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米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

本当に「ゆとり教育」が学力低下の原因だったのか?

2010年04月01日 | 雅無乱日記
         ※画像はるいネットさんより

文科省は各方面からの批判を受け、「ゆとり教育」をやめて授業時間を増やし、教科書も分厚くして学習内容も増やすことになった。

これを3月31日の新聞各紙は、「脱ゆとり教育」「ゆとりと訣別」などとトップでデカデカと報じた。

「教科書検定:ページ4割増 進む「脱ゆとり」--09年度」
 http://mainichi.jp/life/edu/news/20100331ddm001100011000c.html


…しかし、単に教科書を分厚くして、勉強する時間を増やすだけで学力が上がるとは到底思えない。

いかにも短絡的な方針転換である。

「ゆとり教育」をやめて詰め込み教育を復活すれば学力が本当に上がるのか?

この問題はもっと根本にさかのぼって考えなくてはならないだろう。

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「学力低下」はもうだいぶ前から騒がれているが、これは本当に「ゆとり教育」が原因なのだろうか?

そもそも当初の「ゆとり教育」の狙いとは、「地域の特色や子供の興味を生かしながら学ぶ教科横断型のテーマ学習として設けられた。自ら課題を見つけて解決する能力を育てること…」とある(産経新聞8月31日朝刊一面)。

これは社会で生きる上で必要な能力であり、各教科ごとにばらばらになっていた知識を1つに統合していくことは思考する上で重要な作業である。これによって持っている知識は有機的に繋がり学力は相乗的に伸びていくはずである。

すなわち、「ゆとり教育」や「総合的な学習時間」が目指した考え方やカリキュラムにはそれほど大きな問題があったわけではない。

むしろ問題は、指導する側が、子供たちの意識や彼らが持っている問題意識・興味関心を汲み取ろうとする姿勢が無く(またはその能力が無く)、結果的に無思考or自己中心的な判断で適当に時間を浪費していたことが今回の結果を生んだのではないだろうか?

こうした問題の総括を棚上げにして、「ゆとり教育」という方針自体へ責任を押し付ければしまいなのだろうか?根本的な解決への道を探らずに、「総合学習の時間」を削減して教科教育の時間を拡大させたところで、その授業を受ける生徒はやる気をもって授業を受けることはできず、結果的にはこれまで以上の学力低下を招くことは明らかであろう。

そもそも、「なんで学力は低下するのか」、その背後にある「子供たちの学習意欲はなぜ無限に下がっていっているのか」という教育問題の根本に踏み込まない限りは何も解決に向かわないのではないかと思われるのだ。


'70年代の貧困の消滅以降、特に最近の子供は、家でも学校でもあまり期待されることがない。

誰かの期待に応えて何かをする経験もほとんどない。

だから当然、何かをやって評価される、つまり課題を達成して「褒められる」こともほとんどない。

「外圧」=「課題」が無い、「評価」も無いのだから、活力がわかないのも当然と言える。

根本の原因は、実はここにあるのではないだろうか。



“いや「勉強」という重要な課題があるではないか”と言われるかもしれないが、「勉強」というのは所詮は個人の課題である。

自分ががんばろうがどうしようが自分一人の問題である。だから、こんな問題も起こるhttp://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/57db878796ead9633afed86aa958b82f

残念ながら「勉強」という課題にはそういう意味で限界がある。しかし「仕事」となると、多様な外圧=課題もあるし、達成すればみんなからの評価がある。ここに軸足を置けば、子供たちの活力を再生できる可能性があるのではないだろうか?

その意味で、こっちの新方針は評価できる。

「農山漁村で宿泊体験活動を=小学生対象、モデル地域設け-農水など3省」
(2007年8月31日(金)13:03 時事)
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/life/jiji-31X501.html?C=S

 総務、文部科学、農水の3省は31日、小学生が農山漁村に長期宿泊し体験活動に取り組めるよう、2008年度から子ども農山漁村交流プロジェクトを始めると発表した。自然の中での活動を通じた教育面での効果と農山漁村の活性化が事業の狙い。

 全国の小学校の1学年規模に相当する120万人が毎年1週間程度の宿泊・体験活動が可能になるよう、5年程度をかけて取り組みを進める。08年度は100人規模の受け入れが可能なモデル地域を全国に40カ所設け、宿泊面や活動の場の提供など受け入れ態勢の整備を進める。受け入れ地域は地方独自の取り組みも含め全国500カ所へと拡大を目指す。

「勉強」はそれだけ切り取ってしまうと狭い閉塞した自分課題に過ぎない。評価も、せいぜい親か先生がしてくれる程度。そんな事くらいでは、貧困という強烈な圧力が無くなってしまった現在の状況では、ほとんど収束力もなく活力にはならない(自分自身が高学歴になるため、ひいては大企業に就職してそれなりの給料を貰うため…。そんな自分のためだけの課題なら「べつにそんなのどうでもいいよ」「そこまでがんばるのはしんどいし。勉強おもんないし。今が楽しければええやん」と思う人が増えていっている。特に中間層から下位層にかけてその傾向はますます強くなり、学力においても二極化が進んでいる)。

そもそも、なんで勉強するのか?

子供たちに期待されているのは、次の時代を担っていくことである。

世の中には、様々な問題がある。環境問題、教育問題、外交問題、格差問題、数え上げたらきりがない。将来、子供たちが主役となってそれらの難問に答えを出していかなくてはならない。その時に必要なのは、より広く世の中を捉えて、みんなと協力して問題を解決していく能力である。子供たちがやっている勉強というのは、その能力の基礎の一端を磨くためにやっている、と捉えることもできる。

自然体験学習教室←実は、仕事で、子供たちに自然外圧や仲間関係や社会を正面から対象化できる能力を育む目的で、こんなことを企画している。子供たちは指導しているこちらが驚くくらい、みんなで「課題」をしっかり共有して、いっしょうけんめい取り組んでくれる。そして成果が出たときには最高の笑顔を見せてくれる。そういう体験で刺激されて活力が出て、勉強の方もがんばってくれているようだ。

「教科書のページを増やす」…そんな短絡的な方針ではなく、これからの時代を生き抜くために子供たちに何が必要なのか、ということをしっかり考え、「みんなに期待されていることをやってみんなに評価される」場を用意する事(そのとっかかりとして、様々な職業体験を教育に取り入れる事)。そしてそのような活動に必然的に「勉強」が必要になるということを子供たちに実感してもらうこと。それこそが第一歩になるのではないだろうか。

子供たちを健全に育むには「社会に期待されていることをして評価される場」が必要なのだ。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2007-09-07 20:34:28
うはは。流しそうめん楽しそう。
こういうのも、自分たちでつくるのは良いですね。

いっそのこと、子供らは全員こういう農村に移住させたらいいかも。野良仕事と勉強、野山で遊んで疲れてぐっすり眠る。

テレビで見たのですが、アメリカでは夏休みはみんな田舎でのキャンプに参加するらしいです。日本からも参加できるらしいけど、数十万円もかかるとのこと。
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思い出す (とにかく)
2010-04-01 17:44:06
「ゆとり教育」で思い出すのが、「三浦朱門、曽野綾子」の夫妻(負債)である。
ウィキペディア「三浦朱門」を参考・・・ジャーナリストの斎藤貴男に、新自由主義的な発想から「ゆとり教育」の本旨は「【100人に2~3人でもいい、必ずいる筈】のエリートを見つけ伸ばすための【選民教育】であることを明言。
他には「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っていてくれればいい」など。
ウィキペディア「曽野綾子」より・・・中学教科書において必修とされていた二次方程式の解の公式を、作家である自分が「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と言った(この後、夫の三浦朱門(後の文化庁長官)が教育課程審議会で削除を主張し、現行中学課程で「二次方程式の解の公式」は必修の事項ではなくなった)。
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Unknown (ジャギ様)
2010-04-20 00:06:54
 概ね賛成!
 しかし、教育の最大の目的は、生きるということは家庭・学校・学問・地域社会・国際社会を問わず、理不尽が付きまとうことを理解させることだ。
 さらに、「オマエたちが大人になる頃には、もっと無茶な大理不尽が襲い掛かってくるから、遊んでばかりいないで頭と心と体を鍛えろ!」と優しく叱咤御鞭撻することだな。
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