猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

くれよん同期会、無事終わりました!!

2014年02月05日 | 友人、交友関係


皆さま、ご報告が大変遅くなりましたが、

W大児文研同期 「くれよん」 の会が2月1日~2日にかけて、横浜みなとみらいの温泉施設・ホテル 「万葉館」 にて、無事終わりました。 



土曜日だったので、ものすごく混んでいて、入館に時間がかかり、宴会前の入浴はあまりゆっくりできませんでした。  

「飲む前に入る」 が鉄則で、「入ったら着替える」 ので、こんな恰好でちとお恥ずかしいですが・・・( と、ゆーより、一人バカみたくはしゃぎまくっているよーに見え、ヒジョーにハズカシイです・汗 )
ホテルでは、入浴後に浴衣か作務衣(さむえ)を貸してくれます。
動きやすいから、もちろん作務衣。


入浴は宴会後にゆっくりと (あまり飲まないし) というW(左端)と、翌朝仕事だから宴会のみで帰るというDは、カチッとキメていて、まるで父兄参観日のよう。

仕事帰りで世田谷マダムのWはともかく、食品製造業の作業服からスーツに着替えて登場、のDは、そういえば昨年もスーツでした。なんでか聞くと、
「これね、普段着なの。これが一番ラクなの。」 と、タカミーのようなことを言っている、昔からちょっと感覚がズレてる  (自分で自覚はないが、皆に言わせると私も、らしいが) けど、これでも一応社長のDです。

その右隣はIと作曲をしているF。

前回、地下鉄には乗れないので単純な場所でやってくれ、と言っていたIは、みなとみらいまでどうやって行ったらいいのか? 駅に着いたらわかんないから電話するから誰かに迎えに来てもらいたい、とか言ってたくせに、私がちょっと遅れてホテルに着いたら、

なんだ、私より先に、一人で着いてやんの。  

「な、な、な、なによ I~     よく一人で来れたねー。 しかも私より先に」 というと 
「一応ね、地元だから何とか来れた。」 だってさ。 だから、そう言ったのに。  (Iの実家は横浜。しかも、万葉館、駅からちょー解りやすく、しかも近かった・笑)

そのうえIは、私が何を言っても、たとえば言葉のちょっとした言い間違いとかって誰にでもあるのに、それだけで大うけ、大笑いするので、それを聞いた私がまた、Iの笑いがおかしくて大笑いして、受付の時から笑いっぱなし。  


部屋に入る前の廊下でも二人で大笑いしていたら、Wに 「ちょっと静かにしてちょうだい。」 とたしなめられちゃいました。  


右端はApです。Iも入浴はしたが作務衣は着ずに、持ってきた部屋着に着替えてます。 



ホテルは、タカミー・ソロコンで何度か訪れているパシフィコ横浜や、コスモワールドのすぐ近くです。 (関係ないけど、コスモワールドって、もう営業していなかったのね。夜にはきれいにライトアップされていたから、全然知らなかったよ~。)


屋上には、コスモワールドの大観覧車が望める 「足湯」 があります。

宴会が終わり、2次会の前にみんなで入りました。

Fがビル管理の仕事で、万葉館のメンテナンスに通っていたことから、ここがオススメだと提案してくれ(町田館とみなとみらい館とに行っていた)、足湯があるということも教えてくれました。 


反対側には、コンチネンタルホテルが望めます。

足湯入浴者には 「綿入り半纏」 を貸してくれるのですが、ちょっと寒かったです。 
でも、素敵な夜景に、みんな大満足。 

都会の真ん中にこのような温泉施設があるとはビックリです。
流行るわけですよね。

宴会前に入った露天風呂からは、港の夜景と、海に浮かぶ船の灯りがきれいでした。  
明日朝ぶろして、海を眺めよっと♪


前回、どうせ私はどこでやっても泊まりだし、2次会の場所の心配とかなくてゆっくり飲み、語り明かせるから泊りはどうか、と提案したところ誰も反対しなかったので決まったのですが、

のんびりできてよかったです。(二次会は結局、持込みできる飲料やつまみを館内カウンターで注文し、部屋でのんびりとやりました。こういう時、和室は便利なのです。)

ただし、3人部屋にはトイレがないのが難点。
それさえあれば、毎回ここでもいいね、などと皆で言いあう。



翌朝、Wが仕事で朝6時ころに帰ったので、それに合わせて私たちも起きて、Iと朝ぶろ。 

今度は露天風呂から海が見えて、サイコー  でした。 

その後私は部屋で一人で、朝ビール。  これぞ、温泉の醍醐味。 

ぷはぁ~ 

それからApと合流し、
年末から作曲の依頼がいくつかあって正月も返上、その後も依頼が続いて今回くれよんの会に参加するため頑張って仕上げてきたという、嬉しい悲鳴なんだけどちょーハードスケジュールだったとかでお疲れのFは、ちょぃ二日酔いで寝てるらしく、3人でバイキング。
いつもの5倍くらい食べてしまった。   (普段はハム乗せトースト半切れとコーヒーだけなので)

その後、用事のあるIは帰宅し、その後復活してちゃんと朝飯も朝ぶろもしたというFとApと3人でチェックアウト。


どうしても仕事が休めず宴会や泊りには来られなかったけど、藤沢で夜勤が明ければ2日目だけは来られるというHと、今回初めて合流できました。

クイーンズ・スクエアの 「ハードロック・カフェ」(ここにもあったのね) のギターの前で。
 
Fは自分で 「激太り」 したと言ってましたが・・・(児文研時代はアイドル並みに?可愛かったものだが 
まぁ、私も人のことは言えません。  

そういえば昨年、二人で 「ダイエットして、来年はお互いスリムになって会おうね」 と誓ったのですが・・・。 ぜんぜん、そのままじゃん・笑。

H(写真中央、奥)は、せっかく久しぶりに会ったのに、近々ベトナムに旅行するので、今風邪を引きたくないと言って、マスクのまま、まさか写ってるとはねェ~。   


せっかくだからと中華街へ行き、4人で 「食べ放題飲茶」 ランチを。 (ついでに肉まんなどをお土産に買って帰れた。 

しかし、Hは夜勤明け、つまり仕事終わりだったので、ランチのとき紹興酒をしこたま飲み、ちょっと (かなり ) 酔っていたとはいえ、だいぶ変だった。    (失礼)

いつだったか、同じくらい何年振りかで会った後輩たちとの 「望年会」 に行ったら、Hは知らぬ間にみんなとはぐれたと嘆いていたが、たぶん厄介だから、みんなにおいて行かれたんだと思う・笑。  

昨年は会えなかったので会えてもちろん嬉しかったけど、来年もこうだったらちょっと考えちゃうよ~。 
( きゃーゴメンよー。楽しかったんだよ。ただ、発言には、ちぃとばかし気をつけてね、人のこと言えないけど・笑 )

今年はAbが体調を崩し入院中で来られませんでしたが (その後、順調に回復している模様) 
これで2年間でくれよん同期の仲間、外国に行っているO以外の、全員に行きあうことができました。 



学生結婚したHには既に、2番目に結婚が早かったWはもうじき、なんとお孫さんができ、
お勤め人は定年まであと7年、と秒読みが始まり、子どもの受験の心配や、家のローンがまだ残っているとか、親の介護が大変、などと皆それぞれに色々あるようで、

今のところ、そのいづれにも全く該当していない私は、そういう意味では実に恵まれているのだと今さらながらに思った。

お気楽な能天気で、すんませんです。 
( ただし、自営は一生働かなくてはならないので、どちらが幸せかはわからないが。しかも、ものすごく田舎の、落ち目の酒屋で。   
もちろん、親が今のところ介護の必要もなく一応は元気でいてくれることは、いつもとても感謝しています。  )


それにしても、定年や、介護や、自身の健康のことを話すような年になったのである。


だが、閉鎖的な田舎で、人間関係だけがすべての個人商店を営んでいるので、普段、あまりにも自分を押さえて生きているために (このブログでさえ、実は言いたいことをすべてぶつけているわけではないし)、

その反動もあってかつぃ、昔の仲間を前にしたので、またその当時の癖で、言いたいことをはっきりズバズバ言い過ぎ、
また、自分のこと、自分の考えなどを、あまりにもしゃべりすぎてしまったと、今頃になって自己嫌悪に陥っている私。  

( くれよんの皆さま、数々の暴言!? お許しをば。  
そりゃまぁ、ザルのように飲んだけど、 決して酔っていたからではありません。自分、あれくらいでおかしくはならないので、おそらくそのせいでないとわかるからなおのこと、自己嫌悪になるのです。 はぁ~   )


Awが亡くなり、十年以上ぶりにみんなで会ってみたら、それまでの心配をよそに、まるで会っていなかった時間を忘れるかのように違和感なく、楽しく喋れたのが嬉しくて、

やはり、4年間ほぼ毎日のように会っていて、苦楽を共にし、喧嘩もした分、つながりが深いのだ、と思ったものだったが、

Awのお墓参りも入れれば、これで3年連続でみんなと会ったわけだが、
やっぱり、生きている環境や考え方は、それぞれ違うものだなぁと、今頃になり改めて気づく。

かつて、確かに同じ方向を目指していたはずだった若者達が、
卒業して何年か経ち、はっきりとそれぞれの歩む道の違うことに気づいた頃は寂しかったものだが、
そういうことはとうの昔に悟ったので、さすがにもう、寂しいとは思わないが、

自分、不器用なので・・・。


また、今回は泊りがけならではの楽しさももちろんあったのだが、2日間というのは大変と言えば大変だし、
そして、幹事、ちょぃと疲れたので、  ( 終わって帰ってからも、他の用で色々と忙しいからかもしれないが、疲れが何日も抜けないのだよ・笑    単にトシなだけか? )


来年はどうするかなぁ~。  


何人かからは、その後 「楽しかったよ、ご苦労様」 とのメールをもらい、喜んでもらえてよかったと大変嬉しかったけれども。



2011年の夏の終わり、くれよんの大切な仲間の一人Awが亡くなった。ショックだった。
知ったのが遅かったので、秋にAwのお墓参りに連絡のついた何人かで行った後、飲みながら、
「みんなで生きているうちにもっと会おうよ!」 と始まった、くれよんの同期会。

そして私が、その同期会をまとめようと思ったのは、ひとえに、かつてAwと一番仲がよかったのに、Awに何もしてあげられなかった自分のせめてもの償いであり義務なのではないか、との思いからなのだが、
それを機に、連絡のつかなかった人ともすべて連絡がつき、同期会も開けた。

Awが、みんなを再び引き合わせてくれたのだと思っている。


ここまで頑張ったのだから、Awも、もう笑って許してくれるのではないだろうか。 
( てか、頼んでないしって、いたずらっぽく笑うAwの声が耳元に聞こえてくるようだ。
ったくジャレだよ~・笑 って。  )   


まあね、幹事が動かなければ、だれも何もしないので、私の気分次第、だな。  





( ※ 写真はすべての方々に掲載許可を取っております。 )







くれよん同期会

2013年02月28日 | 友人、交友関係
トーキョー・リゾート、第一日目、

まず、同期会ですが、




W大児童文化研究会 (児文研) の同期、「くれよん」 の会は、男女5人ずつの10人でしたが、昨年Awが亡くなり、Oが外国在住のため、全部集まれても8人なんですが、7人集まりました。

すごいでしょ、この結集率。 v(^_-)☆



まず、23日の集まりに、関東だがやや遠方で、朝の早い食品製造業を営んでいるために、Dが昼しか参加できないとわかったため、急遽 「昼の部」 も作ったので、 「夜の部」 と両方参加の、Ap、I、と私は、ほぼ一日一緒にいたのですが、

一期下のCと二期下のコムにも連絡、付き合ってもらって、6人で、

もぉ、30年のブランクがうそみたいに、終始笑い転げ、レストランでも電車の中でも、大騒ぎ、  

ほんとーに楽しかったです。 



まず、11時半に、JR上野駅、上野公園口改札に集合、
最初は上野動物園にでも行こうと思ったのだが、先にお昼を、とゆーコトで、

なんと、お昼を食べるためだけに 、 入館料600円払って(女子はDのおごり)  「国立科学博物館」 内のレストランへ。 (Dのおススメなの・笑)


これは、科学館展示物にちなんだ、名物 「恐竜の足跡」 型のハンバーグです。(Dと一期下のCが頼んだ。)

私たちは、とろ~りオムライス(セット)を。


並んで待っている時間と、食べている時間、近所迷惑も顧みず、異様に盛り上がり、     

Dが3時までしかいられないというのに、ほぼ、待ち時間とレストランでしゃべくりあっているだけで、時間が終わってしまった。  



★同期 「くれよん」 メンバーと、一期下のC、二期下のコムです。  ( 以下写真総て、ご本人掲載許可済みです )

昼の部は、Dを入れてくれよんは4人しか集まれなかったので、ちょぃさみしかったので、急遽ケータイアドレスを知っていた二人に頼んで来てもらいました。 

( コムとは、昨年『新堂本兄弟』公開収録で一緒になって以来、夏にも会ったりして、たまに連絡を取り合う仲で、翌日も一緒にお芝居を見る約束で、くれよん同期会のあることは 前々から知っていた。Cは、年賀状に、「コムとはたまに会っているみたいだから、今度来るときは連絡ください」とあったので、私に会いたいのだ、と勝手に解釈した・笑。コムとは同じ文学パート、Cとは全体運営委員会、というので苦楽?を共にした仲でもあります。子ども会パートだったので、IやApとも仲良しだし。)



後列左からAp、C、D。 外見はDが一番変わってないです。頭が単細胞だからか。 
在学中、よく 「Dとジャレの幼稚園ゲンカ」 と言われていたが、ってコトは、私も・・・。( ちなみに 万葉集ゼミでも、 「Oくんとネコタの幼稚園ゲンカ」 と言われていた私って一体!? )

前列左からI、コム  科学博物館の中庭で。 



前列真中が私ですが…。 ひょっ、えぇ~~~  
なんと福々しいのでしょうか。 

実はIとコムは、「ご飯(す○○)シリーズのあだ名」 で、学生時代はぽっちゃりしていたのです。
それが、すっかり逆転しちゃって・・・
Iなんて、苦労が多くてやつれちゃった?のか、私の半分、しかないよ~。   ( でも、本人は真面目なんだけど、ちょーおかしい“I節”は、健在。 )
ってコトはさぁ、私は苦労が足りないってコトか。 
でもね、ちょっとだけ言い訳すると、ゆったりと裾が広がっているコートなせいもある、と思うの。 



ここで、Dは時間だからと、そそくさと帰ってしまいました。  Dよ、ゴメン。
ああ、なんのための600円か、女子の分まで出してくれて。 


もったいないので、館内を少しだけ見て、その後は上野公園内をぶらぶら。
お天気がよく、真冬のKと全然違って、Kからしたら春のように暖かくてよかったです。  ← 幹事の行いがいいからか。   えっへん。


回りを整備中の 「西郷さん」 も、やっと探し当てました。(^^)v  お上りさんなので、記念撮影。  
もちろん、初めて見たワケぢゃぁ、ないっすよ。美術館や劇場があるので、上野公園、たまに来るし。でも、西郷さんは30年ぶりかも!? 
( Cが、西郷さんの連れている犬が 「忠犬ハチ公」 だと言って私をだまそうとしたが、ふんっ、  いくら私でも、そんくらい知っとるわぃっ。  )




その後、夕暮れの客でにぎわう 「アメ横」 通りをそぞろ歩きながら、せっかく御徒町まで一駅進んで、 「夜の部」 待ち合わせの東京駅まで行こうとしたのに、



なんと  私が、上野駅のロッカーに荷物を預けていたのをすっかり忘れていて、Cやコムに言われて思い出し、仕方ないので電車で上野まで戻って、再び東京駅へ。  


その間、Cに、子どもたちを呼んで児童劇を上演した2月公演の際、大道具に「L字型金具を買ってきて」と頼まれた私が、「L字型のねじ釘(フックみたいなやつ)」を買ってきた、という在学中の逸話を思い出して聞かされた。本人も覚えがないのだが、本当に、私のことなのか? (^^;)

そういえば、当時、部内に後輩を中心に 「隠れジャレ・ファン」 なるものがいたらしいのだが、これは、ジャレのファンなどと、恥ずかしくてとても言えないから、「隠れ」だったらしいのだが、なぜ、私のファンだと恥ずかしいのか、意味不明である。 
本当にファンだったなら、堂々と名乗ってほしいものであるが。 




さて、「夜の部」 には、Ab、F、Wが加わることになっていたのだが、ここで帰る予定のCとコムも、くれよんに会いたいからと、その他のメンバーが来るまで待っていてくれました。


待ち合わせた、東京駅北口改札の構内。 美しい。


修復された 「東京駅」 外観。  どこがどう変わったのか、わからにゃい・・・。 



ここから合流した、後列左端 Fと、右端が、Ab。 
Abは、帽子をかぶっていたら、30前とちっとも変ってなかったです。体形だけでなく、理論家で上から目線?なため、ややハスに構えた性格も・笑。(なんたって、ブチョーさん、ですからね。)

Cが持っていてくれているのが、モンダイのロッカーに忘れてきた私の手荷物。 人に持たせている私。  ( ←これで2泊分の荷物だぜぃ。我ながら、ちっさ。 でもね、重かったんだもん。 鞄自体が、取っ手が革でできていたりして、素材からして重いの。)Cが持つ前は、手荷物ゼロのApがずっと持っててくれました。(^^;)ゞ
そういえば、時間が長いと思って大きいサイズを頼んでしまったために、お店で飲みきれなくて道すがら飲んでいたスタバの空きカップは、途中から、気がついたらコムがもってくれていたなぁー。
きゃぁーーー、ごめんなさいっ。   

皆と別れた後、「ったく、ジャレだよねぇー。ジャレだから許されるんだよねー 」などとCとコムで話たらしぃっすが (同じことをかつてイズミの同期にも言われたなぁ~・汗)、くれよんからも、ジャレは昔からヘンだった、変わってない、といわれる始末・・・。 
( 変だな。私、大学くらいまでは、すごくまっとうでまじめな、ごくフツーの人でしたよ。年とともにだんだん変になってきたかも、とゆー自覚は、なんとなくはありますが。(^^;)ゞ )
いや、決して人見知りではなく、初対面の人ともすぐに打ち解けやすいのではあるが、
典型的 「内弁慶」な私は、児文研や、拓とか東京時代の古い児童文学関係 ← 信州の会では新しいし、上の人が多いのでそんなでもないが、イズミ時代の仲間とか、そういう自分のテリトリー内だけでしか自分を出せない、逆に言うと、そういうところに入ると、普段の生活であまりにも自分を抑えて生きているため、とたんに昔に戻ってジの出る私、なのでシタ。(^^;)ゞ ごめんね。 
地元とかでは、すごく常識的で、「いい人」なんですよ。閉鎖的な田舎で、個人商店やってますから、常に下出に出て、お客や地域の人を立ててます。ホントです。


くれよんのメンバーだけで。  後列左より F、Ap、Ab  前列左より I、私

( ちなみに、私の服装は、ワンピースをチュニック風に着ているので、下にはズボンを履いてまス。ちょー冷え性なので、真夏以外のスカートのみ、は、ずぇってームリ・笑。 )



宴会をした、丸の内オアゾ (真中奥の丸いビル) と、
仲通りの並木道のイルミネーションが右手に見えます。 
このあたりは、近年とても美しく、ロマンチックな街に変身したみたいですよ。  



最後にビル内で合流したW。(後列左端) 不手際があり、合流が遅れてしまったの、ごめんね、W。


Cとコムとは、ここで別れました。  前列の二人です。
( こういう時に背後でイタズラをしかけたくなる私。Cのツノはまだ準備中でシタ・笑。 )

二人のおかげで、より一層盛り上がり、本当に楽しかったです。

どうもありがとう。 




お料理は、
普段は、話に夢中になるあまり、食いっぱぐれるからイマイチ苦手だけど、大勢なら鍋でしょってことで、「博多水炊き」、などを含むコース料理で、


高級な? 「フグの唐揚げ」 もつきました。

水炊きとか、よく考えたら私って、鳥さんの煮たの、あまり好きじゃなかったけど・・・、 

最後に、コラーゲンたっぷり ( ←ここが女子にはうれしい  ) のスープを使った 「鳥雑炊 or うどん」 が出て、半分ずつ頼みましたが、雑炊、ちょー、おいちかったデス。 




一応、私が司会を買って出て、一人ひとりの近況報告をし ( 今回、参加できなかったHとDのことを伝え、Oはメールでお便りと写真添付をしてくれたので、お便りはその場で読み、写真はまわし)、

そのたびに、大笑いしたり、脱線したり、時に、いい意味でしんみりと聞き入ったり・・・   

中には30年ぶりの人もいたけど、そんなことはちっとも感じさせなくて、

やっぱり、4年間、苦楽をともにした仲間なんだなぁー、と改めて思ったり。  

( ほんとにね、365日、朝から晩まで一緒にいる、みたいな感じで、大学には部活をしに行っているみたいでした。朝、大学に行くと、まず部室に寄ってから、みたいな。あのころの部室=BOXと呼んでましたが、って、いつ行っても誰かがいましたね。子ども相手のいろんな活動や行事をしたり、勉強会や会議みたいなのがあったり、時に口論したり、今じゃ考えられませんが、みなさん、異様に議論好きでした。←私も、ね・笑、喧嘩したり・・・。 )



やってるときは無我夢中でわかんなかったし、卒業後は忙しさにかまけたり、もう、児文研のみんなとは住む世界が違うのだと思って、ことさら懐かしんだりしなかったけど、

改めて、その重さと価値みたいなものに、気づかされた感じです。  
(これも、亡くなったAwが、身をもって教えてくれたのかな。)


このあたりのことは長くなるから、いづれ、ちゃんと、ね。 


 
ほんとは、2時間の飲み放題コースだったのだけど、Abいわく、「土曜のオフィス街なんて、客がいなくて暇なんだよ」、のか、次の料理はちっとも運ばれてこないし、ラストオーダーとかもなかなか言わないから、

結局6時に始めて9時までいて、 


最期に、来年からはどうしよう、と言うことも決めて( ここ、重要  )

他の人にまかせると永遠に開かれなくなる恐れがあるからと、仕方ないから多分私が半永久幹事で( 今回、不手際もあったけど誰も文句言わず←いわせねぇ・笑 、皆さん、よくここまでやってくれたとホメてくれましたね。ヨカッタ。 )、

もう、往復はがきはメンドーだから、一斉メールにさせてよ、と言ったのに、なんとー、ケータイメールをもってない人( I、Ab、D←ショートメールのみ )がいたり、 

どっか、オサレな、トーキョー新名所でやろうよ、と言ったのに、横浜育ちの千葉県( 東京近郊の都市部 )在住のくせして、Iは、地下鉄ってよくわかんないし乗れないから、もっと東京や上野みたいな単純な場所にしてよ (  え゛~っ  K生まれの現在K住人の私でさえどこにでも行けるのに )、とか言われ・・・   



でも、もしかしたら来年は、泊りがけで某温泉、になるかもしれません。 

皆さん秋がいいって言うけど、ALFEEのコンサートで最初に予定を組む幹事が、秋はツアーで忙しぃんだヨネ。 

さて、どーなる!? 

( 二次会もありましたが、あの辺て店がなくて、駅ビル内の店は早く閉めるため、探してるだけで時間が過ぎ、やっと見つけた小さな居酒屋 ← の方が、我々らしい・笑、に入ってからは、一時間もなかったかも。残念でした。 )



 そうそう、在学中より音楽活動をしていた( 主に作詞作曲。たまに自分でも歌う ) F ですが、
数年前から台湾に活動の場を広げ、現在そこからCDを出したりしていて、

今回、最近出したCDや、彼が地元に一時的に戻っていたころ発表した曲、大学在学中に作った曲などを抜粋して集めたCDを、タイトルのコピーとともに、わざわざ参加人数分作って持ってきてくれました。 

「くれよん」 の会の歌(学年会ソング)、というのもあって、入学したころFが作詞作曲した、とてもいい歌も入ってます。← 各学年ごとに会の名前がついていて、学年会ソングがあった。




これが、一人一人にくれたCDと、曲目のコピー。  Fよ、ほんとうにありがとう!!
( いままで、色んな曲をご紹介いただいていたのに、ブログに載せられずにいて、ゴメンなさいね。   )


何十年もずぅ~っと同じ夢を追い続け、それをちゃんと形にしているFの姿には、私も励まされます。



来年は泊りがけで、たぶんカラオケOKの宴会場になるだろうから、みんなで 「くれよんの歌 」や、懐かしの児文研ソング、 いっぱい、いっぱい、心行くまで、うたおぅね。(^_-)☆


早めに連絡するから、アジアのちょっと近い国に転勤になるらしいOも、基本的に土曜昼しかダメと言うDも、そして日曜夜しか休めないという夜勤勤務のHも、

来年こそは、きっとね。  





トーキョー・リゾート、その②へ、続く。







今日は珍しく・・・

2012年09月04日 | 友人、交友関係


やっちゃんと、幾日ぶりかのランチをしました。



いやぁ、楽しかったぁ~。 

久しぶりに笑い転げました。 

てか、ずっと笑ってたかも。 

「うちのダンナに同じこと喋っても、全然笑わないけど、・・・そんなにおかしい?」 (''?)

というので、

「きっとダンナは、もう慣れちゃったんだよー。いちいち笑ってたらさぁ、」

「死んでる?」

「そうそう!!」←(笑い狂い死に) 



お店が11時開店なので、その30分ほど前に、近くの道の駅に集合して?おしゃべり。

ランチセットを頼んで、あんまり長居しても悪いからと、ケーキセットも頼み(写真上)、

「あ゛~、もう、2時半だね、そろそろネコちゃん、行かなくちゃ、おかーさんが・汗。(昔から母に頭が上がらないことをよく知っているので)」

「あ゛~、3時半だよ。あれから、一時間も喋ったの?」   



今日は平日なのに、珍しくものすごく混んでいて、(「定休日明けだからかな」、というと「病院みたいだね」とやっちゃん。そうそう、病院て休み明けに混むんだよね~・・・って、ちがうでしょー・笑  )、真っ先に入店したのに、周りの客はみな帰り、 


お店を出た駐車場でも、いつものごとく、また20分くらい喋り、

やっと4時近く、家にたどり着いたのでした。 



(母には、やっちゃんとランチだから、店は「少し」遅れるといってあり、アリバイ工作として、母の好きな「道の駅で売ってる焼きおにぎり」を買っていったけど、やはり、おかんむりであった・汗)



やっちゃんといると、時間を忘れる。  

あんまりおかしくて笑っているうちに、嫌なこととか、心のもやもやとか、どっかへいっちゃう。

昔からずっと思っていることだけど、とっても頼りがいがあって、8つも下だなんて全然思えない。( てか、私が頼りなさ過ぎるのか?  ← 頼りない思い出は色々あるが、また今度。  )



やっちゃん、いつもお話とか聞いてくれて、ありがとう!!

そして、これからも、ヨロシクね。 

えへ。 (^^;)ゞ





ありがとう、Aさん

2011年11月28日 | 友人、交友関係
大学時代に入っていたサークル、「児童文化研究会」の同期で、一番仲がよかったAさんが、約2年に及ぶ闘病の甲斐なく、10月31日の夜に亡くなってしまいました。



あとからご主人に聞いたことですが、ちょうどAが半年ほど前に、ケータイを水に落としてダメにしてしまい、連絡をする人がわからなくなっていたそうで、みなが訃報を知ったのは今月に入ってからでした。

それで、同じく同期の女子でWとIと連絡を取り合い、23日にお線香だけでもあげに行こうと話していたところ、同期の男子でA’とDも行きたい、というので、大勢で悪いと思ったけれど、総勢5人(同期のメンバーはAも入れて、男女同数の全10人いました)で、Aのおうちのある、房総半島の先っぽの方の町まで、お参りに行ってきました。



自宅のすぐ近くから、波が少なくて穏やかな館山湾の海が臨めるのんびりとしたところで、ここでAが、家族に愛され、おだやかで幸せな毎日を送っていたこと、支援学校の先生という、大変だけれどやりがいの持てる仕事にも就き、短かったけれども、精一杯生きたことなどが感じられました。

Aの遺影は、娘さんが二十歳のお祝いのときに撮った記念写真で、Aもとても気に入っていたものだということ。穏やかで清々しい、本当に幸せそうな優しい笑顔で、見ていると、ほんとにいなくなっちゃったんだなぁと、寂しい気持ちになりました。
祭壇を前にして、ご主人が探して持ってきてくれた、最初のお子さんが生まれたときに、Aがつたない指先で一生懸命刺した事をうかがわせるかわいい刺繍入りの、手づくりの布でカバーをかぶせた「アルバム」をめくりながら、愛情いっぱいの文字で埋め尽くされた、可愛らしいイラストカードが所々に挟まれた、きちんと整理された写真を見て、幸せそうなAの、家族への深い愛を感じたりしました。
お墓もすぐ近くで、もう埋葬されているというので、お墓へも行ってきました。遠くに海の望める、日当たりのよいとてもいい場所に建っていて、何より家のすぐ近くだから、ここなら寂しくないかもしれないなぁと思えました。


Aは治療のため、定期的に入退院を繰り返していたのですが、8月に入院して、10月31日に亡くなる直前の26日から、急に起き上がれなくなってしまうまでは、元気で、大好きな本を読んだり、与えられる食事や薬などのメモを、毎日つけていたそうです。それを娘さんが亡くなった後に見てみたら、病院の図書室で借りた、なんとかいう時代小説の第一巻を読み始めた、と書いてあったので、ご主人がその本を探して買ってきて、全4巻をお墓の中に入れてあげたそうです。

他にも、亡くなる少し前に尋ねてきたお義母さんに「いい人生でした。ありがとうございました。」と告げたという話。亡くなる当日の朝、もう、ほとんど会話もできなくなっていたのに、マッサージの人が来て挨拶すると、自分も「おはようございます」とはっきりとした声で返したという話。Aの生前娘さんが、病室の時計を見ながら「ここにいると時間が経つのが早いね」と話したことがあったそうなのだが、亡くなった後で見たら、ちょうど亡くなった8時40分頃の時間に時計が止まっていたという話。葬儀の直前に、係員が会場に赤い毛氈を敷いたところ、中から茶色の小さい子ねずみが飛び出してきて、会場に集まっていた人たちをぐるっと見渡して逃げていった話( Aは私たちと同じねずみ年なので、それは小柄なAの化身ではないかと家族で話した )、など、色んなお話をご家族の方から聞かせていただきました。

その中から、Aが最後まで前向きに、生きる意欲に燃えていたこと、ご主人をはじめとして、二人のお子さん(大学を出たばかりの娘さんと、大学在学中の息子さんで、行き会うことができました)お姑さんご夫婦など大勢の家族の愛に囲まれて、また本人も家族を愛し、最後まで家族を気に掛けて亡くなっていったことなどが伝わってきて、胸がいっぱいになりました。

他にも、病気で教職を一年間休んでいたのだが、その休暇期限が切れることになったので、更新するかどうか今年の年度始めに尋ねられたとき、「もうやめます」と言って、逆に学校から、本当に辞めてしまってもいいんですか? と聞き返されたという話。春に、近くにあるのだが、山の方なので行ったことがなかった、桜がきれいだといわれている場所へ、ご主人がAを連れて行ってあげたところ、「これが最後の桜かもしれないなぁ。今までありがとう」と言うので、「そんなこといってる奴に限って長生きするんだよ」とご主人がいって笑った話なども聞き、泣きそうになった。


Aは、自分で、何かを感じていたのかなぁ。

Aが生前、自分の心情を淡々と、だが、確かな目で書き綴っていてくれた、『児文研OBの掲示板』。
(掲示板を管理している同期のOが、Aの書き込みだけを拾い出して一箇所に整理してくれたので、それをプリントアウトして、ぜひ読んでもらいたかったので、ご主人にお渡ししてきました。書き込みは、病気になる前の2009年の3月と8月、そして明けた2010年の6月に自分の病気のことを伝えたことに始まり、今年の8月まで、退院してきては書き込む、という感じで、全部でA4で12枚分もありました。)

その、言葉のひとつひとつにも、「生きる意欲」や、毎日のあたりまえで穏やかな日常の中からこそ感じられる、「生きる喜び」に満ち溢れていたっけ。

人間、死ぬまで生きていくんだから。

ほんとうに大切な、ごく少ない人や物に囲まれて、シンプルに生きたいなぁ。

などというう言葉の中には、何かを悟ったような凄みさえ感じられて、私は身震いがした。

その、最低限必要な『人』の中に、果たして自分は入れてもらえているのだろうか・・・

そして、もしも私がAのような状況になったとき、もちろん、病後に初めて書き込んでくれるまで、治療中を含めて8ヶ月あったので、その間に色んな葛藤もあり、色んなことを考えたのでしょうけれど、それでもこんなに潔く、しかも前向きに、生きられるものなのか。



この日の白浜は穏やかに晴れて暖かく、みんなが来るからってAがお天気にしてくれたんだね、Aらしく、最後まで気を使ってくれて、と同期の仲間たちで話しました。

ほんとうに優しくて素直で、どうやったらこんな「いい子」が育つのだろう、と思うほど純粋で、心のきれいな人だったA。それでいて明るくユーモアにあふれ、一緒にいるととても楽しかった。
だから私は、Aには何でも話せたし、なんでも相談に乗ってくれるような気がして、私は大学時代から、卒業しても、彼女が結婚して遠くに行ってしまうまで、ずっとAに甘えてきたような気がします。
結婚してからも、時々手紙をくれては、今の状況や心情を報告したり、綴ってくれたA。だけど私は当時、自分の生きていくのに精一杯だったのと、Aの仕事の中身や子育てのことなどが実感としてわからなくて、Aにちゃんとしたお返事を書けていたのか、自信がありません。

今度の病気のことだって、Aがずっと、児文研の掲示板に書きつづっていたことを、私は一年も、知らずにきてしまったんだよ。

生まれて初めて、本当に心が許せる友に出逢えたと思い、かつて、あんなにAに甘えて頼っていたのに、お互い、とうに生きていく道が違ってしまったのだからと思い込んで、私は彼女が本当に自分を必要としてくれていたかもしれないときに、応えてあげられたのだろうかと思うと、自分のふがいなさや大人げのなさが、嫌になります。


でも、今年の3月に震災があったとき、海岸沿いに住むAを心配して、その時はもう、仲間から病気療養中だと聞かされていたので、そっちの心配もしつつ電話してみたとき、Aがものすごく喜んでくれたんだ。
それで、もしかしてAに嫌われてないかなぁとか、受け入れて貰えるかなぁ、という心配も吹き飛んで、本当に二人で、何年かぶりかで、心から楽しくおしゃべりができたのでした。

あの時は思いもよらなかったけれど、結局それが、Aと話したことの、最後になってしまいました。

Aの訃報に接して、驚きと悲しみで、毎日がつらくて、気持ちの整理ができなかった。Aとの思い出の数々、あんなことがあった、こんなことも、などと、30年近く前の楽しかったことなどを昨日のように思い出したり(仲間の家を泊まり歩いて、夜通し喋ったりしたよね。4年の夏休みに、千葉のT町にあるAの実家へ泊りがけで遊びに行ったときが、一番楽しかったなぁ。)、時々、いろんな後悔ばかりが襲ってきては、いたたまれなくなったりした。

だけど、あの時電話で話せていなかったら、私はもっと後悔していたと思うので、最後に電話で、楽しく話せたこと、それがせめてもの救いです。

神さまが与えてくれた、私への最後のお慈悲、ご加護なのかな、と思います。


こんな“お気楽なこと”を書いて、もしも病気のAが見たら、なんて思うかしら、とチラッと心配に思うこともあったけど、私のブログも読んでいるといってくれた。

そして、面倒くさい自分の現在の病状や色んな説明などしなくてすみ、本人も言っていたように、“気楽に”書きこめて、気楽な雰囲気で語れる『児文研の掲示板』に心情を綴ることが、Aの心の支えだったのかな、と思います。

Aの最後の書きこみは、2011年8月7日。入院の当日のようでした。文面からは、ご家族を思いやる気持ちと、そして同期の仲間からもらったお便りに関する、相談事へのアドバイスで終わっていました。
もちろん、これが最後の書き込みになるだなんて、私たちも、そして当の本人だって誰も思わなかったとは思うのだけれど、最後まで、ご家族や仲間を思いやってくれたことに、胸がいっぱいになりました。

Aにとって、かつての児文研の仲間は、ごく少なくていい、といっていた友人の中に入っていたのではないか、と信じたいです。



そして今回、同期の5人で集まって、Aのところに尋ねていけた。

それで気が済んだわけではないけれど、笑って?さよならできたから、これからは前向きに生きていきたいなと思います。
いつまでもメソメソ、グジグジしているようなのは、きっとAが好まないと思うし、そうしていかないと、最後まで精一杯生きたAに、申し訳ないから。

月並みな言い方になってしまうかもしれませんが、Aの分まで、みんなでがんばって生きて行こうね、悲しいことで会うのはもういやだから、これからは定期的にみんなで会おうよ、などと話しました。

行き返りの高速バスの中や、Dと落ち合った向こうの最寄り駅で5人でお昼を食べたり、帰ってきた東京駅で、残りの4人で軽く飲んだりして、色んなことを話しました。こんなに沢山喋ったのは、たぶん卒業以来で、4年間、一緒に苦楽を共にしただけあって瞬時に学生時代に戻れて、あの時とちっとも変わらない雰囲気で楽しく喋れたこと。だけど、お互い背負ってきた人生の分だけ、深く話せたことが、嬉しかったです。

仲間の大切さを、再認識できた一日でもありました。



Aさん、私たちに生きることの意味、そして人とのつながりの大切さを、身を持って教えてくれたのですね。

ほんとうに、今までどうもありがとう。

そしてこれからも、いつまでも私たちのことを、心の中で支えていてください。






2011年03月16日 | 友人、交友関係
大学を卒業して28年。

その後通った、ミュージカルの養成所(イズミ・ミュージカル・アカデミー)も、卒業して25年ほどがたつ。

今回このようなことがあって、ほんとに何年ぶりかで連絡を取り合った人が、大勢いた。



ミュージカルの養成所は、大学を出て一年後にOLをしながら夜間に通っていたところで、今は亡き、作曲家のいずみたく先生が主催されていた学校で、実に様々な年齢の人たちがいた。

四半世紀がたったが、今でも舞台関係の仕事をしていたり、音楽をやっていたりする人が多いためか、こちらの方は、けっこう今でも、たまには会うことが多い。

だいたいの人は東京にいるのだが、震災の翌日にはもう、「みなさん大丈夫ですか?」との全体メールが入り、またたくまに、ほぼ全員の無事が確認された。

その、迅速さと、先頭に立ってくれた人(C)の心配り、みんなの絆の強さに、ちょっと感動した。




問題は、大学の、児童文化研究会というサークルのメンバー。

みなさんそれぞれ自分の地元に帰っていたりするので、今現在どこにいるのか、連絡先のわからなくなっている人も多い。年賀状のやり取りはあるが、電話を知らないという人もいたりして、「児文研のOB、OGの掲示板」に書き込んだり、色んな人に電話やメールで打診しながら、安否確認をする。

千葉の白浜町に嫁いだ、同期で仲がよかったA。日立市で家業の豆腐屋を継いでいる同期のD。二人とも電話がつながり、無事であることがわかったときは、本当に嬉しかった。しかも、二人とも私のブログを読んでいてくれて、とても嬉しかったのと、本当に何年ぶりかで「肉声」を聞いたので、お互いあの頃とちっとも変わってない“感じ”に、懐かしさについ、話が弾んでしまった。

もっとうれしかったのは、東京から仙台に移り住んでいた先輩のO。(あだ名で呼んでいたので「さん」づけはしません。念のため)
仙台だとばかり思っていたら、被害の大きかった東松島在住だとわかったときは、絶望的な気分になった。
が、こちらも、一家4人全員無事であったことがわかり、涙が出るほどうれしかった。

他にも同期のIのご主人Hの千葉県茂原市の実家、ひとつ下のBの会津若松の実家なども、無事だったようで、あと一人、二つ下のDは所在がわからないが、岩手県前沢町(水沢市との説もあり)は、内陸だから大丈夫ではないか、ということになった。


こういう時には、変な話、普段の生活では全く思い出さないような人のことを、思い出したりする。
一緒のダンススタジオに通っていて、結婚式にも呼ばれたので行ってきたHさんは、確か盛岡だったから、内陸だし、大丈夫だよな、とか、Cちゃんは実家が東北(仙台か盛岡)だったけど、大丈夫かしら、とか。
大学ゼミのMも東北? 名前も忘れたけど福島出身の人がいたな、とか、そんな具合。
今となっては、連絡の取りようもない人たちのことまで、頭をよぎったりする。


Cちゃんは、真弓先生の教えに行っていた、他のダンス関連学校の卒業生で、当時二十歳くらいだった。同じ年で仲良しのNといつもつるんで、一日中、ダンススタジオにいりびたっているような子だった。素直なかわいい子で、条件(体の条件のこと。ダンサーなの、で資質の他に体の条件が重要になる。)もよかったから、これから伸びるんじゃないかな、と思っていた。
あるとき、一緒に食事をしていたら、自分はある宗教を信じていて、その教祖様のような人がいうには、私の将来はもうわかっていて、一生守られているから安心なのだ、という。
こういう世界で一生やっていく人というのは、まず一握りいるかどうかなので、思いとどまるようにとは言えなかったが、もう既にその人の教えに従って、田舎へ帰ることも決めていたようなので、少し残念に思った。
それよりも、なんとかその宗教を辞めさせられないかと思い、いろいろ説得してみたが、ダメだったことの方が落胆した。
以来、宗教を信じている人に改心(?)させようとすることなど、絶対に不可能だ、と悟るのであるが、そのCの実家が、確か東北だったのだ。

その、守られていたはずの将来に、今回の地震は想定外だったのだろうな、と思うと、胸が痛んだ。
もちろん、今でも東北に住んでいるかどうかは、定かではないのだが。



私の出た、東京町田市にある和光大学というところは、とても変わった、ユニークな教育方針を掲げているところで、そのひとつに、式典はやらない、というのがあった。
入学式は、一人一人が名前を帳面に記帳する「入学登録日」、卒業式は「卒業証書授与日」というのになっていたので、入学生は平服、卒業生はさすがにスーツくらい着たが、振袖やはかま姿、というような、よその大学に見るような華やかなことは、一切なかった。
その、卒業の日に、振袖を着て、実家の母親までやってきた(今では当たり前らしいが、当時の「大学」でそういうのに付き添う親はたぶんいなかった)、というので同じ「万葉集ゼミ」のMは、とても印象に残っている。というか、その印象しかないのだが、みんなと別れるのが寂しいといって泣いたのにも、びっくりした。
そして、悲しいから、こういうときは笑って、さりげなく別れようといって、「じゃあ、またね。」と、最後は、明るく手をふって去っていった。


「じゃあまたね、と言って、一生会わない友がいる。」  by.ネコタ


「そっと目を閉じると 古い友や別れた女(ひと)が 優しく手招きしてる」

 高見沢俊彦:作詞 『ロンサム・シティ』 より





もう、30年近い年月が流れているので、当たり前といえば、あたりまえ。

みな、それぞれ別の、違った道を歩いている。



が、一度は同じ目的で集った、確かに「仲間」であった人たちだけに、それを知ることは、ちょっぴり哀しい。




「歌で時代を変えようと 誰もがひとつになってた

 あの激しい ときめきは 心で生きていてくれ」   (前出『ロンサム・シティ』より)



今回、このようなことがあり、図らずも連絡を取り合えたのは、結果としては、よかったことになったので、
みんなで喜びながらも、妙な気分で電話を切った。



まだ、友人やご家族、親せきの方などの安否もわからずに、やきもきしていらっしゃる方もいるでしょうに、こんなことを書いてしまって、すみません。


過去のニュースをいまごろUP! その1.(^^;)ゞ

2010年05月23日 | 友人、交友関係
過去の記事はHPにまとめてUPします、なんつって、いく年月・・・!?
とちゅーまで書いては、他のことやったりしてサボッってるもんで、なかなかUPできにゃい・・・
その間、どん2、どん2古くなって困るので、やっぱ書き上げた時点で「こまめにUPしよう!」と、ブログのほうで紹介していきます。

HP「にゃー語」の1月なのも気になるし、「にゃー語」に書きたい別のこと、も出てきたし・・・(ぢつは、ここまでの分は、とっくのとんまに出来上がっておったのよ・・・汗(^^;)ゞ)



▼1月23日 信州児童文学会「一歩の会」合評会

 昨年度、児童文学評論家で作家、日本児童文学者協会事務局長(かつての私の上司)の藤田のぼるさんを招いて、初めてゲストコメンテイター付きの合評会をやった一歩の会。今年のゲストは作家の最上一平氏で、またしてもサークル拓で20年以上もいっしょにやってきた古くからの仲間がゲストになった。←(注:ゲストはみんなの総意で決まるので、決して私が決めているわけではありませんので念のため(^^;)
いやぁ、楽しかった。有意義な会になったし、打ち上げの宴会も盛り上がったよ~。

次の日は長野が初めてだという最上さんと待ち合わせして(私も前日は長野の別のホテルに宿泊したので)、善光寺をご案内した。



といっても、私もそんなに精通してないので、迷いながら行ったという(^^;)、これじゃぁ、ガイドの役割、なってないじゃぁーーーん。

善光寺は昨年のご開帳のときに夫と来たが混んでいて、ささっと参って帰ったのだが、今日は時間もあったし、「お回廊巡り」といって本堂地下の、灯りのまったくない真っ暗な廊下を手探りで歩いて、もし鍵を探り当てて「ガチャガチャ」鳴らすことができると極楽浄土ができる、というのにも、初めて挑戦してみた。最上さんは一人でどんどん先に行ってしまい、あとから地上に出て聞いてみたところによると、ちゃんと鍵を探り当てたんだそうな。私は探り当てられなかったので、「何でここにあるよって教えてくんなかったのよ、冷たいなぁー。」と怒ったら、「家族にも一人で勝手に先に行く、といっていつも怒こられる」っていってたよ~。やっぱし。こんなわがまま亭主で、さぞかし聖母ばん(最上氏婦人で拓同人の作家)さんも、タイヘン、だと思うわぁ~(>

「ねこもの」に目がない私は、宝物殿入り口にあった「招き猫おみくじ」を買ってみた。
ウシならともかく、ねこと善光寺さんにどのような関係があるかはわかりませんが。

結果は「白いねこ」で、「開運招福」「吉兆来福」だそうです。
良縁とかのねこもあったことを考えると、中々いい運、でしょ?
財布に入れて、持ち歩いてまス。



▼2月15,16日 いとこのK子ちゃんと30年ぶりくらいで会う 



 発端は今年の年賀状だった。「『レ・ミゼラブル』は私の一番好きなミュージカルです。今度いっしょに見に行きましょう。」とな。(年賀状左に写って入る写真は有名なレミゼのポスター。(私は初演の87年に見ている))

K子ちゃんは松本にいる父方のいとこで同い年。小学生の頃は文通したり、夏休みや正月に本家にみなで集まったりしてよく遊んだが、高校くらいからは年賀状のやり取りのみでずっと会っていないように思う。むしろ二つ上のK子ちゃんのお兄さんのH君には、パソコンを選んでもらったり、設置してもらったりと、大人になってKに戻ってから、ものすごぉーーーくお世話になっている。

K子ちゃんがミュージカルが好きだったなんて、知らなかったなぁー。(K子ちゃんのほうでも、私もかつて養成所に通うほどミュージカルにのめりこんでいたなんて全然知らなかったようだ。)
それで、30年ぶりだというのにいきなり、K子ちゃんのうちに泊まりがてら遊びに行った。

K子ちゃんは独身で看護婦さん。二世帯住宅になっているおじさんたちやH君の一家のある敷地内に、数年前、自分だけのちいさな家を建てて住んでいる。初めてお邪魔したけど、こじんまりとしてすごくコンパクトで便利。居心地のいいおうちだった。全部自分の貯金だけで建てたなんてスゴイっ!!!
で、お茶を飲みながら、今までK子ちゃんが見たミュージカルのパンフを見せてもらって話が弾む。

ミュージカルの公演を見るために東京に行く、見るならゼッタイ前の方のいい席じゃなくちゃいや、そっちにお金をかけるので上京するときはコンビニ弁当などで質素にすごし、買い物もせずに帰る、など、私の考えと共通することが多いことに気づく。ほ、ほ~っ、やっぱイトコでんな。似てるな、と嬉しくなる。

いえね、子どもの頃、自由奔放で明るく元気なK子ちゃんは、当時の(あくまでも、当時の、ですよ(^^;)自分とは似ても似つかなくて、いつも羨ましいと思っていたので、この年になって共通性を発見できたのはヒジョーにびっくりして嬉しかった。
夜は松本市内に飲みに出かけ、戻ってからもおしゃべり。次の日は郊外のショッピングモールにいっしょに映画を見に行って、お昼を食べて別れた。今度ぜひ一緒に、トーキョーにミュージカル見に行こうね、と約束をして。

ちなみにK子ちゃんも市村正親、山口裕一郎のファンのようである。私は今ではほとんどミュージカルは見ないが、20代の頃、この二人はミュージカル界の大スターだったので、舞台もいっぱい見たし、もちろん憧れていた。私がアルフィーの高見沢さん、ガクト、玉木宏、及川ミッチーとか好きなんだけど、と言ったら「私も好きだよ。」とな。え゛~っ!?そんな珍しいヒト、初めて会ったわぁ~!でもV6の岡田くんは?と聞いたら、知らないっていってたよ(;_;)?このとき、なぜかどうしても名前が思い出せなかったの。准一くんだったのに。

あと、K子ちゃんも『龍馬伝』のドラマストーリーもってたし、ちょうどバンクーバー始まった頃で、フィギュアも好きだって言ってて盛り上がったよ。
やっぱ、イトコだなぁー。趣味が似ていて話が合うワ(^^;)v たのしかったぁ~♪