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教えられすぎる弊害

2013年07月12日 | 雅無乱日記

今日は、学校教育に関して、共感できる文章に出会ったので紹介したい。

確かに、グライダーばかりの世の中に、自分で考える「飛行機」は邪魔になるのかもしれない…

むしろ、学校教育は、「近代市場」のために、「考えない消費者」と「考えない労働者」をあえて創出してきたのではないか? と思うのは私だけだろうか… 

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 学校がグライダー訓練所のようになってしまうのも、考えてみれば、やむを得ないことかもしれない。小学校へ入るこどもは、まだ、勉強がよくわかっていない。ものを知りたい気持ちはあるけれども、どうしたら知識が得られるか、見当もつかない。とにかく先生に言われるように勉強しなさい、となる。ひっぱるものがあるから、動き出す。自分で動くのではない。受身だ。本来の学習がそうであってはいけないのはわかり切っているけれども、制度としての学校ができてしまうと、各人の自発的な学習意欲を待っているわけには行かない。就学年齢が決まっている。そのときいっせいに学習への準備ができているはずはないけれども、ひっぱるのにはいっせいでないと不便だ。ひっぱられる方は、なぜ、ひっぱられているのかよくわからないままひっぱられる。このはじめの習慣は学校にいる間中ずっとついてまわる。強化されこそすれ弱まることはない。そればかりか、社会へ出てからも勉強とは、教える人がいて、読む本があるもの、と思い込んでいる。学校の最優等生が、かならずしも社会で成功するとは限らないのもグライダー能力にすぐれていても本当の飛翔ができるのではない証拠になる。学校はどうしても教師の言うことをよくきくグライダーに好意をもつ。勝手な方を向いたり、ひっぱられても動こうとしないのは欠陥ありときめつける。

 

 教育は学校で始まったのではない。いわゆる学校のない時代でも教育は行われていた。ただ、グライダー教育ではいけないのは早く気がついていたらしい。教育を受けようとする側の心構えもちが違った。なんとしても学問をしたいという積極性がなくては話にならない。

 

 意欲のないものまでも教えるほど世の中が教育に関心をもっていなかったからである。そういう熱心な学習者を迎えた教育機関、昔の塾や道場はどうしたか。入門しても、すぐ教えるようなことはしない。むしろ教えるのを拒む。なぜ教えてくれないのか、当然、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。そのことをかつての教育者は心得ていた。あえて教え惜しみをする。じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。秘術は秘す。いくら愛弟子にでもかくそうとする。弟子の方では教えてもらうことをあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗みとろうと考える。ここが昔の教育のねらいである。師匠の教えようとしないものを奪いとろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。いつしかグライダーを卒業して、飛行機人間になって免許皆伝を受ける。伝統芸能、学問がつよい因習をもちながら、なお個性を出しうる余地があるのは、こういう伝承の方式の中に秘密があったと考えられる。

 

 それに比べると、いまの学校は、教える側が、積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。学校が熱心になればなるほど、また知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。

 そこでおそまきながら、詰め込み教育への反省がおこる。グライダー訓練の弊害が注意されるようになったのである。詰め込みがいけないのではない。意欲をそぐ詰め込みが悪いのである。

(中略)

 いまのことばの教育は、はじめから、意味をおしつける。疑問をいだく、つまり好奇心をはたらかせる前に教えてしまう。意味だけではない。宮沢賢治はどういう信仰をもっていたかといったことをいまの高校生は教えられる。それが幸福かどうかははなはだ疑わしい。親切がすぎて、アダになっている。

 いまの学校教育ではグライダー能力はつけられても、飛行機能力をつけにくいことはすでにくりかえしのべてきた通りである。それにもかかわらず実際には、グライダーを飛行機と誤解する。試験の答案にいい点をとると、それだけで、飛翔力ありと早合点してしまう。これがいかに多くの混乱を招いているかしれない。文化が複雑になってくると、自由に飛びまわることが難しくなる。学校がどんどんグライダーを社会へ送り出すから、グライダーがあふれる。飛行機はグライダーにとって迷惑な存在である。創造性がやかましく言われ出したのは、わずかながらこれではいけないという反省が生まれつつあるのを物語っているとしてよかろう。

(外山滋比古『思考の整理学』より)

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う~ん…現在の教育の問題点を端的に表現していると思う。

>学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。学校が熱心になればなるほど、また知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。

“「教えてあげた」と自己満足して素直で従順なグライダーを育てる先生と、本当の飛翔力を育ててくれる先生と、どちらに教わりたいですか?”と問われると、迷わず後者を選ぼうものだが、長期的視野がなければ、手取り足取り何でも教えてくれる先生のほうが親切(口を開けて「教えろ」と要求してるだけなので自分は楽)…ということで、教育商品として「考えない消費者」に前者が選ばれてしまう。そして世の中はさらにグライダーだらけ…しかも自分は誰かに依存しないと存在できないのに、エラそうに要求する権利ばかりを振りかざす輩がやたらと増えていく…という皮肉な結果になる。

…など、いろいろと考えさせられる文章であった。

そもそも、人間といえども生き物である。外圧に適応してはじめて存在できる。外圧に適応するには、実際に外圧に晒され適応力を身につけていくしかない。でなければ死ぬだけである。

上げ膳据え膳で、過保護に育てられた人材が、自分の力だけで翔べるわけがないのは道理である。

これほど世の中の変化の激しい時代は、ホンマに己の頭で考えないとやっていけないと思われる(引っ張られて浮いてるだけの奴はすぐに墜落する)。状況を自分で捉え、解釈し、考えることができる人材を育てる教育が、今後、選ばれるようになっていくと思われる(そうなっていくといいな…。いや、そうなっていかないと日本は潰される)。


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