2007年3月2日(金)の午後10時~10時49分にNHK総合テレビで放映されたNHKスペシャル「ともに悩み ともに闘う ~長野 ・ いじめ対策チーム~ 」http://www.nhk.or.jp/special/onair/070302.htmlという番組を、車の中で人を待ちながら、カーナビでボーッと見ていた。
息子さんをいじめによる自殺で失った人を中心に結成された「いじめ対策チーム」が、いじめがあると報告された学校や家庭に行って話しを聞き、学校へ圧力をかけて様々な対応を迫る、といった内容。
その中で、対策チームが家庭訪問して解決を約束し、対策チームが学校へ対応を迫ったにも関わらず対策が講じられず、あいかわらずいじめられている少女の話がでてきた。
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対策チームの一人がその少女に、「いじめをやめさせると約束したのにできなかった。ごめん」と謝るシーンが出てくる。
なんか違うのではないか?という感覚を持った。
その人が謝るようなことなのだろうか?
おかしいと思うのはそれだけではない。少女は、もちろん「いじめられない」ことは望んでいるだろうが、おそらく心の奥底では友達との関係において充足したいのである。学校に対策を迫って、圧力をかけていじめを止めさせても、一時的にはいじめはおさまってもそんなの続くはずがないというのが分からないのだろうか。百歩譲っていじめが止まったとして、それでいじめられていた本人は満足なのか?たとえいじめられなかったとしても、周りに距離を置かれよそよそしい対応をされても、充足できるわけがない(いわゆる「無視」に近いわけで、もっとつらくなると思う)。
最近は「いじめた子に制裁を課すべき」といった議論も出ているが、他にも「いじめについて話し合う機会を持つ」といったような学校側の対応も増えてきている。しかし、そんな事を話し合って本当にいじめがおさまるのだろうか?はなはだ疑問である。
その番組の中に、過去に強烈にいじめられていた中年男性が中学生の前で熱く講演するシーンが出てくる。この番組で唯一印象に残ったシーンだ。
彼は子供たちに「今誰かをいじめているみなさん。あなたがたはほんの遊びのつもりかもしれないが、いじめられている人はあなたのせいで傷つき、人間不信になり、その後の人生がむちゃくちゃになる。あなたは、その人の人生の責任が負えるのですか!」とだいたいこんなような事を言って迫る。
その迫力はたしかにすごかった。本人は、まさにいじめられたせいで人生がめちゃくちゃになったわけで、それを背負ってしゃべっているからだろう。
しかし、彼の主張する内容については、やはり違和感がある。いじめをやめさせたい気持ちは分かるが、「責任」とか言って脅してやめさせるような問題なんだろうか。そもそも誰かの人生は他人が責任を持つものなのか?「あ、おれ他人の人生にまで責任もてないから、一応いじめはやめとこか」とかいっていじめって止めるような問題なのかと言われると、あまりそうは思えない。
しかも、彼の人生を賭けた訴えでさえ、おそらく子供たちのいじめを一時的におさめる効果しかないだろう。
どうもこの手の番組を見ていると、「いじめ」という現象だけを対象化して、それをどうやって止めさせるか…、という発想がそもそも目先的で視野が狭く、現実とズレているのではないかと思えてくる。
大人はキレイ事を言うけれども、そうは言っても「いじめは無くならない」とほとんどの子どもたちは思っている。そして、残念ながら現在の社会ではそれが事実だろう(気の毒だとは思うし、自分がそうなったら耐えられないと思う。いじめをやるような連中は「人間の屑」だと思っている。しかし、現実に「いじめ」が存在しつづけており無くなる気配はまったくないということは認めざるを得ない。子どもたちの世界だけではない。地域社会にも会社にも、集団があればそこに「いじめ」は存在する。これまでいじめが無かったことなど歴史上なかったのではないか。少なくとも6000年前以降の私権時代では…)。
狭い学校やクラスなどの空間では、いじめの他に課題がなく、仲間関係が最大の関心事となっているため、そこで否定されてしまえば、その子は自分の存在意義を失ってしまう。
昔もいじめはあった。しかし、他にも多くの課題があったので致命的にはならなかった。いじめは言わばオマケみたいなものだった。
いじめを無くすのが無理なら、いじめをその「オマケ」のような状態にしてやればいい。
「いじめを無くそう!」なんて、誰もできると信じてない事に対して「対策チーム」とやらをつくって必死でキャンペーンをはって、結局何も改善されず振り出しにもどる…なんてことは時間とエネルギーの無駄である(その番組を見る限り、心情的には理解できるし、努力もすごいと思う。しかし、キツい言い方をして申し訳ないが、可能性の無い方向にむかって全力疾走しても、無駄は無駄である)。
発想を転換して、「いじめ」を子どもたちの意識の中で二義的・三義的な課題(「まあやってはいるけど、基本的にどうでもいいもの」)にまで下降させるにはどうするか、ということを考えたほうがよっぽど実現性があるのではないだろうか(例えば極端な話、いじめられてる子にバイトやボランティアを斡旋してやって、「ともに取り組む課題のある新しい仲間関係」をつくる手伝いをしてやれば、学校でいじめてくるアホな連中なんてどーでもよくなるに違いない)。
それを、「いじめられている→かわいそう→いじめられないようにしてあげよう」という短絡的な思考に嵌まり込んで、努力を繰り返すことは、単に徒労であるだけでなく、むしろいじめられている本人の傷口を広げるという意味でなおひどいのではないだろうか(「あたし(僕)は、これだけの大人に努力してもらい助けてもらってもなおいじめられる存在である」ということを確認しなくてはならない、という意味において、より残酷である)。
何かみんなで取り組むべき課題があって、それに向かって全員が一生懸命で、その課題の中で何らかの役割を担って「役に立ってる」という実感を持つような「成功体験」を積ませてやることこそが、例えばいじめによる自殺を防止するのにもっとも早道なのではないだろうか。
いじめられている人間は「自分に価値が無い」と思ってしまう人が多いと聞く。そんな人に、必死で「自殺はいけない」と単にうったえつづけても効果があるとは思えない。だったら役割を与えて存在価値(生きる意味)を社会の中に実際に創ってやればよいのではないだろうか。
そういう経験ができる「場」を創ることこそ、できもしない「いじめ無くそう運動」をするよりまず先にやるべきなのではないかと思う。
例えば、こんな「場」とかね^^;)→http://blog.goo.ne.jp/sizentaiken/
息子さんをいじめによる自殺で失った人を中心に結成された「いじめ対策チーム」が、いじめがあると報告された学校や家庭に行って話しを聞き、学校へ圧力をかけて様々な対応を迫る、といった内容。
その中で、対策チームが家庭訪問して解決を約束し、対策チームが学校へ対応を迫ったにも関わらず対策が講じられず、あいかわらずいじめられている少女の話がでてきた。
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対策チームの一人がその少女に、「いじめをやめさせると約束したのにできなかった。ごめん」と謝るシーンが出てくる。
なんか違うのではないか?という感覚を持った。
その人が謝るようなことなのだろうか?
おかしいと思うのはそれだけではない。少女は、もちろん「いじめられない」ことは望んでいるだろうが、おそらく心の奥底では友達との関係において充足したいのである。学校に対策を迫って、圧力をかけていじめを止めさせても、一時的にはいじめはおさまってもそんなの続くはずがないというのが分からないのだろうか。百歩譲っていじめが止まったとして、それでいじめられていた本人は満足なのか?たとえいじめられなかったとしても、周りに距離を置かれよそよそしい対応をされても、充足できるわけがない(いわゆる「無視」に近いわけで、もっとつらくなると思う)。
最近は「いじめた子に制裁を課すべき」といった議論も出ているが、他にも「いじめについて話し合う機会を持つ」といったような学校側の対応も増えてきている。しかし、そんな事を話し合って本当にいじめがおさまるのだろうか?はなはだ疑問である。
その番組の中に、過去に強烈にいじめられていた中年男性が中学生の前で熱く講演するシーンが出てくる。この番組で唯一印象に残ったシーンだ。
彼は子供たちに「今誰かをいじめているみなさん。あなたがたはほんの遊びのつもりかもしれないが、いじめられている人はあなたのせいで傷つき、人間不信になり、その後の人生がむちゃくちゃになる。あなたは、その人の人生の責任が負えるのですか!」とだいたいこんなような事を言って迫る。
その迫力はたしかにすごかった。本人は、まさにいじめられたせいで人生がめちゃくちゃになったわけで、それを背負ってしゃべっているからだろう。
しかし、彼の主張する内容については、やはり違和感がある。いじめをやめさせたい気持ちは分かるが、「責任」とか言って脅してやめさせるような問題なんだろうか。そもそも誰かの人生は他人が責任を持つものなのか?「あ、おれ他人の人生にまで責任もてないから、一応いじめはやめとこか」とかいっていじめって止めるような問題なのかと言われると、あまりそうは思えない。
しかも、彼の人生を賭けた訴えでさえ、おそらく子供たちのいじめを一時的におさめる効果しかないだろう。
どうもこの手の番組を見ていると、「いじめ」という現象だけを対象化して、それをどうやって止めさせるか…、という発想がそもそも目先的で視野が狭く、現実とズレているのではないかと思えてくる。
大人はキレイ事を言うけれども、そうは言っても「いじめは無くならない」とほとんどの子どもたちは思っている。そして、残念ながら現在の社会ではそれが事実だろう(気の毒だとは思うし、自分がそうなったら耐えられないと思う。いじめをやるような連中は「人間の屑」だと思っている。しかし、現実に「いじめ」が存在しつづけており無くなる気配はまったくないということは認めざるを得ない。子どもたちの世界だけではない。地域社会にも会社にも、集団があればそこに「いじめ」は存在する。これまでいじめが無かったことなど歴史上なかったのではないか。少なくとも6000年前以降の私権時代では…)。
狭い学校やクラスなどの空間では、いじめの他に課題がなく、仲間関係が最大の関心事となっているため、そこで否定されてしまえば、その子は自分の存在意義を失ってしまう。
昔もいじめはあった。しかし、他にも多くの課題があったので致命的にはならなかった。いじめは言わばオマケみたいなものだった。
いじめを無くすのが無理なら、いじめをその「オマケ」のような状態にしてやればいい。
「いじめを無くそう!」なんて、誰もできると信じてない事に対して「対策チーム」とやらをつくって必死でキャンペーンをはって、結局何も改善されず振り出しにもどる…なんてことは時間とエネルギーの無駄である(その番組を見る限り、心情的には理解できるし、努力もすごいと思う。しかし、キツい言い方をして申し訳ないが、可能性の無い方向にむかって全力疾走しても、無駄は無駄である)。
発想を転換して、「いじめ」を子どもたちの意識の中で二義的・三義的な課題(「まあやってはいるけど、基本的にどうでもいいもの」)にまで下降させるにはどうするか、ということを考えたほうがよっぽど実現性があるのではないだろうか(例えば極端な話、いじめられてる子にバイトやボランティアを斡旋してやって、「ともに取り組む課題のある新しい仲間関係」をつくる手伝いをしてやれば、学校でいじめてくるアホな連中なんてどーでもよくなるに違いない)。
それを、「いじめられている→かわいそう→いじめられないようにしてあげよう」という短絡的な思考に嵌まり込んで、努力を繰り返すことは、単に徒労であるだけでなく、むしろいじめられている本人の傷口を広げるという意味でなおひどいのではないだろうか(「あたし(僕)は、これだけの大人に努力してもらい助けてもらってもなおいじめられる存在である」ということを確認しなくてはならない、という意味において、より残酷である)。
何かみんなで取り組むべき課題があって、それに向かって全員が一生懸命で、その課題の中で何らかの役割を担って「役に立ってる」という実感を持つような「成功体験」を積ませてやることこそが、例えばいじめによる自殺を防止するのにもっとも早道なのではないだろうか。
いじめられている人間は「自分に価値が無い」と思ってしまう人が多いと聞く。そんな人に、必死で「自殺はいけない」と単にうったえつづけても効果があるとは思えない。だったら役割を与えて存在価値(生きる意味)を社会の中に実際に創ってやればよいのではないだろうか。
そういう経験ができる「場」を創ることこそ、できもしない「いじめ無くそう運動」をするよりまず先にやるべきなのではないかと思う。
例えば、こんな「場」とかね^^;)→http://blog.goo.ne.jp/sizentaiken/