猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

里山からの便り・・・

2017年07月07日 | 本・文学・取材等



数日前、待ちに待った便りが届きました。


5月にご逝去された、信州児童文学会元会長 宮下和夫先生の遺作となりましたご本 『里山少年たんけん隊』 です。





本書は、信州児童文学会誌 「とうげの旗」第6号(2014.2.25発行) に掲載された 『分教場ものがたり』 と 「とうげの旗」第12号(2016.7.25発行) に掲載された 『里山少年期・続分教場ものがたり』 を一冊にまとめ、書籍化したものです。


生前、病床につかれている宮下先生と奥様の強い希望で、北沢彰利さんを筆頭とする 『里山少年たんけん隊』刊行実行委員会 会員の皆様のご尽力により書籍化の準備を進めていましたが、

刊行を目前に控えた5月25日に、宮下先生は力尽きてしまわれました。


本当に残念でなりません。



ですが、このように美しい装丁の書籍となり、 『とうげの旗』 でもおなじみの 小林陽子さん の可愛らしい挿絵にも支えられて、

昭和初期の、飯田盆地の野山を生き生きと駆け巡る主人公、少年和彦 の姿として、

宮下先生はご本の中で永遠に生き続け、私たち読者を楽しませ、

また我々信州児童文学会の同人たちに、先人として 「書き続ける」 ことの意欲、姿勢を訴え続けてくれることと思います。



ご本はこれからゆっくり読ませていただきたいと思いますが、

まずは、北沢さんをはじめとする刊行実行委員会の皆さま、お疲れ様でした。

そして、宮下先生を陰日向なく支えられ、夏の会にもいつもご同行されていた、明るくお美しい奥様、ご本のご出版、誠におめでとうございました。



我が家には一昨日到着しましたが、

 昨日にはもう、 初版1000部を完売 し、 増刷が決定した  との嬉しいニュースが飛び込んできました。
   
                  

そして、これは地方出版としては異例のことだということです。


これまでが、信州児童文学会会員やご葬儀参列者の方々などの予約注文分が中心でしたので、

新聞宣伝や学校注文 (下伊那全学校教師向け) は、これからということですので、さらに部数は出るかと予測されます。

 今後、公共図書館等でリクエストをしていただきますと大変ありがたく思います。

ご協力をよろしくお願いいたします。   



  



『里山少年たんけん隊』 宮下和男:著 小林陽子:絵 (ほおずき書籍:1,500円)

 ほおずき書籍: 長野市柳原2133-5  www.hoozuki.co.jp/
℡026-244-0235 FAX 026-244-0210 


 宮下先生の渾身の一冊(と言っても、中身はいたって楽しい本ですが)、 ぜひご一読をお勧めいたします。



※ なお、HP『お問合せ』やTwitter DMより、猫田にご注文いただいても結構です。よろしくお願いいたします。   



   


 本書巻末の、和田登先生 (信州児童文学会現会長) の 「解説」 も
信州児童文学会の歴史の重み、それを立ち上げた若き文学士たちの想いと、そして宮下先生の一貫した 「作品に対する姿勢」 がかいまみれて、心に沁みます。    




宮下和男

1930年、長野県飯田市生まれ。
信州児童文学会第4代会長。顧問。 元日本児童文学者協会会員。元飯田女子短期大学教授。

信州大学教育学部卒業後信州児童文学会に入会。長年にわたり国語と音楽で教鞭をとりながら児童文学を精力的に書き続ける。

1968年「きょうまんさまの夜」(福音館書店)で第1回日本児童文学者協会新人賞。
主な著書に「ばんどりだいこ」(ポプラ社)、「しかうちまつり」(大日本出版)、「春の迷路」(ほるぷ出版)、「少年の城」(岩崎書店)、「落ちてきた星たち」(岩崎書店)、「少年・椋鳩十物語」(理論社)、「野生のうた・椋鳩十の生涯」(一草舎)等、多数。

自身の執筆、研究の傍らで後進の指導にも当たり、多くの童話作家を育てた。



 当ブログの、こちらもご参照ください。

  「宮下和男先生、ありがとうございました。」 2017年06月10日 | 本・文学・取材等 カテゴリー


























宮下和男先生、ありがとうございました。

2017年06月10日 | 本・文学・取材等



ご報告が大変遅くなってしまいましたが、

去る5月25日、所属する信州児童文学会において1988年~2006年という18年間の長きにわたって第4代目となる会長を勤められ、現在は顧問であられた 宮下和男先生が88歳(満87歳)にてご逝去され、

5月28日に先生の地元飯田市にある 「アイホールいとう」 にてご葬儀があったので参列させていただきました。


長年教職にあられたこと、信州や伊那谷の児童文学に貢献されてきたことなどから会葬人数の多いことが想定され、ご葬儀の前にお焼香だけの席が設けられ、その後ご葬儀。

現信州児童文学会会長(第7代目、2013年~)の和田登先生、第3代会長(79~87年)で現顧問の高橋忠治先生、現信州児童文学会副会長で黒姫童話館館長の北沢彰利さんなど、さすが文学を書いていらっしゃるだけあって、ツボと泣きどころを押さえた名文に感心、感動させられた弔辞が続きます。

中でも、宮下先生と古くから親しいご友人関係でもあられ、夏の会にはいつでも両ご夫婦でいらして奥様ともども仲の良かった高橋先生の、さすがは詩人であられる語りかけるようなお言葉が、先生の凛と響く朗々たるお声で読み上げられた時には、所々で号泣してしまいました。

ほか、宮下先生のご学友でもあられる信州大学教育学部第一期生の方、元同僚であられる教職員の方などが、やはりその道の方々らしい心に沁みる弔辞を読まれました。


しかしながら、総勢10人(組)もの弔辞の中でも一番印象に残ったのは、宮下先生の4人のお孫さんたちと、そして宮下先生より数年前に先に亡くなられたという実の弟さんのお孫さんだという中学生の少年の弔辞には、本当に心温まる気持ちがして感動しました。

私は実は、大人のご葬儀の際に子供が弔辞を読むというのを始めて見たのですが、
宮下先生が私達文学を志す仲間から慕われ愛されていただけでなく、お孫さんたちを本当に可愛がり、お孫さんたちからもとても慕われていた 「優しいおじいちゃん」 だったのだという事がものすごく伝わってきて、微笑ましい、暖かい気持ちになりました。




  

(上、本年度に発行された 『信州児童文学会創立60周年記念誌』 より表紙、宮下先生のページ。以下、写真は総て同誌より)


宮下先生との出会いは今をさかのぼること10年前、
私が生まれて初めての著書 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』 を上梓した2006年の夏、日本児童文学者協会と信州児童文学会に入会させていただいたのですが、

たまたま信州の会はその年が創設50周年。
10月14日に信濃町にある黒姫童話館にて50周年の記念式典と、夜には場所を移して泊りがけのお祝い交流会が催されたのですが、おそらくお送りしてあった本を読んでくださってのことだと思うのですが、お会いしてすぐくらいの、まだ私という人物をほとんど知らないのに、

「『とうげの旗』という会が発行している読み物雑誌があるのだけど、その中に子供たちを取材して書くページがあって、今私がやってるんですけど、いずれはそれを猫田さんに任せたい。」
というようなことをおっしゃっていただき、本当にびっくりしました。
その時はまだ 『とうげの旗』 という雑誌自体を見ていなかったこともあって何だかよくわからないながらも、そんな大事なものを本当にまかせていただけるのだろうかと、驚きや喜び、戸惑い、そしてなぜか、まさかね、聞き間違いかも、ともちょっとだけ思ったものです。




( 50周年記念の親睦会の翌朝。東京からわざわざお祝いに駆けつけてくださった童話作家松谷みよ子先生も信州の会5代目会長を務められたはまみつを先生も既に鬼籍の人となられました )


そのお話がいよいよ本当のことなのだ、とわかったのは、たぶん2007年か2008年頃に、その担当ページ(「スポット」というのですが)を引き受けてほしいと宮下先生から直接お電話をいただいた時でした。

本来ならとても喜ばしいことで二つ返事でお引き受けしたいところなのですが、その時私は体調を崩していて、とてもお引き受けできるような状態ではありませんでした。
それで宮下先生には、大変嬉しい気持ちはあるのだけれど、今は体調が悪くてとてもお受けできないのだということを病状とともに正直にお話しし、
いずれ体調が回復した時に、もしもまだ後継の方が決まっていないようでしたらその時は喜んで引き受けさせていただきます、とお伝えしました。

そうしましたら、後継の方が見つからなかったのか(笑)見込んでくださったのかはわかりませんが、その一年後くらいにもう一度宮下先生からお電話がかかってきて、 「『スポット』のあとを引き受けてくれないか。」 とおっしゃってくださったのです。

一年間待って、再びお電話をいただいたことの嬉しさと申し訳なさ、丁度その頃、少しずつ病気が快方に向かいつつあるのではないかと思いはじめていたことなどから、これはもう、お断りしてはいけないのではないか、との思いから、正直まだ完全ではないので自信はなかったけれど、「スポット」のお仕事を引き受けさせていただく決心をしました。

詳しいことはいつか書くので省略しますが、病気回復への大きな糸口となったのだなぁ、と思えることがあって、

それは15年ぶりに人生2度目の参加をした 「アルフィーのコンサートとアルフィーという存在」。

そして、「スポット」 を担当させていただけたこと。

その二つが大変大きかったのではないかと思っています。


「スポット」 により書く場所を与えていただき、それにより、私の書いていかれる道、自分の存在できる場所を与えてもらった。

「書くこと」 が、その時も今も私のすべてなので、

アルフィー と 「スポット」(その場を与えてくださった宮下先生) は、まさしく “命の恩人” だと今でも思っています。




毎年8月初めに開かれる会恒例の 「夏の会」(一泊二日の観光、交流も兼ねた勉強会) に初めて参加したのは50周年の翌年2007年。(2006年は秋に50周年記念式典と交流会があったため夏の会がなかった)
実はこの時すでに体調が悪かったのだけれど、自分にとって入会後初めての夏の会だったことや、なんとか病気回復の糸口をさぐりたくて参加しました。

(はま先生ご所望の白鳥ボートに乗ったり会自体は大変楽しかったのですが、体的には結構しんどく、暗中模索は続きました。写真は笑っていますが表情が今一で薬のせいなどで過去最高に太っていました・笑)




2009年の夏の会は浅間山の麓にある 「あさま山荘」。

『とうげの旗』 は季刊で、 「スポット」 を担当したのはその年の秋号からでしたので、まだ雑誌になったのは一冊、取材も2冊分くらいしかしていなかったのですが、
「スポットは大変やりがいがある。やらせていただけて嬉しい。ずっと担当したい。」 などと懇親会で勢い余って豪語しました。(笑)

翌日横浜へ飛び、アルフィーの、私にとっては最初で、最後となった “野外の” 夏のイベントに初日の一日だけ参加しました。



そんな風に “正に水を得た魚、この場所は誰にも譲りたくない” と思っていた 「スポット」 でしたが、
少子化や時代の波に押され購読者数が激減した “親子で読み合う雑誌”『とうげの旗』 は財政難から廃刊を余儀なくされ、信州児童文学会の会員は、新たな発表の場を探るべく、廃刊に至るまでの2年間を故はまみつを先生を会長(当時)に、協議を続けました。

『とうげの旗』 は、子供達に直接届くものではない、同人誌として再々スタートする (創設当時はその形態、第2期が子供に届く雑誌なので第3形態になる) という案がほぼ決まりつつあった、翌年の春号を最終刊として迎える前年2011年の夏の会。

その時の話し合いの様子や、その後のことは、私にとって決して大げさではなく、あらゆる意味で生涯忘れられない日となってしまいました。
詳しいことは書けないのですが、私は発言を求められるままにつぃ言ってしまったことを後々まで後悔し、その言葉を受けてだと思うのだけれど、宮下先生が発言された言葉も、今でもはっきりと覚えています。




その後自分は3月の総会や夏の会から遠ざかってしまったので、図らずもこれが宮下先生に生前お会いした最後となってしまいました。

(2010年6月「はまみつをの童話の世界展」を開催し、その後大町で開かれた夏の会に出席されたのを最後に2011年2月にはま先生が急逝された、その年の夏のことです。)



ここ何年か体調不良のため、開催地が長野市と遠いこともあり3月の総会、懇親会、夏の会にも出ていらっしゃらなかった宮下先生ですが、

昨年は先生の地元飯田支部担当で開催されたので、宮下先生も久しぶりに出席し講演会をされるご予定でした。

私も、宮下先生がいらっしゃるなら久しぶりに参加してみようかな、と思ったのですが、日程が合わず断念しました。


ところが後で聞いたところによると、何としたことか、その直前に宮下先生はご自宅で転倒され入院、講演会は幻と終ってしまったのです。

その後宮下先生は入退院を繰り返され、今年5月23日に肺炎で入院され、残念ながら25日にお亡くなりになってしまわれました。



第1回日本児童文学者協会新人賞に選ばれるなど、輝かしい経歴と沢山の著書をお持ちの宮下先生ですが、

それよりも、特に会長職を辞されたのちの近年に、度重なる病などに悩まされながらも、

 231枚からなる自伝的長編小説 『分教場ものがたり』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第6号-2014.2.25発行:掲載)

 『里山少年期・続分教場ものがたり』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第12号-2016.7.25発行:掲載)





 

 評論 『椋(むく・椋鳩中のこと)文学の源流をさぐる』(信州児童文学会誌「とうげの旗」第10号-2015.6.25発行:掲載)




 著書 『炎は踊る―手づくり花火の里阿智村清内路』 新葉社刊 (2010/09)

信州阿智(あち)村清内路(せいないじ)で毎年秋祭りに打ち上げられるという、この地に280年も続く伝統の手作り花火。
他の地域では見ることのできない幻想的な手作り花火がどのようにして守られてきたか、その魅力と秘密を宮下先生の精力的な取材により見事に結実させた一冊。
また巻末には自作の童話4編も収録されている。


など、精力的に執筆されてきたお姿には頭の下がる思いです。



私は、あの日つい本音を口走ってしまったこと自体はとても後悔しているのですが、

それがどう取られるかは別として、大変生意気ながらも、自分の思っていることが間違っているとは今でも思ってはいません。
(というか、人はどうであれ私はそのスタンスをめざし貫きたいと思う)

それでも、私を見いだしてくださって、書く場所を与え、育ててくださった宮下先生には今でもとても感謝しているし、そのご恩を忘れることは生涯決してありません。


そして、あの日宮下先生がおっしゃったお言葉と、

先生の 「書くことへの情熱」 と、ご立派なお姿、姿勢も生涯忘れることはないだろうと思います。


今更遅いかもしれないけれど、先生への謝罪と感謝の気持ちを込めて、遺影に深々と手を合わせ、

もしも償えることがあるのだとしたら、


これからも、私のやり方で、私の言葉で書き続けること、それしかないのだと

誠に勝手な解釈かもしれないけれども、宮下先生がそう、私に書け、と言ってくださっているような気がして、

このたびの先生のご訃報は、誠に残念ながらも、たいそう身の引き締まる思いがしたことです。




宮下先生の朴訥な風貌、飄々としたユーモラスな味わい、暖かいお人柄を表すかのような、お心のこもった暖かいご葬儀でした。



 宮下先生が、まさしく身を削るようにして書いてこられた、 『とうげの旗』 に掲載された 『分教場ものがたり』、『里山少年期・続分教場ものがたり』 は、

『里山少年たんけん隊』 として、来月ほおずき書籍出版より刊行されます。

発売を待たずに逝かれたことは、誠に残念でなりませんし、今となってはまるで遺言状のような書籍ですが・・・

きっと本の中で永遠に、宮下先生は生きておられるのだなぁと私は思います。


死した後も作品として、作品の中で生き続けること。

それこそが、書く者みんなの願いです。






『里山少年たんけん隊』刊行準備会事務局 代表人 北沢彰利さん のフェイスブックに載せられた、本の表紙写真と校正原稿。 (北沢さんの承諾を得て掲載)



ご葬儀の際配られたご本の注文書 (私もその場で記入、申込みしてきました) の裏に掲載された、亡くなられた後に発見されたという宮下先生直筆の 「本のあとがき」 は、ご病気のせいか行がやや曲がっているけれど、先生の几帳面な文字で埋め尽くされていて、胸が熱くなります。

下お二人は本のご推薦人の方々です。




5/30 新聞『南信州』 に掲載された、北沢彰利さんが寄せた宮下先生の追悼記事。 (北沢さんの承諾を得て掲載)




【 追記 】



 『とうげの旗:155号』(写真右端) の 「スポット」 は、飯田市立動物園に行きました。

 

読者から募った、名所めぐりにいっしょに参加してもらう “子ども探検隊” というのを自分で考案し企画したのですが、
その第一回目だったので、飯田市と周辺にお住いの 宮下和男先生 と 第14代「とうげの旗」編集長を務められた 北原幸男先生 にお願いして、ご自身のお孫さんやその友人たちを誘って、内緒で参加してもらいました。
(後列左端が北原先生、二人目が宮下先生ですがお名前は明記していません)

うっかりして調べ忘れていたので、ご葬儀の時に宮下先生のこの時参加された内孫さんとお話ができず、あとから残念に思った次第ですが

この時、訪問場所が動物園だったので、自分も動物や子供たちとも触れ合えたことでとても楽しかったこと、
また、宮下先生に自分が企画した 「子ども探検隊」 の様子やその後の記事を読んでもらえたことがなんだかとても嬉しくて、今でもとてもいい思い出です。

「スポット」 での取材は、もちろん大変な事もありましたが、どの場所も、そこで頑張っている子供たちや大人も魅力的で、とても楽しくかかわらせていただき、本当にやりがいのある、どこも大変に思い出深かったです。


 私が3年間担当した記事は  こちら  HP「なんとなく、イナカタル:仕事」 『とうげの旗:スポット』  で読めます。









 宮下和男

1930年、長野県飯田市生まれ。
信州児童文学会第4代会長。顧問。 元日本児童文学者協会会員。元飯田女子短期大学教授。

信州大学教育学部卒業後信州児童文学会に入会。長年にわたり国語と音楽で教鞭をとりながら児童文学を精力的に書き続ける。

1968年「きょうまんさまの夜」(福音館書店)で第1回日本児童文学者協会新人賞。
主な著書に「ばんどりだいこ」(ポプラ社)、「しかうちまつり」(大日本出版)、「春の迷路」(ほるぷ出版)、「少年の城」(岩崎書店)、「落ちてきた星たち」(岩崎書店)、「少年・椋鳩十物語」(理論社)、「野生のうた・椋鳩十の生涯」(一草舎)等、多数。

自身の執筆、研究の傍らで後進の指導にも当たり、多くの童話作家を育てた。




 2006年には、信州児童文学会が発足して50年、児童文学誌 『とうげの旗』 を発行し会員の創造的活動を通して長野県内での児童文学普及に努めたことにより 『第13回信毎賞』 を受賞。

授賞式に出席された、信州児童文学会の先生方。
(前列左から北原幸男、高橋忠治、宮下和男。後列左から羽生田敏(はにゅうだ さとし)、和田登、はまみつを諸氏。敬称略)


 前列左から三番目、晴れやかにブロンズ像を手にしておられる宮下先生。

ご自身の長年の夢であった
「この賞を取るために長いこと会長職を続け、アピールし続けてきたんだに?」 という柔らかな飯田訛りが、今でも聞こえてきそうです。


改めまして、宮下和男先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 



※ 「信毎賞」 とは長野県下の文化・社会・教育・産業・スポーツなどに貢献し実績顕著な個人、団体に贈り県民文化の発展に寄与することを目的とする賞で推薦委員会などの推薦に基づき、審査委員会が審査し、信濃毎日新聞社社長・信毎文化事業財団理事長を会長とする表彰委員会が決定する。
正賞にはブロンズ像と副賞(賞金100万円)が贈られ、毎年信濃毎日新聞創刊記念日(7月5日)に贈呈式をおこなう習わしとなっている。





【注】
その他 


『信州児童文学会50周年記念誌』


 信州児童文学会会員 原田康法氏ブログ 『美和の里児童文学館』(宮下和男先生のページ) 等も参照させていただきました。
深くお礼申し上げます。      






 唯一私が所有している宮下先生のご著書 『春の迷路』(1982年 ほるぷ出版)。












出版記念会に行ってきました。

2016年03月07日 | 本・文学・取材等
 
『魚屋しめ一物語』 ( 柳沢朝子:著 大庭賢哉:画 2015.9.28 くもん出版 )
 


信州児童文学会の大先輩で、大好きな柳沢朝子さんの出版記念会が昨日長野の某ホテルで開かれたので、行ってきました。

午前中は信州児童文学会の総会、
午後は、懇親会と 「とうげの旗文学賞受賞式」、「柳沢さんの出版記念会」 とがありました。

私は懇親会からの参加で、
 まず 「とうげの旗文学賞」 の授賞式から。

信州児童文学会で年3回発行している同人誌 『とうげの旗』 掲載作品より、
毎年一回 「とうげの旗文学賞」 というのが選出されるのですが、

今年は



寺島俊治(としはる)先生の 『寺町通り坂の町』 (9号掲載) と

  




畠山真佐子さんの 『2055年のさんかんび』 (11号掲載) の、W受賞。

  


そして、お二方とも、二度目の受賞ですので、その実力は立証済み。

特に寺島先生の、このお年での受賞、並びに長編力作には頭の下がる思いです。



 続く柳沢朝子さんの出版記念会では・・・



抱えきれないほどの沢山の大きな花束を受け取り、ご挨拶される柳沢さん。



昨年の 「とうげの旗文学賞」 を取った作品が、今度は出版されての記念とあり、喜びもひとしお。

お着物姿に気品と貫禄があり、存在感は既に女流作家並み。     

それなのに、おっとりと控えめなお言葉の中から、氏の確かな目と、努力と苦労、そして謙虚なお姿がかいまみれます。


中でも、小さいころから台所のテーブルのひと隅で、時間を見つけては背中を丸め、執筆していた母の姿を見て、
「どこにこんな情熱があるのだろう。母を突き動かすものは何なのだろう」
とずっと思ってきたが、

このように皆さんに、ずっと暖かく支えていただいてきたからこそなのだと、今日それを知ることができた、
と声を詰まらせながら語ってくださった、柳沢さんのご長女の言葉に、こちらも、うるっ。    

ああ、やはり、蛙の子は蛙なんだなと、そのお心の確かさ、謙虚さ、そしてスピーチのうまさが受け継がれていることに感動しました。


その後は、司会の北沢彰利さんご指名の、主に久しぶりの人、新入会員の方などのご挨拶が続き 
(私も久しぶりだったので2番目に指名されてしまったので、ご挨拶させていただきましたが…あー、恥ずかしかった。2011年の夏の会以来なので、知らない顔が増え、浦島花子さん状態でしたが・笑 )

和やかに? 会はすすみ・・・そして終了。


 その後は、下のロビー (喫茶コーナー) にて、恒例 「二次会のお茶会」。

途中、北沢さんら 「飯田方面組」 が一斉に帰られたので

その後は、和田登会長、羽生田 敏先生、高橋忠治先生 (また長野に戻っていらしたようで嬉しい限りです) らのお話しに耳を傾ける。
途中、柳沢さんがやってきて、出版の苦労話を、先生方相手にまた、面白おかしく喋ってくださるので、興味深く聞かせていただきました。

出版までこぎつけるのに、それはそれはご苦労なさったんだなぁと。


終わりの方になって和田先生が、「次は猫田さんだな。」 というお言葉を頂戴し、
え゛っ   ほ、ほんまでっか 
ちょっと嬉しいような、お恥ずかしい限りのような・・・。

( 畏れ多くも和田先生は私のブログも時々覗いてくださっているようで、それだけでも赤面ものなのに、
ご自身もノンフィクションを多く書かれていらっしゃるので、私にもノンフィクションを勧めてくださり、ありがたいような、めっそうもないことに恐縮至極なのでございます。 )

なので
「せんせ、だめです~。私はもう (紙の本での出版は) リタイアしちゃいましたから。」 と思わず口走ってしまいましたが・・・

やっぱ、紙じゃないとダメっすかね? (もちろん、私は紙の 「本」 という形態を愛してますけど)

こんなに、日々頑張って書いているのになぁー。(ブログ)   

命かけてるのが 「ブログ」 では、なかなか認めてもらえないしなぁ。  仕方ないですが。


 その後、駅前の居酒屋さんで (といっても飲んだのは私だけですが・笑)、
にしかわとよこさん (千葉で遠方なのと新幹線の切符をすでにとってあるとのことで30分ほどで帰られたので残念でしたが) 事務局のお仕事ご苦労さまの 山崎玲子さん、川上佐貴子さんと三次会をし、19時40分発の特急最終で帰宅しました。


先生方のお話しは、いつもながら刺激的で大変興味深かったですし、久しぶりに児文協事務局時代の話なども出て (山崎さんとも-山崎さんや和田先生とはそのころからのお付き合いで長いのです) 
普段こういう話をすることが全くないので、

いくらネットが発達して、情報も、本もCDも、ネット一本ですぐ調べられるし買える、世界とつながっている、とはいえ

人とのつながり (交流) だけはネットでは買えないし、出ていかないとだめだし、

それには田舎に住んでいるのは、限りなく不利だなぁー、と思ったことです。

頻繁に 「そういう場」 に出向くことができないですもん。


その夜は、本当に疲れたのでご飯も食べずに先に休んだのだけれど、夜中にいったん起きたら、
今度は興奮してなかなか寝付かれなくなってしまった・・・。(笑)    


そして今日も、悶々と考える一日でしたが・・・    


今週末にはパソコンの先生と 「電子書籍」 発行のための最終打ち合わせをする予定ですし、

先生はそのために、間に合わせるために一生懸命やってくださっているはずなので、

当の私が、落ち込んで? いてはダメですよね 


 さてさて

ここまで来るのには、同人誌活動を含めて何十年と紆余曲折。

ようやくたどり着いた道のりなので・・・、

自信を持って GoGo   です。     


読者の皆様、ぜひぜひ、応援していてくださいね。       






柳沢さんと一緒に写真を撮っていただきました。 ( ぎゃー  太ってるよ~  )

これが、クラコンにも着て行ったワンピ(紺)と、黒いラメ入りのボレロ(一日目) なのですが・・・
質感とかデザインとか、全然わかんないし。    エーン。

自分が主役ではないので、控えめな色に、コサージュもせず、ネックレスも控えめな、天然不揃いパール、というのにしてみましたが、地味すぎ?(笑)




オビには、よく見ると 「しめいち」 と右読みの 『店の暖簾』 がかかっているという、凝った作りなのです。




ご本を送っていただいた時にお手紙 (右) も頂戴しているのですが、

ここは、絶対に直接ご本にサインしていただかなくては   と、持参し

していただきました。    


達筆な文字に、ご自身のご著名は控えめな、柳沢さんのお人柄がしのばれるようなサインでした。



「この本で運を使い果たしちゃったわ~(笑)」 とご自身もおっしゃり
「2冊目が大変(大切)なんだよ」 (グキッ・笑 ) と、先生方からもおっしゃられていましたが・・・

どうぞ気負うことなく、ゆっくりと、我が道を進まれてくださいね。


柳沢さんなら、きっと大丈夫。    


柳沢さん、あたたかくて素敵な出版記念会を、どうもありがとうございました。

私も負けずにガンバリますよ~・笑。   









様々な人生と 『本』 という かたち・・・

2015年10月21日 | 本・文学・取材等
児童文学の会のお仲間の方々が本を出されました。




 
まずは、 高山榮香(-えいか) さん の出された 『横丁のさんたじいさん』(銀の鈴社、2015.8.3 刊 - 短編集)。
「サークル・拓」 の同人の方です。

高山さんが拓に入会されたのは、私がKに戻ってからですので、
私が高山さんにお会いしたのは、そんなに回数が多くはないと思うし、拓は今、諸事情で休会中。

それなのに、毎年お年賀状をくださるのです。

そしてそこには、書くことへの真摯な思いが毎年のように綴られていました。

確か一昨年前だったと思うのですが、 「書くことがだんだんわからなくなります。」 とあり、

私はそれに対して、その翌々年の年賀状で (翌年、つまり昨年はその前年に義父が亡くなり喪中のため出せなかったので)、何か心配しつつも生意気にも、自分の思うことを書き綴ったように記憶しています。

( どなたにも毎年、その年にいただいたお年賀状を見ながら、そのお返事を書くように翌年の年賀状をしたためているため、
1年遅れのお返事となり、いただいた方では   だと思うのですが・・・  )

信州の会と違って、同世代の仲間だけで作っている拓だったので、高山さんを合評会でお見かけした時、たぶん、御年70歳を過ぎていると思われたので、その向学心や向上心にはいつも敬服していたものです。


今年のお年賀状には、 
「何とかいいものが書きたいと念じながら書いてきたが、この道は果てしなく大変だと、しみじみ思いました。
 書いては行きますが・・・。」
とありました。
 
そんな、なんとなく心配していた矢先にご本が届いたので、びっくりするやら嬉しいやら。

ご本が出たことの喜びと、休会中の私に、自著が出版されても送ってくれる会員の方はもはやいらっしゃらないので、申し訳ないやらで、

なんだか熱いものがこみ上げてきました。

そして、たぶん版元の住所録の登録ミスだろうとは思ったけれど、なぜか、2冊 (別々の梱包で) 送られてきたので、
貴重なご本だけに一冊を送り返しましょうか? と、ご本のお礼を兼ねてお電話をしました。

お電話で、9月に人工股関節を入れる手術をする (以前左をやり、今度は右だそう) とおっしゃるので、
送り返した本に、この9月で89歳になるという母の骨折、手術、入院のことを書いた手紙を添えたら、その後、ご丁寧なお礼状をいただき、

「お母様のお話に励まされた。今年80になり 、次々新人が出てきている。子や孫も大きくなり、書くことだけが悩みだが、書きたくても書くことのできなかった年月 (子育て中のことと憶測) を思うと幸せです」、 と書いてありました。

本書が初出版かと思ったら、
1993年に ことわざ童話館 3『どんぐりトリオの背くらべ 』(国土社刊:短編アンソロジー(共著))
に、「地蔵さんの左手」 を収録、出版されていました。

そして、 「拓」 が一番長い、とのことですが、それ以前に5つの勉強会に参加、2つの創作教室を卒業されていることなども “著者略歴” でわかりました。

それまで知らなかったことにびっくりしましたが、大変な勉強家でいらっしゃいます。


高山榮香さんは 1935年、横浜生まれ、東京都日野市在住、
高山さんのお嫁さんの 鴇田 由起子 (ときた ゆきこ) さんが、かわいらしい挿絵を描いてくださったそうで、高山さんの初めての単独でのご本の出版に、あたたかな家族愛も感じさせてくれます。

また、「さん」同人誌時代にご一緒したという、児童文学者 岩崎京子先生からのお祝辞と評も華を添えています。




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信州児童文学会で、いつもおっとりとして品のいい、優しい笑顔で接してくださる、大好きな 柳沢朝子 さんも、出版されたばかりのご本を送ってくださいました。

『魚屋しめ一(いち)物語』(大庭賢哉 画:2015.9.28 くもん出版刊) です。


信州の会も、40年続いた、子供が直接手に取れる 『親子で読み合う雑誌・とうげの旗』 が廃刊となり、同人誌形態の雑誌に変ったころから、なんとなく遠のいてしまっていたので、

こんな私にまでご本を送ってくださったのが申し訳ないやら、嬉しいやらで、拙ブログで紹介させていただけないかとお礼がてら電話をしてみました。

この作品は、 『親子で読み合う雑誌・とうげの旗』 に2007年から連載されていたもので、掲載雑誌形態の変化を経ながらも2014年までの8年間、連載が続いたそうです。

そして、2014年の第2回とうげの旗児童文学賞 (とうげの旗作品賞改め。柳沢さんは1998年に 『びんぼうがみ』 にて「とうげの旗作品賞」も受賞されています) を、この作品で受賞されました。

8年の長きににわたる連載が終わったので、また、会の文学賞もいただき自信も得たことから、何とかこれを形にしたいと思い 「くもん出版」 に郵送してみたところ、

人物設定があいまい、地名がわかりづらい、現代の子どもに伝わりづらいなど、散々こき下ろされ一蹴されたことから逆に闘志に火が付き、

根性で書き直すこと13回、やっとこのたびの出版へとこぎつけたのだそうです。

その不屈の精神には本当に敬服します。


自分が松商の本を出すときに、600枚から300枚、100数十枚にしてから出版前にもう一度と、
3回も書き直しをした、というのが秘かな自慢? でしたが、どうしてどうして、柳沢さんはそのさらに上を行っていらっしゃいます。

しかも、とうげの旗文学賞まで受賞された、おそらくの自信作を、です。

その外観や雰囲気からは想像できないほどの、負けん気と根性の持ち主とお見受けしました。


柳沢さんに初めてお会いした (というより お見かけした) のは、

2006年10月に、 『信州児童文学会の創立50周年記念の会』 を黒姫童話館にて行った際に (私はその年の夏に同会に入会したばかりで、式典の合間に和田登先生に入会紹介をしていただきました)

記念式典で 「童話朗読」 をしてくださった柳沢さんを見た時でした。

その時に、他の会員の方から、柳沢さんがかつて地元放送局のアナウンサーをされていたとお聞きして、そのお声の美しさと優しくも華やかな雰囲気も相まって、雲の上のお方だと思ったものですが、


その後も、その優しいすずやかなお声と品の良さを買われて、高橋忠治先生の出版記念会の司会をされたり、夏の会などで何度かお会いするうちに、

その外観や物腰とは裏腹に、ユーモアがあり、ちょっぴりおちゃめで可愛らしいところもあって大好きになりました。


このたび、ご本のお礼と拙ブログへのご紹介記事掲載許可をいただこうとお電話したところ、上記のような 「出版苦労話」 を情感たっぷりに話してくださり、驚いたり笑ったり・・・。

来年3月の出版記念会でお会いできるのが、今から楽しみでなりません。


『魚屋しめ一』 のお話は、 『とうげの旗』 に掲載されていたころから大好きなお話でしたが、

これまで 『カンガルーハッチのパンチ』、『はやぶさとカメ』(信州児童文学会編、アンソロジー、総和社)、『つばめタクシー』(ツバメタクシー社)などの著書があるが、

本書が柳沢さんの初めての単行本出版となるそうです。

柳沢朝子さんは1939年諏訪市生まれの76歳、長野市在住。
人形劇「ラッパ座」主宰、地元ボランティアなどで活躍中。




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少し前の出版ですが、

『おはなしトランク・どうぶつがいっぱい キッチンくまかか』(童話工房ふろむ編、アンソロジー、2012.7.20 国土社刊)

『おはなしトランク・おもちゃがいっぱい スノードームにさ・し・す・せ・そ』(童話工房ふろむ編、アンソロジー、2013.3.15 国土社刊)


前者は、確かその年の信州児童文学会夏の会でご一緒した にしかわとよこ さん (「ウンがつくおまもり」収録) が、

後者は、ふろむ同人一同 の手紙が添えられていることから、同人のにしかわさん (「うーちゃんのスコップ」収録)、山崎玲子さん (「赤いようちえんバス」収録)、鳥野美知子さん (「ちよさんとお手玉」収録、拓同人でもある) の、いずれかの方から送ってくださったように記憶しています。


「ふろむ」 は、年に一度 「同人誌」 も発行 (拓の「あける」に比べ、厚さが3倍くらいあってびっくり・笑)
していますが、

子どもたちが直接手に取れる童話を、と、アンソロジーの出版、販売を会として考えたそうです。

こういう手もあったのね、というのが正直な感想。 (信州児童文学会編の前出の2冊も同じ形態の出版物ですが)


「同人誌」 というのは、会員の作品発表の場であり、成果を確かめ合ったり、書いたものを合評して今後に生かすための勉強の場でもあるのですが、

いかんせん、読者対象である子どもが読むことはない、という、なんとも不思議な刊行物であるのが、最大の難点。

( 同人、同人の仲間や作家、日本児童文学者協会、一部の出版社など関係者にしか配られないため、一般の大人が読むこともほとんどない )


当時、ご実家のお父様が病気療養中で、7月末、お父様の誕生プレゼントにできたばかりの本を手渡し、
こういう本を出したり、一緒に勉強し励ましあえる仲間がいるのだ、と告げたそうです。

お父様は、それから約一か月後にお亡くなりになられたので、にしかわさんは最後の親孝行ができたのではないか、とおっしゃっていました。

翌年発行された第2弾は、そんなわけでお父様に見ていただけなかったのが、私としても残念に思います。



  

こちらは、信州児童文学会誌 『とうげの旗・第6号』(2014年2月号) に、

詩集 『八月のカレンダー ~父へのレクイエム~』 として、にしかわとよこ さんの9編の詩が載せられています。

いただいたアンソロジーの短編童話も、あったかくてかわいらしかったけれど、私はむしろ、こちらの方に強く惹かれました。

ご病名やにしかわさんのお話などから案じてはいたものの、その後にしかわさんとはお会いする機会がなかったので、やはりお父様、お亡くなりになったんだ、とわかったこと、

そして、娘の視線というより、時に一人の人間=男としての父の人生を書くことにより、淡々とした言葉の中にそっと哀しみが寄り添いながら、ふっと暖かいものもこみあげてきて、胸が打たれました。

にしかわさん、童話よりもこっち (手法) のがいいじゃん、とも思いながら・・・。

彼女の、違う一面が見れたような気もしました。


のちに聞いたところによると、この詩はお父様の他界後に書かれ、一周忌にこれらの詩で小冊子を作って、親族やお父様がお世話になった方々などに贈られたそうです。 
( 冊子にまとめたものと会誌に載ったものの量が同等だったかまではわかりませんが )

そして、これらの詩を書くことで、私は父をゆっくりと供養できたのだと思います、とにしかわさんはおっしゃっています。


書く者にとっては、書くことが生きる全てで、書くことにより物事を昇華させ、自分を納得させる。

自分が書いたものだけが、自分にとっての真実になるので、書くことでやっと生きてゆける。

ときにそれは、苦しみから逃れられる、唯一の手段となる。


にしかわさんの詩や、このたびやり取りしたメールなどを読みながら、そんなことを、自身の生(せい)とも照らし合わせながら思ったことです。


にしかわとよこさんは1968(昭和43)年生まれの47歳。埼玉県出身、千葉県在住。
信州児童文学会編 『カンガルーハッチのパンチ』 に 「青いセーター」 が公募枠で採用されたことをきっかけに、「ふろむ」 同人で信州児童文学会の山崎玲子さんもいたことなどから、同会に入会。その後、同編 『はやぶさとカメ』 に 「かさのおうち」 が収録。本書が3冊目、4冊目のアンソロジー収録となります。
小さい頃は転勤が多かったそうで、住んだところが “都-みやこ” とばかりに、遠く千葉から信州の集まりに来てくださり、長野県在住なのに不良会員の私は頭が上がりません・笑。




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こちらも、少し前になってしまいましたが

信州児童文学会と、一歩の会でもお世話になった、依田秀人(よだ ひでと)さんが、これまで書き溜めた童話、投稿文、雑文などと、
実父 依田憲一郎氏の、1997年~2013年までの16年にわたって 「信濃毎日新聞・建設標」 に載った33篇の投稿文、
そして、中学生の息子さん、依田龍政君の、コンクール受賞した詩と短歌を一遍ずつ収めた、

親子三代にわたる文筆集 『はるいちばん』(平成26(2014)年11月20日、くわの葉工房発行)。


興味深いのは、
「はじめに」 では父憲一郎氏が、息子が今までの作品をまとめて刊行するというので、自分も便乗したといい、

「あとがき」 では息子秀人氏が、父の投稿文をまとめたいと思っているうちに欲が出て、自分の書いたもの、息子のものまで合わせて一冊にすることができた、

と、謙遜し合っている点。


この本はまさに、 「蛙の子は蛙」 を地で行く、親子三代にわたる “文達者自慢” なのだ。

この 「自慢」 というのは、批判的に言っているのではなく、
投稿が採用されるくらいだから、憲一郎氏の文章力、着眼点、まとめ方がうまいことは実証済み、
秀人氏の童話も、味わい深くなかなかうまい作りだと日頃より思ってきたので、
そして、息子龍政君も、入賞するくらいの腕前なのだなぁーと、

むしろ、感心して、微笑ましく思いながら使っている。

と、思ったら、なんと文章を表現することへの憧れは、自分の祖父の残した 短歌や俳句の中にあった、と秀人氏が、祖父の句集の中からのお気に入りを二首、用いながら結んでいることである。

おじい様までもが、文達者だったのか!!

いやはや、びっくり。

どうせなら、祖父も入れた親子4代に渡る “大河作品集” にしてくれたらもっとよかったのに、とつい欲目が出る。


家族にとっても記念になると思うが、
贈られた側にも温かいものがこみあげてくる、微笑ましくも幸せな出版の形である。


依田秀人氏は1960年(同い年)、長野県佐久市生まれ、下諏訪町在住。
信州大学理学部数学科卒、ソフトウエア技術者。下諏訪北小学校PTA会長、下諏訪町教育委員会などを歴任した。




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『手打ちうどん』(2014年6月20日 姉妹社発行) も、昨年のことになってしまったが、

信州児童文学会会員の 島田富子(-とみこ) さんが送ってくださったもので、私のようにものにまで、と恐縮してしまった。

日常の中で感じたこととを書きつづった、50篇の随筆が収められている。

故はま みつを先生が、お亡くなりになる半年前の8月、夏の会会場の大町のホテルのロビーで、タバコをくゆらせながら、
「あと十篇書いたら本にしましょう。」 といってくださり、やっとお約束を果たせ墓前にお供えできたけれど、ご存命中にご覧いただけなかったのが何とも心残りだ、とあとがきに書かれています。

大町のホテルのロビー。

多くの信州児童文学会員が、にこやかに笑っていらしたお元気そのものの、生前のはま先生とお会いした最後の場所。

まさかその半年後には二度と会うことのできないお方になろうとは、夢にも思わなかったのですが・・・

島田さんはお親しかったので、病室のはま先生を見舞われており、奥様にも 「きっと本にしてくださいね。」 とおっしゃっていただいたそうです。


そんなはま先生への思いと、書かれた年代は記載されていないのが誠に残念であるが、長年文章を書きためてきたことへの想いとが織り交ざった、島田さんが生きてこられたあかし。

奥付にはっきりと (非売品) と書かれていることも、島田さんが本当に読んでもらいたい人たちだけに手渡される本なのだとわかり、その一人に入れてもらえたことが嬉しくも申し訳ないほどです。

本当にありがとうございました。


売るためのものではなく、 “一つにまとめること” の意義と大切さを、依田さんと島田さんの本は教えてくれます。

島田富子さんは1937年、長野県上水内郡牟礼村(現飯綱町)生まれの、とてもおきれいで若々しく、そうは見えないのですが78歳。長野市在住。




※ 最初の4冊は、出版社のHPなどを通じて購入できますので、ご興味を持たれた方はお買い求めいただけると幸いに存じます。



今回ご紹介させていただいたうち、依田さんと、にしかわさんは、ほぼ自分と同世代。

あとのお三方は、人生の大先輩です。

もう55歳と焦っていたけれど、自分なんて、まだまだヒヨッコなのかもしれません。


私も、大学一年の時からなので、この道? に足の指の先っちょを突っ込んで、つかず離れず、早や36年     

ハッと気がついて、たまに、だけど冷静になると、そりゃ、メゲますよー、

やんなったりもします。


自分、何やってんだろ、って反省もします。  こう見えても・笑。

でも、大先輩の方々が頑張っておられる姿を見ると、負けちゃいられませんよね。


人生は、長いのです    


先日見た、篠山紀信 『写真力』  の 「きんさん、ぎんさん」。

注目を浴びたのは 「2人そろって100歳、100歳」 のときですが、
まず、100歳まで生きたこともすごいけど、それからまだ、お二人とも7年も8年も生きることになるんです。


よしっ 


がんばろう、私。       



みなさんも、あきらめてはいけませんよ。

一緒に、頑張りましょうね。 ( って、ナニをだ  笑 )       






※ PS.

「バレエ・カテゴリー」 分立に伴い、2013~2014年の記事で、他の記事と一緒になっていたものからの独立、下書きのまま未完成、未発表になっていたもの二つを新たにUPさせていただきましたので、合わせてご覧いただけますと幸いに存じます。

・2013年06月05日 堀内元、堀内充 『 バレエ・コレクション 』  5.31 めぐろパーシモンホール

・2014年06月10日 カルミナ・ブラーナ 6月8日 於:伊那文化会館

・2014年06月17日 ローザンヌ大賞の二山君を見に伊那へ・・・(白鳥バレエ学園発表会)

です。

宜しくお願い致します。   










HP移転 & リニューアル後のページほぼ完成! のお知らせ

2014年12月14日 | 本・文学・取材等
先日からPCの先生に何度か来ていただき、その後コツコツ一人で作ってまいりました、まだかなり建設中だったHPが

やっとのことで ほぼ完成いたしましたぁ~~~ 

やったぁー     

バンザイ     

                               


色々凝った? 作りになっていまして、別ページに “今度はちゃんと” 行かれたり、そこからさらにヒミツの?お部屋が覗けたりしますんで、

細部にわたり、お見逃しなきよう、お願いいたします。     

「エッセイ」 のページも、予告編をちゃんと載せました。


でもね、UPする前に何度も読み直し、一日の終わりにもチェックしてきましたが、それでもまだ直しがあるかもしれないのでご容赦いただきたいのと (見落としの誤字がある恐れも)、

今日、なぜかトツゼン!! ページの要所々と一番下に入れてあった 「ページTopに戻るマーク」 が消えてしまい、
そのため若干読みづらくなっているのです。えーん、ごめんない。   
 他にも、摩訶不思議な怪現象が起こり  とりあえず削除したので、 “見た目には” わからないと思うのですが、編集上においては大変困るので、合わせて今度先生に来ていただいたときに直す予定です。



それから、OCNの 「ページ・オン」サービスの終了に伴い、HPを移転しました 


ブックマークを書き換えていただけますと幸いに存じます。

 猫田ジャレHP 『なんとなく、イナカタル』 の新しいアドレスは   
http://nanina.sakura.ne.jp/   です。

よろしくお願いいたします。



その他、今日は、知人や恩師の方などから、とっても嬉しい3通のメール+1コメントをいただきました。 

ですが今日はこんなでしたので、返信できなかったので、明日ガンバリまぁ~す。
もしもここを読んでいてくださっていたら、そんなわけですのでご容赦くださいませ。  


でも、正直・・・あー、づがれだ。  ぐったり・笑。     


今夜は祝杯  じゃぁ~        


でも最近、HPにリキ入れすぎて毎晩ぐったり  でも仕方ないから晩御飯は一応作って、お風呂入ってご飯の途中で、疲れているのかつぃうたたねしちゃう  夜中とゆーか明け方?目が覚めてから、しょうがないので洗い物して、HPの出来上がってる部分だけをチェック  している間もウトウト・・・ で、
エネルギーを消耗しすぎているのか、トーゼン寝不足もあって、毎朝ちゃんと起きられなくて・・・  
昼頃になって       ・・・ 

片づけなどの 年末の家事が大幅おくれてるので・・・
( お風呂掃除とプラスで洗面台&キャビネット掃除は、鎌倉帰りの翌日にダスキンが来てくれて、カンドー的にきれいになりました 
もぉ、これからずぅーーーっとダスキンさんにお願いしたいくらいです、ホント。  

とりあえず・・・

朝ちゃんと起きて、 年末の片づけ等をちゃんとやりまぁーーーすっ      




PS.
今日は一日雪が降っていて、合計すると20㎝くらいの積雪があり、私も店の前をほんの少し、ですが  初雪かき しました。   

今年は雪が来るのが早く、多めなので嫌です。   寒冷地の嘆き。   


あ、選挙はちゃんと、 「期日前投票」 してきましたよ。 






中間報告!

2014年12月12日 | 本・文学・取材等
パソコンの先生は先週の5日と、終わらなかったので6日にも来ていただいて、

主にリニューアルしたHPの、出来ていないところのやり方などを聞きました。

HPの作成ソフトを 『ホームヘージ・ビルダー』 から、そっち関係に詳しい企業家でもある親友のナオミ推奨の 『BIND』(バインド) に替えて、悪戦苦闘。
( PCの先生によると、BINDを使ってる生徒さんは今のところいないそうで、先生も勉強してくださっているのです。   )

なんかさぁ、『ホームヘージ・ビルダー』 もね、使いはじめた頃は、HP作るためだけに松本の、来てくださる先生のおうちでやっているPC教室に通ったくらい難しいんですけど、

『BIND』 は、ナオミ曰く、ビルダーより見栄えがカッコ良くてUP方法がラク、とゆーんで替えたのですが・・・


確かに、見栄えはカッコイイ   
覚えればUPはラク    


しかし・・・ 

ページが自分のちょーニガテ、見るだけで拒否反応の “英語” で書いてあるんだよねー。作成ソフトの画面が。 

いえね、取説は日本語ですよ。
でも、字が小さくて読み辛いし、どこに何書いてあるのか、わかんにゃぁ~いっ!!!  

てんで、悪戦苦闘。  

と、思ってよく見たら・・・



これ、バインドの作成ソフトの一部なのですが、全部ではなくて、ほんの少し英語で書いてあるだけでした。  

でも、そう勘違いしちゃうってことは、 いかに自分が英語を拒否ってるか   ってコトですよね・笑。


それで先日先生に来ていただいた時、

「けっこう難しいですねー。  こんなに時間かかるとは・・・。
これ、先生に丸投げして、全てHP作ってもらうってのはどうでしょうね? 高いのかなぁー。」

と、思わずつぶやいたら

「いゃ、猫田さんの性格からしたら、 絶対自分で納得して作った方がいいですよ、 沢山書いてるし。

だって。

さぁ~すが、先生  長年のおつきあい・笑。   

確かに・・・言えてまんねん。   


あと、自分のHPはOCNの 「ページ・オン」 をサーバーにしていたのだが、来年2月で 「ページ・オン」 のサービスを終了するという通知が来たので、

ついでに先生に別のサーバーへの切り替えもやっていただき、新しいアドレスも取得しました。 


既にOCNの方は解約したので、現在私のHPのところへ行くと 「見つかりません」 という表示が出るらしいです。

まだ、リニューアル中のHPは “建設途中” なので、出来上がるまでは、新しいアドレスは内緒なのです。
( そういう事情なので、ご心配くださいませんように。  ) 


今、前回まだやりかけだったところを中心に、一生懸命作っている最中ですので、今しばらくお待ちくださいませ。  
( 今週は先生がいらっしゃれないので、また来週の予定なのですが、なんとか自分でできるところをやっているのです・・・)



そして、午前中は主に、家の片づけ物をしています。   

こちらの方は、第1段階をクリアしたら疲れちゃって(少し体力もいることなので) 、 続きがなかなかできなくて・・・
ちょっと今、中だるみ気味ですが・・・ 

こちらも、全部できてから写真お見せしたいし・・・もう少しお待ちくださいね。


本当は暮れなので、年賀状を先に書くべきなのですが・・・

やりだしたら、止まらないっと。   


今、先日の鎌倉ショート・トリップ、楽しかったなぁ~     とゆーのを心の支えに (UPはもう少し待ってください)、

なんとかメドをつけて、武道館のアルフィーのクリスマスコンサートに、晴れて気持ちよく参加したいワ     
とゆーのを励みに、ガンバッテまぁ~すっ   


皆さん、応援していてくださいね & もう少し待っててくださいねぇ~。   






第5回 K学講座 ・ 『夜明け前』 より ~青山半蔵・王滝への道~

2014年09月19日 | 本・文学・取材等



第5回目となる 「K学講座」 は、島崎藤村の 『夜明け前』 より、~青山半蔵・王滝への道~と題して、西村友孝先生を講師に、本日午後からありました。

母も行きたいと言っていたのですが、父がどうしても留守番できない用事があったので、今回は私だけが参加しました。

K谷が生んだ文豪島崎藤村はK谷出身という理由だけで(笑)最も尊敬する作家の一人なのですが、

この 『夜明け前』 は、1997年12月に、東京、新国立劇場の 「開場記念公演」 の一つとして主人公青山半蔵に加藤剛、その妻に樫山文枝 というキャストで上演 (12/日(木)~24(水)(20回公演) されたものを、

Kからの “観劇バスツアー” があって、それを利用して見に行ってきました。

このお芝居は、


“すべてが山の中である” と小説冒頭で指し示された 「K谷」。

林野に覆われ、耕す土地もないK谷の貧しい農民達を見て育った、中仙道K十一宿の一つ馬籠 (まごめ) の街道端で庄屋を兼ねる本陣を営んでいた青山家の跡継ぎ息子、半蔵は、平田篤胤 (-あつたね) の国学を学び、理想に燃える青年だった。
時は明治維新の真っただ中、家督を継いだ半蔵は、開国へと向かって大揺れに揺れる時代の中で、身を挺して宿場の改革に努めるが、理想と現実の板挟みになり苦悩する。
そして人々のためを思い企てた改革の罪により投獄され、やがて牢の中で狂死する・・・。

という壮大なスケールのドラマを、まさにハマリ役ともいうべき加藤剛が熱演、

上演時間が4時間もある、「長大作」 でした。(観劇バスツアーだったので、その時間も入れると相当長い時間ということ・笑)


たまたま、高校時代、現国の授業で藤村の 『桜の実の熟する時』 を教わり、感銘を受けて原作を読んでみたのを始めに、高校から大学、社会人となる間に、
その続編ともいわれる自伝的小説 『春』、『新生』(以上は島崎藤村の青春三部作とも言われている) と読み進み、藤村の若き日の半生を想い、 

旧家に嫁ぎ、夫の事業に翻弄され、やがて病を得ていく実姉 「その」 の一生を描いた 『ある女の生涯』、その一族を描いた 『家』 など、K谷に生きる人々の苦悩を描いた作品に言いようのない共感と、複雑な思いを感じたので、 

これはぜひとも大作 『夜明け前』 を読まなくっちゃ、と文庫本を買ってみたものの、

あまりにも難しくてやになって、一巻途中で投げ出した 作品でもあった。    
( しおり紐が、第一部(上) の170ページに入っていたので、多分そこまで読んだのだと思う・笑 )



私は、1992(平成4)年の暮れに東京から郷里のKに戻ったのだが、

大学2年、二十歳の時に、二つ上の姉が、大学卒業と同時に東京の人に嫁ぎ、図らずも郷里の店の跡取りとなってしまった自分が、

10年の歳月をかけてようやくKに戻る決心をして帰郷、その2年後 (1994、平成6年) に東京で知りあった現在の夫と結婚したものの、複雑な思いを抱えながら過ごしていた (人間というのは一面的ではないので、そこそこ楽しく生きていたと思うのだが、それがすべてではなかったということなので、ご心配なきように)、 その心情と島崎藤村の作品は、実に相容れるものがあった。



ま、この辺のことを書くと ちょー長くなり、一冊の小説になっちゃうくらいなので (郷里に対する想いは複雑であり、今も昔もずっと、とても一言で語れないものがあります) 今回は省略させていただくが・・・、

要するに私にとって
島崎藤村 と THE ALFEE は、 まさに青年特有の憂いと焦燥、苦悩、反骨のバイブル  


なぁ~んつって・・・    



公演は、その島崎藤村が K谷の 「王滝村」 に実際に取材に行き、熱血漢あふれる筆致で父、青山半蔵の姿を描いたことの解説や、
藤村が10歳にて、その父の勧めで東京へ出て学問に励むことなどを、様々な文献、資料等からち密に調べ上げた西村先生の、その努力には非常に感服したが、

話が飛んでややわかりづらかったのと、
実際問題として、青山半蔵がなぜ地元の馬籠(のちの神坂-みさか-村、現在の岐阜県中津川市)ではなく、王滝に行って、そこで何をしたかというのを、お芝居で観たかもしれないけど忘れちゃってる、つまりよく知らないので、

なにがなんだか、さっぱりわからんかったよぉ~~~     (しかも、時々眠く・・・


戻ってきて母に公演の報告をしたのだが、

母も 『夜明け前』 を読んだのは 大昔だったから忘れちゃったよーーー、
それほど、 “面白いって話でもない”  し・・・

だってさ。 
( 実家には、藤村のもう一つの大作 『破壊』 もあり、母はそれも読んだようだが、読んだだけでもすごいのだ。    )


もっとも、自分も藤村の作品を読んでいたころは30年近くも前なので、


と、たった今 ぎゃぁ~~~       
ね、ねずみが出たぁーーーーー         
( しかもね、私の座ってる目の前で、PC机のマウスパッド横の右角のところを這って行ったんだもん、ぎゃー  でしょ? )

町内スーパー (夜10時まで) に 「ねずみホィホィ」 を買いに行ったのだが、売り切れだった。   


したかなく、 「ゴキブリホィホィ」 で代用。

昨日から店に出没していて、昨日は 「デスモア」 という毒入りの餌を設置したのだがダメだったので、 「ネズミホィホィ」 の方がよく取れると思ったのだ。

ちょーちっこぃネズミで、ゴキさん用でも取れそうなサイズだったから、代用したのね。



さて、つづき。

自分も藤村の作品を読んでいたころは30年近くも前なので、今読んだらまた、違った感じで読めるのかもしれない。

せっかくだから、 『夜明け前』 も読んでみようかなぁー。



島崎藤村については、まだ書きたくて書いてないことが沢山あるので、いづれ、また。 




先生の作ってくださった、ち密、かつ膨大な資料。

この他にも、先生が好きで集められたのでしょう、
藤村が初めに 『夜明け前』 を連載していたという、昭和4年と7年の文学雑誌 『中央公論』 を二冊と、
江戸時代に実際に作られ流通していたといわれる “和綴じ(四つ目綴じ)” で筆で書かれた本物の古本を2冊、聴講者の席に回して、実際に手に取って見せてくださったのには、ちょーカンゲキ!! しました。

貴重なものを、ありがとうございます。 





1997年に上演された、『夜明け前』 ポスターとチラシ。

青山半蔵、平成を覚ます。

とサブタイトルに書いてあります。 『夜明け前』 という、タイトルがまた、いいですね。 

 チラシの裏で出演者。




※ 「K」 という表記について。

話の前後を読めばわかることなのですが、ネット上における 「地域」 を特定させないための、単にカモフラージュであり、特別な意味はありません。

また、わかり切ったことを伏字にする 「おもしろさ」 を狙ってもいます。

これからも意思を持ってこの表記を貫きますので、ヨロシクです。 
 



《 追記 》

その① 突然聞きたくなり、昔のCDを探し出しました。 こんなの、買ったの忘れてたよ~。 



2001年、ウルフルズのベストアルバム 『ベストだぜ!!』 より、


これが答ーえだぁ~! 
これが、答えだぁ~~~!!!      



その② 「ヤフー占い」 本日のてんびん座。 12星座中第1位 

 総合運 95点

周囲からの視線を気にせずに、自分の道を追求しましょう。
あなたの人生は誰のものでもなく、あなた自身のもので、無限の可能性があるのです。
最終的にあなたが納得のいく方法がベストな選択でしょう。

 開運のおまじない
好きなアーティストを選び、今日のテーマソングを決めましょう。


好きなアーティストは今さら言うまでもなく、 30年前から THE ALFEE なので、


本日の MY・ベストソングは

『Going My Way』   ( 2003.10.01 アルバム 『Going My Way』 収録曲 )

この曲を、世間的には不惑の49歳で作ったタカミーもスゴイ  けど

なんといっても 『THE ALFEE SINGLE HISTORY VOL.VI 2002-2008』 (2009.3.4)  に収められている 「ライヴヴァージョン」 が、

アルフィー教、高見沢教祖の “カリスマ性” が炸裂 

もー、サイコー    なのです。

   

 
まさに 「歌は感情を統一する」
(by、MYミュージカルスクール校長 いずみたく) ですね。 



※ 捕捉しますと、

2001年にアルバム 『GLINT BEAT』 を買ったのを最後に、2003年頃から多忙と病気のため、2008.11.30にアルコン復帰するまで、
偶然幸運にも、奇跡的にタイムリーで入手できた、2004,8.25発売の 『THE ALFEE 30th ANNIVERSARY HIT SINGLE COLLECTION 37』 (ALFEEのデビュー30周年を記念して発売されたCD三枚組のベストアルバムで、記念BOXとCDに、かの 『ベルサイユのばら』 で有名な池田理代子さんのイラスト、記念グッズに同イラストのジャンパー付き) 以外は、アルフィーの新曲をほとんど買わず、情報も知らなかった時期がありました。(マニアの会員も、辞めたつもりではなく、会費を納め忘れていたので、3年ほど会報をもらえなかった時期があると、後で気づいた)
なので、「Going-」は、同名のアルバムの存在を知らずに、初めにこちらのライブバージョンから入ったので、なおのこと良い意味での衝撃が大きかったのです。

ついでながら、このアルバムには例の 『明治学院校歌』 も入っていて、島崎藤村作詞と知らずに (以前はよく、タイトルも歌詞カードも見ずにいきなり曲を聞いて、しかも “ながら” だったため、長い間タイトルを知らなかったり、歌詞をちゃんと認識していない曲が沢山あったりしたのです、お恥ずかしい) 初めて聞いた時から、その古めかしいけれど清々しい歌詞の響きに逆に新しさを感じて魅了され、一発で大好きになりました。あとで藤村作詞であること、学校の 「校歌」 であると知り、また、アルフィーのアレンジあってこそのカッコ良さとわかりいろんな面でびっくりしましたが。  いつかもっと詳しく書きます。 
3人を模した3匹のネコのジャケットでそういう意味でもお気に入りのアルバムなのです。 

( ▼ドリーム・ジェネレーション 2009年10月26日 | THE ALFEE カテゴリー参照、だいぶ後の方に出てきます。)

ほかにも、2008年10月22日に発売されているので知っているはずの 『さだまさしトリビュート さだのうた』 納入の 「まほろば」 の存在を、2010年にソロDVDで見るまで知らなかったり、頓珍漢で摩訶不思議な発言が多いのはそのためです。
この辺のことも長くなるので、いづれ機会がありましたら。




 おまけ・・・



左が私の持っている “新潮文庫” の 『夜明け前』(昭和63年12月25日65刷版、360円)
 
右は母の持っている 新潮社出版 (当時) の 「藤村文庫」シリーズの 「夜明け前」(昭和21年9月10日28刷版、定価:弐拾円 ← 全て旧仮名遣い、「島崎」という “著者印” が張られています)  です。

偶然にも同じ新潮社のもので、 タイトルが右書きか左書きかだけの違いで、装丁がカラー、模様とも全く同じなのです。




私の持っている、島崎藤村の文庫本で、「破壊」、詩集、童話などの3冊以外は、新潮文庫で出ている藤村作品のすべてを持っています。



藤村作品で一番最初に買った 『桜の実の熟する時』(右、昭和51年8月10日34刷版、180円)と、
一番最後に買って、唯一読破できなかった 『夜明け前』(左で第一部の上下、第二部の上下の、全4冊あります)。



母の買った 「藤村全集」。
私のとまるでタイトルが違うので、不思議 (改題したのか、他の作品と寄せ集めた際に、違う作品のタイトルがついたものなのか) ですが、全作品がそろっているということです。

「教職時代 (昭和20年~30年の間) に、戦後やっと本が出るようになった頃に買ったと思うけど、『破壊』は話題作だったりして読んだけど、『夜明け前』は全部読んだかなぁー。買っただけで満足して、他の本もどれだけ読んだかよく覚えてない・笑。」

だそうです。




母の本棚の一つ。 この数倍もの本棚と何倍かの蔵書が、実家のあちこちにあります。
今は外して撮りましたけど、親の本棚は皆、今風のオープンなのではなく、ガラス戸がついてますね。
昔は本は貴重品だったから、大切にしまっていたのかもしれないですね。戸で覆われていたから見えにくかったのかな。

いづれにせよ、母は今も昔も、まちがいなく私より、確実に本を読んでますね。      

子どものころは、“子供向けの” 本や全集を、それこそ、親がおもちゃや洋服は買ってくれずとも本だけはどっさり買ってくれたので (図書館でも借りられたし)、 
父や母の本は目に付くところに沢山あったのにもかかわらず、古いし難しそうだったからあまり興味もなかったので見ることはなく、母が藤村全集を持っていることすらよくは知らなかったと思います。


でも、母も私もやはり、郷土の産んだ島崎藤村が好きでそろえたのだ、と思うと、親子だなぁーって思います。
( 作品への興味の持ち方は、それぞれ違うと思いますが)




( ▼ THE ALFEE 名誉卒業と聖地巡礼の旅 ~ 補足編・島崎藤村 と さだまさし ~ 2014年05月22日 | THE ALFEE カテゴリーもご参照ください。)











祝☆HP開設10周年!! & 端午の節句!!

2014年05月06日 | 本・文学・取材等




2004年より始めました猫田ジャレHPですが、
お陰さまをもちまして、昨日5月5日で 開設10周年を迎えましたぁ~。       
ばんざぁーーーいっ!!!

                        



これもひとえに、支えてくださる皆さま、ご訪問くださる読者の皆さまのお陰であり、深く感謝いたします。

2008年1月11日より、こちらのブログを始めたことにより、HPの方はあまり更新されなくなりましたので、
HPの方は文章を 発表(掲載) するためのものではなく、猫田ジャレの 「活動基盤」 と考え、

今年3月3日に、HPをリニューアルオープンする運びとなりました。

( 冒頭は、リニューアルしたHPのトップページです。
サンプルの中から選びましたが、題名にふさわしい、山の中の感じがよく出ており、満足です。 
また、色と配置の工夫で、ちょうどネコが月の中にいる感じが出せて、こちらもにんまり。   )


これからも、皆さまに多くご訪問していただけるような、愛されるHP、ブログを目指して日々精進し、がんばっていきたいと思いますので、 
かわらぬご支援、ご愛読のほどをよろしくお願い申し上げます。   



newHPより、プロフィール欄と


お仕事のページ ( こちらの方は背景がアイビーになっています。 )


その後、ソラチの病気や色々あってPC教室の先生に来ていただくのが延期になり、まだ、途中のものが多く、申し訳ありません。  

今週の10日にやっと来ていただけそうなので、頑張りますね。 



     * * *   * * *   * * *   * * *   * * *



「パソコンをやると世界が広がるよ~。猫田なんて絶対ハマるよ、向いてると思うな。(^_-)☆」

そう親友でパソコンでする仕事のエキスパート、ナオミに言われ、OA不得意の超アナログ人間だったけど、頑張って従兄弟の見立てでパソコンを購入し、従兄弟に接続や設定をしてもらい、従兄弟にアドレス取得もしてもらったのに、取説嫌いで、ローマ字打ちも苦手だったので、その後がトンと進まず、
なんとMYパソコン、1年もの間ホコリをかぶってしまっていたので、  

これではイカン  と一念発起して数か月パソコン教室に通い、何とか一応のことはできるようになり (無理せず、日本語打ちにすることにした。ワープロに20年慣れてきたのでそのほうが楽だしイマジネーションがわきやすいから。
ちなみにワープロは、児文協の事務局勤務時代84~85年に、まだそんなに普及していなったワープロを職場で導入した際についてきた、メーカー主催の無料ワープロ2日間教室に行かせてもらって覚えた。独学ではムリムリ・笑 )、

多分その1年後くらいにHPを開設するに当たっては、そのためだけに再び教室に数か月通って、四苦八苦、なんとか開設に至ったのは、 


ひとえに、イナカに引っ込んでしまったので、
なんとか 「 私はココにいて元気にしているよ~  」 と親しい友人たちに伝えたかったから。
そして、 自分の書いたものを人に読んでもらいたかった その一心です。  

( 在学中より長く 『同人誌活動』 をしてきましたが、しだいに自分の一番やりたいことはそれとは少し違うのではないか、とわかってきた。自分の好きなものを好きなように書いて、それをみんなに読んでもらうにはどうしたらいいかと考えたとき、HPしかない! と思えたのです。 ← 当時は、ブログのような連載物をHPに載せてました。 )


HP開設2年めに、ご縁があって自分の長年の夢だった本を1冊出させていただき、その後病気で3年くらいダメだったり、色々なことがありましたが、

なんとか細々とですが続けて来れたので、大変嬉しいです。   



まぁ、だいたい10年続ければ一区切り、一応やってきたと言っていいと思うので、

多少は自分をホメてあげてもいいかな、と思います。   

その間ずっと(病気中も含め)少しずつでも書き続けてきたわけですから。
 


  自分、幼稚園の時から担任の先生にお手紙を書いたり、絵日記を描いたり、絵本や紙芝居を作ったりしたほど、早くから文章を書くのが好きだったので、将来は物を書く人になれたらいいなぁと漠然とだが思い続け、
一応、“本格的に”  児童文学作家を目指して、大学の児童文化研究会に入部したのである。(1979年18歳の春)


そのサークルはしかし、書く方よりも研究を、それよりももっと実践や社会的な活動の方が盛んだったので、ちょっと自分の最初の目的とはいささか違うようにも思ったが、
それでも卒論も児童文学で書いたし(そのために 「日本児童文学」 の自主ゼミまで作った)、4年間、児童文学を学んできたつもりだった。

それなのに、大卒後、突如ミュージカルの養成所に通ったり、
その後もなんやかんやと、口では 「書きたい!」 というけれど、所属同人誌に書くことはあまりなく、のらりくらりとしてきたので、

こんなに沢山、長く書き続けてこれたのは、たぶん生れて初めてである。     

ひゃー、バスカシィーーー。 ( 女、齢4、50にて、やっと本気-マジ- 汗・  )



ただ書いてりゃいいってもんでもないですが、

続けて来れたことだけは、自信になります。 しみじみと感慨・笑。



さあ    次なる躍進に向かって、 ネコタがんばるぞぉーーー   

            



ひき続き、応援よろしくお願いいたします。   





《 端午の節句 》

水仙は花の小さいもの、チューリップは百合咲きの 「バレリーナ」(左) と、フリンジ咲きのものがわずかに残っていて、咲きました。 


さて、昨日は端午の節句でしたが、午前中街へ出なかったので (子どもの頃商店街へ買い物に行くことを“町に行く” っていいませんでした? あれって街中に住んでる人は、なんていうのかな。単に出かけてくる、買いものに行ってくるっていうのかな) とくに節句のご馳走? はなかったので、今日やります。

今日は恒例の、タマゴが安い 「火曜夕市」 へ行って、夫の好きないつものお刺身 (まぐろ中トロ入り) と、珍しく 「鯛の握り」 があったので買って、

あとは自分の好きな、鶏のから揚げ用の骨つきの手羽元を買って、夕方品物を自宅に置きに帰った際、タレに漬け込んできました。

なんだ、結局、人間の好きなものを食べるだけじゃん・笑。  

でもさ、祝われる方のソラシロのうち、ソラは療養食しか食べられないからね、仕方ないのだ。
( お誕生日は 4月22日-よいにゃんにゃん- の日で4歳になりました  が、
ソラチの結石騒動等で コロッと忘れた   ので、節句で祝うのじゃ。 )


そのソラチが、おとといからまた血尿が出てしまい、朝晩薬を飲ませていますが、心配です。   


いつもと同じお飾り その①


その② 



チロチくん 


おもちゃを抱え込んで寝ている、かあいーソラチ。 
カーペットの汚れには目をつぶって下さい。  洗濯しても落ちないの。 


血尿でたぶん尿道が痛いのだろう。安心と弱り切ったのとで、おとーさんの膝にしがみついて眠るソラチ―。   




 《 おまけ 》

 
【 初代HPのトップページ・上の部分のみ 】

2004年5月5日より開設、翌2005年7月29日より設置した 「ご訪問者数カウンター」 は 《 25060 》 を記録しました。

沢山のご訪問を、ありがとうございました。 


※ 開設当時より数年前の写真ですが (てコトは、何年前? )、ゴンとドラがまだ若くて元気だった頃のもので、気に入っているので、
新しいHPにも使わせていただいております。 








HP、リニューアルオープンしました。\(^o^)/

2014年03月03日 | 本・文学・取材等




皆さま、大変長らくお待たせいたしましたが・・・、  

ネコタ 「奮闘努力の甲斐」(注) があり、 


本日、猫田ジャレのホームページが、無時、リニューアル・オープンしました。
( 左の「ブックマーク」より行かれます。 )

ばんざぁーーーーーいっ   

                    



3月1日に、2度目のPCの先生に来ていただき、前回は先生に設定していただいたりなどが多くて、
しかも私がOCNのパスワードがわからなくなっていて作業があまり進まなかったのですが、(なんか接続詞が変だな・笑)

今回はだいぶやり方を教わって、前回を上回る計6時間ぴっちり、

まだ途中だったのだがUPせざるを得ない状況があったため、先生がお帰りになってからも、  
大慌てで修正に一人で頑張り (取説は見方がよくわからなかったので、教わったのを思い出しつつ見よう見まね+あてずっぽうで・笑)  

  今まで使っていたHP作成ソフトのビルダーは何もないところから作るのだが、今回使用したのは、使用例として載っているものを書き換えながら作っていくタイプのもので、全然関係のない写真や文章が載ったままUPせざるを得なかったので、必死だった。

先生が試しにUPしてみますというので、後で消してもらうつもりが、アップロードに思いのほか時間がかかったので、消すのは惜しいなぁ、ま、 「リニューアルオープンのお知らせ」 をする前に、途中の段階で見に行くやつぁーいねーな、とタカをくくってたら・・・

なんとー  コムが、 「表紙とプロフィールまではできたんだね、いい写真だね(≧▽≦)、だけど次のページ行ってみたらビックリ、この人誰!?・・・まだ途中なんだよね(^^;」 とメールをくれ・・・
ぎゃぁーーー    途中の段階で見つける人がいたぁ~  
しかも、夜とかではなく、夕方の、ほんの数時間の間にちゃっかり見られていたとは。  

なんでも、HPのリニューアル、まだかな、もうそろそろかな、と毎日のようにチェックしに行ってくれてたそうで、嬉しい悲鳴とはまさにこのことか   

びっくりするやら 、 あわてるやら 、 大笑い    であった。
( でも、そんな風に待ちわびててくれてたってのは、かなり嬉しかったんだけどもさ。 んー、カワイイ後輩よのぉー。   )


  
なんとか、その日のうちに自分に関係ないものだけは書き換えて、体裁だけは整える。


その後2日ほどで、文章の細かいところや、途中のところをこつこつと修正&書き加えて、

だいたい完成しましたので、ここにご報告いたします。   



思えば2004年の5月5日にHP 『なんとなく、イナカタル』 をオープンしまして、

ブログをやるようになってからは、ほぼ開店休業状態ではありましたが (特に2012年暮れにパソコンを新しくしたらHPの移行がよくわからず、翌2013年は1年間手つかずのままであった。  

こうして、ちょうど10年後の2014年の3月3日に、リニューアルのご報告ができるとは、

しかも、図らずも 「端午の節句」 の日に始まって 「桃の節の日」 にリニューアルしたという・・・

いやぁ、 メデタイ、めでたい        



新しいホームページは、友人推奨の今までとは違う作成ソフトを使用した (カッコ良くてしかもビルダーより操作が簡単) ので、自分で言うのもナンだけど・・・、

ちょぃ、かっちょいい デス。   

まぁ、まだ完成途中の部分もありますが、おいおい作っていく、とゆーコトで、お許しを。  



あと、それに伴いまして、ブログのタイトルを 

猫田ジャレの『天然!にゃー語』 に変更させていただきました。   

このタイトル、もともとは本家HPの、今でいうブログ的な日常の小日記みたいな記事のタイトルだったのですが、

HPリニューアルに伴い、そのページはなくしたのと、もともとブログタイトルに使いたかったのだけど、当時はHPで使っていたので使用をあきらめた、といういきさつもあったので、

このたび、晴れてこちらのタイトルにしました。 

前回タイトルも割合気に入っていたし、2008年のブログ開設より5年以上慣れ親しんだタイトルなので、戸惑う方もいらっしゃるかとは思いますが、どうかご理解のほど、よろしくお願いいたします。 


我が家(親の家) で子供のころから愛読している新聞のコラム 『天声人語』 をパロッたもので、

にゃー語(ねこ語)と 「ニャーゴ(鳴き声)」 をかけている意味合いもあります。 

おー   言葉の魔術師、ネーミングの天才   なんつぁって・笑 (^^;)ゞ



このタイトルに変えながら、サブタイトルを考え、

でも、私ってよく考えたら、そう天然じゃぁないよなー、   

こんなにキリッとしている天然なんてないもん、  とは思ったのですが (当時はまわりから天然だとよく言われていたのでつけたのだが)


その日の晩御飯で、珍事件2つ+α が発生しました。    このことについて書こうと思ってたけど、長くなるのと、今HPリニューアルで精根尽き果てて、気力体力思考能力が限りなくゼロに近いので、省略。


ま、よーするに、ですな、 

俗に天然と言われている人は、単にヌケていたりボーっとしているのではなく、

自分が何か気になることをずっと考えていて、そっちの方に集中しているため、

端から見るとボーっとして見えたり、何か聞かれても上の空だったり、そっちに集中するあまりうっかり他のことがヌケてたりするだけなのです。

あと、自分が固執していることだけが大切なので、その基準が世間的に大切なものと一致するとは限らないだけでもあります。



ですから、天然の人はただボーっとしてるわけではなくて、 
集中力が高いんですっ。      

You see?



ま、そりはさておきまして、    


今後とも、リニューアルオープンしたHPと、

タイトルの変更になったブログを、これからも どうぞヨロシク  ですぅ~。  




 冒頭写真:受験シーズンに近所のスーパーで見つけた、
招き猫型 キャラメルコーンならぬ 「夢をカナエルコーン」幸せたっプリン味 紅白です。

ご利益のおすそ分けを、アナタにも。  
そして頑張って作成したHPリニューアルに伴い、私にも幸運が舞い込んできますように。  



 こちらは、紅白ミルキーの入った 「招き猫ペコちゃん」 と、「ドデ開チキンラーメン』 です。

毎週火曜日夕市の 「4時から卵が98円 」 というセールの、時間待ちの列に並んでいるときに、つい目に留まり、買ってしまいました。






【 注 】

 奮闘努力の甲斐・・・ご存じ、フーテンの寅さんが歌っている、映画 『男はつらいよ』(20代のころ好きでよくTVで見ては涙していた) の中の一節。

さいしょ聞いたとき  うんとー、努力の甲斐もなく  と言っていると思ったので、
そうか、うんと (ものすごく) 努力したのに、寅さんは報われなかったのね、  と思っていたら、
映画かなにかで字幕を見たら 「奮闘(ふんとう)努力」 の間違いでした。  


 おもいこんだら・・・こちらは、サークル拓の同人で児童文学作家最上一平の話なのだが、

子どものころ、人気TVアニメ 『巨人の星』 のテーマソングを聞いていて、
ずっと 「重いコンダラ」 だと思っていた    飛雄馬が、重い地ならしのローラーを引きながらこの曲が流れていたので、
このローラーは 「コンダラ」 というもので、引いて歩くのには相当重いのだ、試練の道なのだ、   
(  本当は “思い込んだら” です。 )
と長いこと思っていたという、こちらもウソのようなホントの話を、  

サークル・拓の同人誌 『あける』 の1ページエッセイに、だいぶ前に書いてました。  



以上は、耳で聞いただけの思い間違い、聞き間違いで、ちょっと笑えるけど、皆さんにもきっとある、というオハナシです。  



その他、HPにて説明不足のものに関しては、後日おいおいといたします。  

めでたくオープンしたものの、勢力使い果たして異様にぐったり、     の、ネコタでした。  







近況 ・・・ 提出原稿、 その後 +α

2014年01月10日 | 本・文学・取材等
はっと気づいたら、 

またしても、間がものすごぉーく、空いてしまいました。  

昨日、高橋忠治先生の出版記念会の報告文を書き上げて 「とうげの旗」 編集長の松永さんに送り、ドキドキしながら待っていましたが、

今朝ほど
 
>いい記事ですね。猫田さんにお願いして正解でした。
>感謝です。

というメールをいただき、よかったぁ。 

ほっ  とするとともに、

ほ、ほんとですか    ありがたきお言葉に、じわぁーーーん。 


あとは、校正原稿が送られてくるのを待つのみです。


1/8に出かけていたので、一日は何もできなかったのですが、

その日を挟み、およそのものが出来上がったのが前日の7日くらいですかね?



大体いつも、どんなものでも書き始めの時は、うーん、書けない、書けない、ムズカシイ・・・

どーしよう???

と頭を抱えてもだえ苦しむ? のですが、

ええいっ 

なんでもいいから、とにかく書いちゃえー、と開き直って書き始めると、あれよあれよ  と、

途中つまづきつつも、ナントカ書き進められます。

(パソコンのワードまたはかつてのワープロって、簡単に文章が切り貼りできるので、ものすごい便利。未だ手書きの人がいるとはにわか、信じられまへん。特に私のように文章力、構成力に乏しい人には魔法の道具です。)


そして、書き上げた途端、その前段階の 「全然できてなくて苦しんでいた無の状態」 を知っているだけに、

我ながら、よくぞここまで書けたよなー、  うまいなぁー。 

すごいなーっ  

私って天才かも   

と、正直毎回思う。



でもって、合評会とかにかけられると、いつもこてんぱんにやられるので 

              

となって、あの自信は、どこへやら。      


立ち直れないくらい落ち込んだりするのが常で、その、繰り返しなのですが・・・   



こういうものは幸いなことに、合評会はないので・・・、
でも、提出して、返信を待つまではビクビクなので、

よかったです。 



たぶん、明日には校正原稿が着くので、
提出するまでにも、プリントアウトして直してはまたプリントアウトして直す (ワードのままだと直したほうがいい個所がわかりづらいのと、時間がたたないと冷静になれないので) を何度か繰り返したのちなのだが、
提出してからも自分でもまた2、直す箇所が出たし、どのくらい赤入ってるか、意外と   かもしれませんが、頑張ります。 




 そうそう、1月7日といえば、昼頃に同期のFから、

「くれよんの会、ほんとにやるなら、そろそろ来月の休みの希望を出すので、早めに知らせてね。」とメールが入り、
「(去年のうちに2/1~2日に確定だって言ったじゃんよぉー  と思いながらも明るくひと言) やるよー。   まだ、宿にははっきり申し込んでないけど、大きなとこだから、部屋なんて沢山あるでしょ。」 と返信すると、
「土曜は結構すぐ埋まるから、大変と思うけど早めに申し込んだ方が・・・」 と助言をもらったので、


こりゃイカン  

と、すぐさまお宿に、事前にHPでチェックしておいた料理や値段等を問い合わせて、ちょっと考えただけで即決し、参加最高人数8人を予定して男女、人数別に部屋を取り(減ったら後でキャンセルすればいいので)、
すぐに私と、去年の段階で参加できないと言ってきた外国在住のO以外の残り7人に、簡単な決定事項の詳細と、参加の最終的な有無を問い合わせるメールをしました。
(一斉メール、やり方を知らないので、仕方ないから一人一人に  ですが。ただし、ケータイだと、一度打った文字が次にすぐ出てくるので、PCよりも便利な点も。キーボードじゃないのは不便だけどね。)


うーむ、我ながら忙しい合間を縫って  手早いのぉーーー。  

やれば、事務処理能力、テキパキして、サイコー   


と、またまた自画自賛しつつ、悦に入る私であったが、  


だったら、もっと早くからやれっつーの。 


いつも、間際になりあわてる、懲りないヒト。