にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

なぜ日本語で「人間」は“人”の“間”と書くのか

2014年01月05日 | 雅無乱日記

木村敏 著 『自分ということ』より、気に入った表現があったので引用する。

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そこで、私がきょうお話ししたいと思っておりますのは、この「ま」とか「あいだ」とかいうことが、一人ひとりの、人間においてどのように生きられているのか、「個人」ということと「あいだ」ということとの関係はどうなっているのか、といった問題になるかと思います。

日本語の「人間」という言葉がすでに「間」という字を含んでおります。これは和哲郎先生も言っておられるように、日本人特有のひじょうにユニークな表現だろうと思うのですね。一人の人間を考える場合に、そこに「間」という字を入れて、「ま」とか「あいだ」とかいう意味をこめて個人をとらえた、そして「人間」という言葉で表した、そこに日本古来の人間観がみごとに示されていると思うのです。

そういうように「人間」としてとらえられた一人ひとりの個人において――あるいはそれぞれの自己において、といってもいいのかもしれませんが――この「あいだ」とか「ま」とかいうことが現実にどのように生きられているのか、どのように体験されているのか、そういう点がきょうの私のお話の中心になるだろうと思います。

…(中略)…

私たちはよく「自分」という言葉をなにげなく使いますが、もともと「自分」というような「もの」、「もの」としての「自分」、などというものは存在しないのですね。もちろん私の体は、あるいは私の脳は一個のものとして存在しますけれども、体や脳が「自分」の存在にとっていかに不可欠であっても、それがそのまま「自分」だとは考えられません。自分というのは、むしろ体を使い、脳を使ってものを考えたり、感じたりしているはたらきのことです。

私たちはふつう、「自分がある」とか、「自分はだれそれである」とか、「自分を見つめる」とかいうように、「自分」という言葉を主語や目的語において、いかにもそういう自分という「もの」が存在するかのように用いていますけれども、じつは自分などという「もの」は存在しない。自分というのは、私がこうやってしゃべっているということ、ある花を見て美しいと思っていること、音楽を聴いてすばらしい音楽だと思っているということ、こういったさまざまな「こと」が自分ということなのであって、それ以外に自分というものはないのです。

だから、外の世界との、「もの」との関係で、私と「もの」とのあいだに成立する「こと」あるいは意味が失われて離人症に陥っている人にとっては、自分自身がないというのは比喩でもなんでもなくて、ほんとうのことなのですね。離人症の状態で自分がなくなるのは、あるいは自分があるということがわからなくなるのは、いわば当然のことであって、外の世界とのあいだに「こと」や意味がなくなったということを「自分」という言葉に置きかえてそういっているだけなのです。

ところが、みなさんはいまもうすでにお気づきになっていらっしゃると思うのですけれども、「自分」ということにはもう一つ別の意味がある。私がいま言ったのは瞬間瞬間にものを見ているときの自分、花が美しい、音楽がすばらしいということ、その「こと」そのものであるような自分のことでしたけれども、「自分」という言葉で考えられているのはそれだけではない。

たとえば、きのうの私とうの、いまの私とは同じ私ですね。あるいは十年前の私といまの私もいっしょの私だし、もっと小さい子どものときの私とも同じ私ですね。そういう私の連続性あるいは同一性のような性質、これを抜きにしては、やはり本当に自分ということは考えられないのではないかといます。

しかし連続性とか同一性とかいっても、たとえば子どものときの私といまの私が同じ私だといっても、それは「もの」としていっしょだということではない。「もの」として考えれば私たちの身体というものは刻々変化しているわけですね。けっして同一ではない。きのうの私ときょうの私でも、ものとしてはして同一ではない。

さらに、私とか自分ということを問題にするときには体のことよりも心の中いることが多いわけですが、私の心の内容などというものは、そのときそのときまったく違っているです。きのう考えていたことと、きょう考えていることと、もちろんだいたいは同じ趣旨のことを考えてはいるでしょうけれども、厳密にいうとすっかり違っている。だのにそれがどうして同じといえるのか。

これは「もの」としてはけっして同一とはいえないのです。「こと」としては同じだとしかいいようがない。瞬間瞬間の「私」があって、それはそれぞれ違った内容をもっているかもしれないけれども、そういった「私」と「私」とのあいだ、無数の「私」のそれぞれのあいだがずうっとつながっている、一貫性をもっている。さきほどテレビドラマの各場面と全体としての筋ということで申しましたのと同じようなぐあい、そういう意味の連続のことを自分という言葉で考えているのです。

ちかごろ、アイデンティティ、つまり自己同一性という言葉がよくはやります。このアイデンティティ、あるいは主体性という言葉にしても同じことですが、これを、もののレベルで考えるとたいへんなまちがいをおかしてしまいます。いつも同じことを考えていて、論理の飛躍や脱線をしない人、自分の信念を固く守っている人、そういう人がアイデンティティや主体性をもった人だということではないのです。

ほんとうに「こと」のレベルでのアイデンティテをもっている人だったら、考えている内容は周囲の情勢に応じてどんどん変化していけるのです。一見矛盾したことを言っているようでいながら、周囲とのつながりはけっして失わない、しかも、そのときの考えの背後にある意味の連続性は保たれている。そういうのをアイデンティティ、あるいは主体性というのだろうと思います。だから、自分の同一性というのは「もの」としての自分の同一性ではない。むしろ、自分と自分とがたえず入れかわっていても、その「あいだ」そのものがつながっているということなのです。

だから「あいだ」というのは、たんに空間的に「私とものとのあいだ」だけに考えられるのではない。もう一つ、時間的、歴史的な「あいだ」ということがあり、そのつどの自分と自分のあいだ、前の自分とのあいだ、いまの自分と次の自分とのあいだ、私の人生というのは要するにそういった無数の時間的なあいだ、内面的なあいだの歴史のことなのです。


(木村敏『自分ということ』より)

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なるほど、その通りである。

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