つねづね、いわゆる勉強ができるのにバカって人は結構いるけど“なんでだろう?”、と疑問だったのだが(とはいっても、人をバカ呼ばわりするほど私も賢いわけではないが・・・)、数年前、今は亡き友人と一緒に2003年9月6日(土)夜10時~11時半放送のNHK-ETVスペシャルの録画を見ていてそのヒントを見つけたのを思い出した。
番組名は「人に壁あり」。
当時ミリオンセラーになっていた『バカの壁』の著者:養老猛司氏を追ったドキュメンタリー番組である。
その中で、彼(養老氏)とある女子学生の対話シーンが出てくる。
だいたいこんな感じの会話だった。
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女学生:「~(講義を評して)“等価”という言葉が出てきたけど定義してもらわないと曖昧でよく分からない」
養老氏:「君、法学部へ行ったら?」
女学生:「???」
養老氏:「ある官庁へ勤めた人が議案書を上司に提出したら“キミの議案書は16通りに読める。一通りに読めるように書き直しなさい”と言われたのだそうな。それができると思っている君のような人がそういう職業に向いている」(皮肉を込めて)
女学生:(むきになって)「でも、自分の考えていることを正確に人に伝えるためには“定義”が必要でしょ?」
養老氏:「言葉の“定義”なんてものは、多数の言葉群の中で決まっている。一言で言い表せるのだったら苦労はしない。しかも、君は“自分の考えていること”が確実に"ある"ということを前提にしているよね。会話のいいところは、話しているうちに考えが動いていくところにある。それを、“定義”して変化させないようにしてから議論しようなんて、そもそも会話する意味が無いんでは?」
女学生:(まだ食い下がる。涙目)「でも、言葉の“定義”が曖昧だったら意志疎通ができないじゃないですか」
養老氏:「・・・・・」(”お手上げ。やれやれ”という感じで苦笑い)
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上の養老氏と女学生の会話が「ディベート」なら、「やれやれ…」と黙ってしまった養老氏の負けになるのだろうか。しかし、会話というのが「自分の考えていること」を主張したり語ったりするものではなく、お互いの共感にこそその本質があるということを端的に言っている養老氏の言葉に、友人共々深くうなずいてしまったのであった。
この女子学生や、その“ある官庁へ勤めている人”なんかを、例えば「勉強はできるけどバカ」というのかなぁ…と。
そう捉えると、官公庁には、試験勉強はできるけど現実社会にはまるで適応できていない、そんな無能エリートで溢れかえっているようにも見える。
http://blog.trend-review.net/blog/2010/02/001551.html
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=225859
養老氏は、番組の中でこんなことも言っていた。
「死んだ人(死体)は自分たちと別だと決めつける人がいるけど、私はそうは思わない。普通の人だと思って接する。」さらには、「自分の続き、連続したもの。そもそも自分と他人とを切らない」
と・・・。
彼の言葉に、人間の共認の構造の原点を見たような気がして、今は亡きその友人とその晩、語り明かしてしまったのを思い出した。
<オマケ>
『マニュアルがないと何もできない――「自分で考える」力のない人々』(泉谷閑示氏)
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――言われたことはやれても、応用がまったくできない部下がいて困る。
――
年前のデータをもとにした入力作業で、人がそれから1歳年をとっていることを、わざわざ言ってやらなければ気がつかない職員がいる。
――昇進試験の勉強は完璧なのに、実務が全然できない人がいる。
――マニュアルはパーフェクトに覚えられるのに、マニュアルのないことはお手上げという人が多い。
いろいろな組織の中で、このように「自分で考える」力のない人が増加していることが問題になっているようです。
記憶やパターン思考などのコンピュータ的な情報処理ばかりに「頭」を使うことは、人間にとってはかなり不自然なことであり、次第に「自分で考える」ことができない状態に自分を追い込んでいってしまうものです。そしてそれが、のちのち「心」(=「身体」)側からの大きな反発を招く原因にもなってしまうのです。
現代の「うつ」の中には、このように偏った「頭」の使い方ばかりしているうちに、「自分がわからない」といった行き詰まりに陥ってしまったケースが少なからず存在します。
そこで今回は、「人間らしい思考力とはどういうものか?」というテーマについて考えてみたいと思います。
●「記憶力が良い」=「頭が良い」ではない!
人間の「頭」は、「心」(=「身体」)と密接に連携した状態で働くことによって、「自分で考える」ことができる仕組みになっています。この、人間ならではの理性の働き方は、物事を鵜呑みにしない懐疑的精神を備えており、オリジナルな発想ができる創造性と臨機応変に考えられる柔軟性があるものです。
しかし現代の社会では、どうも「自分で考える」ことよりも、与えられた情報を無批判に受け入れて記憶し、それを器用に処理する能力のほうばかりが評価される傾向が強いようです。
記憶力やパターン思考に長けた者が高得点を得るような試験制度の存在が、私たちの思考力を偏った方向に歪めている大きな要因の1つであることは間違いありません。そんな中で、いつしか「頭が良い」ということが、「記憶力が良いこと」「従順にパターン化された思考ができること」だとすり込まれてきてしまいます。
しかしそのような能力は、人間の知的能力の中では、実のところあまり高次元のものとは言えないのです。
~中略~
●「心」とつながっていない「頭」の状態
このように、従順ではない自我の特質とは、人間の「心」(=「身体」)の特質に由来するものだと考えられます。
「心」は何ものにもとらわれずに、対象に興味や関心を向けたり向けなかったりする自由な働きをします。ですから、外部から何かを強いられることは、「心」(=「身体」)にとっては苦痛なことなのです。
一方の「頭」はコンピュータ的な情報処理をおこなう場所で、「心」との間の蓋が閉まった状態では「心」の関与がなくなってしまい、かの従順なモズ的記憶力やパターン思考などの低次元の知性が前面に出てくることになります。
逆に言えば、従順にモズ的記憶力やマニュアル思考だけが働いているような状態は、「頭」と「心」(=「身体」)の間の蓋が閉まっているということなのです。これは、前連載でも幾度となく取り上げてきたように不自然な状態であり、「うつ」の予備軍的状態でもあるわけです。
●マニュアル重視で「自分で考えられる」人は厄介者に…
「自分で考える」とは、「頭」と「心」(=「身体」)の間の蓋が開き、「心」が自発的に示す知的好奇心や関心にもとづいて、「頭」が活動することです。
その際、「心」は、既存のマニュアルに従ったり仕入れた知識や情報を鵜呑みにしたりすることを好みません。必ず一度吟味を加えて、自分自身で本当に納得した場合にだけ情報を取り入れ、しかもそこに何らか独自のアレンジを加えたがります。
そのため「自分で考える」人は、マニュアルに従わされることには多大な苦痛を感じるものですが、むしろ、マニュアルを作ることは自在にできるものです。さらに、オリジナルな発想をしたり、マニュアルでは対処不能なことを解決したりできる高いポテンシャルを持っています。
今日では、教育現場、医療現場、商業店舗、会社、行政組織などの様々な場所で、マニュアルを用いたサービスの均質化や効率化が図られています。これによって質の悪いサービスが減り、サービスの質が底上げされるという効用があることは認めざるを得ません。
しかし、マニュアルにただ従うような人間が増えることは、管理者側にとっては都合の良いことかも知れませんが、人間の在り方としてはとてもいびつなものでもあると言えるでしょう。
「自分で考える」ことのできるような自然な在り方の人間が、現代の社会において不当に低く評価されてしまったり、従順でないために厄介な人間と見なされて排除されてしまったりする風潮があることは、私たちの社会の大きな問題です。オリジナリティの点でどうしても日本が精彩を欠いてしまうのも、このような風潮によるところが大きいのではないかと思われてならないのです。
~後略~
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日本は、学校教育で、こういう人間を大量生産してきたわけか…