にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

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“うそつき”について。TPP交渉参加を推進している政治家のみなさまへ

2012年11月27日 | 雅無乱日記


大江健三郎『「新しい人」の方へ』「ウソをつかない力」より引用

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(略)

 さて、ウソをつかない力について話を続けます。皆さんもテレヴィの国会中継やニュースで見られたはずの、政治家が国会の証人としてウソをついた、また記者会見でウソをついていたとわかった、しばらく前の一連の出来事をとりあげることにしましょう。

 まず、強い人でウソをつく人が、そのウソをあかるみに出されました。テレヴィニュースが、何度も同じヴィデオテープを映し出すのを見られたと思います。皆さんは、それらの国会議員たちが、ウソをいっていたと見破られながら、目の前にいる同僚の議員たちや、テレヴィを見ている数多くの国民に対して、恥ずかしいと感じている様子がないことに驚かれたでしょう。

 ウソをつかない力のひとつに、自分が自分に持っている「誇り」があります。皆さんが自分のなかに目を向けて、そこに「誇り」のかたまりがあるとあらためて確かめる機会は、あまりないかも知れません。しかし、自分の「誇り」を、両親や兄や姉、また先生にさえも無視されたと感じる。そうした仕方で、自分の「誇り」に面と向かう、それはよくあることです。私は子供のころの自分を思い出していうのです。

 ここでひとつウソをついても、誰にもわからない。それでもウソをつくまい、と思う。それは、ウソをつくことで、自分の「誇り」が傷つく、と感じるからです。

 私は子供の時の記憶と、大人になった自分の家庭で、障害のある子供と健常な子供たちを育てた経験から、子供には確かな「誇り」のかたまりが、心のなかにあると知っています。

 そして、いまの年齢になって、私は、子供のころにはありながら、大人になると失われる人間の性質のなかで、「誇り」こそ、いちばん大切なものじゃないか、と考えるのです。「誇り」をなくした大人がウソをつき始めると、とめどがありません。この場合、ウソをつくまい、と自分でがんばることはしないのですから、周りの人がそのウソをつきとめて、取り消させるほかありません。

 他の人が、とくに強い人のつくウソを見ぬき、はっきりさせて、それが良くないことだと思い知らせるためには、国会議員の例に戻るなら、次の選挙で当選させないのが最良です。民主主義のルールのなかでも、なにより根本的で、かつ有効な方法です。

 皆さんは、大人になって選挙権を持ったなら、ウソをつく強い人に投票しない、と今から原則を作っておいてください。(後略)

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>「誇り」をなくした大人がウソをつき始めると、とめどがありません。

TPP交渉への日本参加を推進している政治家のみなさん。

胸に手をあてて振り返ってみてください。

あなたがたは、そうなってませんか?

それとも、誇りを失い、性根が腐りすぎていて、そのことにさえ気づきませんか? 

 

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~「個人の解釈」という逃げ道がある限り、文章力は身に付かない!?~

2012年11月21日 | たけちゃん日記

 何人かで同じ文章を読んで、その文章構造を図解化して、照らし合わせる作業をやっている。毎回みんなで「同じ文章を読んだ上での図解なのに、「ここまで違うか!?」と、そのすれ違いに驚くのだが、そもそも「文章を読む」とはどういうことなのだろうか?

 文章を書く人は、何かを実現するために、言葉で何かを伝えようとする。
文章を読む人は、何かを実現するために、作者の意図(伝えたい何か)を汲み取ろうとする。

 昔の人たち(例えば明治時代の人たち)に比べて国語力が劣っていると言われる現代人だが、まずは読者の側から考えられる壁を挙げてみた。

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思い当たるのは、3つ。

 ①個人主義の影響。

 「自分の解釈」「私の理解」といった逃げ道(妥協策)が残されているかぎり、とことん作者に同化して作者の意図を読み取ろうとする力が劣ってしまうのは必然だろう。

  

②優れた文章を読み、読み解く楽しさに触れる機会が減ったこと。

 古文や漢文などの読解も学校で一定は行うものの、試験勉強の域を出ない。また、現代文至ってはその多くが個人主義の影響を受けた中身の薄い随筆や私小説。「読解」するようなレベルの代物でなく、その面白みを教えることができる教師も少ないように思う。

 

③相手の想い(心)を理解する能力が劣化していること。

 集団の崩壊によって人間関係(特に母子関係、仲間関係)が希薄化したがゆえに、文字(観念)機能の習得以前の問題として、相手の想いに同化するための共認(分かり合い)機能が劣化している。だから文字を見ても、それが表している現実の生々しい息吹を感じることが苦手である。

  

以上3つの壁の中でも、「個人の解釈」という逃げ道が、文章の読解力を劣化させている大きな要素であるように思う。そして、おそらくこれは読者の壁であるだけでなく、作者の側も同じ壁にぶつかっている、つまり「個人の解釈」というアローワンスを前提に書いているゆるい文章が多いように思う。

この状況を突破するための答えは、「どれだけより確からしい作者(主人公or社会)の想いに近づけるか」。それには「解釈」という読者(作者)の意図や考えの介在を許さない事実追求の地平にどれだけ近づけるかが鍵であり、とことん読者(作者)の意図や考えを排除したところに立ち顕われてくるものであると思う。たとえそれがフィクションであったとしても。

そして、己の「解釈」や「考え」を排せば排するほど読者間の共認充足は高まり、当然のことながら文章の先にある作者との共認充足も高まることになる。文章を読むことの楽しさはここにあり、文章の書くことの楽しさはここにある。すべては深い共認充足のためにある。

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消費の場しか知らない子どもは必然的に「自己中」になる

2012年11月18日 | 雅無乱日記

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち(内田樹著 講談社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062138271/aiw-22/ref=nosim/

2007年2月11日の朝日新聞に、この本の書評が載っており、非常に興味深かったので転載する。

「消費社会にしがみつき未来から逃走」([評]学習院大 中条省平氏)

>副題が示す方向へと日本は変わっている。著者はその変質の理由を、経済原理による社会の均質化だという。日本の将来を絶望させるに足る、恐ろしいほどの根源的な洞察だ。

>(中略)今、日本の子供たちは家事を手伝う必要はない。そのかわり、消費者としての自分を確立する。(中略)4歳児でもコンビニで金と好きな商品を交換できる。金は持つ人の身分を問わない。これが金のフェアさだ。

>今の子供はしばしば「これを勉強すると何の役に立つんですか」と聞く。消費者として自分を確立した子供には当然の問いである。消費者にとって、自分がその有用性を理解できない商品は意味を持たないからだ。

>だが、「何の役に立つか」と問う人間は、ことの有用無用について自分の価値観が正しいと思っている。勉強によって自分の価値観そのものがゆらぐことを知らない。幼くして全能の消費者となった立場から、今の自分の役に立たないものを退ける。

この態度を、今はやりの自己決定論、自己責任論が後押しする。勉強しなくても、自分で決めてそのリスクの責任を負えばよい。未来の自分に目をつぶり、今の自分の無知にしがみつく。役に立たない勉強をやらなくて何が悪い。こうして学習からの逃走が始まる。

>(中略)金による交換は、平等で、透明だ。そこに魅力がある。だが、その交換がスムーズに行われるためには、交換の場を下支えする社会的制度や人間的資質を開発する必要がある。この人間的資質は、教育以前には「何の役に立つか」分からないものだ。教育の場で「何の役に立つか」と問う消費者マインドが、学習からの逃避、労働からの逃避を原理的に支えている。教育者と子供たちが「何の役に立つか」と問いつづけるかぎり、潜在的な人間的資質は開発されず、消費者でしかない子供(将来の大人)が再生産されるばかりだ。(後略)


これを読んで、学級崩壊や、「オレ様化する子供たち」なんで屋カー工房や、今話題になっている「給食費を払わない親」家庭を聖域にしてはならない)や、ニート超企業類グループの挑戦などがなぜこんなにも増えているのか、かなり有力な手がかりが得られたように思った。

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考えてみれば、今や都会の子どもたちは、「消費者」として生まれ、「消費者」として成長する

蛇口をひねれば水が出るのがあたりまえ。農作物はキレイに仕分けられてスーパーに並んでるのがあたりまえ。欲しいものがあれば、親に連れられてショッピングセンターに行って買ってもらう…。

快適で便利で、金があれば何でも解決する、という都市空間で育つ子どもたちにとって、「誰かに何かを供給する」という体験つまり「供給者になる体験」はなかなかできない。

言うならば、今の都会に住む子どもたちは、生まれながらにして「消費特権階級」である。金を払いさえすれば何でも揃い、どんなサービスも受けられる便利な空間の中で成長して「自己を確立」する。

「消費生活の中で確立した自分」は、金さえ持っていれば、既に用意された数ある商品やサービスの中から自分が価値を認めるものを選択できる(その選択された商品やサービスにそれ相応の代金を払う)。

「消費」という行為に必要なのは「金」だけであって、「状況を把握する能力」、「人の期待を読み取る能力」、「他人と話し合って協力して実現する能力」など、社会に出て何かを誰かに「供給」しようと思ったら必ず必要になる能力は、一切求められることはない(だから、最低限の会話ができる4歳の子供にだって買い物はできるわけだ)。

ひとたび、何かを生産しよう、何かを第三者に提供しよう、と思ったら、ありとあらゆる事象を対象化して頭を使わなくてはならない。自分自身が額に汗しなくてはならない局面もあろうが、一人でできることなどたかが知れている。何か大きなものを供給しようと思えば、周囲の人間と関係を構築して組織をつくり運営していくことになる。それには、いかに一緒に仕事をする仲間に動いてもらうかを考えなくてはならないし、課題をスケジュール化し段取りを組まなくてはならないし、どの役割をどの人に振るのか、人材適性を見極めなくてはならないし、おまけに彼らにいかに活力を出してもらうか(人材の活性化)、ということまで考え尽くさなくてはいけない。

一方、消費するだけなら、そんな苦労は一切無く、ただ対価のカネを相手に渡すだけである。

実際に、大人になって社会の現場に出たときには、そんな「消費者としての自分」「お客様としての自分」をいかに振りかざしても、何の役にも立たない。だから必然的に先輩社員に徹底的にダメ出しをされることになり、結果的にそれに耐えられずに3年以内に辞める新入社員が過半数…なんてことになっているのではないだろうか。

社会に出て役に立たない「消費者としての自分」しか確立できないような状況に子供を置いていること自体が、現在社会全体で話題になっているすべての教育問題の根本的な原因ではないだろうか。

早急に、「生産者」としての体験を子供のうちから積ませることができるような「場」を創っていく必要がある(識者が言っているような、道徳教育とか規範教育だけではまったく答えになっていない)。例えば、農業や市場や工場などの現場で実際の生産活動に触れるような体験をさせることは、最低限必要だろう。

もっと言えば、与えられた「場」で消費活動しかできないような存在ではなく、仲間と協力して自分たちで「場」や「課題」そのものを創っていく活動の中で子供たちに共認力・同化能力・前進力を磨いていってもらう、そのための環境を整える必要があるのではないだろうか。

たとえばこんな感じの→http://blog.goo.ne.jp/sizentaiken/


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生産をめぐる時代状況の変化についての論考

2012年11月05日 | 雅無乱日記

   ※画像はココ「国際経済の課題」からお借りした。

一昔前(バブルが崩壊する前)、アメリカの日本バッシングが極めて盛んな時期があった。

日本車を巨大なハンマーでメッタメタにするアメリカ人の映像がTVに映し出され、「ナンセンス…いったいなにがしたいんだ?」と閉口したのを覚えている。

彼らの理屈は、「日本が経済発展できたのは、米軍に守ってもらって軍事費を出さずに済んだおかげである。なのに、恩知らずの日本はどんどん安い製品をわが国に輸出してきて、わが国の製品を売れなくさせ、労働者の生活をおびやかしている。アメリカは貿易赤字が膨らんで首が回らない。全部日本のせいなのだ。もっとアメリカ製品やアメリカの農作物を買え。日本人は働きすぎだ、労働時間を減らせ!」というものだった(何と’87年6月には、米国の下院で、わが国の防衛費をGNPの3%にまですることを議決したほどである。内政干渉もはなはだしい。)。

実際は、日本人が勤勉で几帳面だから、日本製品は安くて質が良い。しかも、高かろう悪かろうのアメリカ製品より国産品を買うからアメリカの輸入は伸びない。だから貿易は黒字になるのは当然だった。それなのに、彼らはこんなことを言ってくる。「日本人は働きすぎだ。エコノミックアニマルだ。もっと余暇の時間の時間を増やして消費も増やせ」。この言いがかりに至っては、あきれてものも言えない。

うんと働くのは日本人の美点であり、たいして働きもせず世界中の富を浪費しているローン体質のアメリカ人こそ、自らの怠慢を反省すべきだろう(貿易戦争に負けて悔しいのならもっと几帳面に働けばいいだろう)。仮に余暇の時間を増やすにしても、あんたらの指図は受けないよ。

というわけで、前置きが長くなってしまったが、このエントリーでは「豊かになったのに労働時間が減らないのはなんで?」を考えてみたい。

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豊かになってあくせく働く必要はなくなったはずなのに、統計(厚生労働省H17調査 http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/17/17fr/mk17r.html)を見ると、残業時間は減っていない。それどころか4年連続で増えているそうである(総労働時間については若干▼。おそらくかなりの二極化が進んでいるのだろう)。

この事象の原因はどのへんにあるのだろうか?

キーワードは「C.S.(カスタマー・サティスファクション=顧客満足)」のあたりではないかと考える。

「お客様の満足を追及する」みたいな内容は、たいがいの企業が「社是」「社訓」レベルで言ってること。企業としてあたりまえやん、そんなもん。と今なら思うが、どうやらことさらこれが強調されるということは、これまでは「客の満足」なんて、たぶん経営者レベルではまるで考えられてなかったということなんだろう。

時代は、こんな風に変遷してきたのではないだろうか。


(CSなんて関係ない)昔はつくればモノが売れた(高度成長期)
               ↓
CMなどで消費意欲を喚起しないと売れなくなってきた('70年~)
               ↓
CMの効果▼で、営業マンが無理強いしなきゃ売れなくなった('80年~)
               ↓
それも限界。禁じ手の価格を下げても売れなくなった(バブル以降~現在)


こうして、生産者優位の時代から、消費者優位のデフレ時代に変わってきたわけである。

貧困があった時代は、「つくれば売れる」わけだから、大して頭を使わなくても殿様商売でもやっていけた。「まあ仕事なんてものはこの程度でええやろ」ということで、自分の勝手な基準で仕事がしていられたわけである。だからこそ「サラリーマンは気楽な稼業と~きたもんだ」とか「こつこつやる奴ぁ、ご苦労さん」(元都知事の青島幸男氏の作詞らしい)、'60年代にはこんな無責任ソングが流行っていた。さらにバブルの時代には、借金して土地を買ってあとは昼寝をしていたら地価があがって勝手に儲かるのだから、「まともに働くやつぁご苦労さん」という価値観がますます進んで、日本人のまじめな仕事観はズダボロになってしまった。

しかし、現在は、顧客の満足が得られないと売上を上げられない。基準は自分で決められるものではなく、顧客がそのサービスに満足するかどうか、つまり相手が基準となる。

「自分発の仕事」から「相手発の仕事」へのパラダイム大転換である。

相手の期待に応える、という課題は、言うなればどこまでやってもやりすぎということはない「無限課題」である。

企業競争の勝敗が、生産能力を支える「資本力」(つくれば売れる時代)から、「顧客の満足」というものに変わった今、いかに相手の期待を掴むことができるか、という同化能力と、その期待に応えようとする意識が社員一人一人に求められる時代になった。「つくれば売れる時代」なら、上役にゴマをすっていればやっていけた人も、人々の期待に応えようと頭を使わなくては淘汰(リストラ)される時代になったのである。労働時間が延びるのは当然の事なのかもしれない。この時代の変化の認識は、とても重要だと思うの今日この頃である。

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『緑の帝国』-世界銀行とグリーン・ネオリベラリズム

2012年11月01日 | 雅無乱日記

『緑の帝国』世界銀行とグリーン・ネオリベラリズム
マイケル・ゴールドマン著  京都大学出版会
 

今日はこの書籍を紹介したい。

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<著者からの内容紹介>
開発の知と、拡大する世界銀行のヘゲモニー。環境保護主義と市場主義の「思いがけない結びつき」、グリーン・ネオリベラリズム。その権力性を明らかにし、「静かな支配」の実像に迫る。

<原著への推薦(一部)>
"独創的で,洞察に満ちた『緑の帝国』は,「開発」の名のもと,途上国がどのようにして発展ではなく衰退へと追いやられてゆくのかを暴き出している."
 ナオミ・クライン(『ブランドなんか,いらない』著者)

"......ゴールドマンは緻密な研究を経て,世界銀行の秘密主義的な活動がどのようにして世銀の利益に結びつくのか,またそこにかかわる多国籍企業がどのように途上国の環境,経済を圧殺し,貧しい者から資源と権利を剥奪しているのかを明らかにしている."
 ヴァンダナ・シヴァ(『アース・デモクラシー』著者)

<目次>

第1章 世界銀行を理解する

第2章 世界銀行の台頭

第3章 知識の生産―世界銀行のグリーン・サイエンス

第4章 あたらしい学問の誕生―環境知識の生産

第5章 エコ統治性と環境国家の生成

第6章 水の民営化、市民社会のネオリベラル化
     ―越境する政策ネットワークの権力

第7章 それは閉鎖できるか?

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内容については、書評を二つ紹介するのでご参照を。

2008年6月22日 読売新聞の書評(評:米本昌平氏)より一部

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 世界銀行という巨大権力が抱える矛盾とその攻撃的性格を、観察者という立場に徹して冷静に分析し、あぶり出してみせた快作である。(中略)

 もともと潤沢な調査費の上に集められた世銀の情報は、途上国の政府や大学には圧倒的な権威がある。その中で世銀は、途上国の若手研究者に世銀流の開発手法を植えつけ、世銀コンサルタントとして雇いあげる。

 だがその結末の一つが、現在のアフリカの光景である。

 安全な水をすべての人に、というキャンペーンにおされて、世銀プロジェクトを受け容れた国々は、融資と同時にアメリカ流の法律改正と公共事業の自由化を強いられる。


 こうして水道が外国資本によって民営化されたのだが、料金が払えない住民が多く、当初の目標は新たな債務を積み上げただけに終わった。

 著者は、世銀の行動原理に、新植民地主義的な意図が秘められていることを見逃さない。

 それはまた、世銀の行動原理に無知な人たちが「持続ある発展」の旗をふる、その振り方の問題点の指摘でもある。

 さらに、思いをめぐらせれば、このことは今後、地球温暖化対策を国際金融エリートに委ねることの危険性をも示唆している。(後略)
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つづいて、北海道大学経済学部准教授の橋本努さんの「週刊東洋経済」書評より。

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「環境」を口実にした世界銀行の新たな途上国支配

「市場第一主義」の投資家と「環境保護主義」の運動家。この二人を実務的に組み合わせるとどうなるのか。「グリーン(環境)」と「ネオリベラル(民営化)」を混ぜ合わせた「グリーン・ネオリベラリズム」。そんな新しい開発レジームが、現代の世界銀行を動かしている。本書はそのパラドキシカルな実態にメスを入れた力作だ。

1990年代の世界銀行は、「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるネオリベラリズム政策を採用し、多くの途上国で統治の危機を招いた。その後の世銀は「ポスト・ワシントン・コンセンサス」と呼ばれる温和な方針へと転換するものの、「ネオリベ政策」をやめたわけではない。「ネオリベ政策」は今や、環境政策とパッケージになって遂行されている。

たとえば、先進諸国に本部を置く自然保護団体が、ある国で「生物の多様性が危機に瀕している」と叫んだとしよう。すると世銀は同団体と手を結び、当該国政府の資源濫用を防ぐために、公有の自然資源を基盤とした産業を、多国籍企業に競売すべきだと主張する。途上国の自然環境を管理するためには、当該国政府よりも、多国籍企業の支配に委ねたほうがよい、という理屈からである。

これは大きな逆説だ。世銀を支持するエリート学者たちは、低開発で無駄の多い状態よりも、高開発で無駄のない状態のほうが、環境に優しいと考える。ところがこの発想は、先進国が途上国の開発を推進するための糸口を与えてしまうのだ。

「すべての人に水を」という世銀のキャンペーンも同様である。きれいで安全な水を、みんなが飲める社会。そんな社会を実現しようと思ったら、私たちは途上国の公共サービスを民営化(つまり多国籍企業化)して、低コストで開発しなければならないだろう。そうでないと途上国政府は、過度の負担にあえいでしまう。

実際に途上国は、水や医療や電気などの公共財を、ベクテルやビベンディといった欧米の大企業に売却してきた。売却することによって初めて、海外の銀行や国際機関から融資を受けることができた。

エコロジカルな開発のために、先進国のネオリベ統治術を受け入れる。著者はこの権力作用を「エコ統治性」と呼び、途上国の国家運営が、ますますハイブリッド化していく様子をえぐり出している。では途上国は、世銀のネオリベ支配から逃れることができるのか。「南」の国政選挙では、世銀権力の存在が政治問題化している。世銀は今や、途上国の独自の国家統治を揺るがす巨大権力となっている。その働きに注視が必要だ。
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このブログでも常々主張してきた、グローバル金融資本が「世銀」という組織を介して世界中で行ってきた破壊行為を、正面から告発している書籍のようである。マスコミが書かないこういう欺瞞を暴いていく書籍が、日本でもちゃんと出版されるというのは喜ばしい。3800円…となかなかいい値段がするが、購入したらまた内容について報告したい。

つづきはこのエントリーへ↓
世界銀行の「エセ環境保護」戦略と途上国破壊・収奪の全貌…



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