goo blog サービス終了のお知らせ 

竹原BLOG:奈良民話祭り ― グリム童話・メルヘン・語りの文化 とっておきの話。 

夏の奈良民話祭り:8月5日(金)午後3時より奈良町物語館で4回公演!
奈良燈花会に行きがてら、ぜひ来てくださいね!

吉野の河童はなんと薬をお礼にくれたのだ!

2010年06月22日 | 日記
NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」も漫画家の妻として苦労も多いが、
その一方で、漫画のキャラクターとして、狐、河童、悪魔くんたちが登場し、
ドラマもにぎやかに展開中である。


NHKの朝ドラより

そこで、思い出したのが、吉野の河童である。

前回のブログで述べた吉野の民話の調査では、愛すべき河童(ガタロウ)の話を聴いた。
そのひとつを紹介しよう!

ガタロウと錦草

辻堂のな、蒲生の裏に、どえらい、あの、大きな淵があったんや。
今はダムにして無いけどな。
その淵にはガタロウがおった。昔の話やで。

お便所に行ったらね、ガタロウが下から手を出してきたと。
それを切ったんと、鎌で。
その代わりにね、ガタロウが「その手を返してくれ」と。
「手を返してくれたら、ええ薬教えるさかい。」
ほんでね、蒲生屋さんですわ。
その薬な、今でも売ってると思うわ。


河童のくれた薬

語り手:福本清明(大塔村 宇井)
原典:昔話研究懇話会編『昔話―研究と資料』 14号 (昭和60年)

上の写真の薬は民話調査の際、入手したものです。
薬効に、「打身、くじき、筋違、神経痛、感冒によし」とあります。
河童に教えられた薬だから、よく効くのでしょうね。







なんとも不思議な酒船石と亀形石造物!明日香村を歩く。その2

2010年06月15日 | 日記
明日香村を歩いて、気づくのは、誠にふしぎなことに、
謎の石造物が至るところにあることです。

猿石、亀石、マラ石、弥勒石、須弥山石、 酒船石、石人像、 二面石。
枚挙に暇がありません。

なかでも酒船石は、実に不思議です。



酒造りに使用したとのいい伝えからこの名がつきましたが、
本当のところは何に使われたかわかりません。
たぶん、水に関わる施設と考えられています。

さらに、この酒船石から下に少し降りたところには1999年に発見された謎の石造物群があります。



写真の右手に見える湧水施設から樋を伝わって
水が小判形に彫り込まれた水槽に流れ込み、
さらに左手の亀形石槽に流れる仕掛けになっています。

これはいったい、何に使ったのだろうか?
斉明天皇(女帝)が、ここで身を清めて宗教儀礼をおこなったとも言われています。
出土した土器などから、いづれにしても、
7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されています。

次回の明日香村を歩くその3も、お楽しみに!


なんと奈教大の近くにピラミットがある!?-玄の頭塔

2010年06月09日 | 日記
奈良教育大学の学生さんはいつもバスで通学している人が多いですね。
破石町のバス停前に「ウェルネス・イン飛鳥路」がありますね。
その左手の通路から、下の写真のように、なにやら石積みのものが見えますね。



それが、「奈良のピラミッド」なんです。

もっと近寄ってみてください。



間違いなく、ピラミット状ですよね。

それには、こんな話が伝えられています。

* * * * * * * * * * * * * * * *


玄の頭塔

むかし奈良時代に玄(げんぼう)という偉いお坊さんがいたんや。
遣唐使で17年間も中国に滞在し、当時の仏教・文化を学び、
帰国後は聖武天皇のもとで政治をつかさどっていたんや。
しばらくして、玄は、藤原仲麻呂との政争に破れ、
天平17年(745年)に九州の太宰府に左遷されたんや。

ところが、九州では、かつて玄と対立して処刑された藤原広嗣の怨霊が待ち構えており、
玄はその祟りで翌年に死んでしまったんや。

しかし無念のあまり、玄の頭が奈良まで飛んできて落ちてきたんや。
その頭を葬ったのがここであり、そのため頭塔と呼ばれるようになったそうや。

* * * * * * * * * * * * * * * *


頭塔は、奈良文化財研究所により、昭和61年から12年間にわたり発掘調査が行われました。
その結果、頭塔は、東大寺の僧、実忠というお坊さんが奈良時代後期に築いたものであることが確認されました。

これは本来、五重塔と同じく仏舎利を収める仏塔であり、玄とは無関係です。
しかし、玄に対する庶民の思いが今も伝説として息づいているのです。

それにしても、規模ははるかに小さいが、
同時代に築かれたインドネシアのボロブドール遺跡とそっくりですね。



もうひとつ東大寺のお話「鬼子母神とザクロ」

2010年06月08日 | 日記
続いてもうひとつ東大寺にまつわるお話をしましょう!
二月堂の前に「良弁杉」があるのは前回のお話でよくわかりましたよね。
その二月堂の西側の廻廊の階段を降りて、右手に祠(ほこら)があります。
下の写真見てください。



鬼子母神を祭った祠です。
それにはこんな話があります。


鬼子母神とザクロ

奈良の二月堂の下にある良弁杉の横に、鬼子母神という祠があります。
鬼子母神というのは、女の神様で、たくさんの子どもがおりました。
この神様は、恐ろしい事に、人の肉を食べるのが好きで、
人間の子どもをさらって来ては、その肉を食べていました。

ある時、お釈迦様が、それを諭すために、
鬼子母神の大勢の子どもの中の一人を隠してしまわれました。
鬼子母神は、無我夢中でわが子を探しまわりました。
すると、お釈迦様は、 
 「お前は、子どもがそんなに大勢いるのに、
 たった一人いなくなっただけで、それほど悲しむだろう。
 ましてや人間はわが子の数が少ないのに、なくした親は、
 どれ程悲しい思いをしていることか・・・。
 よいか!二度と、子どもをさらって食べたりなどするのではない。」
と言われました。
鬼子母神は、
 「ああ、確かにそうです」
と言って、自分の過ちを認め、それからは、子どもをさらわなくなりました。
お釈迦様は、
 「人間の肉が食べたくなったら、人間の肉とよく似た、
 このザクロを食べるがよい」
と言って、
鬼子母神にザクロを渡されました。

それで、今でも、ザクロのできる時期になると、
鬼子母神の祠の前に、たくさんのザクロをお供えするのです。

奈良の民話を語りつぐ会
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:吉本 京 不許転載

みなさん、もう一度上の写真を見てください。
確かにザクロの実がなっているでしょ。
ちょうどザクロのできる秋に私が撮った写真です。

良弁僧正親子対面之図が2月堂に奉納されている!

2010年06月04日 | 日記
前回のブログ、奈良の民話の定番「良弁杉」について
奈良の民話を語りつぐ会のメンバーの小西雅子さんが下記の写真をメールで
送ってくださいました。



「良弁僧正親子対面之図」です。
二月堂の観世音菩薩に奉納されたものです。
良弁さんが母と涙の対面をする場面です。
かなり古い絵ですね。

一番古い記録は平安時代の大江親通著『七大寺巡礼私記』や『東大寺要録』にあります。
いづれの記録にも鷲にさらわれたこと、東大寺での親子の涙の再会が語られています。
また、明治にできた浄瑠璃義太夫節に『二月堂良弁杉の由来』があり、
今日でも歌舞伎でよく上演されています。

「良弁杉」のお話はかなり古くから語られていたことがよくわかりますね。
皆さまも二月堂に行かれたら、この絵を是非みてきてくださいね。




奈良の民話の定番:良弁杉←ブログ開設2ヶ月記念掲載

2010年06月02日 | 日記
このブログを開設してから、ちょうど2ヶ月経ちました。
多い日には、1日で300人近くの人が見てくださっています。
せめて、奈良県民をはじめ千人の民話を愛する方々に閲覧いただきたく思っています。
今後も奈良の民話や伝説、とっておきの話を載せますので
口コミでこのブログを広めてくださいね。
よろしくお願いします。

そこで今日は奈良の民話の定番のお話を語りましょう。
東大寺の二月堂の前に大きな杉に木があります。
それを「良弁杉」(ろうべんすぎ)といいます。
それではその木にまつわるお話です。


良弁杉


昔、近江の国、滋賀の里に、信心深いお百姓の夫婦が住んでいました。
ふたりには、子どもがなかったので、観音さまに
「どうか、子どもをお授けください」と、毎日、朝に晩にお祈りしてましたんや。
すると、ありがたいことに、玉のような男の子が生まれました。
母親は、
「この子は、観音さまからいただいた子だ」と言って、
かたときも離さず、大切に育ててました。
その子が、ふたつになった時、母親は、子どもをくわ畑へ連れて行き、
ふごの中に入れておいて、一生懸命くわの葉を摘んでいましたのや。
そこへ、不意に大きな鷲が飛んで来て、
子どもをつかんで飛び去ってしまいました。
母親は夢中で後を追いかけましたが、
もう、どうする事も出来ませんでした。
鷲は子どもをつかんだまま、近江の国から、
南へ南へと飛んで行ってしもうたんです。
ところで、鷲が、奈良の春日山のふもとの杉の木にとまって、翼を休めていた時のことや。



そこへ、義淵というえらいお坊さんが通りかかると、
子どもの泣き声が聞こえる。
「どこで泣いているのだろう」と、あたりを見渡された。
すると、杉の木の上に男の子がいたので、
驚いた義淵和尚は、子どもを木からおろして助けてやったのです。
その男の子は、義淵和尚に育てられ、教えも受けて、
良弁という名前をもらいました。
後に、東大寺の大仏開眼供養の折には、良弁僧正となったのです。
僧正となってからも、二月堂の下の杉の木を父母と思って、
毎日拝んでおられたそうです。
さて、良弁僧正の母親は、幼な子を鷲にさらわれ、
何としても我が子にめぐり会いたいと、三〇年もの間、
ひたすら諸国をめぐり歩いていましたんや。
ある時、母親は、淀川を下る舟の中で、乗り合いの旅の人が、
「あの東大寺の良弁さまは、幼い時、
春日山のふもとの杉の木のてっぺんから、
助けられたお方なんやてなぁ。」と、話しているのを聞いた。
母親はすぐに奈良に行きましたんや。
そこで、東大寺の杉の木の下で、拝んでいる僧侶の我が子に、
やっと会えたということです。
そこで、誰言うともなく、この杉のことを、
良弁杉と呼ぶようになりましたんや。


奈良の民話を語りつぐ会
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:藤井 幸子  不許転載

奈良教育大学に吉備真備の墓がある!

2010年05月31日 | 日記
奈良国立博物館で開催中の「大遣唐使展」のことを
先日ブログに書きましたが、
一番の目玉の展示はボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」でした。
そこで、今日は吉備真備のことを話題にしましょう。

吉備真備は霊亀2年(717年)に23歳の時、遣唐留学生として唐に渡り、
当時の最先端の学問を学びました。
「経書」「史書」さらに「律令」「軍事」等を習得し、
17年後に帰国しました。
天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、再び入唐し、
2年後には鑑真を伴って帰朝しています。

阿倍内親王(のちの孝謙天皇)の養育係を務め、
その後右大臣にまで昇りつめ、時の政治の中枢で活躍しました。

学者出身で右大臣まで出世したのは菅原道真と
この吉備真備の二人だけだそうです。

なんと、そんな偉大な人物のお墓が奈良教育大の構内にあるのです。

大学の裏門を入り、坂を昇って行くと、左手に大きなクヌギの大木のある
こんもりとした丘があります。



近づいてみると、「吉備塚」と表示した石碑があります。



4代前の学長赤井達郎先生の時、吉備塚を整備して、石碑を建てたそうです。

橋川紀夫氏による「奈良歴史漫歩 No.054」には次のように記されている:
 2年前(2004年2月)、発掘調査が行われ、
 直葬された木棺2基、6世紀前半の太刀や銅鏡、馬具の部品が出土した。
 太刀には人物像が象眼されていたが、
 これは全国で始めてのケースで話題になった。
 直径約25mの丘で円墳か前方後円墳かは不詳である。
 この古墳は、奈良時代の貴族で右大臣の吉備真備の墓であるという伝承が江戸時代からある。
 伝説では、吉備塚は強い祟りがある。
 明治の末に周囲の田んぼを埋めて53連隊の駐屯地が造られたが、
 吉備塚を崩そうとした人夫が病気になったので作業中止になり残った。
 草を刈っただけでも死んだ人がいる、等々。
 また、ここには吉備真備の邸宅があり、
 夜ごと近くの晴明塚に通ったという時代の合わぬ言い伝えもある。

ちなみに、奈良教育大には「新薬師寺旧境内遺跡」もあります。
今、大学の教育資料館にて遺跡の展示もありますので
下記サイトをご覧の上、是非、見に来てください。
新薬師寺旧境内遺跡展
教育資料館は大学の裏門を入り、吉備塚を左に見て、さらに少し道を登ると
左手に赤レンガの建物が見えます。それが資料館です。


吉野の民話「蛙になった人間」

2010年05月28日 | 日記
前回はおはなし交流会の報告をしましたが、
今日はその時話された民話をひとつ紹介しましょう!

奈良県というのは、この奈良市は北のはしで、南半分は吉野の山です。
大台ケ原など高い山々が連なっていて、その中の一つ大峰山は、
役の行者が開かれた山伏の修験道の山です。
今でも女人禁制を守っていて、男の人しか登られません。
ですから、男たる者、
いっぺんは大峰山に登るのがならわしになってるところもあるそうです。
その大峰山にまつわるおはなしです。

蛙になった人間

大峰山の山道は奥へ行くほど、どんどん険しくなる。
その上、修行の場がいくつもあって、
その一つに「西ののぞき」というこわい場所があるねん。
体にひもをかけられて、崖の上に腹ばいになる。
山伏がひもを持って、崖から体を半分以上も外に出して下をのぞかせ、
体をゆすぶりながら「親孝行すっか」とか聞かはるねん。
みんなこわくてこわくてふるえながら、
「はい、します。します。」と、すなおに答えるそうや。

昔、ある時ひとりの男が
「こんなけわしい所で話を聞いてもしょうがない。
ご利益なんかないぞ。しんどいだけや。」とか、
いろいろいやがらせをいうて、他のお参りの人たちのじゃまをしてたんやて。
ほしたら、のぞきの崖で足をすべらせて断崖絶壁の崖下に落ちてしもうたんや。
男は運のええことに命は助かったんやけど、
今のようにヘリコプターも何もない頃やから、
だれも助けに行くことができへん。男は声を限りに泣きさけんだ。
お寺のお坊さんたちは相談しはってなぁ。
「おまえ、これから真人間になるか。」と男に聞かはってん。
「はい、真人間になります、なります。どうぞお助け下さい。」
「だがなぁ、人間のままではどうにもならん。蛙の姿にして助けてやろう。」
お坊さんたちは、数珠をさらさらと押しもんで、男を蛙に変えはったんや。
蛙になった男は、崖をぴょんぴょんはねてのぼっていき助かったんや。
せやけど、もとの人間の姿にもどすのには、かなりの修行をせねばならん。
それで、蛙を吉野の蔵王堂へ連れて行って、
吉野全山のお坊さんを呼び集め、みんなでとうとうとお経をあげ、



やっとのことで、もとの人間にかえすことができた。
男はそれから真人間に生まれ変わったということや。

この伝説によって、
毎年七月七日に蔵王堂で「蛙とび」の行事が行われるようになったんやて。

奈良の民話を語りつぐ会
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:舩津 喜美子 不許転載



おはなし交流会報告

2010年05月25日 | 日記
5月23日(日)の午後1時より
名勝大乗院庭園文化館において
「奈良の民話を語りつぐ会」と「おはなしおはなし通信」の
おはなし交流会が開催されました。

そのプログラムは以下の通りでした。

ごあいさつ       竹原 威滋
わらべうた「ならの大仏さん」 大西 祥子
語り「奈良の大仏と京の大仏」 稲実 美恵
紙芝居「帯解の龍」 大西 嘉昭
わらべうた「うちのねえさん」 大西 祥子
語り「北林のたぬき」 井上 幸子
語り「蛙になった人間」 舩津喜美子

以上が「奈良の民話を語りつぐ会」の会員によるものです。

私どもとしては、はじめての他流試合でしたが
みんな楽しく語ってくれました。

下の写真は熱心に聞き入る会員たちの様子です。



後半は、「おはなしおはなし通信」の川瀬夫妻によるプログラムでした。
以下の通りです。

読み聞かせ「すずめ報恩の事」(宇治拾遺) 川瀬建雄
語り「金の鳥」(グリムの昔話)      川瀬 紀子
語り「ふしぎなお客」(イギリスとアイルランドの昔話)川瀬 紀子

さすが、川瀬 紀子さんの語るグリム童話「金の鳥」は見事でした。
かなり早いテンポで、歯切れよく、長い語りをこなされ、
その話の面白さに思わず引き込まれました。

次の写真は、物語る川瀬紀子さんです。



私どもの語りに対して川瀬紀子さんより次のような趣旨の、
お褒めの言葉を頂きました。
「奈良の土地になじんだお話を自分のものにして語られ、
実感のこもった語りになっている。」

初めてのお話交流会でしたが、有意義な会になりました。
今後も語りの機会を大いにもちたい!!









采女の悲恋の物語

2010年05月22日 | 日記
采女神社の話

奈良興福寺の五十二段の階段を降りたら、猿沢の池があるやろ。
猿沢の池の東の岸には、衣掛柳の木があって、西の岸には采女神社があるねん。
この采女神社のお社は、池に背中向けて立ってて、後ろの池側に鳥居があるんや。
お社の後ろに鳥居のある神社は、日本中でここだけやねんて。



お社がなんで池に背中向けてるのか、それには、こんな言い伝えがあるんや。

昔、奈良に都があったときのことや。帝(みかど)にお仕えする女の人たちを
采女(うねめ)というんやけど、
その中にひとり、ものすごいきれいな采女がいてたんや。
ある日、帝のお目にとまって、お側に召され愛されはった。
ところが、どういうわけか、
一度だけで、そのあと二度と召されることはなかったんやて。
采女は、毎日毎日帝に召されるのを待ち続けてたんやけど、願いは叶うことなく、
とうとう世をはかなんで、猿沢の池に身を投げて死んでしまわはった。
その時脱いだ衣を掛けた柳が、衣掛柳や。
その後、この采女をまつって、池の西の岸に采女神社を建てはった。
はじめ、お社は池に向かって建てられたんやけど、
自ら命を絶ってしもた猿沢の池をみるのがよっぽど辛かったんやろか……
一晩のうちにクルリと池に背中向けてしもたんやて。

奈良の民話を語りつぐ会 
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:吉房 啓子   不許転載

そこで、私の蛇足をひとつ:

采女神社の祠が池に背中を向けているということは
西を向いているということや。
つまり、帝の住む平城宮の方を向いているということや。
采女は今も帝に恋焦がれているということや。
女性の愛は、こんなにも切なく深いとゆうことや。


猿沢池の衣掛け柳は消えたままです!

2010年05月22日 | 日記
昨日は、鵜野祐介先生といっしょに、
梅花女子大と奈良女子大の学生さんを引率して、
「ならまち民話地図」を携えて、奈良公園を散歩しました。
久しぶりに猿沢池に行ったのですが
やはり、衣掛柳は消えたままでした。

下の写真でわかるように、昨年の燈花会には確かにありました。



ところが、現在は哀れにも衣掛柳は切り倒されて、下の写真のようにありません。



昨日、撮った写真では、猿沢池に采女祭りの管絃船が浮かんでいました。



でも、大切な衣掛け柳がなくなっているとは悲しいことです。

4月10日のブログでも訴えましたが、もう一度おねがいします。
その衣掛け柳の後継の木を植えてください!
平城遷都1300年の年、観光客に申し訳ない!
公園の管理者の方、よろしくお願いします!

では、次のブログでは
「采女の恋の物語」を語りましょう!

(追記)
6月26日のブログ参照してください。
衣掛け柳は元の場所から少し離れたところに植え替えてありました。

比留間良介作品展と大遣唐使展

2010年05月21日 | 日記
昨日、今日と私としては珍しく
ふたつの展覧会を見てきました。

昨日は「比留間良介奈良教育大学退職記念作品展」を見に
イトーヨーカ堂奈良店5階の奈良市美術館へ行きました。
比留間先生は同僚として親しくしていただきました。
先生の長年にわたる画業を展覧できたことは幸せなひとときでした。



春を呼ぶ二月堂お水取り行事の「椿の造花」を素材にした絵や
アッシジの聖フランチェスコの「僧衣」をテーマにした絵は
とても印象的でした。
23日(日)までありますので、
皆さんも是非、見に行ってください。

先生には奈良の民話の挿絵を描いていただくよう
お願いしておりますので、楽しみにしておいてください。


今日は、奈良国立博物館で「大遣唐使展」を
見ました。
なんといっても、圧巻は
ボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」でした。
カタログの表紙に載っていました。
下記の写真です。



吉備真備の葬られた「吉備塚」が奈良教育大学構内にあります。
命をとして中国の優れた文化に接しようとした先人の意気込みに
心打たれます。

2010.5.20.        竹原威滋
 

再びベストショット:桜と鹿と浮見堂のシルエット

2010年05月19日 | 日記
5月8日の「ベストショット:桜と鹿のシルエット」が
みなさんに一番多く見ていただいているようなので、
アンコールに応えて
「再びベストショット:桜と鹿と浮見堂のシルエット」を
お届けします。

やはり、夕方の空の光に映えて、鹿がみごとにシルエットで浮かび上がっています。



次に、浮見堂と桜です。これも同じ日の夕方撮ったものです。
ごゆっくり、みてくださいね。


伯母ケ峰の一本足

2010年05月19日 | 日記
今日は吉野に伝わる伝説をひとつ、語りましょう。

吉野では山仕事に出て、
お腹がすくと、「ひだる神」にとり憑かれるといいましたが、

「はてのはつか」(12月20日)に伯母ケ峰の峠を越えると
一本足の鬼に襲われるそうです。

上の写真を見て下さい。
これは伯母ケ峰とそれに連なる大台ケ原の連峰を撮ったものです。
ご覧のようにとても山深くて、日本でもっとも多く雨が降るところです。
伯母ケ峰には大和から熊野に抜ける熊野街道が通っています。
そこにはこんな話が伝えられています。


ある猟師が猟犬をつれて、伯母ケ峰に猟に出かけてんて。
そしたら、大きなケモノを見つけたんで、猟師は、銃でしとめようとしてん。
ところが、逆に、ケモノに襲われそうになったんで、
猟師は、命からがら「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏玉を打ち込んで、なんとか助かってんて。

一方、殺されたケモノは亡霊となり、数日後、野武士の姿をして、
和歌山県本宮町にある湯の峰温泉に湯治に行ったそうや。
そして、宿の主人に、
「わたしが風呂に入っている間、ぜったいにのぞいてはいけない。」
と言って、見んように約束させてんて。

ところが、宿の主人は約束を破ってのぞいてしまったので、
亡霊は、宿の主人を殺してしまってん。

それから、その亡霊は一本足の鬼となり、伯母ヶ峰を通る旅人を喰うようになってんと。
そんなわけで熊野街道は、誰も通らなくなってしまってん。

その話を聞いたお坊さんが、地蔵さんを祀って、お経を埋め、
この鬼を封じ込めてしまったということや。
そやけど、お坊さんは「はてのはつか」だけは人を自由に食ってもよいと、
鬼に約束してんて。
そんなわけで、大台ケ原では「12月20日は、伯母ヶ峰をぜったい通ってはいけない」
と言われているねん。

みなさんも「はてのはつか]だけは、熊野街道を通るとき、
伯母ケ峰の一本足に襲われんように気いつけや。


  原典:丸山顕徳編『語りつぐ吉野の民話』金壽堂出版
  再話:竹原威滋

この原典にはほかにも面白い話が載っているので
是非読んでみてください。

朝ドラ「ゲゲゲの女房」も取りつかれた「ひだる神」

2010年05月17日 | 日記
前回はNHK朝ドラにも登場する「小判は木の葉」の話:
「狐にだまされた魚屋さん」の話を語ったが、
今回は同じく「ゲゲゲの女房」にも登場する「ひだる神」に
ついて語ろう。

まず、上の写真を見て下さい。
これは「メンパ」といって曲げ物の弁当箱で、山仕事に行くとき、
携行されたものである。一般には木地のままのものが多いが、
漆塗りのものもある。

吉野の山村では、メンパに弁当を詰めて、山仕事に出る。
山仕事はけっこう重労働なので、弁当を食べて仕事をしてて、
急に空腹に襲われる時がある。
そんな時、「ひだる神」に襲われるというそうだ。
そのための対策として、昼ごはんの弁当は
ひと口だけご飯を残しておくという。

それでは 「ひだる神」の話をひとつ、語ろう。


メンパって言うのを、山へ弁当ね、入れて行きますのや。
ほして、昼飯を食べますでしょ。
ほいたら、メンパの底にひと口くらいのご飯を残して帰りますねん。
それはなぜかと言うたらね、ひだるいってことありますでしょ。
ここらはね、おなかすいたことを「ひだるい」といいますね。
山仕事をしていた人がね、夕方にひだる神が憑きましてね。

ほいてね、そねしとったら、ひだる神て狼みたいなものですねと。
それを、石に蹴つまづいて、こけたりするとね、ひだる神に噛みつかれますねて。
だから、ひだるい思いせんように、残ったひと口のご飯を、
「ひだる神が憑いたな」と思ったら食べますのや。

語り手:桶谷静江
原典:竹原威滋・丸山顕徳編『東吉野の民話』