友人たちと運営している農業ブログより。
農業は自然の摂理の下で行われている人間の生業。どんなに人間にとって都合の良いシステムを考え出しても、それが自然の摂理に反していれば「持続可能」な農業にはなり得ません。そう考えると、農業政策や農法の行き着く先は「自然の摂理と人間の営みの合致」と言っても過言ではないでしょう。では、その自然の摂理とはどのようなものか?
とある。
今回は自然の摂理に合致した農業を模索する第一歩として、「自然の摂理の本質とは何か?」その中での「生命とはどういう存在なのか?」を追求してみたい。
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まずは大前提から。
宇宙の全ては、熱力学の第一法則・第二法則に従っている。
この、wikipediaのページだけ見ると、文字式などがやたら出てきて難しすぎて思考停止してしまうと思うので、以下のページをまずは参照のこと。分かりやすく解説してくれている。
ワシモ(WaShimo)のホームページより
『エントロピー増大の法則 -エントロピーの話し-』第1回~第5回
熱力学の第一法則(エネルギー保存の法則)宇宙における物質とエネルギーの総和は一定で、物質が変化するのは形態だけで、エネルギーは決して創成したり、消滅したりすることはない。熱力学の第二法則(エントロピーの法則)
物質とエネルギーは使用可能なものから使用不可能なものへ、秩序化されたものから無秩序化されたものに変化し、決して逆戻りさせられない。つまり、宇宙の全ては体系と価値から始まり、絶えず混沌と荒廃に向かう。つまり、エネルギーは形を変えてもその総量は変わらないが、元の形に戻すことは決してできず、必ず使用不可能なものの方向に変化するということ。
この法則に全宇宙が従っているとして、だが“生命”だけはあたかもその例外のように見える。ここが重要である。
生物を構成している有機高分子化合物を、物質だけ取り出して常温(概ね“水”が液体で存在する範囲内)でそのままにしておいたら、すぐにその温度において原子同士が一番安定的な結合様式になる方向に向かってバラバラになり拡散していく。
しかしその同じ有機高分子化合物で構成され、その分子同士が関係を構築して統合されて存在している“生命”は、エントロピーの増大とは逆方向の秩序化を行ったり、エントロピーの増大の方向に逆らって秩序を長期に渉って保ち続けたり…。そういうあり得ない事を行って存在している(ように見える)。
いったいどういう事なのだろうか。
その謎をめぐって多くの物理学者や化学者、生物学者が長い間頭を悩ませてきた(と、『「地球生態学」で暮らそう』にはそう書いてある)。
↓啓林館 化学Ⅱ 第1節 化学反応と酵素の反応 より
この図で見ると、S+Eという化学的ポテンシャルの高い状態から、P+Eの化学的ポテンシャルのより低い状態へと、通常物質は必然的に分解されていく。逆の反応を行うには、外部から別のエネルギーを投入しなくてはならない。
これをダムとダムに貯まった水に例えると分かりやすい。
左に貯まっている水は、物理的なポテンシャルが高い。右の低いところに流れる時、その落ちるときのエネルギーを用いてタービンをまわしたりして発電することができる。
しかし、「覆水盆に返らず」で、一度下に流れ落ちてしまった水には、もうタービンをまわすエネルギーは残っていない。もう一度タービンをまわそうと思ったら、落ちた水をかき集めて、ダムの上流(左の高ポテンシャル)に運び上げる、という「仕事」が必要になり、それにはタービンをまわすことなど比較にならない程の膨大なエネルギーを投入しなくてはならない。
我々が日常的に見かけるおなじみの生物は、ブドウ糖という高分子化合物を、酵素を使って酸素と化合させ、二酸化炭素と水を生成して、その際に出てくるエネルギーを、ATPという別の分子に貯めて使っている。
詳しくは啓林館 化学Ⅱ 第2節 物質の分解と合成
の「◆消化と吸収,代謝」以降を参照
そして、ATP→ADPに分解する際に出てくるエネルギーを使って、生命の身体を形作るタンパク質や脂質、DNAなどの高分子化合物を作っている。
放っておけば分解して拡散していってしまう有機高分子を、その有機高分子同士の複雑な関係性を保ちながら、無数の化学反応を繰り返すことによって自然分解を上回るスピードで壊し、再構成する、ということを絶えずエネルギーを使ってやり続けているのが生命なのである。
その意味で、福岡伸一氏の著書のこれらの表現が参考になろう。
~エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度である。
すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動きそこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則という。
「動的平衡状態の維持」は、このエントロピー増大の法則に対抗し、自ら分解して、それを作り変えるという、自転車操業の継続によって成り立っている。エントロピー増大の法則に少しだけ先んじるこの方法は、秩序を絶え間なく維持するための唯一の手段として編み出されたものであり、それこそが「生命現象」なのである。
生命は、体のありとあらゆるところで分解と合成を繰り返し、自転車操業で走り続ける。
が、やがてエントロピー増大の法則に追いつかれ、追い越される時が必ず来る。
それが個体の死である。
ただ、そのときには多くの生命がすでにバトンを次の自転車に引き渡している。
その自転車もまた走り続けて、バトンを次に引き渡す。
これが38億年の間、繰り返されてきたことなのだ。(福岡伸一著 『生命と食』より)
ずっと同じように安定してその場に存在しているように見える“生命”は、実は絶え間なく無数の化学反応を繰り返している。そして、分解によって絶えずエネルギーを生み出しながら、一方では貯め込んだエネルギーを使って、自らを構成する原子を入れ替えて行っている。
例えばDNAは、活性酸素や紫外線や分子の熱運動により常に崩壊の危機に晒され続けている。ところが、その綻びを見つける酵素や修復する酵素群が存在しているおかげで、あたかもずっと高分子の鎖として存在しているように見える。
代謝を繰り返して劣化した細胞は、自ら崩壊し(アポトーシス)新たな細胞にその場を譲っていく。
変化し続ける環境に生命が安定的に存在するために、代謝を絶えることなく続けてエネルギーと物質を身体の中に流し続けている。
そして、個体が劣化すれば、個体さえも自ら崩壊させ、その存在を自然界から消し去る。その生命が精一杯生きた痕跡は、子孫に受け継がれていく。
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~個体というのは本質的には利他的なあり方なのである。
生命は自分の個体を存続させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生物が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。
これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移動し、リセットされる。
したがって、「生きている」とは「動的な平衡」によって「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。
換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら共存する方法を採用している。(中略)
個々の細胞の中身はどんどん壊され、新しい分子に置き換えられている。
一見、永続的に見える骨や歯も、その内部では常に新陳代謝が進行し、壊されながら作り替えられているのである。
生命は、こうして、不可避的に身体の内部に蓄積される乱雑さを外部に捨てている。この精妙な仕組みこそが、生命の歴史が38億年かけて組み上げた、時間との共存方法なのである。
(福岡伸一著 『動的平衡』P246~P247より)
これが、私がこれまで出会った表現の中で、最も生命の本質を言い当てているように思われる。
さて、そのような生命の活動を支えている、元の高ポテンシャルの有機化合物(ダムに貯まった水)の代表選手が、糖(ブドウ糖が複数つながった高分子化合物)である。
これが無ければ、従属栄養生物は、一瞬たりとも生きていくことができない。
その分子を、太陽のエネルギーを使って創り出せる唯一の存在が、葉緑体を持つ植物をはじめとする独立栄養生物である。
ダムと水の例えで言うと、
>落ちた水をかき集めて、ダムの上流に運び上げる、という膨大な「仕事」
を、太陽の光というエネルギーを利用して行っているのが植物(独立栄養生物)なのである。
詳しくは、啓林館 化学Ⅱ 第2節 物質の分解と合成より
の「◆光合成」を参照
農業とは、この植物の機能をお借りして、我々の栄養源を作っていただく営みであるとも言えるだろう。
そして、植物が作り出した糖やタンパク質を利用して生きている従属栄養生物は、いずれ死んで微生物に分解され、めぐりめぐって植物の栄養源となる。
我々は、「環境」とか「循環」という言葉を漠然と使っているが、その本質は、このエネルギーと物質の流れにある。
人間は、常温では過剰に安定的で分解されにくい物質、あるいは自然界ではありえないような原子の組み合わせを持った分子を、石油化学の技術を使ったエネルギーを用いて強引に大量に創り出してきた。
この人工物質が、エネルギーと原子の本来の流れを部分的に止め(他の微生物などが利用できない状態にし)壊し、環境に蓄積していっている。この行為を続けると、当然ながら、生命圏、生態系全体のエネルギーと原子の循環に支障を来すことになる。現にそうなっているのが、現在の状況である。
これからの時代、人類がまだ生きて地球に存在し続けたいのであれば、これら生物群が織りなすエネルギーと原子の循環の中に、支障のない形で在るためにはどうすればいいか、を考えなくてはならい。
市場における効率性や目先の利益を優先するあまり、この視点を捨象すれば、いずれ生態系に存在し続ける事ができなるのは自明である。
農業を考える上で、この生態系における原理に則ることが全ての大前提になるだろう。
↑ ついったー