にほん民族解放戦線^o^

米帝→官邸→マスコミの洗脳による植民地状態からの脱却を考えてみるブログ♪主権を取り戻し、日本の未来を考えよう。

バブル経済の構造とその行方~

2007年07月19日 | 雅無乱日記

米国株式市場でNYダウが史上最高値を連日更新している。

2007年7月16日(月)には13,950ドルと14,000ドルの大台寸前まで上昇。
2007年7月12日(木)には4年強ぶりの大幅上昇となる前日比283ドルの上昇を示した。

現在、NYだけでなく中国やインドなどの株価もバブル化していて、いつはじけてもおかしくない状況にあると思われるが、この「資本主義」というシステムを考える上でも、未来を予測する上でも、この「バブル経済って何?」というのは、考えておく必要があるだろう。

なんせ日本は、バブルに踊ったツケとして「失われた10年」と言われる状況を経験し、その間に
ドラマ『ハゲタカ』にあるように足元を見られて外資に喰いものにされたわけである。それに「構造改革」や「民営化」なるものの必要性がさかんに叫ばれて政局に大きく影響しているのも、もとはと言えば、このバブルの狂乱とその崩壊後の停滞が原因だろう。

素人なりにこのへんを振り返ってみたいと思う。

    クリックで応援おねがい!
    ↓         ↓         ↓
ブログランキング・にほんブログ村へ ブログランキング・人気ブログランキングへ 人気ブログランキング【ブログの殿堂】


ドラマ『ハゲタカ』では、外資系ファンドが不良債権を二束三文で次々と買い叩いていく様子が描かれている。

バブルとバブルの崩壊のおかげでハゲタカのエサである不良債権がたんまりできたわけだから、「それって何やねん」というとこらへんから迫ってみよう。

「不良債権」を考える上での中心的な切り口は、「金あまり」「投資」「借金」「金利」、そして「土地神話」「株神話」だと思う。

まず、バブルの前提には「金あまり」という状態が前提になっている。この「金あまり」というのはどういうことなのだろうか。

高度経済成長がほぼ終わった'70年以降、飢えるほどの貧困は日本ではほぼ消滅した。それまでの主要な活力源は、大雑把に言えば「貧困や飢えから逃れたい」というエネルギーだったと思われる。

飢えている状態で、今日・明日食べる飯を何とかしなくてはならない(少なくとも明日食べるものに不安があるという状態)。そのために、権力者の用意した活動(仕事)をして、お金を儲けて、それをすぐさま飯なり生活必需品の購入に使って自転車操業することによりかろうじて生きていく状態である。

貧乏人には選択の余地などなく、そうせざるを得ないのでそうしているのだが、ケツに火がついている状態なので、これが生み出す活力は強力なものだ。貧乏人が大多数を占め、その彼らには“「金」も「モノ」もまだ十分は行き渡っていない”という状態、さらに“金を手に入れれば即座にモノに代えて生活をしていかなくてはいけない”という状態が、いわば「つくれば売れる」という時代の前提にあったと考えられる。

これについては、以前のエントリーに書いた事があるので参照されたし。

「豊かになったのに労働時間が減らないのはなんで?」(生産をめぐる時代状況の変化についての論考)

さて、高度経済成長が終わった'70年以降、メシも含めて生活必需品が大多数の人々に行き渡るようになり、潜在的には「つくれば売れる」時代は終焉した。'70年代から'80年代前半は、潜在的な物的欠乏は衰弱していたのだが、それでも「貧困や飢えへの不安」が惰性で続いたというのと「相対優位の欠乏(ライバルより豊かになりたい、もっともっと豊かになりたい)」をメディアによって無理矢理喚起され続けていたために、大衆にはまだ「欲しいもの」がたくさんあった(そんな気にさせられていた)。だからまだ、設備投資をして新しいものを作れば、それなりに失敗する確率が少なく成長でき、金もうけができたわけだ。

ところが、'80年代になり、「つくれば売れる」時代の終焉がいよいよ表面化してきた。要するに、買わなくても「間に合っている」という気分…、そして「そんなにまでして必死で働いて金儲けしなくてもええやんか…もうしんどいわ」という時代の気分が、多くの大衆に浸透したのだ。

「金」というのは、ふつうは、ただ持っているだけでは物価の上昇と共に目減りしていく。

金をたくさん持っている人間は、それを「いずれ必要になるときまで、うまく運用して増やしておこう」と考えるものだ。

'80年代後半になると、次のような理由で、それまで「投資」によって甘い汁を吸っていた人にとっては、困った状況が生じてくることになる。

その一つは、「“金儲けしてやろう”という野心を持っている、金を借りてくれる貧乏人」の減少である。

投資する側の人間にとって、「豊富な金儲けのアイディアと、金儲けの野心・活力の二つを備えた人間」、そして、そういう野心家に素直に付き従っている「メシを食うために必死で働く労働者」というもののセットは、「投資」して儲けるための絶好のネタである。しんどい仕事は他人にさせて、「野心家」が「雇われ人」を遣って儲けが出た暁には、利子や配当を付けてがっぽり返してもらう。「金儲けしたい野心家」と「雇われ人(実質的には奴隷)」は、そのためのいいカモというわけだ。投資家は、「投資」という行為さえしていれば、自分は昼寝をしていてもらくらく金が儲かるわけである(投資先さえ誤らなければであるが…)。

時代が豊かになってきて、「必死で金儲けのためのアイディア出す起業家」と「必死で働く労働者」、つまり金儲けで眼をギラギラさせている人の数が減少すれば、金持ちは「金を貸しているだけで昼寝していても金儲けできる“ネタ”」というのを失って、困ったことになる。

それに加えて、消費者の視点から見て「モノはもう間に合っている」という気分の人が増え、モノが売れなくなってきて「設備投資をしても必ずしも金が儲かるとは限らない」という状況も生じてくる。そして、設備投資ができる余裕のある企業でさえ、設備投資に金をまわすのを控え、「余剰資金をどう運用しようかなぁ・・・」などと考えるような状況になってくる。

さらに、一般大衆における富裕層の増大も、困った状況を後押しする。これら数が増えた一般の富裕層も、わざわざ自ら仕事をやって金を儲けるより、いやな仕事をやってくれる「活力のある貧乏人」に投資して自分は昼寝して金儲けできないもんだろうか、それが無理ならより儲かる可能性がある投資先はないのだろうか、と考え始めたのだ。

つまり「金あまり」とは、より儲かる投資先を求めて「楽して金儲けしたいと考える、増加した富裕層の資金」がダブついた状況、と捉えられる。

さて、長くなったので今日はこのへんに^^;)


人気ブログランキング - 路上日記@なんで屋
ブログランキング ドット ネット