いよいよ4月から、新学習指導要領が中学校にて全面実施となる。
この機会に、新学習指導要領がどういう経緯でできあがり、それが実施されるとどんな影響があるのかを考えてみたい。
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■旧指導要領の背景
そもそも、改訂されることになった一昔前の学習指導要領が、どういった経緯で作られたかからさかのぼって見てみることにしよう。
10年おきに改訂される学習指導要領は、その時代の事情(人々の意識)が色濃く反映される。
ちなみに、最も学習指導要領が分厚かった1960年代,1970年代は、米ソの宇宙開発など科学競争が凄まじかった時期の世論を背景にして、「日本も追いつき追い越せ」という意識潮流が反映されている。
今や悪名高き…となってしまったが旧「ゆとり」の指導要領の検討が始まったのは1995年頃。当時の首相は社民党の村山富市だった。結果として、日教組の影響が多大に入った内容となった。
当時は、校内暴力、子供の犯罪(1997年に『酒鬼薔薇事件』)が注目されていた。
「子供に勉強を詰め込む教育はよくない」「ゆとりが大事」という世論が最高潮になった時期である。
そして、2002年に週5日制が実施されることになり、その結果、授業コマ数が1960年代の3/4に削減されることになった。
■旧学習指導要領の特徴
旧学習指導要領は、日教組的平等思想に貫かれている。具体的には、なるべく学力格差がつかないように、発展的内容が削られている。そして、内容を減らすために無数の制限事項がついている。例えば、「~まで扱うこと(暗に~までしか扱ってはならない)」「都道府県のうち,2つか3つまでを扱うこと」(「はどめ」規定)。
しかし、実際には私立校の入試にはそういった範囲が出題されていたりするので、学校の授業だけでは志望校に合格できないのは当たり前…という事態に…。
また、宗教的な内容には踏み込むことはタブー。例えば歴史・地理で、宗教改革や、3大宗教の影響については、「深追いしない」ということになっていた。
学校(教師)が主導することが前提になっており、教科書を読んでも、まともな解説もついていないので、教師が教えなければ理解できないようになっている。(逆にいえば、教師が劣化したら必然的に子供にしわ寄せがくる…ということ。)
本当に「ゆとり教育」が学力低下の原因だったのか?の通り、この学習指導要領は不評で、結局、真逆の指導要領が検討されることになる。
■新学習指導要領の背景
検討が始まったのは、ちょうど小泉政権下。当時の風潮である「自由化」「自己責任論」が色濃く反映されている。
家庭も産業界もこぞって、「若者がバカになった」「ゆとり教育のせいだ」と騒ぎ始め、これを脱するために…という色彩が強く表れることになった。
■新学習指導要領の性格
発展的学習が復活。指導すべき学習内容のボリュームも急増し、「ゆとり教育」よりさらに前の30年前(1980年代)の水準に戻った。
教科書は、解説がていねいになり、練習問題も激増。いわゆる参考書型・問題集型に変貌する。これによって、ページ数は増えるが、自分で勉強できる子は、勝手に教科書でどんどん勉強できるようになる。
答えも解説もすべてついているのがスタンダード。「教師がいなくても自学自習できる内容」で、逆に言うとこれは「学校の教師にはもう期待しない」ということを意味している。
そして、学校が「落ちこぼれ対策」をするのを前提とする発想はない。「これだけ自学できるようにしてるんだから、落ちこぼれるのは自己責任です」ということ。学力格差が大幅に広がることは、文科省は承知の上。落ちこぼれが激増するであろうことも予想しているだろう(おそらく「確信犯」)。
英数国理社の主要5教科のコマ(3年間)が、約1500だった「ゆとり時代」から、約1900に激増。これは、週6日授業をやっていた1980年代のコマ数である。各学校の裁量に任されていた「総合学習の時間」などは、大幅に削減。その分を5教科の増強にあて、特に理系科目の強化に動いたようだ。
■どんな影響があるか
週6日の授業が当たり前だった'80年代当時の学習内容と授業コマ数を、週5日の現在にムリヤリ詰め込むとどうなるか。結果として、月曜から金曜の5日がほとんど毎日6限目までギッチギチに授業が積まれることになる。
よっぽどデキる子以外どういうことになるか…
ほぼ毎日6限までで集中力が切れ、ヘロヘロになる?
部活の始まる時間が遅くなり、こっちでもヘロヘロになる?(部活なんてやっていられない?)
内容についても、「はどめ」規定(これまでの…平等教育のため「ここまでしか教えちゃだめ」という制限)が外され、教科書もほぼ盛り込み放題になった。当然、生徒がやらなくてはならない課題量は増加する。
これは、必然的に学力格差が拡大し、「落ちこぼれ」が激増する構造だと思われる。
小泉や橋下はこう言い放つだろう。
「教科書は充実させて、自学自習できるようにしている。ここまでやってもらって勝手に勉強しないで落ちこぼれるのは“自己責任”である」と。
しかし今の時代、“自己責任”と言われて自分で勉強する生徒など10%もいないだろう。
学歴信仰が終焉し、いい大学→いい就職・いい結婚・いい生活の旧時代の幻想も崩れた現在、子どもたちにとって、4月からの新学習指導要領改定による課題量・内容の激増は、試験勉強に対するヤル気をますます無くさせるのに十分のような気がする。
結果として、これまでよりも多くの「落ちこぼれ」が世の中に誕生することになるだろう。熱心な学校に限っては、落ちこぼれを防ぐために、下位層に対しては補習をやりまくるかもしれないが、そもそも勉強する動機そのものが貧弱な「ヤル気のない生徒」をどうすることもできないのではないか。夜中に街を徘徊する少年少女が増え、治安が乱れるのも「自己責任」…と放置するのだろうか。
一方では、自称「意識の高い」教育ママゴンにケツを叩かれて勉強しまくる子も増加する…という二極分化が現出するだろうが、この連中は徹底的にスポイルされ、必然的にいわゆる「勉強しかできない人間」になっていくだろうから、「エリートが増えて日本は安泰」などと楽観的な事は到底言えない(自称エリートのプライドが高いだけのアタマのイカレタ若者ばかりが増えそうである)。
この4月から予想されるのは、非常に暗い未来像である。おそらく10年後には、「この反省を活かして」また反動としての新学習指導要領が策定されるのだろう(進歩の無いことである…)。
その前に、この予測される事態を見越して子どもたちを学習面・生活面からしっかりフォローしていく民間教育機関(例えば本当に「ゆとり教育」が学力低下の原因だったのか?)が大きな力を付けていくのではないか…というのが今のところの私の予想である。
↑ ついったー
米ウォルマート 性差別訴訟、原告200万人 (sankei 2007年2月8日(木)03:16)
さすがはアメリカ!訴訟の規模もビッグだね。原告が200万人だとさ~
さて以前、当ブログで採り上げた“訴訟社会への変化を強要する年次要望書”で、
>その結果、何かちょっとしたことでも即裁判、という社会になる。既にアメリカでは半分そうなっているようだ。セクハラ訴訟でもちょっと油断すると企業側の監督責任が問われて、賠償金の負担により倒産ということもあるというから恐れ入る。なので企業はたいがい訴訟対策に高額の保険に入っている。それが商品の値段に上乗せされ、消費者が間接的に保険料→訴訟料を払っていることになるというわけ。
と書いたことがあったが、同じハワイ島の研究所に勤める知人からこんな具体例を聞いた。
アメリカでは、いわゆる“男と女の関係”になった社員に『恋愛契約書』というのを書かせる企業が3000社もあるという(ちょっと古いけど2002年現在)。
例えばこんなケースだそうだ。
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>アメリカのある大手コンピュータ会社に勤務する男性が、部下の女性と恋に落ちた。
>ある日、この男性は突然、会社の役員に呼び出され、今後も部下の女性と恋愛関係を続けたいなら『恋愛契約書』にサインをするように言われたのだった。
>このことで、会社側は「セクハラ問題」に関するトラブルを回避する事ができるというのだ。
(引用元:Far East Research Co.Ltd)
ピンとくる人はこれだけでの記述で分かるのだろけど、私は「???」となってしまって、その知人に「どういうこと?」とアホな質問をしてしまった。
「その二人がうまくいってるときはええけど、もし破綻したり関係がこじれたりした場合どうなると思う?二人の愛は憎しみに変わり…“上司という立場を利用してあたしにアプローチしてきたの!本心は彼に迫られるのは嫌だった…。だからセクハラよ!”とか“いや、僕の話も聞いてくださいっ!ほんとにほんとに合意の元での×××だったんです…”だのなんだのと揉めはじめるやろ」
「それは分かる。でもそれでなんで“恋愛契約書”なの?」
「まあ個人間で訴訟が終わればまだええんや。さらに“そのせいで会社に行きにくくなった”とか“毎日精神的苦痛を感じていた”とかと女が主張し始めたらどうなる?」
「?」まだ繋がらない…^^;)
「セクハラに関する法律には企業の監督責任についての条項もしっかりあるわけや。要するに“そういう職場環境を放置していた企業にも責任がある!”なんてことに発展し、企業が莫大な賠償金を払ってその企業が潰れちゃうってケースまであるわけ。それを防ぐため、男女関係が破局する前にキッチリと“あんたらの関係は“個人的”なもので、会社は一切関係ないよ。責任持ちませんよ”ということに同意する証明書=『恋愛契約書』にきっちりサインをさせるわけやな」
やっと納得…。
2002年現在(古いデータでゴメン)、アメリカではセクハラに関する訴訟件数は年間1万5千件を超えるそうだ。訴訟社会もここまでくると実に滑稽だ。
“セクハラ先進国”であるアメリカで、企業が被害者に支払った損害賠償金額は、1980年代に総額で1,000億円を既に超えていたという。
でも、それぐらいで驚いてはいけない。
1996年に三菱自動車(アメリカ三菱自動車)が起訴されたセクハラ訴訟では、なんと損害賠償請求額220億円(ありえない…)。結局は、約300人の女性労働者に総額にして3,400万ドル(当時のレートで約44億円)の賠償をおこなうことでやっとこさ和解が成立(1998年)したらしい。これは、当時のアメリカのセクハラ訴訟で最高の賠償額だったとか…(ちなみに、その後コカ・コーラのセクハラ訴訟ではこれを上回る賠償がなされたそうな)。
このアメリカ三菱自動車の災難はこれだけでは終わらない。
その翌年(1999年)には、今度は約250人のアフリカ系アメリカ人やヒスパニックの人々から、「職場で人種差別や嫌がらせを受けている」と訴えられることになる。こっちの方は、2001年に一人当たり最高で20万ドル(約2,400万円)、総額で320万ドル(約3.8億円)の賠償金を支払うことで和解したということらしい。
いっぺん隙を見せたら、よってたかって徹底的に食い物にされ骨だけにされてしまう(もちろん、一定彼らに対して不当な扱いをしていたことも事実だろうけど…)。「日本企業は脇が甘い。こりゃあ訴えればなんぼでも出しよるぞ」と思われたのかもしれない。この事件がきっかけで、あわてて法律の専門家やコンサルを雇った日系企業は多いのでは?(こうして、経営者も労働者も、誰にも心許せず、警戒心の塊になっていく)
つまり、私達が買う自動車やコカ・コーラにまで、セクハラの賠償金と法律屋の雇い賃が上乗せされているということだ。
「訴訟社会」…、これがまっとうな社会とは到底思えない。このシステムが生み出す疲弊、社会資本や企業、人間の精神に及ぼす弊害は計り知れない。
TPPは日本を訴訟社会に転換する事も狙っている。
このままではアメリカ独りよがりのルールの押し付けによって、日本の社会が破壊されてしまう(既にアメリカ→官邸→マスコミの洗脳によってかなり壊されてしまっているが…)。
規則や法律によってではなく、共感や対話によって結ばれる社会や企業のモデル創りが急がれると思う。
↑ ついったー