にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

生命とはどういう存在なのか

2014年01月16日 | 雅無乱日記

友人たちと運営している農業ブログより。

【共認社会の新しい農法とは?】(1)プロローグでは、

農業は自然の摂理の下で行われている人間の生業。どんなに人間にとって都合の良いシステムを考え出しても、それが自然の摂理に反していれば「持続可能」な農業にはなり得ません。そう考えると、農業政策や農法の行き着く先は「自然の摂理と人間の営みの合致」と言っても過言ではないでしょう。では、その自然の摂理とはどのようなものか?

とある。

 

今回は自然の摂理に合致した農業を模索する第一歩として、「自然の摂理の本質とは何か?」その中での「生命とはどういう存在なのか?」を追求してみたい。

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まずは大前提から。

宇宙の全ては、熱力学の第一法則・第二法則に従っている。

この、wikipediaのページだけ見ると、文字式などがやたら出てきて難しすぎて思考停止してしまうと思うので、以下のページをまずは参照のこと。分かりやすく解説してくれている。

ワシモ(WaShimo)のホームページより
『エントロピー増大の法則  -エントロピーの話し-』第1回~第5回

熱力学の第一法則(エネルギー保存の法則)
宇宙における物質とエネルギーの総和は一定で、物質が変化するのは形態だけで、エネルギーは決して創成したり、消滅したりすることはない。

熱力学の第二法則(エントロピーの法則)

物質とエネルギーは使用可能なものから使用不可能なものへ、秩序化されたものから無秩序化されたものに変化し、決して逆戻りさせられない。つまり、宇宙の全ては体系と価値から始まり、絶えず混沌と荒廃に向かう。

つまり、エネルギーは形を変えてもその総量は変わらないが、元の形に戻すことは決してできず、必ず使用不可能なものの方向に変化するということ。

 

エントロピーとは何か?(東京文化倶楽講演記録9/2/7)より

この法則に全宇宙が従っているとして、だが“生命”だけはあたかもその例外のように見える。ここが重要である。

生物を構成している有機高分子化合物を、物質だけ取り出して常温(概ね“水”が液体で存在する範囲内)でそのままにしておいたら、すぐにその温度において原子同士が一番安定的な結合様式になる方向に向かってバラバラになり拡散していく。

しかしその同じ有機高分子化合物で構成され、その分子同士が関係を構築して統合されて存在している“生命”は、エントロピーの増大とは逆方向の秩序化を行ったり、エントロピーの増大の方向に逆らって秩序を長期に渉って保ち続けたり…。そういうあり得ない事を行って存在している(ように見える)。

いったいどういう事なのだろうか。

その謎をめぐって多くの物理学者や化学者、生物学者が長い間頭を悩ませてきた(と、『「地球生態学」で暮らそう』にはそう書いてある)。

啓林館 化学Ⅱ 第1節 化学反応と酵素の反応 より
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この図で見ると、S+Eという化学的ポテンシャルの高い状態から、P+Eの化学的ポテンシャルのより低い状態へと、通常物質は必然的に分解されていく。逆の反応を行うには、外部から別のエネルギーを投入しなくてはならない。

これをダムとダムに貯まった水に例えると分かりやすい。

左に貯まっている水は、物理的なポテンシャルが高い。右の低いところに流れる時、その落ちるときのエネルギーを用いてタービンをまわしたりして発電することができる。

しかし、「覆水盆に返らず」で、一度下に流れ落ちてしまった水には、もうタービンをまわすエネルギーは残っていない。もう一度タービンをまわそうと思ったら、落ちた水をかき集めて、ダムの上流(左の高ポテンシャル)に運び上げる、という「仕事」が必要になり、それにはタービンをまわすことなど比較にならない程の膨大なエネルギーを投入しなくてはならない。

我々が日常的に見かけるおなじみの生物は、ブドウ糖という高分子化合物を、酵素を使って酸素と化合させ、二酸化炭素を生成して、その際に出てくるエネルギーを、ATPという別の分子に貯めて使っている。

詳しくは啓林館 化学Ⅱ 第2節 物質の分解と合成
「◆消化と吸収,代謝」以降を参照

そして、ATP→ADPに分解する際に出てくるエネルギーを使って、生命の身体を形作るタンパク質や脂質、DNAなどの高分子化合物を作っている。

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放っておけば分解して拡散していってしまう有機高分子を、その有機高分子同士の複雑な関係性を保ちながら、無数の化学反応を繰り返すことによって自然分解を上回るスピードで壊し、再構成する、ということを絶えずエネルギーを使ってやり続けているのが生命なのである。

その意味で、福岡伸一氏の著書のこれらの表現が参考になろう。

~エントロピーとは乱雑さ(ランダムさ)を表す尺度である。

 

すべての物理学的プロセスは、物質の拡散が均一なランダム状態に達するように、エントロピー最大の方向へ動きそこに達して終わる。これをエントロピー増大の法則という。

「動的平衡状態の維持」は、このエントロピー増大の法則に対抗し、自ら分解して、それを作り変えるという、自転車操業の継続によって成り立っている。

エントロピー増大の法則に少しだけ先んじるこの方法は、秩序を絶え間なく維持するための唯一の手段として編み出されたものであり、それこそが「生命現象」なのである。

生命は、体のありとあらゆるところで分解と合成を繰り返し、自転車操業で走り続ける。

が、やがてエントロピー増大の法則に追いつかれ、追い越される時が必ず来る。

それが個体の死である。

ただ、そのときには多くの生命がすでにバトンを次の自転車に引き渡している。

その自転車もまた走り続けて、バトンを次に引き渡す。

これが38億年の間、繰り返されてきたことなのだ。

(福岡伸一著 『生命と食』より)

 

ずっと同じように安定してその場に存在しているように見える“生命”は、実は絶え間なく無数の化学反応を繰り返している。そして、分解によって絶えずエネルギーを生み出しながら、一方では貯め込んだエネルギーを使って、自らを構成する原子を入れ替えて行っている。

例えばDNAは、活性酸素や紫外線や分子の熱運動により常に崩壊の危機に晒され続けている。ところが、その綻びを見つける酵素や修復する酵素群が存在しているおかげで、あたかもずっと高分子の鎖として存在しているように見える。

代謝を繰り返して劣化した細胞は、自ら崩壊し(アポトーシス)新たな細胞にその場を譲っていく。

変化し続ける環境に生命が安定的に存在するために、代謝を絶えることなく続けてエネルギーと物質を身体の中に流し続けている。

そして、個体が劣化すれば、個体さえも自ら崩壊させ、その存在を自然界から消し去る。その生命が精一杯生きた痕跡は、子孫に受け継がれていく。

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 ~個体というのは本質的には利他的なあり方なのである。

生命は自分の個体を存続させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生物が必ず死ぬというのは、実に利他的なシステムなのである。

これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移動し、リセットされる。

したがって、「生きている」とは「動的な平衡」によって「エントロピー増大の法則」と折り合いをつけているということである。

換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら共存する方法を採用している。(中略)

個々の細胞の中身はどんどん壊され、新しい分子に置き換えられている。

一見、永続的に見える骨や歯も、その内部では常に新陳代謝が進行し、壊されながら作り替えられているのである。

生命は、こうして、不可避的に身体の内部に蓄積される乱雑さを外部に捨てている。この精妙な仕組みこそが、生命の歴史が38億年かけて組み上げた、時間との共存方法なのである。

(福岡伸一著 『動的平衡』P246~P247より)

 

これが、私がこれまで出会った表現の中で、最も生命の本質を言い当てているように思われる。


さて、そのような生命の活動を支えている、元の高ポテンシャルの有機化合物(ダムに貯まった水)の代表選手が、糖(ブドウ糖が複数つながった高分子化合物)である。

これが無ければ、従属栄養生物は、一瞬たりとも生きていくことができない。

その分子を、太陽のエネルギーを使って創り出せる唯一の存在が、葉緑体を持つ植物をはじめとする独立栄養生物である。

ダムと水の例えで言うと、

>落ちた水をかき集めて、ダムの上流に運び上げる、という膨大な「仕事」

を、太陽の光というエネルギーを利用して行っているのが植物(独立栄養生物)なのである。

詳しくは、啓林館 化学Ⅱ 第2節 物質の分解と合成より
 の「◆光合成」を参照

農業とは、この植物の機能をお借りして、我々の栄養源を作っていただく営みであるとも言えるだろう。

そして、植物が作り出した糖やタンパク質を利用して生きている従属栄養生物は、いずれ死んで微生物に分解され、めぐりめぐって植物の栄養源となる。

我々は、「環境」とか「循環」という言葉を漠然と使っているが、その本質は、このエネルギーと物質の流れにある。

人間は、常温では過剰に安定的で分解されにくい物質、あるいは自然界ではありえないような原子の組み合わせを持った分子を、石油化学の技術を使ったエネルギーを用いて強引に大量に創り出してきた。

この人工物質が、エネルギーと原子の本来の流れを部分的に止め(他の微生物などが利用できない状態にし)壊し、環境に蓄積していっている。この行為を続けると、当然ながら、生命圏、生態系全体のエネルギーと原子の循環に支障を来すことになる。現にそうなっているのが、現在の状況である。

これからの時代、人類がまだ生きて地球に存在し続けたいのであれば、これら生物群が織りなすエネルギーと原子の循環の中に、支障のない形で在るためにはどうすればいいか、を考えなくてはならい。

市場における効率性や目先の利益を優先するあまり、この視点を捨象すれば、いずれ生態系に存在し続ける事ができなるのは自明である。

農業を考える上で、この生態系における原理に則ることが全ての大前提になるだろう。

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なぜ日本語で「人間」は“人”の“間”と書くのか

2014年01月05日 | 雅無乱日記

木村敏 著 『自分ということ』より、気に入った表現があったので引用する。

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そこで、私がきょうお話ししたいと思っておりますのは、この「ま」とか「あいだ」とかいうことが、一人ひとりの、人間においてどのように生きられているのか、「個人」ということと「あいだ」ということとの関係はどうなっているのか、といった問題になるかと思います。

日本語の「人間」という言葉がすでに「間」という字を含んでおります。これは和哲郎先生も言っておられるように、日本人特有のひじょうにユニークな表現だろうと思うのですね。一人の人間を考える場合に、そこに「間」という字を入れて、「ま」とか「あいだ」とかいう意味をこめて個人をとらえた、そして「人間」という言葉で表した、そこに日本古来の人間観がみごとに示されていると思うのです。

そういうように「人間」としてとらえられた一人ひとりの個人において――あるいはそれぞれの自己において、といってもいいのかもしれませんが――この「あいだ」とか「ま」とかいうことが現実にどのように生きられているのか、どのように体験されているのか、そういう点がきょうの私のお話の中心になるだろうと思います。

…(中略)…

私たちはよく「自分」という言葉をなにげなく使いますが、もともと「自分」というような「もの」、「もの」としての「自分」、などというものは存在しないのですね。もちろん私の体は、あるいは私の脳は一個のものとして存在しますけれども、体や脳が「自分」の存在にとっていかに不可欠であっても、それがそのまま「自分」だとは考えられません。自分というのは、むしろ体を使い、脳を使ってものを考えたり、感じたりしているはたらきのことです。

私たちはふつう、「自分がある」とか、「自分はだれそれである」とか、「自分を見つめる」とかいうように、「自分」という言葉を主語や目的語において、いかにもそういう自分という「もの」が存在するかのように用いていますけれども、じつは自分などという「もの」は存在しない。自分というのは、私がこうやってしゃべっているということ、ある花を見て美しいと思っていること、音楽を聴いてすばらしい音楽だと思っているということ、こういったさまざまな「こと」が自分ということなのであって、それ以外に自分というものはないのです。

だから、外の世界との、「もの」との関係で、私と「もの」とのあいだに成立する「こと」あるいは意味が失われて離人症に陥っている人にとっては、自分自身がないというのは比喩でもなんでもなくて、ほんとうのことなのですね。離人症の状態で自分がなくなるのは、あるいは自分があるということがわからなくなるのは、いわば当然のことであって、外の世界とのあいだに「こと」や意味がなくなったということを「自分」という言葉に置きかえてそういっているだけなのです。

ところが、みなさんはいまもうすでにお気づきになっていらっしゃると思うのですけれども、「自分」ということにはもう一つ別の意味がある。私がいま言ったのは瞬間瞬間にものを見ているときの自分、花が美しい、音楽がすばらしいということ、その「こと」そのものであるような自分のことでしたけれども、「自分」という言葉で考えられているのはそれだけではない。

たとえば、きのうの私とうの、いまの私とは同じ私ですね。あるいは十年前の私といまの私もいっしょの私だし、もっと小さい子どものときの私とも同じ私ですね。そういう私の連続性あるいは同一性のような性質、これを抜きにしては、やはり本当に自分ということは考えられないのではないかといます。

しかし連続性とか同一性とかいっても、たとえば子どものときの私といまの私が同じ私だといっても、それは「もの」としていっしょだということではない。「もの」として考えれば私たちの身体というものは刻々変化しているわけですね。けっして同一ではない。きのうの私ときょうの私でも、ものとしてはして同一ではない。

さらに、私とか自分ということを問題にするときには体のことよりも心の中いることが多いわけですが、私の心の内容などというものは、そのときそのときまったく違っているです。きのう考えていたことと、きょう考えていることと、もちろんだいたいは同じ趣旨のことを考えてはいるでしょうけれども、厳密にいうとすっかり違っている。だのにそれがどうして同じといえるのか。

これは「もの」としてはけっして同一とはいえないのです。「こと」としては同じだとしかいいようがない。瞬間瞬間の「私」があって、それはそれぞれ違った内容をもっているかもしれないけれども、そういった「私」と「私」とのあいだ、無数の「私」のそれぞれのあいだがずうっとつながっている、一貫性をもっている。さきほどテレビドラマの各場面と全体としての筋ということで申しましたのと同じようなぐあい、そういう意味の連続のことを自分という言葉で考えているのです。

ちかごろ、アイデンティティ、つまり自己同一性という言葉がよくはやります。このアイデンティティ、あるいは主体性という言葉にしても同じことですが、これを、もののレベルで考えるとたいへんなまちがいをおかしてしまいます。いつも同じことを考えていて、論理の飛躍や脱線をしない人、自分の信念を固く守っている人、そういう人がアイデンティティや主体性をもった人だということではないのです。

ほんとうに「こと」のレベルでのアイデンティテをもっている人だったら、考えている内容は周囲の情勢に応じてどんどん変化していけるのです。一見矛盾したことを言っているようでいながら、周囲とのつながりはけっして失わない、しかも、そのときの考えの背後にある意味の連続性は保たれている。そういうのをアイデンティティ、あるいは主体性というのだろうと思います。だから、自分の同一性というのは「もの」としての自分の同一性ではない。むしろ、自分と自分とがたえず入れかわっていても、その「あいだ」そのものがつながっているということなのです。

だから「あいだ」というのは、たんに空間的に「私とものとのあいだ」だけに考えられるのではない。もう一つ、時間的、歴史的な「あいだ」ということがあり、そのつどの自分と自分のあいだ、前の自分とのあいだ、いまの自分と次の自分とのあいだ、私の人生というのは要するにそういった無数の時間的なあいだ、内面的なあいだの歴史のことなのです。


(木村敏『自分ということ』より)

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なるほど、その通りである。

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ハクジンによる徹底した収奪の歴史。現在も続く「プランテーションモデル」

2014年01月03日 | 雅無乱日記

世銀(IMFやIDAも含む)は世界から貧困を無くすためではなく、全く逆に第三世界を破壊してそこに住む人々から(さらには先進国の国民から)、多国籍企業が収奪し尽くすためのインフラ整備を担っている機関である。

http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/1596edf364314c808d433bbb596c39e0 

でこう断言したが、今回はこのことについてもう少しつっこんでみたい。

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まずはこのマンガを読んでみてほしい。

  
トランスコミック 第1部『セカイノカラクリ』

これは、柄谷行人氏の大著「トランスクリティーク」をベースにしながら、そのエッセンスを数ページに凝縮した信太正閏氏の作品である。

これを、とあるSNSで紹介したらえらく批判されたことがあった。

「こんなのは一昔前の世界の捉え方で、もう古い」「金儲けが悪いことみたいな価値観は、思春期の中学生レベルだ」「こんな偏った価値観を誘導するような作品を紹介しないでほしい」

私以外に2人とネット上で延々と議論を繰り広げたが、結局不毛に終わった。以来、ネット上ではなるべく「議論」はしないことにしている。

このマンガにある世界の捉え方は「古い」か?

決してそんなことはないだろう(第2部に関しては、正直言って「そんな事(フェアトレード)くらいでこの問題は解決しないだろう…」という感想を持ったが、そのへんは実際にマンガ読んで読者が夫々で判断してほしい)。

前回のエントリーを紹介してくださった、ブログ:“飯大蔵の言いたい事”にはこんなふうに書いてある(ありがとうございます)。

ここで行われている事は、基本としては昔の植民地政策と似ているのだが、現代は別の衣装をまとっている。

植民地では総督が置かれ、軍事的、政治的に現地人を支配した。第2次大戦後民族自立の原則により、各国は独立をした。しかし、そこに新たな手法の支配の手が伸びた。それを新植民地政策といおう。


欧米(特にアメリカ)による途上国からの搾取構造の原型は、帝国主義時代のプランテーションにある。かなり単純化してプロセスを見てみよう。

①宣教師を送り込み、未開地域の伝統や価値観、ひいては共同体そのものを洗脳によって破壊する。

②抵抗する基盤となる集団(組織)がガタガタになったところへ、当時の先端兵器を携帯した軍隊と、商人を送り込む。

③先住民を居住地から追い出し、土地の所有を宣言(先住民には「土地を私有する」という概念そのものが無いためひとたまりもない)。

④生産手段を奪われた先住民は、皆殺しにされるまで抵抗するか、服従し奴隷になるかの2つのみ選択肢を与えられる。

⑤先住民奴隷(あるいはアフリカから強制的に連れてきた奴隷)を使って商品になる単一作物を作らせる(あるいは天然資源を開発させる)。強制労働によって作られる作物は、天然ゴム、タバコ、コーヒー、パーム油、サトウキビ、大麻、茶葉、綿花など、趣向品が多く、もっぱら食糧にならない。無料同然の労働力で作られた生産物(換金作物・工業製品、採掘資源など)を本国に持ち帰って高く売る。

⑥工業製品、食糧などは、宗主国で過剰生産になったものを植民地に輸出する。

⑥奴隷は、決して団結させないように管理されたが(伝統的な祭や芸能まで禁止し、ひどい場合は言語も絶やされる)、あまりの不当な収奪と強制により叛乱が多発。初期は、軍隊によって鎮圧していたが、徐々に鎮圧しきれなくなってくる。

⑦植民地総督は同じ肌の色をした地元の有力者を傀儡を立てたり、奴隷にもそれなりの報酬を支給するなどして、彼らに「支配されている」「強制されている」という感覚をなるべく抱かせないような体制に徐々に移行していった(当然、教育による洗脳を施しながら)。


非常に単純化したが、概ねこのようなプロセスを経て植民地は維持されていた。

※この具体事例としてぜひこのページを読んでほしい(もっともこれは信じがたいことに1世紀前の話ではなくごく最近の話なのだが…)。
 残酷な ”ハクジンの作り方”、
 猫ならぬ新生児を壁にぶつけて殺す国、先住民の告白

  http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/428.html
投稿者 東京音頭 日時 2006 年 9 月 30 日 22:31:29:lg2/OnhcbNSWg

 先日、アボリジニー女性と長く話をする機会があった。
彼女は推定40歳弱のアボリジニー女性。明日、生まれて以来一度もあったことのない姉に会うのに、とても緊張している、と言う。
私は、家庭の事情か、とちょっと思ったけれど(馬鹿な私)、よく聞いてみると、まだ一度もあっていない弟もいて、母親とは、3年ほど前、生まれて初めて会えた。という。
ベルギーに住んでいる弟もいるのよ。と写真を見せてくれた。

 ヨーロッパ政府の先住民政策のことを少しでも知っている人ならすぐにわかると思うが、そう、これは、イギリス政府 (後にはオーストラリア政府)の先住民同化政策のひとつで、アボリジニー女性から生まれた赤ちゃんを出産後 母乳をやるのも許さず、すぐ取り上げ、ハクジン夫婦のもとで育てさせる。というもの。こうすることにより、アボリジニーのこども達は、親から文化を継承せず、イギリス人化する…と考えたのだ。

 私は知識としては知っていたけれど、まさか、こんな若い人がまだ、その政策の当事者として存在していることが、驚きだった。
私の勉強不足のせい、なのですが、ただ、この事実を豪州政府は公にはしない。
事実をしるためには、アボリジニーから聞いた話をドキュメンタリーにした本やビデオしかないのだ。

 彼女曰く、この政策は、1980年まで続いた。だから今26歳以上のアボリジニ-は、みんな親を知らないで育った。「そんな最近まで!!」私には衝撃だった。
自分のこどもが、政府によって取り上げられ、2度と会えないのだ。親は子供の写真を見ることも、消息を知らされることも この制度が廃止されるまではなかったという。
たとえ、海外に行っても、死亡しても、知らされなかったのだ、と言う。

 これだけでも、悲しいのに、彼女の話は終らない。

 この制度は、ただアボリジニーを先祖から引き離し、イギリス人文化に馴染ませるためだけのものではなく、アボリジニーを抹殺するかわりに、彼らの肌を白くする政策でもあったのだ。
アボリジニーをひきとる親のほとんどは、女児を好む。
女児なら大きくなれば強姦し放題だからだ。そして妊娠させる。そしてその赤ちゃんの肌は母親より少し白くなる。だから、政府はそれをよしとしたのだ。
強姦したいハクジンの父親は、早ければ8歳くらいには、強姦すると言う。
彼女の周りでも、たくさんのアボリジニー女性がまだ幼い頃に強姦され、12、13歳で妊娠した人がいっぱいいたはずだ、と言う。もちろん 強姦された挙句生んだ赤ちゃんは、すぐ政府によって取り上げられるのだ。そしてその子も女児なら、運が良くなければ、強姦される運命だ。

 男児はどうなるのか。地方や役人によっては、男児は、何の役にも立たないので、(アボリジニー女性は、ハクジン男性の性の遊びの役に立つが、アボリジニー男性がハクジン女性とセックスするのは、許されないし、アボリジニー女性と性交渉をすると、二人の赤ちゃんの肌の色は白くならない)不必要として、生まれた直後 近くの壁にたたきつけて殺したのだ と言う。
私には、言葉も出なかった。(後略:続きはリンクを参照のこと)


さてこれと似たようなことを、列強諸国は植民地で行なってきた。しかし大手を振って堂々と有色人種たちを痛めつけ収奪することができたのは第二次世界大戦くらいまでで、その後は国際世論としても表向きは「人種差別」や「奴隷酷使」は否定され、「民族自決」が叫ばれ、「人権」が重視されるようになる(あくまで「表向き」だけの話だが)。そうなってからは、さすがにあからさまな搾取と強制はできなくなった(実は、「人権」「民族自決」などの欺瞞概念を使ってプロパガンダをしたのは、植民地争奪戦で欧州に出遅れた後進国のアメリカなどの諸国であった。もちろん真の目的は、先住民を形だけ独立させて自分達の支配の枠の中に押し込めることだったのだが…)。

そこで、支配と搾取の意志をオブラートにくるんで、次のような手法が採られるようになった。

①「開発援助」と称して世銀が途上国に融資する。そのカラクリは「アメリカが世界から収奪する仕掛けはこうして構築された」に書いたが、この融資は、ありとあらゆる手段を使って途上国に強制的にでも承諾させる。

融資の目的は、「途上国を豊かにするため」とか「インフラ整備のため」などと正当化されているが、実際のところは、安い労働力を求めて生産工場をつくりたい多国籍企業や、宝石・貴金属・原油などの資源開発を目的とするグローバル企業が途上国へ進出する足がかりと基盤をつくることである。

②安い労働力の供給基盤を形成する。土地を買い占めたり、本国の食糧や商品を流通させることにより、自給自足的な地域共同体を壊し、カネが無くては生きていけない状況に人々を追いやる。

③土地を追い出され、カネが無くては生きていけなくなった地元民を低賃金で雇って、本国で売れる単一作物を作らせる(あるいは、天然資源を開発させる。低賃金で工場労働者として酷使する)。作らせる作物は、天然ゴム、タバコ、コーヒー、パーム油、サトウキビ、茶葉、綿花など、趣向品が多く、もっぱら食糧にならないものが多い。換金作物や資源や工業生産品は不当な安値で買いたたかれ、本国に持ち帰って高い値で売りさばかれる。

④逆に、生活必需品などは、グローバル企業が安価に大量生産したものを提供する(途上国の人々は、金を出してそれを買うしかない)。食糧についても、本国の余剰生産物を売りつけることによって、途上国の農業生産基盤を根底から破壊する。近年では、水さえもグローバル企業から買わなくてはならなくなった…。よく善人面して行なわる「食糧援助」というものも、実は地元の農業の生産基盤を破壊するのに一役買っている。

④学校、教育機関などを整備して、「自由」「個人主義」などの思想を洗脳し、地域共同体の破壊をさらに決定的にする。グローバルスタンダードの社会的ルール(「法律・時間・規則などは守るべき」など)を叩き込み、従順な労働者としての従順なメンタリティー(奴隷根性)を植えつけ、労働市場の基盤整備をする(共同体を基盤として生きていた人間は、市場ルールにうまく適応できないため、先進国の人々は「労働意欲もなく時間も規則も守らない、人のものと自分のものの区別もつかない下等な未開人」とレッテルを貼って強制することを正当化している。DNAの発見者は、「アフリカの黒人は遺伝的に劣っている」と発言して物議を醸し出したが…)。

⑤道路・流通網、ダムなどのインフラを整備する。当然、土木事業は多国籍企業のゼネコン等が受注し、地元の低賃金労働者をこき遣う。途上国の政府が借りた金は、まるごとこれらグローバル企業に転がり込む。これらのインフラ整備は、実はグローバル企業がより参入し儲けやすい基盤を整備し、「市場化」を加速するのが真の目的である。



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※画像はアボリジニの少女↓より
 http://worldnet.kbs.co.kr/bbs/ezboard.cgi?db=w_australia_travel_7&action=read&dbf=61&page=3&depth=2