にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

北朝鮮が水爆実験?…どうしてこうなったんだ北朝鮮『ドキュメント北朝鮮』~③千里馬運動と独裁の強化

2016年01月06日 | 雅無乱日記

どうしてこうなったんだ北朝鮮 『ドキュメント北朝鮮』より~①金日成 権力掌握まで

どうしてこうなったんだ北朝鮮 『ドキュメント北朝鮮』より~②朝鮮戦争

につづき、いよいよ、最後の③。

 

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◆チョンリマ(千里馬)運動と独裁の強化

金日成による粛清の嵐の中、チョンリマ(千里馬)運動が始まる。

大衆を大量に動員し、経済の5カ年計画を推進する。
そして、5年の計画をたった2年半で達成したとウソを発表

「産業の発展は重工業に偏っており、人々の暮らしに直結する生活用品・医療品は大幅に不足という状況」…ソ連大使はこのように本国に報告した。

その翌年(1959年)から「帰国事業」が始まる。
当時日本の左よりの多くのメディアで“地上の楽園”と謳われていた憧れの北朝鮮に、在日朝鮮人(戦前から戦中に日本に強制的につれて来られていた人々など)たちが、2年間で7万人以上帰国していった。

しかしその後、多くの人の消息が途絶えることになる。

当時副首相の補佐官であったオ・ギワンはこう語る
>北朝鮮では、生活必需品が不足していた。
>彼らは不満を募らせていただろう。
>しかし不満を口にする人は監獄へと送られた。


(一部の方々は、スパイの養成のために日本語教育などに強制的に従事させられた可能性もある。←by管理人)

金日成は軍事力を強化。1962年には、全人民の武装化をなし遂げる。つまり子供や老人や女性にも鉄砲を持たせて軍事教練をした。

当時のソ連の試算によると、60年代後半、軍事費は国家予算の50%を超えていた。そして国民生活はますます圧迫する。

その頃、ソ連のフルシチョフ(西側との平和共存を志向)と中国の毛沢東(革命闘争の継続を志向)で共産主義の路線対立が起こる。

金日成はどちらの側にも属さず、中ソ両者の間をうまく立ち回って両方の援助を獲得する(現在にも通じる外交の巧みさはすでにこの頃から?by管理人)

金日成は、中ソの対立の最中、「主体思想」を唱えた。

※画像は「主体思想塔」

政治における「自主」、経済における「自立」、国防における「自衛」を掲げ、北朝鮮独自の路線を歩むことを宣言した。

ドミトリー・カプースチン(当時のソビエト大使館情報分析官)は次のように語った。
>金日成は、人々を洗脳するプロパガンダの重要性を熟知していた。
>「主体思想」という概念を使って、彼はさらにそれを推し進めた。
>その洗脳はあまりにも早く、我々はただ黙って見ているしかなかった。


金日成による「主体思想」教育によって、歴史の書き換えも進んだ。歴史は、金日成への賛美で彩られるようになった。

http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya/e/4211f386f6e7f8de60cb0d4cef4e4c36
…に書いたが、金日成が初めて朝鮮の民衆に紹介された時、「ニセモノでは?」とどよめきが起こったのだが、記録映画には、「10月14日、私が民衆の前に立つと、群集の歓呼は最高潮に達した」とされており、また、田舎に戻った時の写真の中のソ連のメクレルの顔が別の朝鮮人の顔に改竄されていたりする。

1968年1月、韓国大統領官邸襲撃事件が起こる。
31人のゲリラが大統領官邸を襲撃。韓国軍と2週間にわたって銃撃戦。その結果ほとんどが射殺される。

ただ一人拘束された人物の尋問映像(米国立公文書館)の中で、このように語られる、
>大統領官邸にいるパク・チョンヒ大統領を銃殺し、主要な幹部も撃ち殺す任務を与えられた

韓国の大統領を倒せば、民衆が蜂起し革命が起こる…と金日成は考えていたと伝えられる。

(これがきっかけで、金日成暗殺のための秘密部隊が結成され訓練されたが、太陽政策への転換によって暗殺計画が白紙に。訓練された兵士が反乱を起こしたのが「実尾島事件」と言われ、韓国の大ヒット映画シルミドhttp://www.hancinema.net/korean_movie_Silmido.phpのモデルになった←by管理人)

そして、その事件のわずか2日後、またもや世界中を震撼させる事件が起こる。

1968年1月、北朝鮮はアメリカの情報船「プエブロ号」を拿捕し、乗員82人を拘束した。
北朝鮮は、領海侵犯したことをアメリカが謝罪しない限り、乗員は解放しない…と警告。
当時のジョンソン大統領は「公海にいた(領海侵犯などしていない)」と反論。
アメリカは北朝鮮への報復爆撃のため航空母艦3隻と200機以上の戦闘機を出撃させた。

軍事同盟を結ぶ北朝鮮がアメリカと戦争になれば、ソ連も巻き込まれる恐れがある。その状況に、ソ連が震撼し、当時のソ連の首相コスイギンは、ジョンソン大統領に直接書簡を送った。

>この問題を解決する為には、軽率な行動を取らないことです。(コスイギン)

書簡の2日後、ジョンソン大統領は北朝鮮に協議を呼びかけるという方針に転換した。

一方、金日成は次のような書簡をモスクワに送っている。
>我々は、侵略者に対し、反撃を加える準備をしなくてはなりません。
>戦争が起きれば、ソビエト政府は我々と共にアメリカ帝国主義と戦うと確信しています。
>その場合、総力を動員して我々に軍事援助を与えてくれることを望みます。


ソ連のブレジネフ書記長が金日成の説得に乗り出した。金日成をモスクワに呼ぶが、彼は国を離れられないとソ連訪問を拒否。

そして板門店で、北朝鮮とアメリカとの直接交渉が始まる。

11ヶ月に及ぶ長期交渉の間、北朝鮮側は「謝罪しなければ乗員は解放しない」を繰り返す。

そして、ついにアメリカ側が譲歩。北朝鮮が用意した謝罪文書に形だけサインした。おかげで、乗員82人は無事解放されたが、プエブロ号の返還は拒否された。
その際のフィルムも、「帝国アメリカが北朝鮮に膝を屈した」として、金日成のプロパガンダに利用された。
※プエブロ号は北朝鮮に展示され、これも現在に至るまでプロパガンダに利用されている。

この「プエブロ号事件」の外交的勝利に味を占めた北朝鮮は、その後も強硬主張を繰り返すことになる。“瀬戸際外交”はここから始まった。

こうして北朝鮮は、完全にソビエトのコントロールから外れ、70年代に金日成の個人崇拝が大幅に強化されたのである。

この頃から裏では既に、金正日への権力の継承準備が着々と進んでいたのであった。(4/2放映の「NHKスペシャル:ドキュメント北朝鮮」まとめはここまで)
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うーん、壮絶な歴史だ。

大国に翻弄され、自国民同士で殺し合いをさせられ、間接支配される中で、したたかに立ち回ってきた金日成はある意味すごい。日本は相変わらずアメリカの間接植民地状態であることを思えばたいしたものだ(もっとも多くの人にその自覚は無いが)。

前世紀のスターリン型独裁の政治形態をそのまま残して国家が成立しているところに、北朝鮮の危うさがある。軍隊を強化し、情報を統制し、人民を貧困のままの状態にしておくことで、支配を永続させている。国内の統合もまさに“瀬戸際”という感じだ。

核開発にしても、本音では彼らは決して放棄するつもりはないだろう。彼らなりの生き残る為のギリギリの選択肢なのだ。大国の圧力の中で、瀬戸際外交をしながら存在を続けている金正日とその側近連中は、国際社会やマスコミからは「キ○ガイ」扱いされているが、実は極めてしたたかなのではないだろうか。

それに比べて、大国の真の意図を探ろうともせず言われるがままに搾取されまくっている日本は、「北朝鮮は危険だ!日本に攻撃してくるかもわからん!」みたいなニュアンスで騒いでいるが、これもおどらされているだけなのではないかという疑いが頭をもたげる。

※この番組については、↓このサイトが非常によくまとめてくれている。併せて読んでみて…お勧め!
http://blog.goo.ne.jp/blue-jewel-7/e/f379914603d6e62e69dfbc0ccb5ff390


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北朝鮮が水爆実験?…どうしてこうなったんだ北朝鮮 『ドキュメント北朝鮮』より~②朝鮮戦争

2016年01月06日 | 雅無乱日記

前のエントリーNHKスペシャル『ドキュメント北朝鮮』のまとめの続き。

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その後、北緯38度線で分断された朝鮮半島は戦火に巻き込まれることになる。

1950年6月、北朝鮮は南に進行を開始。
ソウルを陥落させ、一時、南端の釜山の近辺まで迫る。
ところが、南から国連軍(実質は米軍)が介入し、一気に北に押し返す。
さらに、中国やソ連が北に加勢し、南に押し戻す。
別名「アコーディオン戦争」と呼ばれる所以である。
この戦争で、国土は荒れ果て民間人が大量に殺戮され、難民が溢れた。

詳しくはウィキペディア「朝鮮戦争」を参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89

この冷戦の代理戦争で、同じ民族同士で血で血を洗う争いが繰り広げられた。
この状況をちょっと想像してみてほしい。例えていうなら、東京を首都とする東日本と、大阪を首都とする西日本が戦車やミサイルや戦闘機を使って全面戦争をするようなものだ。
戦闘自体も凄惨を極めたが、それ以外にも家族は分断され、同じ民族で敵味方も見分けも付かずスパイや密告は横行、隣人への疑心暗鬼は増大し、朝鮮民族に大きなトラウマを残した。
100万人以上が死に(一説には400万人とも言われる)、1000万人以上が離散家族となった。

※画像は↓ここから。朝鮮戦争を描いた映画“ブラザーフッド”より
 http://www.inbong.com/2004/brother/
 (まだ観てない人は“シルミド”とともに必見!)

1953年、大量の犠牲を出して朝鮮戦争が終結すると、金日成は、「我々はアメリカ帝国主義に勝利した」というプロパガンダを始める。

その間、ソビエトから政権周辺に送り込まれたソ連系朝鮮民族が、金日成を支えた。その数400人以上。

カザフスタンに住むそのうちの一人、チョン・サンジュン元文化宣伝長次官が取材に応じ、こう語る。
>スターリンと同じように金日成も絶対的に崇拝されるべきだと当時は考えた。それが当時は正しいことであり、疑いは全くなかった。

その後、金日成は権力を利用して、反体制派の粛清を始めた。

当時の朝鮮は4派閥があった。
①国内派:朝鮮半島で抗日活動を行っていたグループ
②ソ連派:ソ連系朝鮮人のグループ
③中国派:中国で抗日活動を行っていたグループ
④パルチザン派(満州派):キム・イルソンの派閥(当時は最小だった)


まず、副首相のパク・ホニョンが、アメリカのスパイとして逮捕され、処刑された。
その後、朝鮮戦争の失敗の責任の全て押し付け、パク・ホニョンの派閥(国内派)を一掃する。

次に、スターリンの死によってソ連からの統制が緩み、粛清の刃をソ連派に向ける。
スターリン政権をモデルに金日成の個人崇拝を押し進めてきたソ連派は、自らが与え強化したその強大な権力によって次々と粛清・追放されることになった。

ソ連がフルチショフ体制になりスターリン批判が始まると、金日成の個人崇拝も批判されるようになる。
金日成は、フルチショフより直接提言を受け、一度は「個人崇拝を排除する」と約束したと言われている(しかし、彼は逆の方向…つまり個人崇拝の強化へと突き進む)。

ソ連からの批判で勢いづいた中国派がクーデターを計画。
党大会で金日成を正面から批判する。

当時副首相の補佐官であったオ・ギワンはこう語る。
>中国派の一人が金日成の個人崇拝を批判しました。すると、パルチザン派が大勢で罵声を浴びせたため演説を続けられなくなった。他の中国派は発言することさえできなくなったのです。

金日成は、実は事前にクーデターを察知していた。
これをきっかけに粛清の波がまさに中国派を襲わんというときに、再びフルチショフが動いた。
中国の毛沢東とともに特使を派遣したのである。
金日成は、中国派の除名を一時撤回する。

しかし、翌年再び中国派を除名。その波に乗ってついに思想弾圧が開始される。
一ケ月で2000人以上が摘発。裁判は公開され、300人以上が公開銃殺された。

この事態を、ソ連は黙認した(共産主義陣営の一員で、しかも自分達が創ったか依頼政権に「問題がある」ということを公に認めるわけにはいかなかったためだろうと言われている)。



<③につづく>

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北朝鮮が水爆実験?…どうしてこうなったんだ北朝鮮 『ドキュメント北朝鮮』より~①金日成 権力掌握まで

2016年01月06日 | 雅無乱日記

北朝鮮が水爆実験を…

http://jp.reuters.com/article/north-korea-nuclear-success-idJPKBN0UK0AM20160106

世界中が大騒ぎである。

北朝鮮っていったいどういう国なん?言ってることもどうもわけわからん。どうしてそないなったん?という素朴な疑問がわいてくる。

…ということで、ちょっと勉強してみることにした。

と言っても、以前録画しておいた、NHKスペシャル「ドキュメント北朝鮮」を観ただけなんやけど。

せっかくなので内容をまとめてみた。何かが少しでも浮かんでくるかもしれない。

以下、2006年4月2日(日) 午後9時~9時59分 総合テレビで放映“ドキュメント北朝鮮” 第1集 「個人崇拝への道」 から 感想込みでまとめてみる。

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北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国の初代指導者は金日成(キム・イルソン)

彼は、実はソ連によって見出され、個人崇拝によって絶対権力を手にしてきた。
「ドキュメント北朝鮮」第一回は、旧ソ連から出てきた秘密文書をもとに、金日成が絶対権力を得るまでの軌跡を追う。

※上の画像はピョンヤンにある金日成像(なんと高さ23m)。1972年に金日成生誕60周年を記念して建立された。
  画像はここ「チョンゲグリのページ」よりお借りした↓
  http://www.jakonett.com/03north94-02.html


◆権力掌握まで-スターリンの傀儡政権としての出発
金日成は、“朝鮮人の部隊を指揮して、悪辣な日本軍から朝鮮の人々を解放し独立した”と北朝鮮の国民には信じられている。
しかし、それは実は真っ赤なウソ。
ソ連の秘密文書によると、金日成の経歴は次のようなものである。

19歳から、旧満州で抗日ゲリラ活動をしていた。
その後、ハバロフスクに逃れ、ソ連極東軍の88特別旅団に所属。
その88特別旅団とは、ソ連が創った朝鮮人と中国人による部隊だった。
彼は、軍司令官などではなく、一つの小隊の指揮官にすぎなかった。

当時の金日成の上官であったワシーリー・イワーノフ(当時のソビエト極東軍中佐)は語る。

>私が彼に、戦略や戦術教え込んだ。
>「朝鮮軍」などというものは存在しなかった。


実際に朝鮮北部を解放(?)したのはソ連軍だった。
朝鮮人部隊はソ連軍に参戦を進言したが、却下されており、戦いにも参加していない。

当時のソ連はスターリンの独裁下にあった。
北朝鮮にソ連の傀儡国家を作るために、その候補者を面接したのが、当時のソビエト軍事特別宣伝部長であったグレゴリー・メクレルだった。

>私は、候補者と面接し、ソビエトへの忠誠度や能力を測った。

当時候補として名前が挙げられていたのは、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる民族主義者であり国民的に人気もあったチョ・マンシク
メクレルは面接で、チョ・マンシクは指導者として信用に値しないと判断(心底ではソ連に忠誠的でない…つまり傀儡としてコントロールしにくいと判断)。

金日成についてはグレゴリー・メクレルはこう語った。
>ずっと満州やハバロフスクにいたので、朝鮮国内のことは知らないと思っていたが、実によく知っていた。

結局、ソ連は彼を指導者として選び、北朝鮮を間接支配下に置くことにした。
おそらく、チョ・マンシクより若いし、御しやすいと考えたのだろう。
(その間接的証拠として、金日成は帰国直前にモスクワに呼ばれスターリンと会談したという話しは有名)
そして、1945年10月14日、ソビエト軍の歓迎集会、数万人の前で、金日成は“抗日闘争の英雄”として紹介される(当時33歳)。
金日成は、満州での抗日運動で名前だけは朝鮮の人々に知られていたが、人々は意外な反応を示した。
「若すぎる」「あれはなんだ?ニセモノじゃないか」ということで会場は大騒ぎに…。

そこでメクレルは策略を練る。
金日成に「故郷に行くと発表せよ」とアドバイス。
彼は側近をつれて故郷に戻り、大歓迎される。それを新聞を使って大々的に発表し、ニセモノ説を打ち消した。

ソ連の秘密警察やソ連から送り込まれた朝鮮系のエージェントたちのもと、1948年に朝鮮民主主義人民共和国は設立される。

その時の演説で金日成はこう言ったと記録されている。
『朝鮮民族の解放者であるソビエト軍と偉大な領導者スターリン大元帥万歳!』(米国立公文書館資料)
建国パレードにも、スターリンと金日成の肖像画が並べて掲げらたのだった。


<②につづく>


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