰式であり、果たしてあの場に居合わせた人たちは、めでたい表彰の場で突然の引退表明をされて戸惑ってはいなかったのだろうか、との思いで、

世間では全くと言っていいほど注目されていなかった、その背景を調べてみたくなったことによる。


これらのことはすべて、前出の、両備てい園記念財団理事長であり岡山県スケート連盟会長でもある 小嶋光信 さんの、両備グループHPに記載されていた報告書に書かれていたものであるが、

それを読む限りでは、この引退表明は高橋からの要請を受けた主催者側が、了解のうえで、しかも両者で極秘に準備をされていたこと、
また、我々一般の人間にとっては突然とも思えた 「引退発表」 が、マスコミにはすでに知れ渡っており、授賞式、引退発表会見とほぼ同時進行で、地元テレビをはじめ各テレビ局でも早くも放送していた (その日の夜には早くも特番ニュース)、 というのが、のちのユーチューブなどで知れるのである。 


それほど、フィギュアスケーター高橋大輔の存在は大きく、彼の突然とも思える現役引退のニュースは、日本中はもとより、おそらく全世界を駆け巡り、衝撃を与えたことと思われる。

もちろん、高橋がソチ五輪後の世界選手権を欠場し、1年間の休養宣言をした時から、2つに一つは 「引退」 の二文字をその先に受け入れる覚悟はそれとなくできていたのだろうが、

その心のどこか片隅に、「できるならば現役を続けてくれないかなぁ、彼の演技を、競技者としての彼のスケートを、もっともっと見ていたいものだ」、「彼のいない日本フィギュア界など想像できない」 などの気持ちが、ファンならずとも、誰の気持ちの中にもあったのではないかと思う。 

かくいう私もその一人で、シーズン前の引退表明だと思えば、またとない絶好の時期であると思えるのだが、
なんとなく、“1年間の休養” というからには、現役続行か否かの結論は、来年三月くらいまで猶予があるものと勝手に思い込んでいた。

記者会見でも 「(心の)準備がない中で急に発表してしまったことは申し訳ない」 と彼自身が語っていたように、
ずっと悩んできたことだが、9月半ばに自分でも突然の様に、誰にも相談せず、一人で引退を決めたという。


高橋大輔の引退表明は、水面下の葛藤など知らない第三者の私にとっては突然のように思えたので、

これでもう、辛そうな高橋大輔を見ることはないのだし、それを見て一緒に苦しむ必要もないのだな (最後のシーズン終盤で彼が怪我で思うように練習や演技ができなかったことから、つらい場面ばかりが先に来てしまうため) というほっとしたような気持ちも正直まったくないとは言えなかったが、

テレビでの、今までの道のりを振り返る、みたいな特番ニュースを見ていると、やはり寂しさもぬぐえない。

本人は、一、二年はスケートから離れて、これからやりたいこと、次の目標を探していきたい、本当にスケートが好きなのか、やりたいのかを考えたい、などと語り、
引退後すぐの指導者やプロスケーター転向は否定しているようだが、

引退後にアイスショーなどに出れば、それはもうプロスケーターとみなされる、と先日の 『SMAP×SMAP』(スマップ×スマップ) に出演した、先期限りでの引退を表明した鈴木明子と織田信成元スケート選手が言っていたし、

アイスショーに出ないのは、回りが放っておかないであろう。


そして何より、これは会見でも高橋のHPでも彼自身が言っていることなのだが、

フィギュアスケートには、 「引退してからでも一度だけは競技者に戻ることができる」 というルールがあるということ。

自分自身も、競技者として全く未練がないわけではない、と言っている点で、

これは、もしもの場合、競技者に戻ることもあるかもしれない、とあんに匂わせている点である。  


「できることなら、ずっと競技者を続けていたいくらい。」 と語ったこともある高橋大輔。

試合に向けて体や調子の波を作っていくこと、何より試合前の緊張感がたまらない、

と、そこから逃れて楽しく滑っていくことを望む選手がおそらく多いであろう (もちろんそれはそれでいいとは思うが)、
また、つらいことすらしたくない我々一般人からは全く考えられないようなことを言ってのけるほどの高橋なので、

好むと好まざるとにかかわらず、彼を象徴するようにつけられた 『ジェットコースターのような競技人生』 に、

突然戻ってきて、 「あれはなんだったんでしょうかね?」 なんてヘラヘラ笑う高橋大輔に、もしかしたら出逢える時がくるかもしれない。

いや、来ないかもしれないが、

でも、そんなこともあるかもな、なんて期待も抱きつつ、今後の彼の動向をゆっくりと遠くから見つめていたいものである。


彼が日本男子フィギュアスケート界のみならずに、フィギュアスケート界全体にしてきた数々の功績は、
既にあちこちで言われてきているので、今さらここで言うことはあえてしない。 (※ 受賞歴については下記参照)

「お疲れ様でした」 とも、まだ言いたくはない。


でも、私のようなしがない一ファンにも、あえて何か言わせていただいてもいいのなら、

高橋大輔は、指導者やコーチや振付師には、本人も言っているように向いていないと思う。
向いていない、というのはいささか語弊があるかもしれないが、高橋には、もっと大きなことをやってほしいし、

どちらかというと陰に回るのではなく、自分が常に 「主役になる存在」 でいてほしいと思う。

プロスケーターには、いづれなっていくのだろうが (なぜならスケートをしない彼の人生などあり得ないから)、 タレント業など言語道断。

あらゆる 「男子フィギュアスケート界日本人初」 を総なめしてきた高橋には、人のやっていないことをしてほしいと思う。


私はずっと以前から、競技生活を引退したら高橋大輔にしてほしいことが一つだけある。
( もちろん、1度でいいから高見沢さんの生ギターで滑ってほしい、という願望もあるけど、そういうこととはまた別の次元のことで )


どのようなことか、今ここで言うのはあまりにも大それているので言えないが、もしも実現したら、きっとすごいことになるだろうだと思う。

おそらく、前代未踏の道であるからだ。 (もちろん、スケートに関することです) 

(あーあ、私が大金持ちだったなら、その話を実現すべく協力ができるのに・笑)



高橋大輔は、もともと温暖な土地柄である岡山県で、冬季国体スケート部門で何とか入賞者を出したいと、第60回岡山国体に向けて発掘された強化選手であったという。
( 岡山国体は2005年。高橋は翌2006年にトリノオリンピックを控えた身でありながらも国体に出場、みごと優勝し、岡山県に悲願の「天皇杯」をもたらすのに一役をかった。 )

2002年、世界ジュニア選手権に出場するための壮行会で高橋の擦り切れたスケート靴を見て以来、カンパをしたり (高橋はその世界ジュニアで初出場初優勝する)、助成金を贈呈したりして、陰ひなたなく見守ってきた小嶋さん始め両備グループ、県スケート連盟の方々は、

バンクーバ五輪で高橋が銅メダルを取ると、地元岡山市と彼の生家のある倉敷市の両方で、「凱旋パレード」 と 「祝賀式」 を行い、(※ この時、岡山県、倉敷市より与えられた賞については文末を参照)

今でも
彼のホームリンクだった 「旧倉敷サンピア」 を存続、整えて、いつでも指導者として高橋が岡山倉敷に戻って来れるように、それを願い、準備を整えながら待っているのだという。
ここまで大切にされているのは凄いことだと思う。


スケーターとしての素晴らしい才能だけでなく、高橋大輔の最大の魅力は 「優しくて謙虚な人間性」 と、 そして 「常に地元岡山を大事にしてくれること」 であると小嶋さんは言うが、

自分は岡山に生まれていなければスケートをやっていないと思う、とまで言い切り、

高橋が引退を表明し、再出発をする場所として “地元岡山” を選んだ訳がよくわかるエピソードと言えよう。


「これから何をしたいのかゆっくり考えたい。何をしたいか、その目標になることをみつけたい。」

20年にわたる競技生活のいいこと、悪いこと、つらかったこともすべてが思い出と語る高橋大輔は、

引退か続行か、その、区切りの決断を発表して、実に爽やかな笑顔を見せていた。

「(スケートを)続けるにしてもやめるにしても、いちど(引退という)一区切りをつけないと前に進めない。」
というのは、いかにもまじめで真摯な高橋らしいではないか。



まだ、この言葉を言うのは早いかもしれないが、

これからの道のりは、長く苦しいこともあるかもしれない。

それでも高橋大輔には、やはり笑顔が一番似合うと思う。

人の後ろではなく、常に先頭をこれからも歩んでいってほしいものである。

なぜなら、それこそが高橋大輔に、最も似合う場所であるから。


君よ、光の中をゆけ・・・       





冒頭写真 10/15 スポーツニッポン、スポーツ欄より。



10/15 朝日新聞 一面(左)、スポーツ欄より。



10/15 日本経済新聞 43面(左)など、より。


※ 内容は、一部両備グループ理事小嶋光信さんの書いた当HP文面を参照させていただきました。    




そして、そうはいっても、やはりこれを抜きには語れないので、書いておきます。  

 高橋大輔がしてきた、 『日本男子フィギュアスケート初』 の偉業の数々 

・2002年 世界ジュニア選手権 初出場で優勝
・2007年 世界選手権 銀メダル
・2010年 バンクーバーオリンピック 銅メダル
・2010年 世界選手権 優勝
・2013年 グランプリファイナル 優勝

☆冬季五輪3大会連続出場で、全てが入賞
☆全日本選手権 01-02シーズン~13-14シーズンの12年連続出場、
うち05-06~12-13は7回連続表彰台 (05-06~09-10まで4大会連続優勝) 
 
( ※ 08-09シーズンは怪我のため欠場しているので厳密にいうと連続ではないが、出場する限りではという意味 )


こう書くと、いかに高橋大輔が、長く日本男子フィギュア界を常にエースでトップとして走り続け、けん引してきたかがわかる。

女子に比べて人気の低い男子フィギュアの魅力をもっと伝えたい、男子フィギュアファンを少しでも増やしたい、
そう思いながらひたすら頑張ってきた高橋の輝かしい活躍、功績は、男子フィギュア人気を、文字通りここまで高めた要因だといっても過言ではない。


上記ではつい、あのように述べてしまいましたが・・・、   

改めまして

高橋大輔選手、 長い間、ほんとうにお疲れ様でした。

ゆっくり休んで、これからの長い人生のよき 「道」 を、じっくりと探してくださいね。




 付記

« 高橋大輔に与えられた岡山県、倉敷市での賞 »

・2010年、岡山県に新設された「県民栄誉賞」の第1号を受賞。
(バンクーバー五輪日本人男子初の銅メダル獲得ならびに「右ひざの大けがを克服しての快挙で、県民に大きな感動と勇気を与えてくれた。県民の誇りとなる素晴らしい功績」により)

・2007年、創設されたばかりの「県スポーツ特別顕賞」で第1号受賞者。
(同年3月、世界選手権で日本人男子初の銀メダル獲得により。これまで県は女子マラソンの有森裕子、体操の水鳥寿思ら五輪メダリストに「県スポーツ栄誉賞」を授与してきたが、新たに「五輪等世界大会での顕著な活躍」を対象とした同賞を創設した。)
・2010年、上記理由により、二度目の同賞を獲得。

・2010年、倉敷市「市民栄誉賞」(同上理由)を元プロ野球選手、星野仙一氏に続き二人目の受賞。

※ なお、岡山県「県民栄誉賞」と「県スポーツ特別顕賞」は高橋大輔活躍の栄誉をたたえるために作られた賞である。







発表会、その後・・・とゆーか、シロチのその後

2014年10月23日 | 猫・犬




さて、皆さまご心配いただきましたピアノの発表会ですが、

10月19日に 無事でなく 終わり・笑・・・   

昨日、水曜日はその、大人クラスだけの 「打ち上げランチ」 でしたが・・・

それは後日書くとして  まだ、考えがまとまってないので  



その前に一昨日、火曜日のことをば。

月曜日に母が、薬が切れるので今週中に松本の眼医者に行きたいけど、○子は近々松本へ行く時ないかしら、というので、たまたま一昨日は夫が休みだったので

それならば、シロチの療養食治療後の採血検査をまだ行ってなかった (8月は私が、9月は夫が毎週休みには山に行って忙しかったので) のと、
私の使い捨てコンタクトレンズを塩尻の眼医者に電話注文していたのを取りに行きたかったので、

急きょ、夫の運転で母と私、そしてシロチをキャリーに乗せて、火曜日に松本まで行って来ました。   
( 私の車で、助手席が母、私はシロチの世話を焼きつつ、一緒に後部座席で )


前回シロチがキャリーの中でうんちをしちゃって大変な目にあったので、夫は今回は母も一緒だし、
ソラシロを飼いはじめたころには、ドラもいたので寝るときだけ二匹を入れていた二段式でトイレも入る大きなゲージに入れて行こう、といって、夜中に頑張って組み立てて (もう使わないため、分解して物置にしまってあったので) いましたが、

朝起きたら、珍しく朝にウンチをしたらしく (大抵、夜仕事から戻るとしてあったり、帰ってからの夜にすることが多いので)、

それなら大丈夫だと、普通の手提げ出来るキャリーに入れていきました。(それよりも、あんなデカイもん、車に乗らないと思うなぁ~  


南松本のK動物病院が、朝9時からの診察だったので早起きして8時すぎに家を出て、
K動物病院に着いたのは9時を過ぎた頃。

シロチと私を残して、夫は母を乗せてそのまま松本駅前のN眼科へ。


さて、シロチの血液検査をする前、体重を量って問診したのですが・・・

ほんとは一か月後に来てくださいと言われていたのだが、前回の診察が6月23日だったので
実に3か月以上、4カ月近くたっていたので、

先生、「この間、どうしてましたか?」  ギロリ 

「こちらで言われた肝臓の数値を下げるという療養食を、病院提携の通販でも買えるシステムに登録をしたので、終わったら取り寄せてずっと食べてました。」 

「ああ、それならいいです。」  内心、ほっ。  


で、採血したのち、検査結果を待つこと2、30分。

恐る恐る検査結果表を見ながら説明を聞くと・・・(左側の数値が前回)

まず、肝臓の数値を示す 
・GPT:156 → 42(正常値は11~50なので正常)
・GOT: 35 → 21(  〟 8~33   正常)   ヨカッタぁ~。 

・総コレステロール:222 → 280 (  〟 53~164 ) え゛ーーーー  と思いきや、
コレステロールには善玉もあり、それが増えたと思われるのでまあ、大丈夫でしょうとのお言葉に、ほっ。  
・中性脂肪:87 → 76 (  〟 18~69 ) やや高めだけど、このくらいならまあいいでしょう、とのこと。
・血 糖 値:134 → 145(  〟 56~136 )げっ、上がってるよ~。 
ストレスでも上がるので、ここに来るまでにキャリーに入れられて車に揺られてなどでストレスがかかったとも考えられるので (道中、ずっと興奮して鳴きまくってたからなぁ~ )、まあ、あまり気にしなくてもいいでしょう。 とのことで、ほっ。  


そうそう、体重は、6キロ以上あったのが今回5、85キロに減ったそうです。 
でも、5、5キロくらいがよいらしいので、もう一息だそうです。

お腹のたるみは、だいぶなくなったんですけどね。 


そして、今までシロチは、食べ残したソラチの餌や、生きてる時はドラチの餌まで横取りして食べてたことによる “食べ過ぎ” が原因で太っていた、長年の蓄積でそれが肥りすぎになってきた、と思い込んでいたのだが・・・

今回先生に聞いたところによると、普通のネコだと、市販の餌を食べてもちゃんと体内で自分で脂肪分を分解するらしいのですが、

シロチの場合はそれができない、
つまりは 「脂質代謝異常」 という “病気” なんだそうです。

ぎゃーーーーー、 先生、それを早く言ってよ~。  

それが続くと、「肝リピドーシス(脂肪肝)」 になるらしい、というのは前回も聞きましたけどね。


なので、シロは自分の餌があまりおいしくないのと、ソラチの食べてるものが多分羨ましいので、ソラがエサを残すのを陰で見ていて、ふと油断すると残したのを食べてるので、

二人の餌を食べ終わって餌鉢から離れた途端に残りは冷蔵庫にしまう、というのが大変なので (ソラは出されると一気に食べるけどシロチは途中トイレに行ったり何度も離れたり来たりの繰り返しなので余計に ) 

もし、今回検査結果で数値が正常に戻っていたら、ソラチの餌をシロにも与えてはだめか、と聞こうと思っていたのだけど

ソラチの餌は結石を防ぐという機能しかないので、カロリーが高いから、絶対あげてはだめなんだって。

今までは、尿結石に一度なったネコは、一生結石を防ぐ療養食 「FLUTD(猫下部尿路疾患)の食事療法用で、ヒルズのc/d」 以外の餌を食べてはいけない (他の餌を食べてしまうと療養食の効果がなくなってしまうから) と聞いていたから、
ソラチがシロの餌を食べないようにと気を使っていたのだが、

どちらかというとシロチの療養食 「体重管理・糖尿病・消化器病の食事療法用で、ヒルズのw/d」 というもの (結局、肝臓病ではないので、肝機能をよくする、というエサではなかったのでした) には、結石を防ぐ成分も入っているらしいので、
もしもソラチが間違ってシロの餌を食べてしまっても、そんなに大騒ぎするほどダメではないらしかったんです。  そっちの方が神経質になるくらい、うんと心配していたのに。
 

もおっ     なんてこったい。

うちの バカ夫 は、
シロチの餌は匂いからしてまずそうなので、

ソラの餌 = 療養食 = 市販の餌よりは体にいい

と勝手に解釈して、シロが食べたがってるんだし、自分の餌だけではお腹がすくから、少しくらい食べさせてもいいだろうと、

私がやめた方がいいっていうのに、 「大丈夫だよ」 とタカをくくって
ソラの食べ残しを、毎回シロチに食わせてたらしいんですワ。   


もお、 バカ アホ マヌケ おたんこなす の くそじじい  

あっ、くそじじぃはよぶんか・笑。  


ま、とにかく、あとで夫には、二度とシロにはソラチの餌を食べさせないように、
ソラにもシロにも、今後いっさい自分のエサ意外のものは与えないように   と、よーく言って聞かせました。


ゴンドラ、ソラシロ、&モモチのことで、過去、夫が 「大丈夫だよ」 と言ってタカをくくっていたことで大丈夫でなかったことがどれほどあったことか。 

それなのに、こいつらのことで私のした、ほんのちょびっとの失敗にはものすごく怒り、

自分の失敗には謝ろうともしないんだから、 

ほんっと   くそじじい   以外の何物でもない。           


ついでに、 「人間でもネコでも、一度ついた脂肪はなかなか減らないんだなー。」 と帰りの車の中で人のことチラチラ見ながらニヤニヤとこきやがった夫のヤロー、

ぶん殴ってやる             
 


さてさて、

10時半頃に血液検査の結果が出た後、肉球に汗をかくほど緊張して袋に包まれて採血されて、すっかりしょげかえったシロチは、ずっと鳴き続けていた道中と打って変わって、キャリーの奥の方で丸まって鳴きもせずおとなしくなったので、

事情を話して病院の待合室で母と夫を待たせてもらっているとき、シロを預けて、ほんの5分ほど先のスーパーへ、今朝時間がなくて食べられなかった朝飯 (パンやサンドイッチ) とコーヒーを買いに行き、

その日は空いていてあまり待っている人がいなかったので、人がいない時を見計らって買ってきたものを食べ、スマホを見たり置いてある雑誌を見ながら待っていると、

もう11時すぎには、眼科の診察を受けた母を乗せた夫が戻ってきました。   はやっ 

南松本の病院から松本駅前、片道でも30分はかかると思うので、ほんとにびっくり 


それで、途中、最近開拓したTという、以前にも書いたちょっと高級?でいいものを売っている大きなスーパーに寄って、
眼科まで乗せて行ってあげるお礼?として、母のおごりで留守番している父の分も含めた4人分のお昼のお弁当 + α を買ってもらい、  

塩尻のT眼科で私のコンタクトを受け取って帰りました。 
( ○子の眼科が一番時間がかかった、と母に言われてしまった。  普通のお店と違い眼科医なので、受付や他の患者との兼ね合いですごく待たされたのだ。   おまけにここまでスムーズに行って午前中だけで帰ってこられ、お弁当も買ってもらい、有頂天でもう家に帰る気になっていて、肝心の自分の眼科へ寄るのをコロッと忘れていて、母と夫に、寄るんでしょ、と注意された私。 しかも、眼医者への行き方を、人の車でやり方がわからないので、ナビに後部座席から入れてやり、なんでスーパーの駐車場で言わないで車運転しだしてからいうのよっ   と夫を怒りつけた矢先に、であった・笑 えへへ ゞ )


その後、Kに入ってから、近所のホームセンターでソラチのペットシートを買い、1時過ぎには自宅に到着しました。


母は、以前は私の今かかっている塩尻のT眼科に行っていたのですが、15、6年ほど前に白内障の手術をしたのだけど、その手術がTではできなかったので、松本のN眼科でやってもらい、以降、Nがかかりつけ医になったのです。

ドライブに行っても、もう歩けないからとベンチに座ったきりで公園散策しないくせに、二カ月に一度の松本のN眼科へは一人で電車に乗って出かけ、
それが自信になるのか、いつも 「もういけないと思ってたけど、行って来れたよ。」 と、駅のコンビニでパンやおにぎりなどのお土産まで買って、嬉しそうに帰ってきたものでしたが、

「だって、乗せてってもらった方が楽だもん。」 (たまに父の用事と合うと父の車で二人で行き、帰りは母一人が電車、ということはあった  それはそれで、高齢なので父にはもう、国道を運転して松本まで行ってほしくなく、心配なのだが) と言ってはいたが、もう松本まで電車で行くのはしんどいのかなぁーと思ったりもした。
今回も普段は2カ月に一度なのに、もう年内は行かなくてもいいように、3か月分の薬をもらってきたんだそうです。
なので、薬と簡単な検診だけなら塩尻のT眼科に替えられないか、今度聞いてみようと思います。
そこなら、私でも夫でも、もっと気楽につれてきてあげられるのだから。(但し電車で行く場合はN眼科は松本駅前であまり歩かなくて済むが、T眼科は塩尻駅前からかなり歩くのが難点)


そしてその日の火曜夕市は、自分の家の卵はあと1パックあるし疲れたから、と母は行かなかったので私一人で行ったのですが、

夕方には元気になったのか、こたつ布団を作った (毎回、シーズンが終わると洗濯のためほどいてあった、下掛け、布団、カバーをズレ防止のために糸で縫いつけているため) のでいつでもコタツを出してちょうだい、 と母が言うので、

頑張って、敷物をいゴザからムートンに変えながら大掃除をしてコタツをセット (枠はテーブルとして一年中出ているので、その他の床部分、布団などのことだが、床も掘りごたつ式になっているのでセットは、けっこう大がかりなのだ。) しましたけど、

主な力仕事は私がやったけど、母も張り切って自分にしかできない部分を手伝ってくれたので、ちょっとホッとしました。 


そして両親ともに、 「○子がコタツを出してくれたもんで助かったー、ああ、あったかい。   」 とものすごく喜んでくれたので恐縮してしまいましたが。 






病院から戻り、安心したように私のソファー近くの、私のひざ掛けの上で丸まるシロチ。
今回は行も帰りも、キャリーの中で、おしっこもうんちもしちゃわなくて、興奮してみゃーみゃー鳴く以外は (これはでも、仕方ないです) ほんと、いい子で行ってきてくれました。  



その夜、
まさか病院に行ったとは知らないので、たぶん、シロチをつれて、おとーさんとおかーさんが、ボクだけ置いてどっか行っちゃったよぉ~     とオロオロオしていたのでしょう、

みんな戻ってきて安心しただろうソラチは、ひたすらおとーさんにひっついて



ふにゃらふにゃらしてました。

このぉ   休みだったから、戻ってから飲んだくれた夫が夕寝する時に、一緒にベッドで寝てるくせに (最近、夫が寝るといつもソラチが追いかけて行って一緒に寝てるのだ、ぐやじい゛っ  ) 

まだ、ひっついていたいのか     
  

またそれを、夫が自慢するので、ああ、ぐやじいっ゛          




でもね、寒くなってホットカーペの電源を付けるようになったら・・・



いつまでもリビングにいて幸せそうにしてくれているので、 あー、うれしい。

ほんとに、ネコはかわいいなぁ~     


そんな ソラシロ を見ているだけで 心が和やかになり、幸せです。    
 

ソラチのおしっこも順調に出ているし、シロもこの療養食を続ければ、あとは一年に一度だけ血液検査に来れば問題ないそうです。 

九死に一生を得たものの、今後も一生結石予防のエサしか食べられない、でも、おしっこが出ている限りはもう病院に行かなくてもいい、と言われたソラチよりも、

体がデカいから丈夫そうに見えたし、俺さまでソラチもいじめるから、なんとなく 「ふてぶシロチ」 と呼んでいたシロのほうが、年に一度の血液検査に行かなくてはならないし、今後も療養食しか食べられない病気だったとはビックリ   であるが、

病気と分かった途端、「ふてぶシロチ」 ではなく、なんだかいじましくも思え・笑。
「いじまシロチ」 ですね。

( そういえば人前では絶対にもどしたことはないし、もどしたとしても毛玉だけをごくたまにというソラチに比べると、シロチはほんとによくもどす。猫だからもどすことはいいことだと思い、その後も元気に飛び回ったり、吐いた分お腹がすくから餌も食べてたから、ありまり心配してなかったけど、消化機能とかも弱いのかなぁー。
華奢でひ弱そうなソラチより、シロの方が意外と物音などに臆病だしね。 )


ドラチが、捨て猫だった割にはトイレの躾けもちゃんとできていたし、丈夫で病気などしたこともなく、S条での失踪事件を起こすまではほんとに何一つ手がかからなかったので、
犬に比べて 「ネコはなんて楽ちんなんだろう 」   と思ったものだが、
ソラシロの、なんと手間のかかることか。 

まあ、手間もお金もかかるけど、  
2匹飼っているのに、シロはトイレ砂だけ、ソラはソファーに敷いたペットシートの上だけでしかおしっこをしないので、ちゃんと出てるかの確認にはちょうどよく、
もう、尿結石もないのか違うとこでおしっこしちゃうこともなく、

餌は市販のものよりは高いけど、登録してある病院と提携している通販システムに、午前中までに電話すれば翌日には自宅に届く (だいたいそれぞれひと月半~2か月に一袋くらいの割合で確か一定金額以上は送料無料。4キロ入りを買っているが一袋で送料無料になる金額) ので、
以前のように、だいたい月一程度とはいえ餌がなくなる心配をしては、缶詰とドライフードをホームセンターに買いに行って、重いのを一生懸命自分で運び、ネコ缶とカリカリを二種類与えては、毎日缶からを洗い、外側の紙を剥ぎ、缶つぶし器でつぶしては、ふた月に一度の缶の日に捨てる、

などの手間から解放され、もうはかりでは計ってないので決められた量のほぼ目分量を毎日朝と晩に一度ずつ、この餌だけをあげてりゃいいんだから、かえってラクだし、

そして、仲良しでのんべの長野の友達Sちゃんから以前、白猫って寿命が短いらしいよ、と脅されて  心配してたけど、  

たぶん、毛の色がまっ白なのも、お目めがブルーなのも 「突然変異 = 奇形の一種」 なのだと思うので、そのぶん、可愛いけど弱いのだと思う。

でも、おかげさまでシロもソラも、早くに病気がわかって療養食治療を続ければよいので、
この餌さえ食べていれば大丈夫   と逆に思えるので 

本当によかったです。   


最近TVCMでたびたび耳にする スマホゲームの 「白猫プロジェクト」。 

聞くたびにいつもなんとなく嬉しくて笑ってしまうのだが、 うちの白猫プロジェクト、

ソラもシロも、 長生きしてね。    


シロの血液検査、その後どうなったかなぁーと心配されていた皆さま、なので、安心してくださいね。
( ついでながら夏に受けた、私の子宮がん検診も異常なしでした。 )







発表会直前、そして色々・・・。

2014年10月17日 | その他 色々
御嶽山での救出活動が、昨日でいったん打ち切りとなったようです。

数日前に山頂では初雪があり、その前に降った雨の影響もあってのことと思われますが、地肌がアイスバーンのようになっており、
自衛隊隊員の安全性も考えて、とのことらしいですが、それよりも、凍った地面を捜索するのは不可能に近いということなのでしょう。

未だ不明の方々のご家族としてはやりきれない気持ちでいっぱいだと思いますので、本当にお気の毒だと思います。
どうか春になり、一刻も早く捜索活動が再開されて、不明の皆さんが全員下山されることを願ってやみません。

本日、御嶽山の地元O村では、地元の小中学校の児童、生徒らが自衛隊員へ、3週間にも及ぶ捜索活動へのお礼と感謝の気持ちを込めて歌を歌い、送り出してあげたそうです。
その様子が地元のニュースで流れたのですが、その歌を聞きながら、中には、つらかった山頂での捜索、ご家族、登山者の方への思い、そして村の人との交流のあたたかさ (村では炊き出しなどの援護をしたそうです) などを思い出し、涙ぐんでいらっしゃる隊員の方もいました。
そして、自衛隊の災害支援車が次々と退去していく様子が最後に写しだされました。

O村の比ではないのですが、K町でも、あちこちで見かけた支援車や報道陣の方々の姿を見ることももうなくなると思いますし、ヘリの音におびえることもなくなると思うので、
そういう点ではやっと落ち着いた日々が戻ってくるかと思います。

ご心配いただいた知人や読者の皆様、本当にどうもありがとうございました。


このたびの御嶽山噴火で犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りしますとともに、
捜索活動にご尽力いただいた自衛隊、消防などの方々、また、報道や災害対策本部の方々には、本当にご苦労さまでございました。

自然の災害は、いつでも突然に、私たちに牙をむいてきます。
それを予知したり防ぐことはなかなか困難なことなのですが、被害を最小限に食い止められるよう、
これからできることをやっていけるといいなあと思います。

噴火するとわかっているものをなぜ観光地として売り出したのか、というご意見もあったそうですが、
非難されることを承知で、あえて言わせていただけますのなら、
地元の人間は、誰も噴火するとは思っていなかったのです。
なぜなら、御嶽山はかつては死火山と思われていたほどで、1979年の噴火は有史以来初めてのこと、2007年の噴火と合わせても、いずれも小規模なものであり犠牲者なども出なかったので、今回の噴火に際しても初めは大したことはないだろうと誰もが思うほどでした。

そんなこともあり、かつて噴火したことがあっても大したことはないだろうとの甘い認識でもありましたし、
また、人間の哀しい性として、時間がたてば大丈夫という保証など何もないのに、
何事もなくて時間がたつと、もう噴火はしないような、大丈夫なような気がしてしまう、またはそのことについて忘れてしまうというのがあります。

災害、戦争、そして病気なども。そういう例は、ここだけではないですよね?

みなさんは、観光で売るしか生きるすべのない、「貧しい山村」 の人々の暮らしや、その、気持ちがわかるでしょうか?

( ここでいう貧しいというのは山村自体のことを指すのであり、個人の生活レベルについて言っているのではありません。
自然や心のゆとりなど逆に豊かな面もありますので誤解なきように。 )

犠牲になられた方々のご家族やご友人などの方々の憤りは痛いほどわかりますし、その方々に対しては返す言葉もありませんが、
もしもいるのだとしたら、第3者の方々に、そういうことを言ってほしくはないのです。


更なる安全対策を強化して、O村にまたいつの日か、活気と笑顔が戻ってくれることも、同じK谷に生きる人間として願ってやみません。




     * * *   * * *   * * *   * * *   * * *




 私の大好きなフィギュアスケーターで、ソチ五輪後に1年間の休養宣言をしていた高橋大輔選手が、
10月14日、正式に引退の意を表明しました。

少しびっくりしたというのが正直なところで、それについて新聞記事やネットでの検索をはじめ、今日中に記事を書き上げようと思っていたのですが、
思ったよりも資料が多くて、とても読み切れず、間に合いそうにありません。  

練習にこれでいい、ということは本来ならばないはずなので、こういうものを書いている間にでも、少しでもピアノ弾いてくれてたらいいのに、
と、さんど先生なら思うと思うし(笑)、そこまでしないとしても(笑)、「気持的」 に明後日に迫ったピアノ発表会に集中しないとヤバイんで、  
それは、発表会後にまとめさせていただくことにします。 


 アルフィーの40周年セレモニーについても、やっと書き上げて安心、と思っていたところ、実は自分で思い描いていた部分からすると重大な落ち度があることに一昨日の夜になってトツゼン気づきました。 

あれはあれでまとまっているので今さら直せない (だからこそ、その抜けた部分に気づけなかったとゆーのもあるが) のですが、
実は、「番外編」 というのを用意していたので、それと合わせて、落ち度の部分の補足?ができるといいなあと思います。
( カンペキだと思ってたのに・・・あ゛あ゛っ  ぐやじい゛っ         )



と、ゆーよーなコト、でも、際限なくは続きませんよ。後がつかえてますからね。

今月中には終わらせて、次なるステップへと進む予定 (今度こそ) なのですが、

とりあえずそれらのものは、発表会後に、ということで・・・、



さあ、泣いても笑っても  ピアノ発表会はあさってです。

明日はこちらへは来ません。

ここまできたら言い訳はできないので、せめて今晩~明後日の発表会前まで、できる限り頑張りたいと思いますので、 


みなさん、応援よろしくお願いいたします。    


( 発表会は、10月19日(日)、当日午前中に自分の分だけのリハーサル (約5分) を終えてから、午後4時からです。 ) 








THE ALFEE 40th Anniversary ☆ ceremony concert in 8/25 @武道館  その4 コンサート・ファイナル編

2014年10月12日 | THE ALFEE、Takamiy
 


さてさて皆さま、2014年8月25日(月)、真夏の武道館にて THE ALFEE 40th Anniversary ceremony & special concert が開催されてから、既に一か月半以上が過ぎてしまい・・・  

これまでに
 THE ALFEE 40th Anniversary ☆ ceremony concert in 8/25 @武道館  その1 導入編 ( 2014年08月30日 | THE ALFEE & Takamiyカテゴリー )
 THE ALFEE 40th Anniversary ☆ ceremony concert in 8/25 @武道館 その2 40thセレモニー~前編 ( 2014年09月03日 | 同上 )
 THE ALFEE 40th Anniversary ☆ ceremony concert in 8/25 @武道館  その3 コンサート中盤編 ( 2014年09月06日 | 同上 )
と、3回にわたり報告レポートを書いてきましたが、

ダラダラしているうちに、
途中、「これは今、UPしとかないと」    みたいな出来事が起こるたびにそちらを優先しておりましたところ、 

気づいたら、こんなに時間が経っちゃってて、真夏の武道館  どころか、
もぉ秋だよー       

てなカンジですが・・・


もー、続きはなぃ   と思ってたでしょー 

チッチッチッ    

おぬし、甘いぜょ 

「しつこいのがとりえ、猫田ジャレ之介くん」 
(何しろ、15年もたって1991年の本を出すよーなヒトですから・笑 σ


これを書き上げなければ、ピアノ発表会にも電子書籍にも 集中できにゃぁーーーいっ     


と、ゆーんで、

またしても 「まえ置きが長い 猫田ジャレ之介くん」 ですが、


 続きの記事、スタートぉー               
( 何が書いてあったか思い出せない方は、上記記事を読みなおされることをおススメします。   )



と、言いつつも、そんなヒマなんてなぃわぃ     なヒトのために、かいつまんでお話しますと・・・、


 セレコン直前に、怒涛の5話連続&4話連続ブログUPを終えて  真夏の武道館へと向かったネコタは、  
いつものように上京してすぐ会場に直行、記念品を交換した後、新宿に戻り、短時間で着ていく洋服の全揃え大人買いをし、   
ホテルにて着換えや持ち物の整理をし、  再び武道館会場へと向かったのですが・・・  
いざ記念セレモニーが始まってみたら、鏡割り後に会場でみんなでお祝いするための 「乾杯用の升」 をホテルに置いてきてしまい、 
( だってぇ~、升を使うだなんて、よもや思わなかったんだもぉ~ん。ここで主催者側にひたすら文句をタレるネコタ ) 
 涙かすんだ 「夏しぐれ」  ちょっぴり哀しい40thの乾杯を、素手のグーで行い、   「感謝状」の感激も上の空。 
おまけに、メンバーの後ろ姿しか見えにゃぁーーーいっ。         
と、切ない気持ちでうるうるしていたところ・・・  
なんと   メンバーが自らマイクスタンドを移動させて、横や反対側の客席も正面になるようにと少しずつ回ってくれはじめ・・・       
南正面スタートから、西正面と来て、ヤッタァ~~~  ついに東側が正面だワ。   
センターステージのため、普段はありえない、近めのナナメ上からタカミーをご拝観。     
その位置からでこそ楽しめる、珍しい舞台装置やタカミーの見え方にほくそ笑むのであった。ちゃんちゃん。     

というのが、前回までのオハナシです。そして・・・


 あっという間に至福の時間は終わり、今度は最後の方向、北側正面に。 

ここまで、一曲終わるごとにMCが入り、デビュー当時のお話、ライブハウス時代などの、興味深い思い出がメンバーの口から語られます。

詳しいことは覚えてないのだが、その話題から、きっと今度はこの曲だわ、遂に聞けるんだわと期待に胸が高鳴り・・・  

作詞作曲は 「ヤッターマンの歌」 などを手掛けた山本 正之さん。

1968年12月10日、東京都府中市で現金輸送車に積まれた東京芝浦電気(現・東芝)従業員の “ボーナス約3億円” が、偽の白バイ隊員を装った何者かに奪われるという、
俗にいう 「3億円事件」  は、現金強奪事件としては当時の最高金額であったことや、白バイを装うなどの手口の功名さ、また、白ヘルをかぶり逃走する犯人の “モンタージュ写真” (意外と童顔でかわいらしかった) が公開されたり、何かと話題に事欠かない、当時の 「大事件」 で、幼かった私もよく覚えているのだが、

その、三億円事件のパロディ・ソングを、ALFIE(現・THE ALFEE)の3枚目のシングルとして、三億円事件の公訴時効日である 「1975年12月10日」 に発売をする予定だった。


鳴り物入りで、“アイドル・フォークグループ” として売り出したものの、1枚目のシングル 『夏しぐれ』(高見沢ボーカル)、2枚目の 『青春の記憶』(坂崎ボーカル) と鳴かず飛ばずであったため (その後メンバーの一人が脱退したこともあり)、

3人体制となった “新制アルフィー” の、再起をかけたシングルだった。


曲はパロディーソングのコミカルさを出すために、高見沢が、なんと初めてマンドリンを弾くことになり・・・
当時、坂崎の下宿のあった浜町の、浜町公園は、3人の絶好の練習場所。

秋風のすさぶ公園で、日が暮れてもまだなお練習し続ける高見沢に、桜井が、「もうやめようよ~。」 と声をかける。
「あともう一回。」 そう繰り返しては夜が更ける。 
不器用な高見沢は、人一倍の努力家だった。
(マンガ 『ドリ・ジェネ』 の、もう一回、と言いながらバスケットゴールに向かう少年高見沢の描写が脳裏をかすめる。)

そうして、やっと完成した3枚目のシングルが、なんと社の良識に合わないということから、
こともあろうに “発売予定の前日に、突然発売中止” となった。     

「発売停止じゃなくて “中止” ですよ。遠足じゃないんだから。」
「そうだよな、(こういう曲で発売されるって)わかってたんだから、やめるんならもっと早くに言ってくれなきゃ。前日になって急に言われてもなぁ。」 

メンバーたちは、このころのことを思い出すと未だに冗談交じりのため息をつく。  

東京及び近郊で、平凡な中流家庭の次男坊として生まれ、のほほんと育ったためか、人のいいのが取柄で、
闘争心や向上心がないだの、覇気がないだの言われてきたメンバーだったが、この時ばかりは怒った。  

当時マネージャーだった関口登 (現在はアルフィーの所属事務所であるエイト・デイズの社長) は、所属していたレコード会社ビクターとの契約を打ち切り、
ここからアルフィーの、ライブハウスでのコンサートを中心とした、関口との4人5脚、孤高の戦いが始まる。    


「ちょっと待って、マンドリン久しぶりなんだからさぁ~。   音合わせるの大変なんだから・・・」
ステージ上のタカミーが焦りながら笑う。

取り出したのは、高見沢らしく 「エレクトリック・マンドリン」。 

へーえ、そんなのがあるんだぁ~、と息をのむ。

マンドリンの澄んだ音色が響き渡り、 幻の迷曲 『府中捕物控』(ふちゅうとりものひかえ) が、
おそらくホールコンサートとしては初めて披露 (※注) される。

3億円を強奪した人は悪い人だけど、みんなで分けようね3億円、みたいなことを歌った、
「なんでもあり」 の現代からするとそれほど悪い内容とも思えない、というか、むしろ面白くて夢のある曲のような気もするのだが、あの頃としては問題あり、だったのだろう。

当時の悔しさをパロディーに替えて熱唱するメンバーの、若き日の姿がそれに重なる。


意にそぐわないデビューをお膳立てられ、渾身の思いで臨んだ3枚目のシングルが発売中止となり、
こんなふうに悔しい思いをしなければならないのは、自分たちに “オリジナル曲”(主義主張)がない からなんだ    

そう悟ったメンバーたち (主に高見沢) は、 この日からモーレツに曲を作り始めた  という。         


そう思うにつけ、この曲は、ヒットしなくてよかったのだ、と我々ファンは思う。

『府中捕物控』 が、発売中止になったおかげで、私たちはその後、結成40年も続く、
40年たっても初心を忘れることなく突っ走ってくれる、頼もしいアニキたち、THE ALFEE と共に走り続け、一緒に夢を追い続けることができるのだから。  


幻の名曲が終わった時点で、一曲だけで気の毒だったけど、北側正面はおしまい。
( どちらかというと北寄りの東だったので、北正面も横顔のメンバーが望めて、南正面よりはおいしかったので自分も残念・笑 )

最初の南側を正面にして、静かにあの曲のイントロが流れる。 
( と、いい所だったのに、ギターより小さいエレキ・マンドリンを久しぶりに?弾いて感覚が鈍ったというタカミーが、2,3度出だしをつまずくというハプニングも     )


『ロンサム・シティー』 は、学生運動への名残と惜別を歌った、大好きな曲で、心に沁みる。

そして高見沢俊彦が、なぜ曲を作り詞を書いているのか、その根底にあるもの、原点を説くかのような曲でもある。


その後、キーボードとドラムが加わり、 “現代(いま)” の、バンド形態のアルフィーが力強くメロディーを奏でる。

曲は3人のアカペラ部分コーラスが映える スリー・ドッグ・ナイトの 『It's for you』 から 
高見沢がヒット2作目として、 “ヒットを狙って作り” 文字通りヒットしたという不滅の名作、 『星空のディスタンス』 へと流れてゆく。        

このあたりから、3人の立っているまあるいステージの、外側 (ドーナツ盤の先端) の部分に、懐かしのステージ映像が映し出され、
それがまるで “レコード盤” のようにくるくると回っているのが見える。

まわるステージって、これのことだったんだぁ~   

と喜びつつも、この映像と本物の彼らと、どちらを観ようかと戸惑うほど。
回る映像に目を凝らすのも忙しい。  


その後、アルフィー初のヒットとなった思い出の 『メリー・アン』 から、



アルフィーの “反骨精神” の真骨頂、 『My Truth』、『SWEAT & TEARS』 と大好きな曲が続き、
セレモニー・コンサートがいよいよクライマックスへと近づいていることを教えてくれる。 




上の方だったので、会場全体が見渡せて、

まるで暗闇にともす光のような、美しい照明に照らし出されたメンバーの姿は神々しくすらあった。

感激だった。  
( 本当に、この映像の様な感じで見えたんです  )


 タカミーのMCが入り、40年を迎えた自分たちのこれからの決意を指し示すような 『もう一度ここから始めよう』 が厳かに流れる。

そして大好きな新曲 『英雄の詩』。


子供のころ、空も飛べると信じていた。
なんにでもなれると思っていた。
僕たちは英雄だった。

だけど時が流れ、大人になった今、息の詰まりそうなほどの毎日に、理想と現実との狭間でもがいている。
負けたときこそがチャンス、勇気を奮い立たせてその手に栄光をつかみ取ろう。

( 以上はネコタの意訳 )


力強いメロディーに、夢をあきらめるなとそっと励まされる。

そして、サビの部分は、いつ聞いても胸がきゅうんとする。
 
THE ALFEE が、タカミーがずっとそこにいてくれること、私たちファンを愛し続けてくれることの幸せ。   

 
ここで本編が終わり、メンバーがいったん北側後方に引っ込む。


衣装替えもなく、再び登場して歌われたのは、 

桜井賢が高校時代にクラスメイトと作った 「コンフィデンス」 というグループで、この曲を歌い、それがフォークコンテストで優勝した。

たまたまそのコンサートに出場しつつ、一緒にやれる仲間を探していた、根っからのプロ志向だった坂崎幸之助は、
その歌声に魅了され、これはプロでイケるだろう、そう確信したその矢先に、
偶然レコード屋さんでバンドメンバーから声をかけられたのがきっかけで、ちゃっかりコンフィデンスに潜り込む。

アルフィーというバンドの、全てがここから始まった、サイモン&ガーファンクルの 『THE BOXER』。


この曲は (というかS&G全体だが) 自分にとっても思い入れがあるので (長くなるのでいづれまた・笑)、 しみじみと心に沁みわたる。


 オーラスは、高見沢がこれまでの音楽人生、そして自分の人生を振り返り、
そのすべてを賭けて新たなる決意を込めて歌った名曲、 『GLORIOUS』。


初めて聞いたのは2012年のソロコンサートでだったが、その時は色々で素直に入り込めなかったので、
翌年DVDになったときに聞いてみたら、涙があふれて止まらなくなった曲。   

失った古い昔の友。

生きている自分。

これから生きていくこと、歌を愛し続け、大切なメンバーと、愛するファンと、共に歩んでいこうとするその決意は、

ミュージシャン高見沢俊彦が、ここまで歌っていいのだろうかと思わせるほどの、ものすごい反省と決意を匂わせるもので、

そんなところにも高見沢の潔さ、男気、穢れのない魂の美しさみたいなものを感じさせて胸が熱くなる。



「(高校時代はエレキをかきならすロック少年だったから) エレキギターを前面に出せないのは、そりゃあジレンマはあったよ。だけど僕は (グループに) 後から入ったから、そこは押さえてた面があったよね。」

アコギにこだわってきた初期のアルフィーの、当時を振り返って語る高見沢に、

「なかなかできることじゃないですよね。」 と堂本光一らが、感心して頷いている。

高見沢の生誕60周年を記念して、彼もレギュラーの一員として長く出場してきた 『新・堂本兄弟』 にて、彼の誕生祝特集番組を組んでくれ、今までの60年間の人生、40年間のバンド生活を映像と共に振り返っていた時の一コマである。


もう音楽はやめて、親父のように先生にでもなろうかな、高校からそのまま進んだ明治学院大学のキャンパスで、ぼんやりとそんなことを思いながら勉学に励もうとしていた高見沢は、坂崎に声をかけられる。

坂崎は違う高校だったが、コンフィデンスのみんなが行くならと、明学に進学、キャンパス内で、高校の文化祭でその姿や声を垣間見ていた高見沢を見つけたのでなんとなく声をかけたのだったが、話してみると意外にも音楽の趣味が合う。

そのまま 「俺んちに来ないか?」 と誘い話し込むうちに、ますます意気投合。「実は明日コンフィデンスのコンサートがあるんだけど、出てみない?」 と誘われたので、 「ああ、いいよ。」 と、のこのこ出かけて行った高見沢は、そのままコンフィデンス (のちのALFEE) の一員になる。


なんとなく加わった、一番最後のメンバーだという遠慮が高見沢にはあったので、
デビュー前にプロデューサーから、ギタリストで入ったつもりだったのに、 「君、ギター弾かなくていいから」 といきなりハンドマイク、リードボーカルを言い渡され、『夏しぐれ』 でデビューすると告げられた時には、どれほど居心地が悪かったことだろう。

なぜならもともとは桜井の声にほれ込んだディレクターが、彼の声でデビューしようと約束をしていて、 『危険なリンゴ』 という桜井ボーカルのポップチューンがデビュー曲となる予定だったのだ。

そして、まだ20歳の学生だったことも手伝ったのか、当時の風潮もあったのか、有無を言わせない、着せ替えられた人形のような仕打ちを受け、あれよあれよという間に、アイドル・グループとしてデビューさせられてしまったのである。


涙滲んだ文字が 読みとれない

ぼくはくちびる噛んで ひとり耐える    ( 松本隆作詞/筒美京平作曲 『夏しぐれ』 より )


二人暮らした部屋に置き手紙を残して去って行った彼女との恋の終わりを描いた曲なのだが、

この部分などは、まるでデビューにまつわる当時の、高見沢の心境そのもののようだ。


 「なぜバンドが40年も続いたかよく聞かれるんですけど、それは桜井、坂崎、高見沢だったからです。」

高見沢をはじめとするメンバーは、胸を張って答える。


バンドには大抵、グループを創設したり、主に曲を書くかボーカルを取るかで、他のメンバーより一歩リードしていて、グループをひっぱって行くような、強烈な個性の持ち主が存在するものだ。

だが、アルフィーには、そういう “俺が、俺が” という人物がいない。

「どうぞ、どうぞ」 の精神だ、と言っては笑うが、

自分ボーカルでデビューするはずだった桜井が、いきなりその座を高見沢に奪われたからと言って怒ったり拗ねたりもしなかったし、

( ギター弾いてたやつが、弾かなくていいってのはいいよ。ただ歌えばいいんだから。だけど、ただ歌ってただけで弾けない人間に突然ギター弾けって言われてもね。だから、当時は弾く真似だけ。元祖、エアギターですよ・笑。と、当時を振り返り笑っているほどの桜井である。 )

主に曲を書いていて、セットリストやその他もろもろをとりしきる高見沢が、威張ることもない。

傍から見ると、楽曲のほぼすべてを一人で書き上げ、リーダーで、おそらく一番モテて、
普通だったらワンマンになるはずの高見沢は、

実は外見に反して、意外とかなりの間抜け (天然)(←失礼) で愛すべき人物であった。  
舞台上で転んだり、下に転がり落ちたり、何かをやらかしてしまう 「伝説」 に事欠かないのは、ロック界の長嶋茂雄かガッツ石松か、というほど。


「だって、こんな面白いヤツはいないよー。見たことないもん。」 と桜井が大声で笑えば、 
「ああ見えて、すごいドジなんですよね・笑」 と坂崎もうなづく。
「なんだよ・笑。バンドが続いた原因はオレかい!? 」 と、高見沢も苦笑い。 


よく、ウマが合うとか、波長が合う、というが、アルフィーのメンバーたちは、
稀に見る、そのすべてがそろった “奇跡の集合体” なのである。   

そしてその仲の良さには、偽りがまるでない。


墨田区で酒屋を営む坂崎の実家に、学生時代遊びに行くと、当の坂崎は手伝わずに、桜井と高見沢が坂崎の親父さんにこき使われたという。

「あれはね、人を見てるんだよ。」 なんでお前が手伝わないんだよ(笑)と憤慨する高見沢に坂崎が答える。

素直に言われたまま、一生懸命働く桜井と高見沢を見て、こいつらなら大丈夫だ、とおやっさんは思ったに違いない。    



「これだけ曲を作ってきて、コンサートのコント台本まで書くほど、セトリだけでなくステージ全体の構成にこだわるなど、強い思い入れを持つんだから、高見沢、お前がずっとリーダーやれよ。」

そう二人のメンバーから “終身名誉リーダー” の座を高見沢が言い渡されるまでは、
人当たりがよくてみんなをまとめる力があるからと、アルフィーの初代リーダーは、坂崎幸之助であった。

確かに今でも、公開テレビ録画やステージでも、 “客席全体を見渡す” 癖のある坂崎は、
芸術家肌で、役割が与えられない限りは、時に周りが見えなくなることもある高見沢よりも、常に人をたて、脇に徹することもある 「全体主義」 であるのかもしれない。


幼いころから、ウクレレ、ギターと肌身離さず持ち歩き、ひたすら練習を重ね、 「きっとプロになるんだ 」 そう強い思いのもとに、自分を信じて生きてきた。

プロとしてイケる、こいつはきっといいヤツだな、

そんな風に 直感で見抜いて2人をおびき寄せ、アルフィーを作り上げていった坂崎幸之助こそ、アルフィーの影の名プロデューサーといえるだろう。







終わった後の会場の様子を皆が写真に撮っていたので、つぃ、私も。

“回転舞台” の様子が、少しでも伝わるでしょうか?



この、ロゴタイトル (ピンク色の部分) と、3つのロゴマークのところが、くるくると回っていた。



人影がまばらになりつつある、武道館会場。

ラスト、3人の頭上に降り注いだ 「黄金(きん)色の紙吹雪」 が幻想的な雪のようで、とてもキレイでした。
( ステージとその周辺で金色に光って見えるものは、その紙吹雪の降り積もったものです。 )

                                

楽しかった40周年の記念セレモニーは終わり、心地よい夜風に吹かれながら九段下の駅へと向かっていく。 

地下鉄の入り口は、前に進むのが困難なほど人の波に埋もれていた。

これだけたくさんの人が、アルフィーの40周年を祝うため、今宵、真夏の武道館に集まったのだ。

そう思うと、進まない歩行にイライラするというよりは、その、沢山の人の波による、コンサートの余韻に酔いしれる。



 どうにかこうにかホテルに辿り着き、はっと我に返って 「感謝状」 の筒を開けてみた。








それは、一人一人の名前とプレミアムメンバーズの会員番号の入った、

正真正銘、THE ALFEE のメンバーから、“私だけ” に宛てられた感謝状だった。

そうか、これを一人一人に手渡すために、限定の会員制度を作ったのかもしれない。

なんてありがたいことだろう。

こんなに嬉しくて、素敵なことって、ない。   こんなことしてくれるバンドなんて、絶対ほかにはない。

感謝状、こっちが差し上げたいくらいなのに・・・


感謝状の文面を読んだとたんに、私は涙があふれて止まらなくなった。

 
          




  改めまして、THE ALFEE のみなさん、デビュー40周年おめでとうございます。      

40年前、3人で出逢ってくれてありがとう。

バンドを結成してくれてありがとう。

そして、困難にもくじけず、寄る年波にも負けず、

40年間一度も休まずに、バンド活動、トラベリング・コンサート活動を続けてくれてありがとう。

アルフィーの皆さんがいてくれたから、アルフィーの歌があったから、

つらいときにも励まされ、心の支えにし、頑張ってここまで生きてこられました。

これからも人生の先輩として、表現者として、そして同士として、末永く、共に歩んで行ってくださることを心から願いつつ、

私から THE ALFEE の皆さんへも、誠に僭越ながら 『感謝状』 を贈らせていただきたいと存じます。


受け取ってくださいますか?




 あれからひと月以上が過ぎ、何事もなかったかのように、10月2日から、また、いつもの様に THE ALFEE 秋の通常ツアーが始まった。
そして12月29日の、恒例大阪城ホールでのファイナルまでの3か月間を “トラベリング・バンド” として突っ走る。


大好きなアルフィーよ、これからも、ずっとずっと永遠なれ    

          





※ 注 
2014年現在でCD化はされていないが、ライブでは歌われたことがあり、ライブビデオ『THE ALFEE HISTORY III 1992〜1997』 (DVD『THE ALFEE KING'S NIGHT DREAM WESTERN Conference Final』) に収録されている。




 もう一つの記念品、カセット大のものは、

  
プレイボタン といって、勘違いでイヤホンはついてなくて、PCから取る充電器のみの付属でしたが、

手持ちのイヤホンジャックを本体につなぎ裏の再生ボタンを押すと、メンバーのオモシロトークが聞かれるという、
「ちっちゃな音の玉手箱」 でした。

録音はできず再生のみ、すでに録音してあるものが聞かれるだけのものですが、缶バッジ大で、裏にはバッジのように安全ピンがついているので、缶バッジのように使用してもよく、カワイイです。   

もちろん、いつものごとく、3人の40周年にちなんだ?スペシャルトークに笑い、
心も和ませていただきました。 


 また、例の記念の “ます” ですが、 “檜” 素材であると添付の印刷物に書いてあったので、
まさか 「Kひのき」、ぢゃぁなぃよね?   だったら、すごぉ~くウレシィんですけどぉ~。  
と思い色々調べてみましたが、残念ながらそれ以上の詳しいことはわかりませんでした。



 補足ながら、この日の武道館には、全国の 「アル中」(感謝状にも記載されているが、 “アルフィー中毒”のこと。本来のアルコール中毒=アル中をもじり、まさに一度なると中々足を洗えない、断ち切るのが難しい、まるで「中毒」のようだ・笑、と言う意味で、ファンの間ではこの名称が定着、むしろ誇りにさえしている) たちが、約8,000人集まったとされている。

都合により、プレミアム・メンバー会員に登録しながらも、残念ながらプレミアムコンサートに参加できなかったという人のために、コンサートチケット (プレミアムメンバーズにしか送られないもの) を所定場所に送れば、代わりに 「記念品」 のみであるが郵送してくれる、(おそらくは、チケットも記念になるため、半券を切り取って送り返してくれたのではないかと予測される) という、心憎いサービスまであった。

なので、推定8,000人以上の感謝状を、一枚一枚、名前部分はおそらく手書きと思われるが、用意してくれたのだと思うと、感動する。

プレミアムメンバーの登録料が、金額としては多少お値段がよかったことや、遠方、その他の事情で、初めからセレモニーコンサートに行かれないとわかって申し込まなかった人もいたかもしれないが、年6回の限定DVDの配布と、この記念品だけでもかなりの元が取れるのではないか、と私などは思うのだが・・・。
( 私だったらもしコンサートに行かれそうにないとわかっていても、せめて会員にはなったと思う。なぜなら、プレミアムメンバーになるのは、特典だけが目当てなのではなく、アルフィーの40周年を共に一年間応援しよう、という気持ちの表れであり、 「プレミアム会員」 であることがファンとしての誇りだからだ。 
事実、プレミアム・メンバーズになると、名前と会員番号の刻印された 「1年間限定の会員証」 が贈られるのである。) 
コレです。     ゴールドに40thロゴが映える。カッコいいでしょ!?

何より、この感謝状は、ファンであったら何物にも代えがたい宝物だと思う。

( ※ 以上は、あくまでも 「私個人」 としての考え方ですので、念のため。 )



 もう一つ、チケットには一枚ずつ会員の名前が記載されており、半券は名前のカタカナ書きとなっていた。これを見て、既に何かを予測したファンもいたようだが、その予測通り、セレモニー終盤で、メンバーがチケット半券をかき集めた箱の中から一人ずつ引いて、当たった人には、なんとメンバーが現在使用している本物のギターに直筆サインを入れてプレゼントされる、という 「超(太っ腹)ビッグ記念企画」  まであった。 (半券がカタカナ書きだったのは、読み間違いを防ぐためであろう。そういえば、申込書には会員証刻印のためのアルファベット明記のほかに、珍しく名前の読み仮名をちゃんと振るようになっていたものである)

そして、桜井、坂崎、高見沢と順に、それぞれのギターが当たった人は会場で手を挙げてもらい、スポットライトを当ててみんなで祝福する、というイキな演出まであった。 (ステージと客席は離れているため、残念ながら手渡しではなく、当たった人はコンサート終了後に所定場所にて交換、ということでした。)
もちろん、私は誰のギターも当たらなかったけど、 タカミーのギターは、私の大好きなギターの一つ、黒いボディーに赤い縁取りの映える、シャープなボディーのカッコイイ 「O.Z.Y -FLYING A-IV- ESP」  だったので、すごい羨ましかったです。 ( でも、今だったら40h&60th記念の ESP FLYING A-V "Limited Anniversary Version 2014" いちご&バニラの方が、もっと好きかも。 


※ 詳しくは、高見沢俊彦オリジナル・ギターを紹介したESPホームページ
http://www.espguitars.co.jp/artist/toshihiko_takamizawa/ をご参照ください。
溜息が出るほど、細部にまでこだわった美しいギターが並んでおり、楽器に詳しくない人でも、見るだけでも楽しいですよ。   





※ 『It's for you』『THE BOXER』 以外の曲で、特に但し書きがない楽曲のすべての作詞作曲は高見沢俊彦。
マンガ 『ドリ・ジェネ』 の正式タイトルは 『ドリーム・ジェネレーション』(吉岡つとむ作:少年画報社、絶版)

※ 写真の一部は、情報番組より、TV画面を写真に撮らせていただきました。 







NHK連続テレビ小説 『花子とアン』 の世界、そして私。

2014年10月11日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)



4月から半年間楽しんだ、通称 “朝ドラ” 『花子とアン』 が、ついに9月27日をもちまして感動のフィナーレを迎えました。

後半のドラマは10月1日からと決まっているので、なんとなく 『花子とアン』 は、9月30日までやるのかな、と思っていたので、

9月22日月曜日のテロップに (最終週) の添え書きを見て、え゛ー、もぉ終わっちゃうのぉ~   

と思っては泣き、   

9月27日のテロップの 「最終回」 の文字を見つけて、ああ、いょいょ今夜限りなんだわ、と思ってはまた泣き、     

このドラマ、

ほぼ90パーセント、 “毎晩”泣きながら見ていました。 
               


( 朝に弱いので “さわやかな朝ドラ” を録画で 「深夜」 に見ていたため   
 それだけではなく、何度も言うが、朝に弱くなくとも、TVでもラジオでも、家族が寝静まり誰にも邪魔されない状態で、ひとり真剣に、そのものに集中して見聞きするのが好きなので、ちゃんと見聞きしたいものは録画 (録音) で楽しむのが自分の鉄則です。 ) 

まあね、3年前 (平成23年) にハマった 『おひさま』 のように、夫も見たい、といえば一緒に夕飯の時に見てもよかったんであるが、第一回目の時に 「これこれこういう話だけど見る?」 と聞いたら 「見ない」 というので、なんでこんなに面白い話を見ないかなぁーとちょっと憤慨しつつも、それならいいや、と一人で見るに至ったわけです。

( 夫にとって見るかどうかの決め手がどこにあるのかは、ナゾ・笑。 )



本ドラマは、

カナダのプリンスエドワード島の美しい自然を背景に、
赤毛でそばかすだらけでやせっぽち、おまけに癇癪 (かんしゃく) 持ちで、そのうえ孤児だったことから、
想像力だけはたくましく育った 主人公 「アン・シャーリー」 と、彼女を取り巻く人々との愛と友情、笑いと涙を生き生きと描いた

『赤毛のアン』(原作者はL.M.モンゴメリ) に代表される 
“アン・ブックス(又は「赤毛のアン」シリーズ)” を日本中に広めた、

同著を翻訳し、日本の生みの親といっても過言ではない 「翻訳家 村岡花子」 の半生 を描いた作品。

( ドラマ原作:『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 村岡恵理(花子の孫)  脚本:中園ミホ ) 


高校から大学にかけて “アン・ブックス” にはまり、
まさに アンのように生きたいと願っていた “自称・夢見る少女” だった私にとって、 
   

その “生みの親” である 「村岡花子の生涯」 は、知りたくてたまらない世界 であった。



「アン」 を世に広めた “村岡花子” の話ではあるのだが、たぶん、脚本を書いた中園さんが 『赤毛のアン』 を意識したのだろう。

花子の女学校時代の話などは、まさに 『赤毛のアン』 の中のアンと同じ “事件”  が花子の身に起きたりして、
これは ファンにとっては 堪(こた)えられない。       

また、村岡花子の生い立ちや性格が、『赤毛のアン』 の主人公である 「アン・シャーリー」 によく似ている点が多いので、
これまた、ファンにとっては堪えられない   



村岡花子 (旧姓:安東はな) は、山梨の貧しい小作農家に生まれたが、
幼いころから本がものすごく好きだったために、父の計らいで兄妹の誰も行けなかった小学校に、一番下の妹の子守をしながら、みんなより数年遅れて入学、

その後、当時の田舎の貧しい家の者としては珍しく学があり、そのうえハイカラで革新的な考えの持ち主 (悪く言えば破天荒で自由気まま) である父の勧めで 「給付生」 として寮生活をしながら東京の秀和女学校に転入、

そこで初めて触れた 「英語の世界」 にとまどい、四苦八苦しながらも、
持ち前の努力家で負けず嫌い、好奇心旺盛な性格から、しだいにめきめきと英語を習得。

卒業後は、親のことを想い “後ろ髪引かれる思い” で郷里に戻って、そこで6年間母校の小学校の教員を務める。

その後、夢を捨てきれなかった花子は再び上京して、出版社に勤めながら次第に翻訳の仕事をもらうようになる。

女学校時代に、前出の出版社でバイトをしていた時に、印刷会社の息子として出入りしていたことから知り合い、窮地を救ったお礼として 「英語の辞書」 をプレゼントしてくれた村岡栄治と、色々あるのだが、やがて結婚。

「花子さんの、素直でわかり易い翻訳が一番好き。
もしもあと3日でこの世が終わるのなら、最後の1日は、ずっと花子さんの訳した童話を読んで過ごしたい。」
( きゃー、言ってくれますなぁ~    )

というほどの、花子のよき理解者である、優しい夫 栄治に支えられながら、
関東大震災、4歳前の一人息子を疫痢で突然失う、太平洋戦争などの困難を乗り越え、

ついに、女学校時代の恩師 ミス・スコット が戦時下に母国カナダに帰国する際に託した 
『 Anne of Green Gables 』 (アン・オブ・グリーンゲイブルス-緑の切妻屋根のアン、『赤毛のアン』の原題) を翻訳、
苦難の末出版する。


まっ、実際の花子の生家、安中家は山梨県甲府市で葉茶屋を営んでおり (つまりは裕福)、
その長女として生まれた花子は、文学好きでクリスチャンだった父の希望で2歳で洗礼を受け、5歳の時に一家で上京、翌年品川の城南尋常小学校に入学。 (いつまでも山梨に生家はないし、女学校卒業後に山梨東洋英和女学校に教員として赴任したが、それは親のためではない)
など、10歳で東洋英和 (ドラマ中では秀和) 女学校に編入しているという以外は、かなりドラマと実際とは違ってはいますが・・・ 


そこは、ドラマとして見るので、

私には、貧しい田舎の子どもが東京の女学校 (しかもハイカラで富裕層の多いミッションスクール) に編入する気持ち、

東京に残りたかったのに、4人兄妹で一人だけ学校を出させてもらい、しかも10歳で離れた親のために郷里に戻ったりする気持などは、
自分も似たようなところがあったので痛いほどわかったし、  


赴任先の小学校で、東京帰りで、やたら英語にかぶれた 「女」 の教師ということで、男性教員から疎まれたり、
のちに (東京に戻り結婚してからだが) 「ラジオのおばさん」 としてニュースを読むようになると、女だから、とか、秀和女学校出だから 「ごきげんよう」 を使いたがるのだ、と妙な難癖をつけられたり、

そういう、時代の風潮の中で頑張る花子の気持ちもよくわかったし、


やがて山梨から、東京の出版社に晴れて就職できるのだが、自分でも童話を書いたり翻訳の仕事を任されるようになる傍ら、
当時売れっ子だった女流作家、宇田川満代に、出版社の社員として気を遣ったり、
「所詮 『ミミズの女王』 よ」 と言ってはバカにされるくだり、
( 『ミミズ-』 は、花子が初めて書いた童話のタイトルで、それが入選した、その祝いの席に同じく賞を取った宇田川もいたのだが、当時から才能があり筆1本で生きていこうとする宇田川は、花子のことをいつも 「あまっちょろい」 といっては小ばかにしてきた。 )

日本中の子ども達に夢や希望のある物語を沢山届けたい、との思いから、
出版社を上げて力を込めて、新しい児童雑誌を創刊するくだりや、

次第に翻訳家としての仕事が認められ、ついに花子の訳した 『王子と乞食』 が初めて本として出版されるあたりなどは、

翻訳と創作の違いはあれども、まさに、同じように文学を志している自分にとって、
出版社、作家、翻訳、原稿、など、色々と身につまされ、 共感できる部分が実に多いドラマ であった。


そしてなんといっても、恩師である ミス・スコットから、 
『 Anne of Green Gables 』(『赤毛のアン』の原作) を託されるところ、  つ、ついに出たっ  ・・・ 

戦時下の空襲の時に、焼夷弾と火の海の中を、
花子にとって、命にも代えがたいほど大切なもの、 『 Anne of Green Gables 』 の本と女学校時代からずっと傍らに置いてきた、栄治にもらった 「英語の辞書」 とをかかえ、
娘の美里 (みさと-妹の子で一人息子を失った後に養女として迎えた) の手を引き、必死で逃げていくくだり、  まさに、ドラマチック 

震災で失われたため、自宅の離れで印刷会社を再出発させたものの、戦争で閉鎖されていた栄治の印刷会社も復活、

花子が勤めていたところではないが、再建をかけた別の出版社から翻訳原稿の出版を依頼され、ひとつは出版されるものの、『 Anne of Green Gables 』 の出版は、原作者が無名だという理由で断られてしまう。  

だが、あきらめきれなかった花子は、6年もの間それを暖め、

次にその出版社から話が来たときに、おもむろに原稿を出す・・・。

そこからはもう、私の大好きだった 『アン・ブックス』 が、まさに世に出ていこうとしている、 
わくわくとした気持ちでいっぱいになる。      

私の大好きな 『赤毛のアン』 は、こんな風にして世に出たのね。 
   うるっ。


村岡花子さん、
アンを訳してくれて あきらめずに出版してくれて ありがとう    

               

( 翻訳された本のタイトルが直訳ではなく、 『赤毛のアン』 に決定するまでのいきさつも興味深かった。 )


と、ゆーワケで、メデタシ、メデタシなのだが、

その出版祝賀会で、栄治から既に贈られていながらも、 『赤毛のアン』 が出版されるまでは読まない、と自らに課していた 『アンの続編の本』 を晴れて再び手渡された花子は、いてもたってもいられなくなり、

祝賀スピーチを話し終えるや否や会場を飛び出し、一目散に我が家へと駆け込み、

栄治からもらった分厚くて大きな英語の辞書をめくっては、新しい続編の本に読みふけるのであった。


まるで女学校時代に、わからない英語の単語を見つけるたびに、廊下を走っては図書室に駆け込み、辞書で意味を調べないと気が済まなかった、あの頃みたいに。


花子の英語と翻訳、物語を生み出すことへの情熱と、そして青春は終わらないのであった。




村岡花子



ドラマ中、これはちょっとな、みたいな部分が全くなかったわけではないが、おおむねよくできていると思ったし、


 なんといっても、主役の花子を演じだ吉高(よしたか)由里子が、彼女は現代的で不思議ちゃんなところが好きな女優さんだったのだが、
うって変わって、古風な奥ゆかしさと初々しさの残る清潔で可愛らしい、そしてその中でも新しい時代の波を感じる力強くてたくましい花子を、実に魅力的に演じており、好感が持てた。

( 『花子とアン』 は、初回から最終回までの期間平均視聴率が、関東地区で22・6%(関西地区21・6%)で、人気の 「あまちゃん」「梅ちゃん先生」などを上回り、過去10年間で最高を記録した。
そんな人気をふまえて、吉高は今年の紅白歌合戦の紅組司会に大抜擢されたのです  )


また、花子のことをよく理解してくれる優しい 「おじいやん」(石橋蓮司)、心が広くてあったかい 「おかあ」(室井滋)、
どこか憎めない、かわいらしい 「おとう」(井原剛志が好演、サイコー だった)、 
兄やん(賀来賢人-かくけんと、女優賀来千香子の甥)、妹の かよ(黒木華-はる) と もも(土屋太鳳-たお)。 
( 私も大好きだった、おじいやんと、のちにおとうが亡くなるシーンでは、号泣。 )

幼馴染で花子のことをずっと好きで、何くれとなく世話を焼き力になる朝市(あさいち-窪田正孝)、

ブラック・バーン校長をはじめとする、花子に道を説く女学校の先生たち、

生涯の腹心の友となる 連さま (連子、歌人の白蓮。仲間由起恵が気位の高い華族の令嬢から恋に生きる一途で可憐な女性を好演)
醍醐さん(高梨 臨-りん。結婚を夢見るだけだったお嬢様が次第に職業婦人となり書くことに命を燃やし、遂には兄やんを追って甲府の家に押しかけ女房をするという仰天な展開を熱演)

花子の夫の栄治 (清潔感溢れる鈴木亮平が、朴訥ながら爽やかでなかなか素敵であった) や、
かよの勤めるカフェーの常連客で都会的な紳士だと思っていたら実は栄治の父であり村岡印刷社長だったという、いい味を出していた平祐(へいすけ-中原丈雄)、

栄治の弟で印刷会社を手伝う天真爛漫、天使のようにいい人で、かよにプロポーズした直後に関東大震災の犠牲となる郁弥 (町田啓太-しかもほんとは嬉しかったのに、恥ずかしさのあまりかよに断られてしまい、茫然としたままで。あ、あんまりだ・・・号泣を超えて超嗚咽状態  郁哉を失った後のかよもつらくて見ていられなかった・涙)

連子の夫で九州の石炭王、豪快な中にも実は男気と人間味あふれる人物だった嘉納伝助 (吉田鋼太郎)や、
駆け落ちの相手でのちの夫となる宮本龍一(理論家でクールなのだがややまぬけな、純粋で一途な帝大生を中島歩-あゆむ が好演) など、

家族をはじめとする登場人物の魅力にもあふれ、

また、全体的にどことなくユーモアあふれるところ (特に甲府の地主親子、徳丸甚之介-とくまるじんのすけ&武-たけし親子(カンニング竹山、矢本悠馬)などはサイコーにおもろかった) なども、ドラマに温かみと花を添えた。



10月になり、毎日の楽しみだった、 『花子とアン』、 
そして日曜夜のお楽しみ、大好きなタカミーの魅力が全開だった KinKi Kids 司会のバラエティー音楽長寿番組 『新・堂本兄弟』 の、
2つの大好きなテレビ番組が同時期に終わってしまい、

なんとなく寂しい、秋の夜長である。      



ドラマは、録画したものを消すことができず、すべてとってある。 (見返すことはないとしても 『宝物』 なのです)


ご興味を持たれた方は、NHKオンデマンドでご覧になるか、そのうち出るであろうDVDを購入されるか、いづれ再放送するかもしれないので、こまめに情報チェックされるか、してください。    




     * * *   * * *   * * *   * * *   * * * 






 ハマッたのは高校~大学にかけてであるが、小学生の時に 「リライト版」 (読者対象の子供に合わせて簡易な言葉にしたり、多少短く編集しなおしたもの) を買ってもらって読んでいた。

少女世界文学全集 (偕成社) より 『赤毛のアン』 (モンゴメリー・村岡花子訳) 昭和43年5月20日発行、定価330円

いつごろ買ってもらったかの記憶は定かではないが、昭和43年当時はまだ小2なので、もう少し大きくなってから読んだのではあるまいか。

イラスト入りだったのが逆に災いして、そばかすだらけでやせっぽち、ちっともきれいじゃないという主人公の 「アン」 (しかも癇癪持ちで想像ばかりしてる変な子みたいだったし) が、
きれいなお姫様やお金持ちのお嬢様と、その暮らしにあこがれていた私には、それほど魅力的に感じなかったのが難点。

でも、けっこうおもしろかったのは確かで、


沢山出てくるお菓子や食べ物のシーンや、
憧れていた流行の 「膨らんだ袖」 のドレスをマシューにプレゼントされて喜ぶシーンなどは特に大好きだった。



巻末に載っていた、訳者である村岡花子の作品解説。
花子は 1893年(明治26年)6月21日生まれで、 1968年(昭和43年)10月 25日に亡くなっていることから、この解説は亡くなる少し前に書かれたものである。

  
解説中に載っていた 原作者 ルーシー・モード・モンゴメリ の写真。

よく、作者と似た人が主人公になるものだが、モンゴメリはアンと違って美しく、膨らんだ袖のお洒落なドレスを着ているのだなぁと思った。

また、白黒の小さいものではあったが、そこに載っていた 『赤毛のアン』 のモデルとなった 「家」 や、
想像に反して美しい、外国のお姫様のもののような夢いっぱいの 「寝室」 などは、幼い私にはドキドキして眺めていたものだった。

 




 こちらが、高校時代にハマって、大学にかけて全巻をそろえた、新潮文庫の “アン・ブックス” シリーズ、全10冊。

ちなみに、 第一巻である 『赤毛のアン』 は、昭和29年7月28日に初版発行、
昭和51年10月15日、第49刷、というものを購入していて、280円也。 高校一年くらいの時ですね。
  


ですが、多分読んだのは、手前の6冊くらいで、

・赤毛のアン(アンの子供時代)
・アンの青春(女学院から大学に入るまで)
・アンの愛情(大学時代から、卒業して幼馴染のギルバートへの真実の愛に気づき、求婚を受けるまで)
・アンの友達(読んでみたらアンの話ではなく、その周辺の人物の話だったのでつまらなくなって、途中でやめてしまった・笑)
・アンの幸福(ギルバートの求婚を受け、愛を確かめ合った二人だが、ギルバートは医学生で、アンは違う村の中学校で教えていたため、二人はすぐに結婚せず、3年間手紙のやり取りをしていた、その手紙として物語が展開。)
・アンの夢の家(いよいよ結婚したアンとギルバートの、楽しい夢のような日々)


まだ若かったので、アンが自分と同世代だった頃の最初の3冊くらいを夢中で読み、自分の生きる指針としていた。

このころは、子供のころ、ちょっと変わった子でそれほど魅力を感じなかったアンの性格、
想像力や感性が豊かなところ、感情の起伏が激しいところなどが、だんだん自分と似ているような気にさえなった。

そしてアンの生き方、信念、学びたい気持ちなどに共感を覚え、アンのように生きたいものだと思ったりした。

特に、
 「あたしは、自分がこの世に生きているために ほかの人たちが、一層たのしく、暮らせるというようにしたいの・・・
どんな小さな喜びでも幸福な思いでも、もしもあたしが、なかったら味わえなかったというものを世の中へ贈りたいの。」
( 定かではないのだがおそらく 『アンの愛情』 より、原文まま )

という箇所がお気に入りで、アンの言葉は、そのまま作者であるモンゴメリの信念であり生き方なのだ、と思い、
自分も将来物を書くようになったら、そのようにして生きたいものだ、と高校時代から思っていた。


以下、
・炉辺荘(イングルサイド)のアン(夢の家から引っ越し、炉辺荘へ移ってからの生活を書いたもので、だんだん自分とアンとの生活がかけ離れてきたため途中までしか読んでいないと思う)

以下、アンをめぐる人々、アンの娘リラ、虹の谷のアン は、もうアンの話ではなくなったので、まったく読んでいない。




左は、花子の孫である 村岡恵理 さんの書いた、ドラマの原作ともなった 『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫) で今回ドラマ化が決定されてから買ったもの。

右は、同じく新潮文庫の 『赤毛のアンの世界-作者モンゴメリの生きた日々』 M・ギレン著、中村妙子訳
で、『赤毛のアン』 の舞台となった、カナダのプリンス・エドワード島や、緑の切妻屋根の家(モンゴメリの生家) 、作者モンゴメリゆかりの品などをカラー写真で紹介している本で、ファンにはたまらない一冊と思う。

昭和61年6月25日発行、平成3年2月20日、第16刷のものを、多分そのころに購入していると思う。




今回新たに買ったもので、
左は、私が大学のころから出ている絵本や童話の雑誌、 「月刊 MOE(モエ)」(きゃー、まだあったんですねぇ~)※注 の、
『赤毛のアン』と村岡花子の特集号、

右は、 奥田実紀著 『赤毛のアン』(河出書房新社) で、どちらもカラー写真がふんだんの、プリンスエドワード島、グリーンゲイブルス、などを紹介した本。

特に後者は、物語に頻繁に出てくるお料理やお菓子の写真や解説が載っていて、うれしい。


アンにあこがれていた時代、アンの故郷である、カナダの美しい島、「プリンスエドワード島」 はぜひとも行ってみたい場所だったし、

物語に出てくる、おいしそうなお料理やお菓子は一体どんなものなのだろうと想像しては楽しんでいた。

大学時代か社会人になったころだと思うが、 『赤毛のアンのお料理読本』、『赤毛のアンのお菓子の本』 というような名前の、カラー写真で、アンの物語に登場する食べ物の作り方を書いた料理本が出て (確か文化出版) 買い、大切にしていた。

今回探してみたのだが、ついに見つからなかったので、
おそらくもう少し大人になり、もうアンは卒業した、夢見るお年頃でもないわ、と思い、古本屋に売ったか図書室に寄付したか、どちらかだと思う。


『花子とアン』 を見て、“アン・ブックス” は、やっぱり自分の原点の一つなのだなぁ、と再認識したので、
今になって思うと、大変惜しいことをした。 (ネットの古本でも探してみようかしら)





※注 月刊『MOE』

1979年に偕成社から「絵本とおはなし」として創刊され、1983年に月刊『MOE』(モエ)と改称。MOE出版を経て、1992年4月号から版元は白泉社に移った。
人気絵本・人気キャラクターをテーマとした巻頭特集を中心とし、その他、アート・映画・旅・ハンドメイド雑貨・スイーツなど、旬の情報のページも組まれている。また、絵本作家を支援するグランプリやイラスト・絵本スクールを開講している。
MOE出版時代には、月刊絵本とおはなし新人賞、月刊MOE童話大賞、MOEコミック大賞などがあり、新人発掘にも寄与した。2008年からは毎年その年に最も支持された絵本30冊を選定する「絵本屋さん大賞」がある。(以上、ウィキペディアより)

発売当初は、当時流行りの “アダルト・ファンタジー”(大人向けの童話や絵本) を扱っていたので、中島(なかしま)潔、葉 祥明(よう しょうめい) など、当時、女性に大人気だったイラストレーターを使っていたと記憶する。

和光大児文研・文学パートでは、リアリズム偏重主義的なところがあり、児童文学 (あくまで「童話」ではない)は “子供のためのものであって大人向けのものではない” との主張から、アダルト・ファンタジーを毛嫌いする傾向にあった。
なので、『MOE』などは論外であり、もともと私はそういうのが好きだったんだけど、だんだん影響されていったと思う・笑。 




※ 冒頭写真は、NHK出版より刊行されたドラマガイド 『花子とアン』1と2です。 






発表会10日前!!

2014年10月09日 | ピアノ・その他音楽
はっ  と気づいたら・・・   

10月19日(日)なので、ピアノの発表会まで、

な、な、な、ぬわんとぉーーーーー        

あと、10日   しかありませんでしたぁ~~~        


幸い? 今年は 分不相応な「大作」 のため、連弾は免除となり、楽譜も置いてやります。  

それなのに、それなのに・・・

なんかねぇ、ダメなんすよ。

注意力散漫とゆーか、集中力に欠けるとゆーか、イマイチ、ヤル気モードが続かないとゆーか・・・

ああ、雑念が、雑念が・・・      

お、お、おぉーーーーー   

ムンクの叫び、ふたたび・・・           

ああ、せっかくの ショパンが、ショパンが・・・・・・   


とりあえず、もう着ていくものは決まっている (アルフィー40周年セレコンの時にワンピを買うにあたり、トーゼン、ピアノ発表会でも着られるように   今年は1か月ほど早いのでOK、と思って買ってある) ので、そっちの心配はしなくてよく・・・


なんかねぇー、先生にもよく言われるんだけど、私って集中力があるんだか、ないんだか・・・どっちなんだーって感じで。 

例えば、根を詰めてブログを書いているときは、自分で言うのもなんであるが、
もんのすごいっ  集中力なわけです。   

どのくらいスゴイ? かってゆーと、良くも悪くも、他のことが全く目に入らないくらいの集中力で、
それが書きあげるまで、そしてだいたい翌日くらいまでに気になったか所をほぼ直し終わるまで継続するわけです。 (長~く浅く、とゆーのか 

( つまり、裏返せばそれは、ブログに集中しているときはピアノのレッスンが、つぃなおざりになっちゃうんですよね~。 )

ところが、ピアノのように 「短期で深く集中する」 というのの、持続性がないみたいで、

弾いているときに、全く無意識に フト 「よそごと」 を考えている時があるんですねー。  

それが最近先生にバレバレみたいで・・・  (^^;)ゞ f(^^;) (;^^A

これを 「自称物書き風の頭」 (『花子とアン』ではないが、普段から無意識に “想像の翼” をつぃ広げてしまうクセのある人) と呼んでおるのですが、そういう頭の持ち主は、数学的な事柄には向かないのではないか、と。

最近分かったのだが、音楽というのは多分に 「数学的」 というか、「法則性のあるもの」 だったんですねー。
( 確かそのようなことを、さんど先生もタカミー(後述)もおっしゃっていた気がします。ちなみにさんど先生は数学がどちらかというと得意なんだそうです。 )

なので、学生時代から 数学大大不得意大嫌い     な私には、

楽器を弾くとか踊りを踊るとか、スポーツでもフィギュアとか体操とか、そーゆー 「短期深性集中力(※ネコタの造語)」 を要するものは、あまり、向いてないのではないかと・・・

( ああ、体操を6年間もやってきた自分が我ながら信じられない・・・。あの頃はあったとゆーワケよね 
ピアノの時はどーだったっけかな? もっと大昔だから、忘れちゃったよ~  
でもね、20代でバレエとかダンスやってる時は、集中力がフト途切れる自分、てのに既に気づいてました。  )


それでとても不思議なのはねぇ、また話がタカミーしちゃって悪いのですが、  

あの方は曲を作ったり作詞をしたり、「創造性」 (物書き風) の頭を持っているわけですよ。

それなのにちゃんと 「数学的」 な、楽器も弾ける。日本を代表するギタリストの一人である。(特に超絶技巧の速弾きがスゴイっ 

な、なぜなんだぁ~~~      

( そういえば、この間ラジオの 「つぃ忘れちゃうものgooランキング」 で、自分がつぃ忘れちゃうものは 「歌詞」 だ  ってタカミーは言ってました。 
あれだけギターを正確に弾ける人が、なぜ歌詞を忘れるのか。  しかも、幸ちゃんやさくりんは、主にセトリを考えてるタカミー総指揮官に、たまに直前の曲目変更をされても、ほぼ間違えないのに、よりによって作詞した人が間違えるのは、
な、なぜなんだぁ~~~      いえね、間違うと言ってもワンシーズン1、2回程度だと思うのですが、ご本人が実に素直に 「すんません」 と謝ってくれて大袈裟? にするのでわかっちゃうだけで・笑、ホントは他のメンバーも聞いてる側にわからない間違ぃ、ちょろっとしちゃってるかも、ですが。 )


ま、屁理屈と脱線はこのくらいにして・・・ 
(もしも、さんどセンセがコレ読んだら、そういうのはいいから、ちゃんと練習しましょう。   と言われるだろーなぁ~。  えへへ。ゴメンナサイです。 )


とりあえず? 今日が通常のレッスンの日で、来週木曜のあと一度のレッスン日を入れて、

ピアノ発表会まで、あと10日。  

( 発表会のプログラムとリハーサル表も、今日もらってきました。  うん。身の引き締まる思い。    )


先生には (あきらめないで) 「10日間、猛練習しましょう  と、言われました。


それで今日母に、初めて実家のピアノで披露しました。
練習不足なのでアガって、大間違いの大つっかえして、全部で3回弾きましたが・・・ 

「もう少しうまくなったら、直前にもう一度聞かせてあげるね。じゃなくて、聞いていただくね・笑」 と約束しました。

ま、子供のころとは違うので 「それでも、○子がここまで弾いてるかと思うと大したもんだわ。」 と言ってくれましたが。

( あ~あ、子供のころ、少しでもそういってホメてくれたら、もっと素直ないい子に育ったと思うのだが。  
母には、叱られた記憶ばかりが残っていて、未だにトラウマ・笑。なんとかこの母に褒められたくて、色んなことを頑張った私。← 健気・笑。 
保護者のみなさん、子供の教育には 「アメとムチ」。 ときには褒めてあげることが大事、ですぞ。 )


おっとぉーーー   またしても話が大ソレ(ミオ) しちゃぃまシタが、  


とにかく   

心を入れ替えてガンバリまぁ~す。   
( いえ、今までもぽつり、ぽつりやってはいたんですが、全然  足りてないので。  )



そうはいってもなぁ~、さっきの集中力の話ではにゃぃが、
発表会前に書きあげなくてはならないブログの記事があるので、それを終わらせないと 「完全集中」 はできないので、

ピアノの練習はやりつつ、全神経を集中の方向へ持っていくのはそのあと、とゆーコトで、

・・・まずはそっちだな。       





※ どうでもいいけど、つけたし・・・

そういえばさぁ~、年中言葉にしながらも、いつも途中でうやむやになっている 「ダイエット」 ですが、  
ちゃんと食事にも気を付ける “本格的” なのは、10月6日から始めたのですが、それ以前にマシーンとかを使った 「気持ちだけダイエットの一部のつもり」 状態は以前から続いておりまして、これもクセものでさぁ~、  
ダイエットのこととか考えてると、他のことへの集中力を欠く恐れがあり・・・、 

つまりは、もともと2つ以上のことを同時にできない性格の私には、 「集中力」 というのに限界と難があるのだなぁー、と思った次第です。

言い訳がましぃ    







 

10月になりました。

2014年10月07日 | その他 色々
皆さま、お久しぶりでございます。


御嶽山の噴火は史上最悪の惨事となってしまいました。

亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたしますとともに、
今なお不明な方々が、一刻も早く救助されることを願ってやみません。

街は、御嶽麓のO滝村はもちろんのこと、K町のあちこちでも自衛隊や報道の方々を見かけ、なんとなく落ち着きませんが
( 空を飛び交うヘリの音、ダメなんですよね~。(^^;) ) 皆さん、連日ご苦労さまでございます。

作業が進んで、早く穏やかな田舎の日常が戻ってくるといいなぁと思います。

ご心配をおかけした御嶽神社や山荘関係の方々は、おそらく皆ご無事だったようなので、そういう意味ではホッとしました。

読者の方々にも色々とご心配をおかけしまして、どうもすみませんでした。


なんとか、元気でやっておりますので、ご安心ください。



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今日、恒例のE○○の火曜夕市に母と出かけ、
買ったものを入れて帰れるように、持ち帰り自由の段ボール空き箱の積んであるのをふと見ていたら・・・(自分自身はエコバッグ派なので段ボールにはあまり用はないのだが)


こ、これはもしや くまもん ではあーりませんか 


きゃーーーーー カワイイ       

こんな空き箱が、こんなところに混じっているなんてぇーーー 


で、他の人に取られないように 「とるなよ光線」 を送りつつソロリソロリと近づいて、おもむろにGet 
( ま、平たい箱でたくさん入りそうになかったので却下される気はしてましたが   )

一応、エコバッグに入るものをこのダンボールに少し移して (空でもらって来るのに気が引けたので) お持ち帰り。

帰ってきて箱をよく見たら、



たぶん、なんですが 熊本県宇城 (うき) 市で栽培されているオレンジ (甘夏みかん) が入っていたのではないかと思われます。

なんだか、段ボールひとつでとってもトクをしたような、シアワセな気分になれました。 




こちらは先月の話ですが、 「天龍村」 へお嫁に行った人がお土産に持ってきてくれた 『でいざなす』 という、普通の3倍くらいあるとても大きなナスです。



半分は、オーブンで焼き、普通にポン酢をかけて食べてみましたが、
もう半分はその焼いたものにミートソースとチーズを乗せてグラタン風にして食べてみたら、もっとおいしかったです。   

聞いたとおり、実が柔らかくてジューシー、美味でした。

写真ではうっかり大きさを比べられるものをそばに置かなかったのでわかりづらいのですが、
このお皿は横幅が24センチ、スプーンはカレー用の大きなものと言ったら少しは想像がつくでしょうか? 


我が家の “果樹園” で、リンゴもナシもたくさん採れて、毎日食べてます。 



「信濃ピッコロ」 といって、小ぶりで酸味が強く、これは色がまばらですが、本来は真っ赤になる、可愛らしい林檎です。



「豊水」 と 「幸水」 ナシ。  ナシは意外にも “便秘解消” などの効果があるらしいです。




こちらも先月のものですが、毎年 「生筋子」 が店頭に出回るときだけ作る 「いくらのしょうゆ漬け」 です。

卵を塊になっているのを、ぬるま湯で一粒ずつほぐすのは骨が折れますが、おいしくて好きなので頑張れます。

小さいほうが母へのおすそ分け。(父は全く食べないので、1人分というわけです)

夫にも母にも好評だったので、ふた腹 (2回分) 作りました。





スマホは、だいぶ使いこなせるようになり、慣れてきました。  

元々の本体のピンク色が好きで選んだスマホだけど、せっかくカバーをもらったのだし、保護のためもあって赤色のディズニーカバーをセットしています。

ディズニー・キャラによって色が違う、5種類位の中から、好きなものを一つ選べたのですが、ピンク色だとシンデレラだったので、
ここは赤でも大好きなミッキーで。 (赤と言っても、濃いピンクみたいだからまだいいです。あんまり赤って好きではないの。)



お誕生日にスマホカバーが届き、数日後にはもう一つの契約プレゼント、 「バッグ・ハンガー」 も届きました。 

たぶん、持ち歩くことはなさそうですが・・・   可愛いので。

ハンガー入れのピンクの巾着も可愛いです。


  

ディズニー・モバイル、メールなどの文字が 「!」 マークの下や 「i」 の文字の上の 「・」 がミッキーフェイスのシルエット、 
「O」 の中央にミッキーシルエット、 「D」 の中にはキラキラマーク、 「C」 にはなんとミッキーのお耳が装飾文字でついていたりして、
さすがの私も “ちょぃウザ” ですが、  


その他ではいたるところに 「ミッキーフェイスシルエット」 が出てくるのが中々可愛くて、ファンにはたまりません。      

  

 

 

そして電源を切るときも、ミッキー・マークが 小さくなって消えるんですよ。  


 

ちなみに、ウォークマンのボタン (写真左、下の部分) が 「ミッキー・フェイス・シルエット」 に似ている気がしてひそかに喜んでいたくらい、ミッキー・ファンなのですが・・・

写真右の本物と比べると、耳のバランスが小さすぎますね。 

★ 写真左画面に写っているのは 『MICKEY TUNES』 より 「D.D.D!~Happy 65th Anniversary For Donald Duck~-THE ALFEE」 ← ドナルド・ダッグの生誕65周年を記念して造られた曲で作詞作曲:高見沢俊彦。ドナルドの唇がタカミーに似ているという説もあり、ドナルド=タカミーというのがファンの定説になっている。なので、ディズニーキャラ、ミッキーだけでなく、ドナちゃんも好きです。 
★ 右はダンス・ミュージックCD 『Club Disney ・ Super Dancin Mania』 (いずれも所有) です。




御嶽山噴火があってかなりのショックを受け、色々予定が狂ってしまいましたが、やっと元気になれてきたので、

ぼちぼち、いろいろ頑張りたいです。