にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

3/28なんでや劇場レポート(2)

2010年04月15日 | 今日のなんで屋
3/28なんでや劇場レポート(1)~闘争能力の基盤は、みんな発の充足性と肯定視~からの続き。 3/28なんでや劇場レポート(2)~自分発→みんな発へ、否定→実現への転換~ ここにも、非常に重要な内容が多数含まれているので紹介する。
ところが、2010年代は自分発からみんな発への転換期であるが故に、誰しもが古い私権体質・自分体質を残存させている。 その結果、みんな発の地平に立てず、能力を十分に発揮できないという事態に直面する。

古い体質の残存例【1】
人間関係が苦手で、関係捨象するタイプ。 頭では「みんな第一」と言いながら人間関係を捨象していては話にならない。 「みんな第一」を肉体化するためには、何が何でも関係づくりに励むことが不可欠。

古い体質の残存例【2】
もっと普遍的な、ほとんどの企業が頭を抱えている問題。

 
弱者体質・敗北体質から言い訳・誤魔化しを繰り返すタイプ。

 これは面従腹背という私権時代特有の問題である。

 私権圧力が強い時代でも、私権圧力が社会の隅々にまで浸透することはなく、圧力が働かない隙間の自由空間が存在する。自由空間では自我発の自己正当化・他者否定が蔓延ることになる。

自我からすれば、腹の底から上を認めていないということ。これが面従腹背である。上辺だけ合わせて都合の悪いことは隠蔽、誤魔化し、言い訳に終始する。

それでも私権圧力が強い時代は、家父長に対して妻子が日常的に言い訳を繰り返すことは許されず、自我は一定封鎖されていた。 ところが現代、私権圧力が衰弱、かつ市場縮小で成果が上がらないという状況で、ほとんどの企業で言い訳・誤魔化しが横行し、私権企業は危機に瀕している。私権体制は崩壊過程に入った。その代表例がトヨタやJALである。

 言い訳は失敗や敗北の正当化である。敗北さえ正当化すれは、敗北主義というイデオロギーとなる。敗北主義者=負け犬である。 この面従腹背にはじまる言い訳・誤魔化しが全企業を覆っている。

今後もトヨタやJALに続いて巨大企業の崩壊が表に出てくるだろう。

 このように自我発(自分発)である限り、その企業は崩壊する一方である。

 逆に言うと、みんな発に転換できるかどうかが、その企業の共認力を決定づけることになる。

 私権のヒエラルキーによる上からの圧力では末端まで行き渡らないので自我が蔓延る。これが面従腹背⇒言い訳・誤魔化しが蔓延る根本構造である。

 この構造を断ち切るには、下からの共認圧力の形成しかない。

 
下からの共認圧力によって言い訳・誤魔化しを許さない。これができた企業が勝ち残ることができる。

 
私権時代は上からの圧力、共認時代は下からの圧力。

 力の構造が全く違っているのも、私権時代と共認時代の違いである。
この間特に急激に変化していっている現実に適応していくためには、逃げずに状況を受け止め、それに対して「どうする?」という答えを出し続けていかなくてはならない。

 基本、現実を否定しているが、圧力だけに反応して私権を追求してきた次代は終わった。

自らみんな期待を捉えていって、それに応えていく充足=新しい活力源でもって現実を突破していくしかない。

 その際に重要になるのが、みんなからの共認圧力(共認活力)である。 そういう意識に転換できない限りは淘汰されていく、ということ。

 その意味で、
私権時代は上からの圧力、共認時代は下からの圧力。 という対比は象徴的である。
古い体質の残存例【3】 これも、いろんな企業で見られる事例だが、 成果が求められる圧力下で、否定→ダメ圧・説教を加えるタイプ。

 求められているのは答を出してあげることである。

答を出さずにダメ圧や説教では誰もついてこない


 ダメ圧や説教になってしまうのは、観念論(旧観念)に頭が支配されているからであるが、そんなものでは答になっていない。 自分発からみんな発の転換の次は、
否定から実現への転換が求められる。

 常に「どうする?」という答の探索が必要なのである。

ダメ圧に陥るパターンとしてもう一つ挙げられるのが、先頭切って闘うタイプ(闘える男に多い)。 項羽がその典型で、私権時代では英雄になれるが、共認時代ではリーダーは務まらない。 先頭を切って闘う人間自身は有能だが、自分ができるのだから、みんなできて当然⇒なんで、みんなはできないんだという否定視に陥りがち

そういう人は、自分とみんなは違うということを事実として認識すること(男と女の違いを認識するのと同じ)。 自分ではできる方法論でも、二段階も下の能力の人にとっては別世界の話であって全く使えないということになる。

 自分なら突破できる方法論⇒他の人なら可能な方法論という二段階の思考が必要になるが、この問題にも壁がある。

観念論や規範観念をはじめとする旧観念から脱却して、全てを構造論に置き換えなければならない。この、旧観念からの脱却も相当な難課題である。
旧観念から、説教→ダメ圧 をかけ続ける無能な上司は論外だが、例え仕事能力が高かったとしても、活力源の転換した次の時代は、チームで共認形成ができ、チームの活力が上げられないと意味が無い(=成果が上がらない)ということ。

共認時代に求められる最大の能力は、「周りをやる気にさせる能力」。 周りをやる気にさせてナンボ。 つまり、それができないなら、いくら能力があっても仕事をしたことにならない、ということだろう。

では、周りをやる気にするには? 周りの人々への深い同化能力が必要。

その上で、みんなが活力が出るような方針(答え)を出していかなくてはならない。

その時必要になるのが、事実認識の体系:「構造認識」である。

アメリカが「環境にやさしい戦闘機」を開発中

2010年04月02日 | 雅無乱日記
 
米大統領「グリーン戦闘機」表明、バイオ燃料で音速機飛行実験

F/A-18Fが「燃料の半分がバイオマス(生物資源)でありながら、音速で飛ぶ初の戦闘機になる」とアピール。
 
「環境にやさしい戦闘機」ねえ…。
 
「なるべくCO2を出さずに人を殺せます」
「30ヘクタールを絨毯爆撃する際のCO2排出量は業界最小」
 
…ってか? あまりのバカバカしさに笑えねぇ
 
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本当に「ゆとり教育」が学力低下の原因だったのか?

2010年04月01日 | 雅無乱日記
         ※画像はるいネットさんより

文科省は各方面からの批判を受け、「ゆとり教育」をやめて授業時間を増やし、教科書も分厚くして学習内容も増やすことになった。

これを3月31日の新聞各紙は、「脱ゆとり教育」「ゆとりと訣別」などとトップでデカデカと報じた。

「教科書検定:ページ4割増 進む「脱ゆとり」--09年度」
 http://mainichi.jp/life/edu/news/20100331ddm001100011000c.html


…しかし、単に教科書を分厚くして、勉強する時間を増やすだけで学力が上がるとは到底思えない。

いかにも短絡的な方針転換である。

「ゆとり教育」をやめて詰め込み教育を復活すれば学力が本当に上がるのか?

この問題はもっと根本にさかのぼって考えなくてはならないだろう。

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「学力低下」はもうだいぶ前から騒がれているが、これは本当に「ゆとり教育」が原因なのだろうか?

そもそも当初の「ゆとり教育」の狙いとは、「地域の特色や子供の興味を生かしながら学ぶ教科横断型のテーマ学習として設けられた。自ら課題を見つけて解決する能力を育てること…」とある(産経新聞8月31日朝刊一面)。

これは社会で生きる上で必要な能力であり、各教科ごとにばらばらになっていた知識を1つに統合していくことは思考する上で重要な作業である。これによって持っている知識は有機的に繋がり学力は相乗的に伸びていくはずである。

すなわち、「ゆとり教育」や「総合的な学習時間」が目指した考え方やカリキュラムにはそれほど大きな問題があったわけではない。

むしろ問題は、指導する側が、子供たちの意識や彼らが持っている問題意識・興味関心を汲み取ろうとする姿勢が無く(またはその能力が無く)、結果的に無思考or自己中心的な判断で適当に時間を浪費していたことが今回の結果を生んだのではないだろうか?

こうした問題の総括を棚上げにして、「ゆとり教育」という方針自体へ責任を押し付ければしまいなのだろうか?根本的な解決への道を探らずに、「総合学習の時間」を削減して教科教育の時間を拡大させたところで、その授業を受ける生徒はやる気をもって授業を受けることはできず、結果的にはこれまで以上の学力低下を招くことは明らかであろう。

そもそも、「なんで学力は低下するのか」、その背後にある「子供たちの学習意欲はなぜ無限に下がっていっているのか」という教育問題の根本に踏み込まない限りは何も解決に向かわないのではないかと思われるのだ。


'70年代の貧困の消滅以降、特に最近の子供は、家でも学校でもあまり期待されることがない。

誰かの期待に応えて何かをする経験もほとんどない。

だから当然、何かをやって評価される、つまり課題を達成して「褒められる」こともほとんどない。

「外圧」=「課題」が無い、「評価」も無いのだから、活力がわかないのも当然と言える。

根本の原因は、実はここにあるのではないだろうか。



“いや「勉強」という重要な課題があるではないか”と言われるかもしれないが、「勉強」というのは所詮は個人の課題である。

自分ががんばろうがどうしようが自分一人の問題である。だから、こんな問題も起こるhttp://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/57db878796ead9633afed86aa958b82f

残念ながら「勉強」という課題にはそういう意味で限界がある。しかし「仕事」となると、多様な外圧=課題もあるし、達成すればみんなからの評価がある。ここに軸足を置けば、子供たちの活力を再生できる可能性があるのではないだろうか?

その意味で、こっちの新方針は評価できる。

「農山漁村で宿泊体験活動を=小学生対象、モデル地域設け-農水など3省」
(2007年8月31日(金)13:03 時事)
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/life/jiji-31X501.html?C=S

 総務、文部科学、農水の3省は31日、小学生が農山漁村に長期宿泊し体験活動に取り組めるよう、2008年度から子ども農山漁村交流プロジェクトを始めると発表した。自然の中での活動を通じた教育面での効果と農山漁村の活性化が事業の狙い。

 全国の小学校の1学年規模に相当する120万人が毎年1週間程度の宿泊・体験活動が可能になるよう、5年程度をかけて取り組みを進める。08年度は100人規模の受け入れが可能なモデル地域を全国に40カ所設け、宿泊面や活動の場の提供など受け入れ態勢の整備を進める。受け入れ地域は地方独自の取り組みも含め全国500カ所へと拡大を目指す。

「勉強」はそれだけ切り取ってしまうと狭い閉塞した自分課題に過ぎない。評価も、せいぜい親か先生がしてくれる程度。そんな事くらいでは、貧困という強烈な圧力が無くなってしまった現在の状況では、ほとんど収束力もなく活力にはならない(自分自身が高学歴になるため、ひいては大企業に就職してそれなりの給料を貰うため…。そんな自分のためだけの課題なら「べつにそんなのどうでもいいよ」「そこまでがんばるのはしんどいし。勉強おもんないし。今が楽しければええやん」と思う人が増えていっている。特に中間層から下位層にかけてその傾向はますます強くなり、学力においても二極化が進んでいる)。

そもそも、なんで勉強するのか?

子供たちに期待されているのは、次の時代を担っていくことである。

世の中には、様々な問題がある。環境問題、教育問題、外交問題、格差問題、数え上げたらきりがない。将来、子供たちが主役となってそれらの難問に答えを出していかなくてはならない。その時に必要なのは、より広く世の中を捉えて、みんなと協力して問題を解決していく能力である。子供たちがやっている勉強というのは、その能力の基礎の一端を磨くためにやっている、と捉えることもできる。

自然体験学習教室←実は、仕事で、子供たちに自然外圧や仲間関係や社会を正面から対象化できる能力を育む目的で、こんなことを企画している。子供たちは指導しているこちらが驚くくらい、みんなで「課題」をしっかり共有して、いっしょうけんめい取り組んでくれる。そして成果が出たときには最高の笑顔を見せてくれる。そういう体験で刺激されて活力が出て、勉強の方もがんばってくれているようだ。

「教科書のページを増やす」…そんな短絡的な方針ではなく、これからの時代を生き抜くために子供たちに何が必要なのか、ということをしっかり考え、「みんなに期待されていることをやってみんなに評価される」場を用意する事(そのとっかかりとして、様々な職業体験を教育に取り入れる事)。そしてそのような活動に必然的に「勉強」が必要になるということを子供たちに実感してもらうこと。それこそが第一歩になるのではないだろうか。

子供たちを健全に育むには「社会に期待されていることをして評価される場」が必要なのだ。

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東京新聞「本音のコラム」(3/3朝刊)

2010年04月01日 | 雅無乱日記

《書評リンク》


 
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東京新聞「本音のコラム」(3/3朝刊)・「小沢氏の問題提起」(斎藤学)の内容はスゴイ!2010⁄03⁄03(水) 12:33

この記事を掲載した東京新聞はスゴイ!その勇気に脱帽と感謝!

(転載開始)

東京新聞「本音のコラム」(3/3朝刊)

「小沢氏の問題提起」(斎藤学)

《小沢一郎について語る際には「私もこの人物を好きではないが」という枕ことばを付けなければならないようだ。が、それは原稿で食べている人たちに課せられた規定らしいので私は気にしない。この人が図らずも(当人は語らない)提起している二つの問題(①米国との距離の再検討②戦後天皇制の再検討)は、旧帝国憲法の残滓(ざんし)に注目するという点で回避不能なことだと思う。

既に公刊されているように戦後日本は岸信介氏のようなCIAのエージェント(金で雇われたスパイ)によって作られた「米国に貢献する社会」である(『CIA秘録』上巻、百七十一~百八十四ページ)。この暫定的体制が、もくろんだ当人たちさえ驚くような長期間の効果を示したのは、日本人の「おかみ(天皇・官僚)信仰」が並々ならぬものだったからだろう。

戦後体制作りの埒外(らちがい)にいた田中角栄が市民的嗅覚(きゅうかく)からこの偏りの修正を試みると、米国は直ちに反応し、その意を受けた検察によってつぶされた。

今回の小沢氏の一件も、この流れの中で生じた。彼は生き残らなければならない。今週の『週刊朝日』にある「知の巨人 立花隆氏に問う」という記事に共感する。血の臭いに吸い寄せられる鮫(さめ)のように検察の刃(やいば)で傷ついた者たちを一方的に批判してきた体制擁護の人は何故、「知の巨人」に祭り上げられたのだろう。(精神科医)》

(転載終了)