えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:『顔真卿展』 東京国立博物館 二〇一九年二月

2019年02月09日 | コラム
・孤立する文字

 東京国立博物館本館を出て正面の池のほとりに小型のバンが二台止まっていた。片方は唐揚げ屋でもう片方はソーセージ屋だった。ソーセージ屋で「ローストポテト」を四百円で買うと、店主の男は紙袋にポテトを入れて粗塩を掴み入れ、袋の口を閉じて上下に勢いよく振ってから「どうぞ」とメニュー越しに手渡した。二つあるベンチの片方には老女の二人連れがペットボトルの緑茶に口をつけながら話続けていたので、一人分の隙間が空いていたもう一つに座る。雲のないぼやけた冬と春の合間の空は久しぶりに快かった。
 電車の車窓から立て看板を何度か見かけて上野に行った。年々ざわめき声が煩わしくなり、毎度の特別展ではコミケットのように団子になった人に揉まれるのを避けていたらいつの間にか上野の公園側にはいかなくなっていた。特別書画に造形が深くない。顔真卿という名は看板から知った。今年一月に出たばかりの伝記を斜め読みすると高級官史の彼は書こそ群を抜いていたが詩文はまずかったらしいとある。古本屋でも彼について書かれた本は見当たらなかった。
 国立西洋美術館の横にある緑の屋根の総合案内所で入場券を買った。昔はJR上野駅の中に券売所があったのだが、改装に合わせて閉鎖し喫茶店になったりドリンクスタンドになったりしているうちに目的を見失ったのかシャッターを下ろしていた。国立博物館の入り口もすっかりあか抜けて、入り口の手前にはガラス張りのミュージアムショップが出来ていた。京都国立博物館にも同じ建物があったように記憶している。
 肝心の美術展の入り口も屋根付きの建物となり、美術展は十分待ちの入場と看板に書かれている。足早に平成館へ向かうと丁度列の動くところに出くわしたが、並んだ私の直前で列は止められた。これがあるからこの頃は行く気をなくしていたのだが仕方ない。
 どうしてか一か所しかない入場口のエスカレータを登り切ると中国語で「右手に向かうように」と書かれた紙を持った初老の女性が立っていたので従う。あまりに久しぶりで第一会場の出口から入ったことに気づいたのは『祭姪文稿』を見るための列に並んでからだった。
「説文解字」の写本や千二百前の酔っ払いの達筆の所を過ぎて黄絹板『蘭亭序』くらいはまともに見ようかと列に並んだ。その背中で、「ちゃお・すぃ・りゃぉ」と、音が聞こえた。振り向くと中国語だった。この時だけは、なぜかその響きが会場になじんで心地よく聞こえた。
『祭姪文稿』の順番を待ちながら天井から下がる赤い大きな短冊の字を見上げる。とめどなくこぼれるあらゆる思いが自分の創り上げた書体も崩して墨になだれ込む。誰の書か忘れてしまったが、やはり悲しみと怒りのないまぜになった書を見た時と同じものを覚える。それは行列の退屈を紛らわせるための解説動画の前で立ち止まる人たちにも平等に伝わっていた。後ろに並んでいた老夫妻が「我慢できなかったのね」「三行までは抑えて書いたんだな」と、言い交していた。列が現物の前に着いた。「立ち止まらないでください」の声に気を取られたっせいで、かろうじて書きつぶされた炭の跡だけが目に留まった。
 いつも東京国立博物館の第二会場は人が疲れ切っていてものを見るには丁度良く人がばらけている。神田喜一郎の随筆で名を見たきりの米芾の肉筆の方が、よほど炭の色も鮮やかで払いの切れの良さが美しく見られた。最後に清の時代の書を以て会場を後にした。時々、会場にある展示品の気に入った一つを手元で一日かけて眺めたいと思う。そういうものが一堂に会するとそれを見に来る人の量もさながら、もの達の気配に圧倒されて頭を殴られたように茫然とする。それでも『祭姪文稿』は手元で眺めようとする気すら失せさせる、ひたすらに悲しい孤独な書だった。
「稿」の名の通り、これは下書きと伝えられている。彼が正規に残したどの書よりも人の心を打ったという理由で『祭姪文稿』は当代一の書と評されている。明朝体の元になった字体は判を捺したように整然だ。それが「安史の乱」に巻き込まれ、政治の暴走を止められず、ついには一族が命を奪われた報を顔真卿は受け取る。会場に並ぶ書の大半は穏やかな環境で字のために文のために落ち着いて筆を取られたものだ。完成品である。『祭姪文稿』は書き損じのある未完成品だ。一族の手向けに清書されるべき文である。それが残った。短い本体を守るようにこれを所持した人々の印は赤く散らばり、序文や解説が長く長く続く。歳を経た紙は華やかな白の後付けの紙とは対照的にくすみ、賊を罵倒し裏切り者を弾劾するすさまじい声が、字を評する誉め言葉を振り切るように文章から轟いている。その音のない声が、会場に集まる書を黙らせて孤高を保っていたのかもしれない。
コメント
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