にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

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『援助じゃアフリカは発展しない』ダンビサ・モヨ

2013年01月25日 | 雅無乱日記

そんなの常識じゃないのか?

と思えるようなタイトルだが、あたりまえになっていないからこそ、
こういう本が出版されるんだろうな。

ダンビサ・モヨ著(小浜裕久監訳)
『援助じゃアフリカは発展しない』
(東洋経済新報社、2010年)




「援助」は、先進国がアフリカの社会を破壊し、
そこからより効率的に搾取するためになされている。

ODA、世銀、IMFは途上国の農業・社会を破壊している

飢餓人口10億人超~
“金貸し”が世界の格差を拡大し貧困と飢餓を創り出している


要するに、実態はこういうことである。

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阪神大震災から18年。今思うこと…

2013年01月16日 | 雅無乱日記

明日で神戸の震災から18年かぁ…。

2011年には311も起こり、記憶もかなりかすんでしまったが、

当時、灘区の王子公園の近くに住んでいて、直撃をくらった。あの時の事を思い出す…。

職場の後輩に、「震災を経験する前とあとで、意識はなんか変わった?」と聞かれたことがある。

あの震災を経験した方には、状況に応じてそれぞれの思いがあるのだろうと思う。インパクトのある事件だったというのは、間違いなく共通の感覚だろう。共感してもらえるかどうかは分からないが、私の場合は…、ということで書いてみることにする。

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         ↑ ついったー

「意識が変わったか?」と聞かれたけど、そりゃあもう大きく変わったよ(^_^;)きまっている!

友人を一人亡くした。めちゃめちゃ親しいつきあいがあったというわけやないが、みんなにごっつ慕われてる奴で、震災の前の日の晩に、別の後輩の家でいっしょにキムチ鍋を囲んでた。そいつは、夜遅くにバイクで自分の下宿に戻り、二階の下敷きになってしまった。しこたま酒を飲んでつぶれていれば、その別の友人の家に泊まって助かってたかもしれない(そういう仮定は意味が無いことは分かっていながら、ついやってしまう)。

とにかく、まっさきに死んでいいような奴ではなかった。「代わりに別の奴が死ねばよかったのに」、と不謹慎なことを強く思ったりした(彼の葬儀で「Wくんは罪深き我々の代わりに主に召されたのです」などと説教をたれた神父に、「そういうことを言うお前が召されろ」と毒ついて友人に小突かれたものだった)。 友人の姉は、ここ数年、毎年1月17日の震災セレモニーで追悼の歌を歌っている。

私の住んでいた下宿の周囲は一瞬のうちに廃墟になった。たぶん、何人か死人も出たと思う。

その時思ったのは、人間は意外と簡単に死ぬということ。自分も死んでたかもしれない。今後もいつ死んでもおかしくないということ。自然災害に対して、人間がつくりあげた文明なんてものはもろいものだ。

埃の匂い、火事の焼け跡、倒れた電柱、そして、その中で仲間たちと身を寄せ合って過ごした3日間。まったく途方に暮れ、それまでの大学生活が全て幻想(砂上の楼閣)のような気がして、日々の生活の中でこだわったり心配したり気にかけたりしていたことがすべてどうでもいいリアリティーのないものであったと感じた。

水も電気もない。いくらお金を持っていても何も買えない。お金なんて生き残る上で何の価値も無い(ケツをふく紙にもなりゃしない)。価値があるのは、励ましあい助け合える仲間たちだけ(当時の仲間とは、毎年必ず、亡くなった友人を偲んで集まっている)。

震災から3日間(救援物資が行き渡りはじめるまで)、全く知らない人間同士でもとにかく助けあおうという空気というか雰囲気が神戸という街全体を包んでいるのを感じた。がれきの下敷きになった人を協力して助けたり、なけなしの食糧やクスリを困っている人にあげたり、近所に火事がやってくる危険を知らせてまわったり、私の知る限り、最初の三日間は、強力な不安に見舞われた人達が、自然と助け合い協力し合っていたように思う。

この世知辛い弱肉強食の市場社会・競争社会の中で、みんな自分のことで精一杯で「助け合いなんてキレイゴト=空想」だ、と思っていた当時のひねくれ者の私にとって、この状況は驚きと共に希望をも感させるものだった。人間というのはまんざら捨てたもんじゃない、素晴らしいじゃないか…、自分もその末席にでも加えてもらえるのならそれは誇らしいことだ、と。

でも、震災から3日が過ぎ、救援物資が届くようになると、その空気はまるでウソのように無くなってしった。救援物資の奪い合いと、ボランティアだけが働いて、それ以外の人は何もせず無気力な時間を過ごす、そんな重苦しい空気に包まれた。

震災一週間後くらいから、ある小学校で一週間だけボランティアをした。その時の体験も今でも覚えている。

家を失い呆然としている大人たちは、うつろな目で、日がな一日ぼーっとして教室で暮らしている中で、私たちボランティアスタッフは、救援物資が届いたといえば運び込み分類し、水道車が来たといえばかけていって水汲みをし水を運び上げたりして、忙しく働いていた。ボランティアスタッフの中には、地元で被災された方々も含まれていた。

ところが、ほとんどその方々と変わらないのに、教室で毛布にくるまって暮らしていた大人たちは、救援物資の配給の放送が鳴ると、目の色を変えて救援物資に殺到するだけで、他はほとんど何もせずだらだらしていた。配給は、特に女性の下着の配給の時は怪我人が出んばかりの勢い。「地震でせっかく無傷だったのに、パンティーを取り合って怪我で血まみれなんてことになったら笑い話にならんやないか、おばちゃん」と思いながら、「十分ありますので押さないでください!」と声を張り上げるのに嫌気がさし、こんな元気な人達(しかも人に働いてもらってその成果を享受することを当然と思っている人たち)にはほとほとうんざりして、私達みたいなボランティアはもうあんたがたには必要ないだろう、と判断して1週間でやめてしまったのを覚えている。

一方、その小学校に一緒にいた子供たちに目を移すと、彼らは実にイキイキとしてたね。仲間たちと遊んでいるのだが、不用なものを燃やすときには、それを運んでくれたり、私たちが忙しそうにしていると、「にいちゃん、何かやったげることない?」と声をかけて、一生懸命手伝おうとしてくれた。

「こいつら、平和な今までは、単に家でファミコンしてたんやろうな~。でもこうやって役に立とうと積極的になれるんだ」と思って、とても感心したのを覚えている。

それに比べて働いていない方の被災者の大人のふがいなさ…。でも、一方的には責められない。たいへんな思いをされていたのだと思う。彼らは、自分たちがそれまで働いて一生懸命築いていてきた結果(マイホーム)が災害によって失われた、あるいは大切な人を失ったことで、後ろを向いて悲観的になり、「自分たちは被害者だ。だから施しを受けるのは自分たちの正当な“権利”である」という意識になっていたのかもしれない。例えば、ローンだけ残してマイホームが崩壊した落胆などは分かるには分かるが、しかし、なにもせずごろごろして施しを受けるだけという方がいたのはほんまに残念やった。

そんな意識からはまったく無縁な子供たちは、潜在思念で役割を探り当て誰にも言われなくても「役に立って嬉しい」、みたいなところに向かって行動し、あの大変な状況の中でも多くの貴重な体験をしたんではないかと思う。

そんな彼らを見て、「旧いものに縛られてさえいなければ、世の中案外簡単に変わるかもしれんな~」と思ったものだった。

時計を戻すけど、しかし今考えても、震災直後の「あの3日間」は何だったのだろう、と思う。

火事の焼け跡やがれきだらけのすすけた街も、電気も水もない不便な生活も、イヤはイヤやったけど、でも、あの「みんな共に生きている」ということを強烈に感じさせる空気、雰囲気はなんかよかった(たくさんの不幸は確かにつらかったが)。あの空気や雰囲気をもう一度味わってみたい気がしたりする(でも、地震はもうコリゴリやけど)。

大きな災害にあって命からがら逃げ出した人々が、その状況に対して惜しげも無く協力し合っていたものが、救援物資が届いてその圧力が緩和すると、とたんに己の取り分だけを守ることで頭が一杯になる、という、なんか矛盾した現象は、今だに私の中で整理がつかずにいる。

もっとも、ロスの大地震の時は、直後に暴徒による襲撃が起こったというから、日本とアメリカでは社会の性質も人間の性根もかなり違うんだろうと思うが。

そんなこんなで、震災一週間後、風呂も入らず埃まみれのスキーウェアを着て、ガソリン入れたばかりの原チャリにのって、友人の葬式のために難波に出てきたときのことも忘れらない。

街は何事もなかったかのようににぎわっていた。ボディコン着たねえちゃん(旧いけど当時はまだいた)が香水の匂いを振りまきながらハイヒールで颯爽と歩いている。要するに、完全に他人事だったのだ(これを責めることはできない。世界各地の災害を、当事者として感じているわけじゃない私には…)。

神戸から焼け出された不潔な私たち仲間は、何か場ちがいな所にきてしまったような気がして、そそくさと葬式会場に向かったのだった。

当時神戸にいた子供たちに、震災の体験は何を残したのだろう。このことは、聴いてみたい気がする。何か、これからの時代のヒントになるようなことが、あの体験にはあるんじゃないかと思うのだが…

最後に、震災を経験した大学の後輩の言葉。


>あの体験で得たものは…
>「人は人の役にたちたい」「どんな状況にも、ちょっとした希望、思わず笑ってしまうような瞬間はある。そういうのが結局は人を支える」
>腹の底からそう実感できたことかも。

>人はどんどん忘れるけど、これからも、その気持ちは忘れないでいたいと思う。



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