「あの時、別な道を行ったならば、自分はどうなっていたか?」ということを時々思うものだ。このたび札幌市が再び冬季オリンピックの開催に向けて名乗りを上げた。関連して思い出すことが幾つかある。実は、札幌でのオリンピックは1940年(昭和15年)に開催が決まっていたのだが、日中戦争の影響で中止になっている。1940年と言えば8703が生まれた年である。そして、24年後の1964年に東京オリンピックが開催された。札幌は1940年から待つこと32年、1972年2月3日~13日まで。日本及びアジアで初の冬季オリンピックが開催された。
東京オリンピックの年、8703は大学を卒業して北海道当別高等学校の新任教員であった。東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールの大活躍や、裸足の金メダリスト、男子マラソンのアベベ選手、大健闘の日本選手の活躍に大いに盛り上がり、興奮した記憶が残っている。そして、札幌オリンピックに関しては、東京大会からは10数年離れているのだが、微妙な縁を感じている。1963年、8703大学4年目で、一応、小学校、中学校、高等学校教諭の資格を取得し採用試験にも合格、翌年(1964)の春まで就職先のオファーを待つことになっていた。
丁度そのころ、8703の父親が現職小学校長であったので、やはり師範学校同期が札幌市内の校長などでいたので、それとなく情報交換をしてくれていたようで(今で言う就活をやってくれた)、その関係で新設が決まっていた真駒内地区の小学校への内々定を得ていた(その真駒内が、札幌オリンピックのメイン会場となり選手村になった)。そして、卒業式も終わり、実家でのんびりと正採用の通知を待つ3月を過ごしていた。ところが、ある日の朝、指導教官の駒ヶ嶺大三先生から自宅へ電話が入った。「重要な相談があるので、直ぐに大学へ来なさい」ということであった。
直ぐに砂川市豊沼の実家からJR(当時の国鉄)に揺られて札幌へ向かい、駒ヶ嶺研究室を訪ねた。先生からの第1声、「君、大事な話を聞きに来るのにガムを口にして来るとは何事か!」であった。温厚な先生であったので、優しい口調であったが痛く恐縮したことは忘れていない。そして、本題に入った「君は早くに小学校の内々定を得ていることは承知しているが、高等学校へ行く気はないか?」ということであった。一瞬、なんと答えてよいものか、言葉が出ない状態であった。
先生が言葉をつないだ。昨日、T高校の教頭さんが来学し、新卒男子で音楽専攻の人がほしいと言ってきた。君行かないか?」であった。8703の希望としては、小・中・高への特別なこだわりは無く、地域的には札幌市内か近郊であったので、札幌市内の内々定を得ていて大満足していた。したがって、即答できずにいると更に先生は続けた。「内々定の件は大学が直接関わっていないのだが、取り消すのであれば関係者へ丁重に事情を説明し、了解を取ります」。ここで、8703の心が少し動いた。
T町であれば、札幌から小一時間、さらに、現場ではぜひ合唱指導に力を入れたいと思っていたので、先生に「T高校に合唱部はあるようですか?」と聞くと「少人数だがあると言っていたよ」であった。そこで、更に心が動いた。ところが、次に来た駒ヶ嶺教授の言葉が一大衝撃であった。「もちろん、音楽の授業はあるが、それだけでは時間が少ないので英語の授業もやって欲しいと言っていたよ」と来た。「えっ!私は英語の免許はありませんが」「いや、免許が無くてもいいので1年生の授業を6時間持って欲しいそうだ」
50年ほど前のこととは言え、今では考えられないようなおおらかと言おうか、いい加減と言おうか「無免許運転公認の世界」であった。しかし、8703は、さすがに無免許運転にトライする気持ちにはなれずに躊躇していた。そこに教授からの強烈なる一撃が入った「君、中学校から今まで英語をやって来たんだろう。10年もやっていて、高校1年生にも教えれないようでは、何をやって来たんだ!となるよ。大丈夫だ、やってみろ!!」このお言葉に背中を押されて、恐れ多くも、週、音楽6時間、英語6時間の高校教諭生活を5年ほど続けたのである。英語の授業のことを考えると、今でも、汗が出る思いだが、あそこで決断しなければ、教員として全く変わった道を歩んだのであろうと思うと、考え一入である。
東京オリンピックの年、8703は大学を卒業して北海道当別高等学校の新任教員であった。東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールの大活躍や、裸足の金メダリスト、男子マラソンのアベベ選手、大健闘の日本選手の活躍に大いに盛り上がり、興奮した記憶が残っている。そして、札幌オリンピックに関しては、東京大会からは10数年離れているのだが、微妙な縁を感じている。1963年、8703大学4年目で、一応、小学校、中学校、高等学校教諭の資格を取得し採用試験にも合格、翌年(1964)の春まで就職先のオファーを待つことになっていた。
丁度そのころ、8703の父親が現職小学校長であったので、やはり師範学校同期が札幌市内の校長などでいたので、それとなく情報交換をしてくれていたようで(今で言う就活をやってくれた)、その関係で新設が決まっていた真駒内地区の小学校への内々定を得ていた(その真駒内が、札幌オリンピックのメイン会場となり選手村になった)。そして、卒業式も終わり、実家でのんびりと正採用の通知を待つ3月を過ごしていた。ところが、ある日の朝、指導教官の駒ヶ嶺大三先生から自宅へ電話が入った。「重要な相談があるので、直ぐに大学へ来なさい」ということであった。
直ぐに砂川市豊沼の実家からJR(当時の国鉄)に揺られて札幌へ向かい、駒ヶ嶺研究室を訪ねた。先生からの第1声、「君、大事な話を聞きに来るのにガムを口にして来るとは何事か!」であった。温厚な先生であったので、優しい口調であったが痛く恐縮したことは忘れていない。そして、本題に入った「君は早くに小学校の内々定を得ていることは承知しているが、高等学校へ行く気はないか?」ということであった。一瞬、なんと答えてよいものか、言葉が出ない状態であった。
先生が言葉をつないだ。昨日、T高校の教頭さんが来学し、新卒男子で音楽専攻の人がほしいと言ってきた。君行かないか?」であった。8703の希望としては、小・中・高への特別なこだわりは無く、地域的には札幌市内か近郊であったので、札幌市内の内々定を得ていて大満足していた。したがって、即答できずにいると更に先生は続けた。「内々定の件は大学が直接関わっていないのだが、取り消すのであれば関係者へ丁重に事情を説明し、了解を取ります」。ここで、8703の心が少し動いた。
T町であれば、札幌から小一時間、さらに、現場ではぜひ合唱指導に力を入れたいと思っていたので、先生に「T高校に合唱部はあるようですか?」と聞くと「少人数だがあると言っていたよ」であった。そこで、更に心が動いた。ところが、次に来た駒ヶ嶺教授の言葉が一大衝撃であった。「もちろん、音楽の授業はあるが、それだけでは時間が少ないので英語の授業もやって欲しいと言っていたよ」と来た。「えっ!私は英語の免許はありませんが」「いや、免許が無くてもいいので1年生の授業を6時間持って欲しいそうだ」
50年ほど前のこととは言え、今では考えられないようなおおらかと言おうか、いい加減と言おうか「無免許運転公認の世界」であった。しかし、8703は、さすがに無免許運転にトライする気持ちにはなれずに躊躇していた。そこに教授からの強烈なる一撃が入った「君、中学校から今まで英語をやって来たんだろう。10年もやっていて、高校1年生にも教えれないようでは、何をやって来たんだ!となるよ。大丈夫だ、やってみろ!!」このお言葉に背中を押されて、恐れ多くも、週、音楽6時間、英語6時間の高校教諭生活を5年ほど続けたのである。英語の授業のことを考えると、今でも、汗が出る思いだが、あそこで決断しなければ、教員として全く変わった道を歩んだのであろうと思うと、考え一入である。