大江健三郎『「新しい人」の方へ』「ウソをつかない力」より引用
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(略)
さて、ウソをつかない力について話を続けます。皆さんもテレヴィの国会中継やニュースで見られたはずの、政治家が国会の証人としてウソをついた、また記者会見でウソをついていたとわかった、しばらく前の一連の出来事をとりあげることにしましょう。
まず、強い人でウソをつく人が、そのウソをあかるみに出されました。テレヴィニュースが、何度も同じヴィデオテープを映し出すのを見られたと思います。皆さんは、それらの国会議員たちが、ウソをいっていたと見破られながら、目の前にいる同僚の議員たちや、テレヴィを見ている数多くの国民に対して、恥ずかしいと感じている様子がないことに驚かれたでしょう。
ウソをつかない力のひとつに、自分が自分に持っている「誇り」があります。皆さんが自分のなかに目を向けて、そこに「誇り」のかたまりがあるとあらためて確かめる機会は、あまりないかも知れません。しかし、自分の「誇り」を、両親や兄や姉、また先生にさえも無視されたと感じる。そうした仕方で、自分の「誇り」に面と向かう、それはよくあることです。私は子供のころの自分を思い出していうのです。
ここでひとつウソをついても、誰にもわからない。それでもウソをつくまい、と思う。それは、ウソをつくことで、自分の「誇り」が傷つく、と感じるからです。
私は子供の時の記憶と、大人になった自分の家庭で、障害のある子供と健常な子供たちを育てた経験から、子供には確かな「誇り」のかたまりが、心のなかにあると知っています。
そして、いまの年齢になって、私は、子供のころにはありながら、大人になると失われる人間の性質のなかで、「誇り」こそ、いちばん大切なものじゃないか、と考えるのです。「誇り」をなくした大人がウソをつき始めると、とめどがありません。この場合、ウソをつくまい、と自分でがんばることはしないのですから、周りの人がそのウソをつきとめて、取り消させるほかありません。
他の人が、とくに強い人のつくウソを見ぬき、はっきりさせて、それが良くないことだと思い知らせるためには、国会議員の例に戻るなら、次の選挙で当選させないのが最良です。民主主義のルールのなかでも、なにより根本的で、かつ有効な方法です。
皆さんは、大人になって選挙権を持ったなら、ウソをつく強い人に投票しない、と今から原則を作っておいてください。(後略)
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>「誇り」をなくした大人がウソをつき始めると、とめどがありません。
TPP交渉への日本参加を推進している政治家のみなさん。
胸に手をあてて振り返ってみてください。
あなたがたは、そうなってませんか?
それとも、誇りを失い、性根が腐りすぎていて、そのことにさえ気づきませんか?
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