一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

一年を振り返って

2005年12月31日 | 思い・日常
今年は、一言で言えば、私にとって波乱万丈、激動の一年であった。
ここで振り返ってみたい。


<仕事面>

1、幼稚園
園児数の劇的な増加。5ヵ年の目標としていた園児数を、わずか3年で達成することができた。来年度園児数は7年前の3倍以上である。
園バス不使用のポリシーは貫いた上でのこの結果は、大きな自信につながった。
近隣のマンション開発の影響もさることながら、当園がかかげる保育理念、保育方針が理解され、現場の職員と保護者間のコミュニケーションが円滑になされていることも大きな要因であろう。
いたずらに園児数を増やすのは浅はかだが、少しでも地域のたくさんの子どもたちに、当園に通って欲しいという願いがある。
大事なのは園児数ではなく、子どもたちも、保護者も、当園に通ってよかったと感じられる環境つくりである。
子どもたちには、幼稚園生活の楽しさと同時に、人としての大事な心を伝えられるようにしたい。来年は、もっと子どもと接する時間を増やすこと。一人ひとりと向き合い、深く関わりたい。

2、寺
なぜか幼稚園が先に来てしまったが・・・。
住職になってはや5年余り、慣れたかというと全然・・・である。
境内、伽藍の整備は順調である。今年も寄付を募らずにささやかな普請ができた。
寺の年間行事も、それなりに無難に行うことができるようになった。
だが、教化活動と言うと、かなり心もとない。
基本的に檀信徒との関係が、いまだ法事、葬儀の範疇から脱していないのだ。
積極的な愛語も自然にかけられるようになり、コミュニケーションは深まってきている。お寺として、住職として、さらに一歩進めてどんな利他行が可能か、考え実行したい。
私の代になり、墓地を求めて檀家になる方が毎年コンスタントに増えている。
今年は特に多かった。
当寺の自然環境とロケーションに魅力を感じるらしい(住職の人柄も大きいと夢想したいが・・・)。
きっかけは、墓地購入でもいい。それもご縁である。
だが、そこから、この寺の檀家になって本当によかったと思える寺にしたい。
仏教の素晴らしさにも触れてもらいたい。
檀家であると言うことは、万一の時には原則、葬儀の導師を私が勤めると言うことだ。檀家さんに、自分の(葬儀)の時は、この住職に送ってもらいたいと心から思ってもらえるようになったら最高であろう。
私自身、導師を勤めるに値する人間であるか自問する。
だが、決して自己非難に陥ってはならない。
即今の、考えられる最善の精進を目指してゆこう。

<私的事柄>

1、結婚
この言葉に今年は一年間振り回されてしまった。正直舞い上がってもいた。
だが、私の下した決断に誤りはなかったと信じている。私も相手も成熟していなかったのだ。機も熟していなかった。強引に結婚してしまえば、私に成長はなかっただろう。もちろん相手にも・・・。執着することが大きな迷いと苦しみを生じさせるということが、全身心を通して体験できた。お互いに苦悩の泥沼にはまっていたのだ。
思い切った決断のおかげで、大きな出会いがあった。この出会いは想像以上のものだった。死にかけていた道心がなんとか息を吹き返したのだ。この出会いをあたため、かけがえのないものにしてゆくためにも、日々精進してゆきたい。
将来伴侶となる人とは、縁に対しては積極的に、だが執着せずに自然体で出会えればいいと思う。
だが、来年一年は自分の心の成長の方に比重を置くことにしよう。

2、生活
夜型の生活。
早起きできたか。朝何度寝坊したことだろうか。
お勤めは欠かさずしていたか・・・。
坐禅はしていたか。
禁煙もできなかった(今三日目)。
年間通して計画的に仕事に向かっていただろうか。

これら、挙げれば切りがない生活上の反省点を踏まえ、フランクリン式を復活させよう。
中高の時のがんばりを思い出すこと。
本山時代の生の充実を取り戻すこと。
真摯に人生に向かい合うこと。
人生の感動を再び!



女王の教室

2005年12月30日 | 休憩
お昼にテレビを付けたら、「女王の教室」なるドラマの再放送スペシャルをやってました。

はじめて見ました。

これはヤバイですね。

マジはまります・・・。


教師役の天海祐希、怖すぎです

これはかなりハマり役でしょう。

彼女にしかできません。

つねに鋭利な刃物のような緊張感を漂わせ、

えっ!ありえないでしょ・・・って場面で、ヌッと現れる。

そんな時、画面のコントラストが緑がかった暗い色になる(演出効果)。

にらまれたら石になりそう・・・現代に蘇ったメドゥーサ、ゴルゴン・・・

いやぁ、背筋がゾクゾクします

夢中で見てしまって、午後の仕事ができませんでした。

あしたも続きをやるそうです。

教育論の上ではおおいに、議論を巻き起こす作品でしょうが・・・

こういうのは娯楽として楽しみましょう。

子役たちの演技も素敵でした



正月飾り

2005年12月28日 | 思い・四季
今日は、本堂、開山堂大掃除をする。

合間にお客さんも来たりして、庫裏と本堂を行ったり来たり。

廻廊で繋がっているのだが、ゆるやかなスロープになっており、けっこう距離もあ
るのだ。普段の運動不足解消のためにも、意識して体を動かす。

掃除後、各所正月飾りをする。

お寺は、仏様、神様があちこちに安置されており、床の間もいくつもあるので、松、輪飾り、鏡餅をたくさん使う。

さて、正月飾りは、29日、31日には避けるということだ。

29日は苦日飾り、31日は一夜飾りといって、縁起がよくないとされている。

くだらない迷信、俗信と言ったら、それまでだが、やはり多少気になってしまう。

完全に迷信のない世の中も味気ないだろう。

迷信もひとつの文化と言えるなら、固執しない程度に、生活の中に取り入れてみるのもいい。


お正月バージョンのお寺は、松が清潔な気を発してる感じがして好きである。

須弥檀には、境内で採らせていただいた大王松を活ける。こいつがかっこいい。
まさに松の王様である。





尽未来際・・・永劫に!寺標建立!

2005年12月27日 | 思い・お寺の活動
昨日、当寺に念願の寺標が建立されました。

寺標とは、お寺の表札のようなものです。

先代は、素晴らしい伽藍を整備して他界しましたが、なぜか今まで寺標だけはなかったのです。

先代としたら、本意ではないかもしれませんが、私はどうにも落ち着かなくて、ずっと建立したいと願っていました。

山門の前に、高さ3メートルはある、
曹洞宗○○山 ○○寺 と楷書体で揮毫された、御影石の寺標が鎮座しています。

裏には、33代目住職、私の僧侶としての名前と、本年の成道会にて建立した旨を銘記しました。

2500年前、釈尊の成道(覚り)からはじまった仏の教えが、未来永劫伝わって、智慧と慈悲をもって、多くの苦悩する人々を救って欲しい。
当寺から、抜苦与楽の無量光を放て!!!

そんな願いを寺標に込めました。

私が死んだら、この願いは後代の住職方に託します。

今は私の番です。

今生でどこまでできるか。

やれるだけやってみます。

即今、精進!(肩の力抜きつつ)



全く関係のない余談ですが、

何故か、太田裕美の「木綿のハンカチーフ♪」が頭のなかでエンドレスです。

恋人はいませんけど・・・

いい歌です。

恋人よ~僕は旅立つ~ひがしへと向かう列車で~♪

懐メロっていいですねぇ♪



愛  谷川俊太郎

2005年12月27日 | 
今年の世相を反映する一字は「愛」に決まりましたね。

谷川俊太郎氏の「愛」という詩を見つけました。


愛      谷川俊太郎
 Paul Kleeに


いつまでも
そんなにいつまでも
むすばれているのだどこまでも
そんなにどこまでもむすばれているのだ
弱いもののために
愛し合いながらもたちきられているもの
ひとりで生きているもののために
いつまでも
そんなにいつまでも終わらない歌が要るのだ
天と地とをあらそわせぬために
たちきられたものをもとのつながりに戻すため
ひとりの心をひとびとの心に
塹壕を古い村々に
空を無知な鳥たちに
お伽話を小さな子らに
蜜を勤勉な蜂たちに
世界を名づけられぬものにかえすため
どこまでも
そんなにどこまでもむすばれている
まるで自ら終わろうとしているように
まるで自ら全いものになろうとするように
神の設計図のようにどこまでも
そんなにいつまでも完成しようとしている
すべてをむすぶために
たちきられているものはひとつもないように
すべてがひとつの名のもとに生き続けられるように
樹がきこりと
少女が血と
窓が恋と
歌がもうひとつの歌と
あらそうことのないように
生きるのに不要なもののひとつもないように
そんなに豊かに
そんなにいつまでもひろがってゆくイマージュがある
世界に自らを真似させようと
やさしい目差しでさし招くイマージュがある


以上、この詩は、抽象画家パウル・クレーに捧げられた作品だと思います。

冒頭の
「いつまでも 
そんなにいつまでも 
むすばれているのだどこまでも 
そんなにどこまでもむすばれているのだ」
 
ここに、この詩のすべてが集約されています。
 
 私たちに、断絶はない、時間的にも、空間的にも・・・。
 
 そんなに果てしなく途切れなく、いつまでもどこまでもむすばれている。

 それが「愛」。

 そこに「愛」。


 いい詩です。


    

新年に向けて!近況と将来の展望、そして野望!

2005年12月25日 | 思い・お寺の活動
<近況>

ここ2ヶ月間、法事の後には、「つながり・かさなりコスモロジー」に基づいて、ご先祖様をさかのぼるワークを元に、「縁起」の法話を続けている。

人間一人ひとりの命の重さ・かけがえのない尊さを、ビッグバンまでさかのぼり力説する。
さらには、分別知に基づく無明の話、無明をなくした仏の智慧と慈悲の話にまで言及する。半ば強引だが・・・。
時間は30分あまり。
われながら、けっこう熱弁である。

檀信徒の手ごたえも感じている。
反応がいい。
数々の有り難いお褒めの言葉もいただいた。
「仏教の「縁起」と現代宇宙論のつながりに驚いた」
「私はこういう話を聴きたかった」
「こういうご縁の話が、今の社会で一番必要なんですね」
「仏教がこういう教えだとは知らなかった」等々。

実は私自身が最近の自分の姿にいささか驚いている。
私が法話に熱くなるなんてことは、いまだかつてなかったのだ。


<これまでの経緯>

「法話」、できれば、以前は逃げたかったのが本音である。
というのは、まず人前で話すのが不得手なこともある。
だがなによりも、駒澤大学で学んできた仏教哲学と、実際の檀信徒への教化活動が、私のなかで、納得の行く形で結びつかなかったからである。
正直、檀信徒に仏教の核心「縁起」や「空」といった内容を語る自信がなかったのだ。
どうせ話しても伝わらないだろうし、自分にうまく伝える力はないだろうと半ばあきらめていた。
だから、それまでは、いわゆる仏教神話的コスモロジーを語ることで、お茶を濁していたようなところがあったと思う(現在は仏教における神話的コスモロジーの重要性も認識している)。
それなりにお寺の行事をこなしながら、補償行為(罪滅ぼし)として、幼稚園の子どもらに惜しみなく愛情を注ぐことで、寺の住職としての不全感の穴埋めをするような所があった。
だが、自分はごまかせない。
自分の内面に大きなディレンマを抱えていたのが本当のところだ。

もちろん私もそれなりに大学で仏教学を修め、仏教の核心、哲学が普遍的真理であることは確信していた。
だが、それを檀信徒にいかに伝えていけばいいのかが分からなかったのだ。
私の中では、先祖供養と仏教哲学(禅学も含めて)が根本的に乖離しているように感じられたからである。自分に嘘がつけない性格の私は、僧侶であるということのアイデンティティーを失いかけていたのかもしれない。
告白すれば、それに伴って、向上心も失われ、仏教書を読むことも次第に少なくなってきていた。つまり、僧侶の命とも言うべき、道心と呼ばれるものが消えかかってきていたのだ。加えて私の怠惰な性向もその方向に拍車をかけたといえよう。


<出会い>

また同時に、私は数ヶ月前より一身上の悩みを抱えていた(今は解消した)。

そんな、精神的にどうしようもない状態のときに大きな出会いがあったのだ。

題名に惹かれ、書店で何気なく手に取った「生きる自信の心理学 岡野守也著 PHP新書」という一冊の本。

本書で「つながり・重なりコスモロジー」という、まさに現代版の縁起説法と出会う。
私の目はようやく開かれた。
出会うべくして出会ったのだ。

そして目下、本書との出会いをきっかけに、岡野先生のワークショップに参加(当ログ開設のきっかけ)し、さらにコスモロジーについて、また仏教、心理学をはじめ、さまざまな分野の著書から総合的に学びと実践を深めているところである。

特筆すべきは、岡野先生の主宰するワークショップはもとより、定期的に行われる講義にも、若い人が多く出席しているということだ。もちろん私含めて(笑)

岡野先生は、大乗仏教(禅・唯識)、コスモロジー、論理療法、K・ウィルバーのトランスパーソナル心理学、アドラー心理学、フランクル心理学、・・・etc、といった、列挙すればきりがないほどの人類の叡智を、統合的(インテグラル)に把握することを目指している。
そして、私が岡野先生に対して、敬服と感嘆の念を禁じ得ないのは、岡野先生が、これらの叡智を学び、実践し、個々の自己変容を促すことで、「エゴイズム・ニヒリズム・快楽主義」に陥った混迷した現代社会をベターな方向性に向かわせてゆくという、明確なビジョンと強い信念・誓願を抱いているということである。
直接聴いたわけではないが、そうした強い思いが、著書からも、人格、言動からもにじみ出ているように感じられるのだ。私の周囲には素晴らしい僧侶の先輩もたくさんいるのだが、実際これほど利他の念が強い方と出会ったのは、初めてであった。
そこに私は一筋の光明を見た。
赦されるならば、先生の後に従いながら一緒に道を歩んで行きたい。
この人と一緒であれば、絶対に道を踏み外すことはないのだ(もちろんMUST化は注意だが…笑)。


<既成仏教寺院批判と今後の自己の展望>

さて、私はここではっきりさせたい!
今の既成仏教は死に体である。
総合的に判断し、そう断言できよう。
このままいけば、ますます淘汰に拍車がかかる・・・。
既成仏教、つまり日本の仏教寺院にできることが無くなったのであれば、私はこのまま寺院は滅んでもいいとさえ思う。仏の教え、仏道さえ残れば、寺院が無くなってもよい。
人に求められない寺院であれば、滅び行くのが自然の道理である。

しかし私は、まだ寺院は、果たすべき役割があると信じている。
人々の交流、癒しの場、覚りと救いの道場、地域開放の場、文化・芸術の発信地として・・・寺院はさまざまな可能性を秘めていると思うのである。

要は、大乗仏教の本質、智慧と慈悲に基づき、自利利他一如を自己の行動規範とすること。さすれば、自ずから道は開けよう。

なにも派手なことをする必要はない。
ささやかであってもいい。
願わくは、社会の一隅を照らすともし火となりたい、ただ、この一念を大事にしたい。

でかいことを言うのは簡単なのだ。

とにもかくにも、
私も、お寺も、幼稚園も、これからである。
まだ何も具体的に実践していないのだ。

私が願って止まないのは、いかなる形であれ、真剣にこれからの寺院のあり方を考える若者が集って、刺激しあい、真に建設的な意見交換をし、そして、一致協力して社会貢献できるネットワークが全国的に組織されてゆくことである。

日本仏教界で、少しづつそうした動きが見られるものの、一般にはほとんど認知されていないのが現状である。宗門内でもいろんな組織・団体があるが、玉石混交、いや石ばかりというのが事実ではないか。また、そうした団体は概して自己満足に陥いっているものが多い。宗門・本庁批判をしたところでしょうがない。

もちろん私など人のことをとやかく言える立場ではない・・・ここは、あえて自己批判(前向きな)をかねて主張しているのだ。

長くなってしまった。

繰り返すが、でかいことを言うのは簡単なのだ。
いま、ここ、一日一日を、地道に丁寧に。

とにかく自利利他である!

自己成長は、宇宙の成長。

限りなくベターな方向に向かって。

強く!優しく!美しく!

軽やかに、朗らかに、

智慧と慈悲をもって!

私は歩いていく!!!



はい・・・かなり自分に酔ってます(笑)




読者のみなさんへのお詫び

2005年12月25日 | Weblog
昨日、「実はオーラが見えます・・・。」という記事を掲載しました。
しかし、ブログというものが多少なりとも、世の人々に対して影響力を与える媒体である以上、そのような神秘体験(もどき?)を告白しても、誤解を招いたり、何の益もないことを自省し削除致した次第です。
謹んでお詫びいたします。

私としてはそうしたものに惑わされず、ただまっすぐに自分なりに仏道を求めていきたい。それがわたしの進むべき方向性であると思います。

さて、今日も法事が2件。
三日間、法事が連続してます。

コスモロジーの法話を頑張ります!
手応え、大いにあり!
これは、ホント驚きです。
法話の内容については近日、報告致したいと思います。

クリスマスの思い出

2005年12月24日 | 思い・四季
何歳の頃だろうか。

クリスマスの朝、目を覚ますとベッドの傍らにプレゼントが置いてあった。
あの、すがすがしくて、喜ばしい朝は忘れられない。

ごく一般的なサラリーマン家庭で育った私、

子ども時代は、平凡ながらも、家族でクリスマスを祝った。

ささやかな電飾つきのクリスマスツリーを飾り、
イブには、ごちそうとケーキを食べ、
シャンメリー(子供用シャンパン)を飲み、
あたたかい部屋で家族とゆっくりくつろぐ。

一年中で一番幸せだった。

学生時代は、バイト先で過ごすことが多かった。

ファーストフード(モス)、ファミレス(不二家)。

仕事の後、仲間と一緒に祝う。

ドンちゃん騒ぎ・・・。

だが、当時何に対して祝っていたのか・・・。

謎だ。


イエス・キリスト。

「愛」の結晶の誕生。

人類史に燦然と輝く。

イエスさまの誕生を心からお祝いしたい。

いかん、腹の肉が・・・

2005年12月23日 | 休憩
最近なんだか腰が張ります。

正座で足が痺れやすくなります。

ちなみに私の正座の耐久時間は約1時間。

最近、正座のカラータイマーが短くなりました。

檀家さんの前、痺れた足でヨタヨタ歩くのはけっこう恥ずかしい・・・。

ごまかしテクは身についています。

テクが効かないときは笑って開き直ります(しかない)。

世間では、お坊さんは、エンドレスで正座ができるという先入観があるらしいのです。
それは、お坊さんだったら字がうまいということと同じくらいの独断と偏見であります。
いや、これは悪質な自己弁護です。
ただたんに、修行の足りないお坊さんが増えたということです・・・私を含めて

前置きが長いですね。
そう、
どうやら、体重が増えているのです。
お腹の(余分な)肉がかなり出てきている。
たくさんつまめてしまう・・・。

昨晩久々に体重を量りました。
3ヶ月で4キロ増えてました。
こりゃまずい・・・。
学生時代から、ほとんど増減なしというのが自慢だったのに。

最近を振り返れば、
確かにデスクワークばかりで、動いていない。
夜のお付き合いも続いている。
時間があれば、本ばかり読んでいる。
読みたい本が山積みで・・・。
積読状態の本も多い。
あと、近ごろ外観を気にしなさ過ぎてるな。
全然服買ってないし。
アローズ、ポール・スミス、ポロ・ジーンズ・・・。
行ってないな~。
外観無頓着も行き過ぎれば問題。
あ、坊さんだからいいのかな・・・。


もともとダイエットは得意分野です。
あの手この手の自己流があります。

ストイックも、ツボにはまってしまえば心地よい。
ダイエットは数字で結果が出るから分かりやすい。
だから、モチベーションを保つのが楽。

しかし、
地球上に、多くの飢餓で苦しんでいるという人たちがいるという現実の中、
ある意味、ダイエットとは罪深い行為なのかも・・・。

ダイエットではなく、「節制」と呼ぶと少し気が楽になります。
普段から、節制と簡素を心がけよう。
今風に言えば「シンプルライフ」と言うのかな。

あと、私に必要なのは禁煙です。
いや、絶煙と言おう。
わりかしヘビーなのです。
何度試みたことか・・・。
まったくつくづく意志の弱い、生臭○○です。

ん~いかん。自己非難はやめよう。

やめたい。やめよう。やめる。

必ず年内に肩をつけます。

姉貴よ!「どうせ無理!」って言うなよ~

すんません。
今日はボヤキの記事でした・・・。




ブログタイトル「一顆明珠」への思い

2005年12月22日 | 禅・仏教
「一顆明珠」(いっかみょうじゅ)

なんて美しい言葉だろうか・・・。

尽十方世界、是一顆明珠(じんじっぽうせかい、これいっかのみょうじゅ)。

時空を超えた全宇宙(コスモス)は、一つの透明な光り輝く珠。

唐の禅僧、玄沙師備が言語化し、道元禅師が「正法眼蔵」で説いた。


私も一顆明珠。

あなたも一顆明珠。

天地自然、生きとし生けるもの、

無限の過去、果てることのない未来、永遠を包括した「今」、「ここ」、

迷い、覚り、

明るさ、暗さ、すべてが一顆明珠。

一つの透明な光り輝く珠。

全宇宙すべてが一顆明珠。


一顆明珠は一顆であって、増えも減りもしない。生まれも滅びもしない。

全宇宙、すべてはひとつにつながっているのだ。

他者は自己であり、自己は他者である。いや、究極、自他はない。

無境界。

わたしの外に一顆明珠があるのではない。

わたし(宇宙)は常に一顆明珠であり、離れようにも離れられないのだ。

私と宇宙は一体、一顆明珠である。


一顆明珠は会得しようにも会得できない。

それは対象ではないから。

「全宇宙、それ」そのもの。

透明であるが故に、それは無碍であり、捉えることなどできない。

しかし、会得できないところを、分別知の働きを乗り越え、般若の智慧を具備し、全身心をもって、顕現してゆきたい。

随処に主宰とならんことを願う。

そう、いつか必ず。

そんな願いを込めてブログタイトルにした。

身の丈に合わない大それたタイトルである。

だが、未熟な自分もまた一顆明珠であるのだ。

「道元のコスモロジー」(岡野守也著 大宝輪閣)、本書と出会って、この言葉の深さと美しさに心が揺さぶられるような感動を覚えた。

岡野先生に心の底から、「有り難う!」と言いたい!!!

面と向かっては照れ臭くて言えない・・・(笑)