【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

優秀なテスト

2012-03-03 18:37:28 | Weblog

 学校のテストや病院の検査で、「何ができないか」はわかります。「現在何ができるか」もいくらかはわかるでしょう。でも「これから何ができるか」は、わかりません。

【ただいま読書中】『南極大陸に立つ ──私の南極探検記』白瀬矗 著、 毎日ワンズ、2011年、1500円(税別)

 日本海の荒浪や山で鍛えられて育った腕白小僧の著者は、学校には収まりきれず軍に入隊します。そこでも“ヤンチャ”をいろいろやっていますが(死にかけたことが一度や二度ではありません)、なぜか児玉源太郎将軍の知己を得ます。そしてまたいろいろあって(笑)、軍を退役。著者は北極探検の手慣らしとして、千島探検に出かけます。列島北端の占守島で越冬。翌年カムチャッカ半島にも足を伸ばしてまた越冬。そのころ日本は日清戦争で大騒ぎでした。
 著者は2回目の探険では、アラスカに上陸します。無事帰国すると日露戦争。従軍して中尉となった著者はこんどこそ北極、と勇み立ちますが、保護者のはずの児玉将軍は病死、そして明治42年にはアメリカのピアリーが北極踏破を成功させてしまいます。北がだめなら南です。著者は南極を目標とします。しかしシャクルトンが南緯88度まで到達。さらにこんどはスコットが探検隊を組織しています。著者はあせりますが、金がありません。請願書を出した議会は予算を通しますが、官僚は金を出しません。ならば国民に広く訴えよう、と著者は思い立ちます。演説会を開催して国民から広く支持と募金を集め、さらに後援会長には大隈重信、影で尽力してくれるのが乃木希典、といった有力者も得ることができます。
 入手した船は、三本マストの帆船で補助機関つき、長さ30m、総トン数は204トン。なんつう小舟だ、と思いますが(第三代南極観測船「しらせ」は基準排水量が11,600トンです)、著者は、北極圏の密漁船はこれより小さい、と意に介しません。名前は「開南丸」。名付け親は東郷平八郎だそうですが、私は一瞬たじろぎます。だって……「海難丸」と読めちゃうんですもの。ともかく、明治43年11月28日、スコットには相当遅れて探検隊(上陸隊員は9名、船員18名)は出港します。といっても、そこから荷積みをする必要があり、本当に出港したのは翌日のことでしたが。暴風雨、無風帯、暑熱を越えて七十余日、一行はニュージーランドに入港します。
 さて、いよいよ南極圏です。濃霧、ペンギン、氷山、オーロラ……だんだんお膳立てが整います。ついに南極大陸を視認、さあ上陸だ、と心は逸りますが、猛吹雪と結氷が探検隊の行く手を遮ります。そもそもときは3月。南極はこれから長い「冬」になる時期なのです。一行は涙を呑んでオーストラリアに引き返します。そこで知ったのは「アムンゼン極地上陸」のニュースでした。
 オーストラリアは排日思想が強く、受け入れてもらうために一同は苦労をします。さらに経費節減のために、(もちろん許可は取って)公園に探険用の簡易住宅を設営してそこで自炊生活。バンカラです。はじめは「野蛮人見物」に人が集まりますが、やがて一行は「日本の勇士」扱いになり、こんどは賞賛の観衆が集まることになります。積極的な令嬢たちはつぎつぎ白瀬にプロポーズ。いやもう、明治の男子がどんな反応をしたのか、想像したら笑えます。舞踏会のシーンは、想像しなくても笑えます。
 国内では、大隈重信や後援会が新聞社などを動かし全国的なキャンペーンを興していました。昭和の南極探検は朝日新聞から始まりましたが、マスコミの力は大きい(大きかった)んですね。
 物資が補充され、いよいよ第二次探険の開始です。すでにアムンゼンとスコットが上陸した以上、極点を目指すのは無駄、と著者は目的を「上陸」と「学術探検」に切り替えます。なかなか現実的です。氷山と流氷をかわしながら開南丸は南進します。そしてついに明治45年1月16日に上陸成功。奇しくもその翌日はスコット大佐が南極点に到達した日でもありました。
 近くに停泊していたフラム号(アムンゼンの帰還を待っている船)を著者は訪問します。氷海航行用に開発された特別船ですが、それでも総トン数は402トンです。当時の人の度胸と技術には、敬服します。フラム号から開南丸を訪問した人は、その小ささと装備の貧弱さに呆れていますが。
 さて、ここからが“本番”です。犬ぞりを仕立てての“突進”です。そのために大変な思いをしてわざわざカラフト犬を連れてきたのですから。9日間突進を続け南緯80度5分に到達。ここで食糧が限界に達したため、探検隊はその一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名して「ここは日本領土である」と宣言します(シャクルトン中尉が別のところで「ここは英国領土である」宣言をしたのに倣ったそうです)。
 「無謀だ」と「すごい」と、感想はこの二言に集約されます。千島探険では隊員から何人も死者が出ていますが、南極の方では死者が出なくて、よかった。著者は直情型の人間のようですが、非常に柔軟なところもある、しなやかな直情とでも言うべきタイプの人のようです。「快男児」というのは、こういった人のためのことばだったのかな?




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