一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

葬儀について思う

2006年02月28日 | 思い・お寺の活動
ここのところ、葬儀が立て続けである。

僧侶としてあるまじき物言いかもしれないが、弱音を吐けば、正直、葬儀の導師を勤めると、精神的エネルギーを激しく消耗する。

葬儀は、ほかの勤めとは明らかに違う。

私もまた「死」という厳然とした事実に対峙せざるを得ないからだ。

「死」とは終わりではなく、新たな旅立ちであると信じているものの、遺族にとって愛しい者の死は愛別離苦を伴う。

私もまた遺族の悲しみの念を引き受けざるを得ない。

しかし、共感はしても、その感情に飲まれてはいけない。

その時点で導師とは言えないのだ。

これから臨むのは、自ら命を絶った青年の葬儀である。

うつ病で苦しんでいたと聞く。

以前、母親に、悩んだら彼に電話させるように、話したいことがあったら寺に来させるようにと言っていたものの、なんら連絡はなく最悪の結果になってしまった。

自責の念と無力感を覚える。

住職になって、時折自殺者の葬儀に立ち会ってきた。

二度と自殺者が出ないよう、今後の方策を考えること。

いのちの意味を伝えられる僧侶になりたい。

そのためには、自分のいのちの意味を明らめること。

頭で理解するだけでなく、全身心で腑に落ちるほどの体得をしてゆきたい。


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ありがとうございました

荒川静香さんの顔

2006年02月27日 | 思い・日常
わけあって、以前から荒川静香選手を応援していました。

わけを打ち明けると身元がバレル恐れもあるので差し控えます

やっぱり、多少なりとも関係のある選手がメダル、しかも‘金’を取ったのは、とても嬉しかったです。

荒川選手の‘金’は、ずっとわたしたち日本人の記憶に残るでしょう。

なんといっても、今回のトリノ五輪、日本唯一のメダル。

しかも‘金’

さて、気になったことがあります。

荒川選手の少女時代の演技、インタビューの様子がTVに出ていましたが、今と顔が全然違う。
今はキリッとした、涼やかな顔をしてますが、小学生?の頃は、瞳がパッチリしたあどけない可愛らしい女の子。

当時から、受け答えには落ち着きがあるものの、顔が全然昔と違う。

きっと今まで一筋の道を、一途に歩んできたことで、顔つきも大きく変わっていったのでしょう。

荒川選手の顔は、とりわけ、目鼻立ちの整ったすごい美人という顔ではありませんが、そこからは強い意志と、迷いのない清清しさ、爽やかな美しさを感じます。

人間の顔が(ある程度)内面から作られるというのは、一面の真理をついているかもしれません。

自分の顔にも(ある程度)責任を持ちたいと思いました。

※写真は境内の枝垂れ梅です。

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ありがとうございました

アカモク・・・海を浄化する海草

2006年02月26日 | 思い・日常
先ほど、たまたま付いていたTVの「夢の扉」という番組で、「アカモク」という、海を浄化する海草の普及に努めている人のドキュメンタリーを(途中からですが)観ました。

これまでアカモクは海苔養殖関係者には、邪魔者として忌み嫌われていたらしいです

ですが、アカモクの水質浄化能力には目覚しいものがあることが分かってきたといいます

実際、実験的にアカモクの養殖も成功しており、周辺で顕著な水質の改善が見られるとのこと

また、このアカモク、これまでほとんど食べられることはなかったということですが、研究によると、ガン細胞を破壊する大きな働きがあるとのこと。
ほかの海草の数倍~数十倍の効果があるとのことでした。

まだ、研究段階ではあるものの、今後その効能が大いに期待できそうです

レポーターが、茹でたアカモクをみじん切りにしたものを、ご飯にかけて食べてましたが、見た目的にはヌメリがあって、色も鮮やかなグリーンで雌株昆布のようでした。味が気になるところです・・・。

環境保護の対症療法と言えるかもしれませんが、やらないよりは断然マシなはず。

アカモクが普及して海がどんどんキレイになることを願います

<追記>
アカモクをネット検索したら、最近では結構食されているようですね。
うかつにも知りませんでした。
いろんなレシピが掲載されていました。
しかもダイエットにも効果があるらしい。
基本的に海草は超低カロリーですから当然といえますが。
これは、軽くヤバイ女性陣、注目の食材かもしれませんね
私はかなりヤバイので、抜本的な見直しを図らないといけません・・・。
あ、でもそんなに太っているわけではありません。念のため

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ありがとうございました


マンサク(黄と赤)

2006年02月25日 | 写真館・花(境内)
庭のマンサク(満作)の花が咲きました。

マンサクの名の由来は、早春にほかの木々に先駆けて咲く(「まず咲く→まんさく」)から、木に花が満ちるから(「満作」)とも言われています。

写真左側のように元来種のマンサクは黄色の花をつけますが、園芸種には右側の赤色(ベニバナマンサク)などもあります。

※マンサク:ヤフーキッズ図鑑

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ありがとうございました!





親子の絆

2006年02月24日 | 写真館・うちのわんこ
左が母犬メリ5歳、右が娘犬グリ3歳です。

グリは去年はじめてお産をしました。

メリは人間並みの知能がある天才犬(飼い主バカ)。

そして世渡り上手、家ではたまに「媚び売り犬」と揶揄されることがあります

グリは超やきもち焼きの内弁慶です。

子どもが大の苦手。

いつもブスッとした不機嫌な顔をしてますが、実は心の優しい忠犬です。

ですが母犬メリに対しては辛口で、ことあるごとにメリに妬いて、うなり声をあげます。

そんなグリに手を焼いているメリですが、いまだに面倒見のいいお母さんです。

写真は、いつ境内の裏山遊びに連れ出してもらえるか、今か今かと玄関で待機しているところです。

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ありがとうございました!


曹洞宗侶に熱あれ!光あれ!まず一歩前へ!

2006年02月23日 | 禅・仏教
今日は、私が昨年来より教えを享けている岡野守也先生が、曹洞宗島根県布教講習会で講義をされている。

岡野先生については、これまでも当ブログで触れさせていただいたのでここで詳しくは述べない。

だが先生の見据えている展望をあえて一言で言えば、大乗仏教の精神を個人レベルで啓発し共有していくことによって、この混迷した現代をベターなベクトルに推進していくことにあると言っていいと思う。

もちろん、先生の研究の射程は、広義の大乗仏教にとどまらない。

禅、唯識をはじめ、トランスパーソナル心理学(K・ウィルバーを中心とした)、論理療法、アドラー、フランクル、マズロー、フロイド、ユング等の心理学。
また、、仏教の縁起と空観によって論理的裏付けがされ、現代宇宙論の成果をもとに構築された「つながりコスモロジー」という体系
実際これらの「知」を挙げれば切りがない・・・。

岡野先生は、これら洋の東西を問わない膨大な人類の叡智を統合把握し、エゴの肥大化が加速する現代を根底から変革していく活動を、サングラハ教育・心理研究所※リンクを興して具体的に展開されている。

またその活動の姿勢として着眼すべきは、当会の基本理念として「MUST化はしない」ということを第一に掲げていることである。もちろん厳密に言えば「MUST化はしない」ということも「MUST化しない」ということになり、堂々巡りの循環論法になるが、ここで論理学を論じてみてもあまり意味がないだろう。
つまりは、特定の宗教、イデオロギー、信条を絶対視せず、批判精神を許容しつつ、合意の上で、全体としてよりベターな方向性を目指していくということである。
人類の歴史をたどってみれば、過去から現代に至るまで、どのような宗教、イデオロギー、信条にしろ、それらを絶対視することによって、必然的に排他的感情が生じ、戦争や恐怖政治が繰り返されてきたということは明らかである。

だから会の活動(講義やワークショップ)も、完全に個人の自由意思を尊重している。そのせいか、会員も老若男女、職業を問わずさまざまな人々で構成されており、その雰囲気は極めて風通しがよく、明るさに満ちている。

なんだか、サングラハ教育・心理研究所の広報活動のような記事になってしまったが、これも別に依頼されてしていることではなく、私の自由意志で行っているのだ。だから、私の言動がピント外れであることもあり得るが・・・

さて本題に入ろう。

私の所属する既成仏教団体、曹洞宗は全国1万6千箇寺を擁する巨大な教団である。曹洞宗は、日本仏教史、ひいては人類史においてさえ、燦然と輝きを放つ「道元禅師」を開祖としていただいている。
開祖、道元禅師は言うまでもなく、正伝の仏法「坐禅」を宣揚された。
その坐禅は自利行であると同時に利他行の坐禅である。
しかるに、曹洞宗門の現状はどうであろうか。
痛切な自戒の念も込めてあえて一言言わせていただくなら、はたして「坐っているのか」。
坐っていなかったら、それに変わる利他行にいそしんでいるのだろうか。
私は何も、日本古来の先祖儀礼(葬式・法事)を軽視しているわけではない。それがたとえ形骸化されたものであっても、人々がそれによって安心(あんじん)している以上は、立派な利他行である。しかし現代、そうした従来の型通りの儀礼では、精神的な充足を得られない人が増えている。
彼らは心の支えを、既成寺院にではなく、新興宗教を含む「在家教団」や、在家出家を問わず著された「宗教書」の類、ちまたに蔓延する「癒し」、「スピリチュアリズム」、「占い」といったものに求めているのではなかろうか。
または、金銭至上主義への追従、快楽主義への逃避、エゴイズムを肥大化させることによって、刹那的退廃的な生に、自己の病を隠蔽しようとする傾向が見られるのではないか。
以上の傾向は、なにも他人事ではない。私自身の中にもいささかなりとも見出せるし、一般論として断定はできないが現代宗侶の中にも、そうした問題は内在化されているのではないだろうか。

住職の仕事は決して楽ではない。
現実問題として寺の住職をしていれば、住職には十の職があると言われるほど、仕事は多岐にわたり、一般から想像されるようなスローライフを送っているわけではない。所帯を持てば、在家の人々と同じような苦労を味わう。それもまた大乗の精神に基づけば、否定し去られるものではない。
だが、やはり僧侶である以上は、人並みの人生における喜怒哀楽を含んで、さらに一歩を進めなければなるまい。そこにだけ安住することは、僧侶の堕落であり、アイデンティティーの崩壊である。

完全な在家の家庭から、仏縁あって15才の時、この世界に身を投じた私は、これまで周囲の先輩宗侶の温かい庇護があって、いまこうして一箇寺の住職をさせていただいている。在家の視点をあわせ持った私が公平な目で感じるのは、曹洞宗の僧侶の方々は、誠に心優しい方が多いということ。また、人間的魅力のある方も多くいるということである。だが、残念なことに僧侶としての魅力を持った方が少ないのだ。それは、やはり一歩先へ進む姿勢が乏しいからである。自分たちが先陣を切って、現代の精神的支柱にならんとする気概が感じられない。
それは自分にも言えることだが、それでも私は自己の抱えるこうした傾向にようやく気づき始めた。だからこそ、岡野守也先生の主宰するサングラハ教育・心理研究所の会員となり、学びと実践を始めたのだ。先生は、宗門でもその活動の実績が評価されたのか、曹洞宗内においても講演を依頼されることが時折あるようだ。だが、先生の展開する活動に具体的に参画する宗侶は少ないようである。
それは、推察するに先生の経歴や立場にも起因するのかもしれない。私のような在家出身者にとっては、まったく取るに足らないことであるのだが。
まず一つは、出家ではなく在家であるということ、さらに一つは、元牧師であるということ、にあるのではなかろうか。おそらくは在家の主宰する研究所の活動に賛同できるものか、といった尊大さ、あるいは、元牧師であるということへの不信の念、違和感がそこにあるのかもしれない。

まず出家・在家にこだわることについて反論したい。
出家、僧侶であることを威張ったところで、現状、いまの僧侶は本来の意味での「出家」をはたしているのだろうか。家族を持ち、財産を持ち、少なくとも9割以上の宗侶が、在家と同じ生活をしていると言っても過言ではない。一般的な出家以上に、出家によほど近い生活を送っている在家の方もいる。ここでこうした反論が予測される。われわれは仏戒を授かっているから、やはり違うのだ。または、基本ラインとして道元禅師も出家主義を標榜しているから、在家より少なくとも一段上であるのだという意識。しかしこれは悪しきDogenisumであろう。道元禅師の都合のいいMUST化である。自分にとって都合のいい箇所でMUST化を図っている。そんな主張をするのであれば、道元禅師の言われるとおりの如法の修行を進めてから言って欲しい。フェアではない。私は普段の檀務においても、自分があくまでも立場として上に置かれているに過ぎないことを、つねに内省する必要があると思う。上座部の出家とは違うのだ。また道元禅師の主張する出家とも明らかに違う。如法の出家を貫いている僧侶がどれだけいるだろうか。おそらく宗侶の0,1%もいないはずだ。
であるならば、道元禅師を自分の都合の良いようにMUST化することは避けるべきであろう。これもまた、わが身を振り返り、厳しく自問自省して述べている。

また、先生が元牧師であるということ。ここで、誤解を恐れずに言えば、先生は牧師を辞めてもイエスへの愛を捨てたわけではない。むしろ、いわゆるキリスト教の組織から離れたことで、その愛はさらに深まり純粋さを増したのではなかろうか。これはもとより私の推察なのであるが。
また、同時に、釈尊や大乗仏教の祖師、ひいては道元禅師から良寛和尚に至るまで、そうした仏祖に対して、先生が抱く敬愛の念ははかり知れない。とても中途半端な宗侶の及ぶところではない。
私は昨年ワークショップに参加して、散歩中に先生にはじめて尋ねたのは「先生が元牧師であったことについて」だったと記憶している。そのときに先生は「従来のキリスト教の神話的なイエスの解釈に限界を感じたので牧師を辞めました」と言われた。だがその後でハッキリと、「しかしイエスとその教えを捨てたわけではないのです」と言われた。今でも、その言葉が忘れられない。
もしそのとき、「イエスの教えには限界を感じて、大乗仏教に転向した」といったような事を言われたら、私は間違いなく先生の活動に賛同しないであろうし、会員にもならなかったであろう。
愚見だが、歴史的な経緯で不幸にもキリスト教は教条主義化し、イエス、その人の、純粋な精神は歪曲化された形で解釈されて伝わってしまったように思うのである。これについては思うところも多々あるものの、もとより本文の趣旨から離れるのでこれ以上は述べない。
先生は、いわゆる一般的なクリスチャンという言葉ではくくれないが、イエスを全身心で愛していると言えると思う。これもまたその辺の中途半端なクリスチャンが抱くキリストへの愛の及ぶところではない。

私は、そのあり方に全面の信頼を寄せるのだ。
ただ、そこは仏教、道元禅師をMUST化している宗侶には共感しづらいかもしれないのだが・・・。

私は、これまで、いわゆるクリスチャン、あるいはキリスト教の聖職者と少なからずご縁があった。それは、現実においても、また思想や著作においても、である。真摯なクリスチャンに、共通して言えることがある。それは、彼らが、キリスト教という組織的な環境にあっても、極めて利他的な性格を失っていないということ。彼らにとってはいわゆる異教徒と呼ばれる存在の私に対してさえ、友愛と敬意、慈愛の念は篤い。それが、いわゆる神の愛に基づいた他律的なものであるにしても、時として大きな感動を覚える。客体としての神が命ずる他律を超えた、自律的な内なる神に突き動かされているのではないかと思わされることもある。
元牧師である岡野先生にも、おそらくそうした極めて高邁で利他的なキリスト教の精神が、自然その人格を醸成したのではないかと思うのである。
翻って、自身を自問すれば、果たして具体的な利他行として、なにかしらの奉仕をしているだろうか。ひいては既成仏教は、どんな利他行的アクションを展開しているのだろうか。強いてキリスト教の聖職者の活動と比較すれば、完全に劣っている。あのSVA(シャンティ国際ボランティア会)も、過去に曹洞宗は見捨てたのだ・・・。宗門あげて環境保護を訴えるのもいいが、一過性に終わり将来的な展望がまったく見えてこない。ほかにも宗門内部政治の腐敗構造など唾棄すべき点を挙げれば切りがないが…ここはいたずらに宗門批判をしても仕方なかろう。
個々の寺院の、なにより個々の僧侶の意識の変革が先決であり、その灯火が徐々に輪となって広がれば、宗門全体がベターになっていくはずなのだ。

長くなった・・・。
私は何が言いたいのか。
曹洞宗侶は現状に甘んじずに、まず一歩前へ踏み出すこと。
そのためには自己の拠って立つところをMUST化するのは避けるべきである。
これと「信」の問題は、似ているようで実は決定的に違うと思うのだ。これについては長くなるのでここでは触れない。

学びと研鑽を深め、ちょっと背伸びしてやれることをする。
自分にできるやれるだけの自利利他行の実践。
そして大乗理念への原点回帰!

曹洞宗侶に熱あれ!光あれ!

そのためのはかり知れないほどのヒントが、サングラハ教育・心理研究所にあると考えている。

最後に、今回の島根県の布教講習会に岡野先生を招聘した、実行委員の宗侶の方々の慧眼と熱い思い、その実行力に、謹んで深い敬意を表したい。


<追 記>

思わず熱く激しい文章になってしまいました・・・
その理由は、少なからず、心ある宗侶の方々が、多かれ少なかれ私と同じ思いを抱いているのではないかと思うからです。
ですが、全体としては冷めている宗門の現状に、忸怩たる思いを通り越して内心、諦観の念を抱いているのではないでしょうか。
今回の記事はそのような思いを代弁する意図がありました。
道心堅固な方におかれては、周囲のことはいい、自分がしっかりと精進していればいいじゃないかとお考えの方もおられましょうが、この時代の問題は自分だけのことではないように思われます。
言わずもがな、現代はまさに危機的な状況です。
私は幸いにもサングラハ教育・心理研究所という絶好の機会と、大乗の理想にまい進する岡野先生という師を得ました。
ですが、これもまた強くお勧めはするもののMUST化しようという気持ちはサラサラなく、どんな形であっても宗侶一人ひとりの意識が変わり、全体としてベターなベクトルに向かって大きな流れとなることを熱望するのです。

独りより、二人がいい、二人より三人・・・大衆の威神力となって欲しい。

宗門の中には、例えば私の敬愛してやまない南直哉老師のように、既成仏教のあり方に危惧の念を抱き、サンガを結成したり、超宗派の僧侶のミーティングや、在家・出家を問わない活動を展開されている方もいます。
南師においては、並外れた知性と論理力をもち、感嘆するほどの言葉の力を持ち、そして何より道心堅固な方で、このような方がいることは、宗門の宝であり、わたしとしても大変心強く思っております。
ですが反面、やはり、宗侶としての自覚が強いためか、私としては師の言語活動に、道元禅師のMUST化、あるいは仏教のMUST化を見てしまうのです。方向性としては極めて純粋で、正しいのですが、大乗精神を一般化するという観点において言えば、そこに私は限界を感じてしまいます。

そして、何より道元禅師のMUST化をすることで私が危惧するのは、宗侶としての自分を苦しめてしまうこと。つまりは、自虐、自己非難に陥りやすい。純粋な人であればあるほどに悩むはずです。
現実問題として、道元禅師の時代の出家のあり方に戻ることは私たちにはできない。この事実をまずしっかりと見据えることが大事なのではないでしょうか。そして、だからと言って決して開き直るのではなく、また、いたずらに自己非難するのでもなく、また道元禅師の教えを他を批判したり、自らの正当性を主張するために用いるのではなく、自分がそこに説かれた仏法から何を抽出して我が物とするかがすべてではないかと思うのです。いや、むしろそれを含んで超える。
道元禅師もまたその時代の人です。普遍的なことを述べていることもあれば、時代の制約を出られないこともある。釈迦も、イエスも、孔子もまたそうであると思います。
不遜な言い方を恐れずに言えば、偉大な過去の教えを含んで超えるあり方を目指すべきなのではないでしょうか。
大乗仏教もゴータマ・ブッダの教えを内包しつつ超えています。
これは仏教学を少しでもきちんと学ばれた方には分かることです。

であるならば、一見いい所取りにみえるかもしれませんが、サングラハ教育・心理研究所の掲げる、統合的な視点の方が、より一般化、普遍化しやすいといえましょう。現代は、ひとつの教えを盲目的に信じる時代ではありません。私にはそう思えます。
(言語化されたものを)決してMUST化はしない。
私はこの姿勢を貫こうと思います。それが私にとっての殉ずることです。

以上、長々と駄文を書き連ねましたが、在家出家を問わず、拙ブログを読んでくださっているみなさんに、私の思いがほんの少しでも届けば望外の喜びです。

長文にお付き合いくださった方、誠にありがとうございました。

またサングラハに関わる方の中に、拙文を読んでくださった方がいらっしゃったら、一言でも感想のコメントをお寄せくださいましたら幸いです。
その一言が、「力」になります。

<再追記>

岡野とは何者だと思われる宗侶の方に一言。
多少なりとも仏教学や宗学、あるいは思想書を読まれている方が、ご存知であろう出版社「春秋社」の敏腕(想像…)編集長としてお勤めになっていました。
牧師を兼務されながら、あれだけ良質な仏教書、思想書を多数世に送り出した。
私も春秋社にはお世話になった口です。
先生のその懐の深さと、博識には脱帽します。

また、さらに付け加えれば、岡野先生は臨済の門風、秋月先生のもとで数十年参禅された居士であるということです。
先生の人格からは、長年の参禅に裏付けられた確かな風光を感じます。

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「あきらめる」という選択

2006年02月21日 | 禅・仏教
以下の文章は、以前掲示した当寺の山門伝導版の文章に若干の加筆訂正をしたものです。


あきらめるは明らめるに通ず

「あきらめる」という言葉、おそらくみなさん嫌いなのではないでしょうか。

でも私は、この「あきらめる」という言葉と、この行為の持つ深い意味に、安らぎの念と、多少大げさですが慈悲の可能性を感じています。もちろんこの言葉の持つマイナス面も認識しています。ですが私たち、特に日本人は、この語が持っている隠された大きな力に気づかず、マイナス面ばかりにとらわれているのではないでしょうか。私たちは、あきらめないことは、美徳であり、あきらめることは、すなわち敗北、恥辱であるという考え方を社会通念として当たり前のように吸収し、その考え方に心が支配されているように思います。
 私自身も、テレビドラマ「スクールウォーズ」が流行した時代に青少年期を送り、特にテレビに影響されたわけでもありませんが、劇中で繰り返されるセリフ「ネバーギブアップ」に代表されるような、何事も「決してあきらめない」ということが、人の目指すべき美しく力強い生き方であるという価値観をもっていました。現代の青少年の風潮は変化しつつあるようですが、それでも日本社会の中には
、根底に「あきらめない=素晴らしい生き方」という価値観が根付いているのではないでしょうか。もちろん私は、あきらめないということを否定しません。「念ずれば通ず」という言葉があるように、あきらめずに成功をひたすら念じ、挑戦をし続けることで、私たちの文明は進歩し、歴史的にさまざまな偉業を成し遂げてきたからです。
 しかし、少なくないであろう人々が、自分の夢や願望を追い求めても、それがかなわず、あきらめられないということで、あまりにも大きな苦しみを抱えているのではないかと思うのです。
 あきらめられないことには、さまざまな対象があるでしょう。人間関係(親子、夫婦、嫁姑、職場、恋人、友人etc)、仕事、地位(出世)、進路(進学)、能力、財産、健康、名誉、容姿、等々。まさに人間の願望の数だけ、あきらめられない対象があるといえます。
 あきらめないことで願いがかなうことも人生のうちには何度も訪れるでしょう。しかし、心のどこかで、これ以上あきらめないでいても願いがかなわないことを知りながら、それでもどうしてもあきらめられなくて、はかり知れない苦悩を抱えている人々がいることも事実なのです。
 ではどうして、ひとはなかなか「あきらめること」ができないのでしょうか。ひとつには、先述したなかば洗脳されたかのように根強い、日本人らしい情緒的価値観が挙げられます。ですが、もっと本質的な理由は、それまで自分がその願いを実現するために費やしてきた時間と労力(精神的・身体的)が、「あきらめること」で、すべて無意味になってしまうということへの恐怖心に原因があるのではないでしょうか。
 では、自分がどれだけ努力して願いを強く持っても、自分の思い通りにかなえられない願望を「あきらめること」は、はたして逃げでしょうか?敗北でしょうか?
 いや、私はむしろ上手にあきらめることは、健全で爽やかな生き方、その人の人生及び人間性を豊かにすることにつながるのではないかと考えます。たとえば、自分や、ひいては周囲の人々を苦しめると分かっているようなときに、己の願望にひたすらしがみついてあきらめないのは、エゴへの執着であり、苦悩を生む根源となります。こうした事態は逆説的な現実逃避といってもいいでしょう。しかし、あきらめ上手であれば、そうした状態に陥る前に、さらりと心を転換させて、自分のとるべき行動の選択肢の幅を広げることができるのです。
 では、私たちがとりわけあきらめることを苦手とする人生上の問題は何でしょうか。
 私は、人間関係にあると思います。
 たとえば、親子関係、夫婦関係、恋愛関係、職場の人間関係、友人関係…etc。物理的な、例えば財産所有の多寡、社会的地位などの問題は、個人の努力である程度道が開ける可能性もありますが、人間関係は相手あってのことですから、思い通りにいかないことが多いものです。また人間は、言うまでもなく取替えのきかない存在なだけに、別離(生別・死別)への恐れや、嫉妬、憎悪の苦しみは他の諸問題と比べて、より深いといえます。
 また、人間関係において「あきらめられない」という事態を観察すると、往々にして、相手の立場ではなく、おのれのエゴに基づいた視野狭窄に自らを苦しめている状況が見受けられます。つまり、相手を自分の思い通りにしたいという勝手な思いに振り回されるわけです。そして、そうした思いが強ければ強いほど、事態は深刻な様相を呈します。例えば、その極まった先に、殺人、ストーカー、自傷・自殺といった行為があるといえましょう。
 あきらめることには、はかりしれない苦痛を伴います。その願望が大きいほど、真摯であればあるほどに、あきらめることには大きな恐怖を覚えます。しかしあきらめる時が来ているにもかかわらず、自分の願望にしがみつき、あきらめることをしなければ、いつまでも生き地獄は続くことになります。自分の可能性はその一点に縛りつけられて閉ざされてしまいます。感受性も乏しくなり、人生の豊かさを体験することもできません。しかし、時間はかかっても勇気を振り絞って、(いったん)あきらめることにより、心の風通しが良くなり、大きな挫折を乗り越えた経験が、より深い他者への共感と愛につながっていきます。
 ここには、人生最大の妙薬「ゆるし」という行為が潜んでいるのではないでしょうか。それは、他人に対する「ゆるし」である以上に、実は自分に対する「ゆるし」であるのです。これまで自分を縛り付けていたエゴを手放すこと。それは、本当の意味で自分の全存在を丸ごと受け入れることであり、そのときにはじめて、私は何があっても全てにおいて「オッケー」だと言うことができるのだと思うのです。 
 真剣に努力奮闘したにもかかわらず、かなえられない願望であれば堂々とあきらめればよいのです。罪悪感、敗北感を持つ必要はまったくありません。あきらめないこと以上に、あきらめることは勇気ある選択なのですから。とにかく苦しくて仕方なければ、(いったん)あきらめてみること。括弧して「いったん」としたのは、完全にあきらめるよりも、可能性を多少なりとも残しておくほうが、無理がなく苦しみが少ないと思うからです。ここはMUST化(こうあらねばならないという思考)せずに、戦略的にいきましょう。ここで重要なのは、心をニュートラルに戻し、一つの対象への執着から自己を解放するということです。
さらに、わたしたちはあきらめる以上は、正しくあきらめることが大切です。正しくあきらめるとは、あきらめる行為自体が、すべて自己責任に帰するということを深く自覚することです。つまり他者や、周囲、環境のせいにしない。苦しくても、自ら望んであきらめるのだということをしっかり自覚するということです。そうしないと、いつまでたっても、憎悪や失意の感情は消えないまま人生を送ることになるからです。かえって苦悩を増す結果にならないとも限りません。
 あきらめるのは決してたやすいことではありません。特に周囲に真面目で誠実だと思われている人ほど、あきらめるのが下手であるように思います。言い方はきつくなりますが、不器用で融通がきかない堅物ほどあきらめが悪い。生きていく上で生じるさまざまな問題に、どうしてもあきらめがつかない。
 では、それでもどうしても「あきらめること」ができない人はどうすればいいのでしょうか?
 実はここにそんな人のために、最後の手段、悪あがきの秘策が残されています。
 それは「あきらめることをあきらめる」というやり方です。矛盾しているように思うかもしれません。でも本当にあきらめられないで苦しんでいる人には、この方法しか残されていないように思うのです。
 私は、「あきらめることをあきらめる」ということが、「あきらめる」ということと同じ意味ではないと考えます。あきらめることをあきらめることによって、執着している対象を客観化する道が開き、頭の中で凝り固まってしまった思いがほぐれ、理性が介入するきっかけが作られるのではないかと思います。
 狂おしいほどの願望をあきらめるのには、はかり知れない苦しみを味わうでしょう。それでも、人生のドロドロ、自分の中のドロドロした部分から目をそらさずに、苦悩するときはとことん苦悩する。そして、かならずいつか苦悩を乗り越え、その体験を糧に、より人として豊かになっていくと信じる姿勢が大事なんだと思います。人生に無駄はない。人生のどんな経験も自己成長の学びに溢れています。 
 近年流行りの人生論や自己啓発論では、プラス思考、ポジティブシンキングなる言葉が安易に流布されているような気がします。言葉自体は私も好きだし、実際素晴らしい力を発揮することも多く、人生の姿勢の根幹として据えておくのにやぶさかではありません。ですが、人生はそうした概念の表面的な解釈だけで乗り越えられるほど生易しいものではないことは事実です。悩み苦しむべきときにそれを避けていれば、目先の快楽におぼれて、人生は平板になり、感性も乏しくなります。

 今回は、あえて人々に忌み嫌われている(と思われる)「あきらめるということ」の意外な効用を取り上げました。
 最後に、改めて誤解のないように申し添えれば、この文章のはじめの方でも述べた通り、「あきらめる」ということを無条件で推奨しているわけではありません。「あきらめない」ことが、自己や他者の成長と幸福につながるのであれば、たやすくあきらめるべきではありません。
その願望が、自分の欲求を満たすためだけの小さなエゴに基づいたものなのか、それとも、エゴを乗り越えようとする偉大なはたらきを秘めたものなのか、ここを見極めることが何より大事なのでしょう。

拙文のヒントとなった本は『「あきらめ上手は生き方上手」下園壮太 マガジンハウス』です。

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ありがとうございました!










「水の星」 詩人茨木のり子さんを悼む

2006年02月20日 | 
詩人の茨木のり子さん死去 (朝日新聞) - goo ニュース

幼い2人の園児が殺害された。

人間はいったいどうしたというのか・・・。

なぜこんなふうになってしまったのか・・・。

何かがおかしい、どこか狂っている。

こころが痛む。

では、自分はどうか?

私は大丈夫だろうか?おかしくないか?

時代の空気に汚れてしまってはいないか?

自問してみる。

今日、詩人茨木のり子さん(79歳)が亡くなった。

詩集をひも解いたら、こんな詩がありました。


 
 水の星      茨木のり子


宇宙の漆黒の闇のなかを
ひっそりまわる水の星
まわりには仲間もなく親戚もなく
まるで孤独な星なんだ


生まれてこのかた
なにに一番驚いたかと言えば
水一滴もこぼさずに廻る地球を
外からパチリと写した一枚の写真


こういうところに棲んでいましたか
これを見なかった昔のひととは
線引きできるほどの意識の差が出てくる筈なのに
みんなわりあいぼんやりしている


太陽からの距離がほどほどで
それで水がたっぷりと渦まくのであるらしい
中は火の玉だっていうのに
ありえない不思議 蒼い星


すさまじい洪水の記憶が残り
ノアの箱舟の伝説が生まれたのだろうけれど
善良な者たちだけが選ばれて積まれた船であったのに
子子孫孫のていたらくを見れば この言い伝えもいたって怪しい


軌道を逸れることもなく いまだ死の星にもならず
いのちの豊饒を抱えながら
どこかさびしげな 水の星
極小の一分子でもある人間が ゆえなくさびしいのもあたりまえで


あたりまえすぎることは言わないほうがいいのでしょう

            (ポケット詩集Ⅲ 童話屋より) 


地球、この上なく美しい水の星に生きるわたしたち。

人類は、不思議に満ちた奇跡の惑星に生を享けた。

だが詩人からみた地球が、どこか寂しげなのは、なぜだろうか・・・

その理由は、わたしたち人間のあり方にあるのではないだろうか。

私たちは、地球の美しさからかけ離れてしまっているようだ。

なぜ私たちは、この美しい星に生まれたのか。

考えたい。


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ありがとうございました!


一昨日の眩暈(めまい)の理由、サルトルの「嘔吐」的感覚か?

2006年02月19日 | 哲学・思想・宗教
意識と本質―精神的東洋を索めて

岩波書店

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先日A師(以前書いた記事殉じることができるかどうかに記載)との対話の中で、私が哲学的思索に関心があることを知ってか、井筒俊彦氏の著書『意識と本質 』を強くすすめられ、気になっていたので、昨日、本書を読んでみた。
井筒氏については、日本におけるイスラーム学の第一人者という認識はあったものの、これまで著書を読んだことはなかった。
それまでイスラームについては、正直あまり関心がなかったのだ。
宗教学的に言えば、イスラームは、潜在的なキリスト教的世界観が地域的な現象的差異を伴って発生したものと考えていた。
だが、読み始めてすぐに、著者の東洋哲学に対する洞察の深さと、問題意識の明確さ、存在論への鋭い視点に舌を巻いた。
どうやら氏はイスラーム学にとどまらず、東洋哲学(仏教・禅)、西洋哲学はもとより、あらゆる知の営みの本質を統合的(インテグラル)に把握するという展望を据えているようだ。
まだ本書を読み始めたばかりだが、端的に言えば、氏は、「言語による事物の本質化(分節化)」を「人間の意識活動の源泉」として捉えることによって、本質化(または分節化)以前の世界の体験を希求してやまない東洋思想の核心に迫ろうと試みているのだと思う。

これから読み進めるのが楽しみである。

さて、本書を読んでいて私が驚嘆したのは、一昨日の記事※※に述べた、眩暈がするようなフラフラ、クラクラした私的な体験について、そこにひとつの解釈が明示されていたからだ。

だが、まず、その解釈を引用する前に、氏の人間の意識現象の根底にある本質を述べた文章を引用したい。以下『』内は本書の引用である。

『経験界で出合うあらゆる事物、事象について、その「本質」を捉えようとする、ほとんど本能的とでもいっていいような内的性向が人間、誰にでもある。』
 (中略)
『意識とは本来的に「……の意識」だというが、この意識本来の志向性なるものは、意識が脱自的に向かっていく「……」(X)の「本質」を何らかの形で把捉していなければ現成しない。たとえその「本質」把捉が、どれほど漠然とした、取りとめのない、いわば気分的な了解のようなものであるに過ぎないとしても、である。意識を「……の意識」として成立させる基底としての原初的存在分節の意味論的構造そのものがそういうふうに出来ているのだ。
 Xを「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適用する。それができるためには、何はともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの『本質』が捉えられていなければならない。Xを花という語で指示し、Yを石という語で指示して、XとYを言語的に、つまり意識現象として、区別することができるためには、初次的に、少なくとも素朴な形で、花と石それぞれの「本質」が了解されていなければならない。そうでなければ、花はあくまで花、石はどこまでも石、というふうに同一律的にXとYとを同定することはできない。』
(中略)
『意識をもし表層意識だけに限って考えるなら、意識とは事物事象の「本質」を、コトバの意味機能の指示に従いながら把捉するところに生起する内的状態であるといわなければなるまい。』

以上、これだけ読むと難解に聞こえるが、氏が述べていることを簡潔に言えばこういうことだろう。

人間の(表層)意識は、世界の事象を言語化して初めて事物を把捉することができ、言語化するという営為の中には、同時的にそれぞれの事物を本質化・分節化するはたらきを持つ。つまり、意識とは「……の意識」となるのと同時に、世界の言語化を前提しているということである。

では、先ほどの私的体験の解釈に移ろう。

氏はサルトルの著書『嘔吐』の文章を引用して考察している。
以下引用。
 『「ついさっき私は公園にいた」とサルトルは語りだす。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語(ことば)は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒(めじるし)の線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれだった、恐ろしい塊りに面と向かって坐っていた。」
 絶対無分節の「存在」と、それの表面に、コトバの意味を手がかりにして、か細い分節線を縦横に引いて事物、つまり存在者、を作り出していく人間意識の働きとの関係をこれほど見事に形象化した文章を私は他に知らない。コトバはここではその本質的意味作用、すなわち「本質」喚起的な分節作用において捉えられている。』
(中略)
『あらゆる事物の名が消えてしまうということ、つまり言語脱落とは、「本質」脱落を意味する。そして、こうしてコトバが脱落し、「本質」が脱落してしまえば、当然、どこにも裂け目のない「存在」そのものだけが残る。「忽ち一挙に帳が裂けて」「ぶよぶよした、奇怪な、無秩序の塊りが、恐ろしい淫らな(存在の)裸身」のまま怪物のように現れてくる。それが「嘔吐」を惹き起こすのだ。』

 さて、先だって私が体験したあのクラクラ感はなんだったのか。
 表層意識による分別知の流入にすぎないとしても、玉城先生の著作などを読んで感じた軽い眩暈を伴うフラフラした感覚。
 サルトルのように、言語化以前の分節化を免れている世界を、得体の知れない化け物のように知覚したわけではないが、事物の本質が脱落した拠りどころなき世界に、漠然とした不安を覚えたのだろうか。
 私は、元々感受移入が激しい方である。特に読書という、自己の世界に集中した没交渉的な行為において、その性格は顕著になるようだ。
私の場合、玉城先生が再三主張する、言語による分節化以前の、非二なる全宇宙のかたちなきいのちそのもの、つまりダンマ「法」が、物質や精神を超えた全宇宙大の、なまなましく、うねるよう様な巨大な力のイメージを伴って、私の心を圧迫したのかもれない。
 もとより、ダンマはこのように対象化して知覚されるものではない。だが、これを表層意識の側から知覚しようとすれば、そこにある意味ブラックホールのような底知れぬ闇を感じることがあるのだろう。サルトルもそうであったに違いない。

 井筒氏は述べている。

『何かのきっかけで言語脱落が起こり、本質脱落が起こると、手がかりも足がかりもない、つまり全く符牒のついていない無記的、無分節的「存在」の真っ只中に抛り込まれて愕然とするのだ。そしてまた、「本質」なるものの有り難さを悟りもする。かくて人は「本質」の符牒の付いた、きちんと分節された存在者の世界に再び倉皇として逃げもどる。』

 私の体験も多かれ少なかれ上記のごときものだったのだろう。
 自我意識なき、分節化以前の丸裸の宇宙に恐れをなしたと言えるかも知れない。 
『「存在」の無分節的真相をそのまま本源的な姿で表層意識に受け止めようとすれば、もともと「……の意識」であるものが、「……」を失って宙に迷い、自己破壊の危険に曝されることになる。「嘔吐」とは意識論的には、そうしたものである。』

 ではここで、井筒氏が述べる「「存在」の無分節的真相」を、玉城氏が自身の体験に基づいて述べる「形なきいのち・ダンマ」と同定した場合、いわゆる「覚り」体験とは、はたして上記の如く、危険で忌避すべき得体の知れないものと仮定していいものだろうか。

『これに反して東洋の精神的伝統では、少なくとも原則的には、人はこのような場合「嘔吐」に追い込まれはしない。絶対無分節の「存在」に直面しても狼狽しないだけの準備が始めから方法的、組織的になされているからだ。いわゆる東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である。表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平に置いて、その見地から眺めることのできる人。表層、深層の両領域にわたる彼の意識の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに表れている。』

 ここで、氏が述べる東洋の哲人は決して、そうしたニヒリズム(無意味化)の闇に陥ることはないとされる。彼らもまた言語によって分節化された世界を生かざるを得ないが、それらの分節形態を対象としては捉えないと言うのだ。
ということは、つまり分節化された事物を客観化しないということだろう。表層意識の側から、客観的に分節以前の世界を捉えようとすれば、出口のない混乱に陥るが、彼らは深層意識が拓けているから――言いかえれば全身心で、その世界を捉えているから、そこに未知なるものへの恐怖はないのである。自他分別の境界を見据えつつ乗り越えていると言う事ができようか・・・。
さらに氏は以上の東洋的立場を、大乗仏教の空観と同質のものと捉え、以下述べている。

『さまざまに分節化された事物の世界の中に、そうした事物に取り囲まれ、そうした事物に接して生きながら、しかもそれらの分節の存在中核に、それぞれを一つのものとして凝固させる「本質」を認めない、というこの聖者的あるいは至人的態度は――しかもそれらの分節形態が経験的事実として彼の前に現前している以上――当然、それらはただそういう形で現れているだけで、本当は「ない」ものであり、いわゆる「本質」は虚構であるという考えに導かざるを得ない。ここに大乗仏教特有の徹底的な本質否定が本質虚妄説として出現してくる。『般若経』以来、ナーガールジュナ(龍樹)の中観を通って唯識へと展開する大乗仏教の存在論の主流の、これが中枢的テーゼをなす空観である。』

ここに龍樹の言語批判が、実体(事物の本質化)に対する執拗なまでの否定であったことが明らかになろう。龍樹は徹底して言語化された世界を否定することによって、その地平の先に浮かびあがる「語りえない世界」を明示することを意図したのだ。それは、原理的に言葉によって定義されえない世界であり、否定によってしか浮かび上がってこない世界である。いわば龍樹の言動は「方法的否定」と名付けてもいいだろう。
さて…、今回の記事はかなり言語を弄する思弁的な内容になってしまった。
これ以上は切りがないのでやめておこう。
こうした事柄をあたかも物知り顔で論じるのは私の本意ではない。
ただ今回文章化する衝動に駆られたのは、自分の内的体験に近いものを、サルトルもまたありありと感じ、その体験に共通する由来が、井筒氏によって明らかにされていることに感慨を覚えたからである。
上記述べたように、無分節化されない世界は決して恐ろしい世界ではない。なぜなら、端的に言えばわたしたちは、すでにその世界にどっぷりと全身心つかって生きているからである。
全宇宙のかたちなきいのち・ダンマに、この世界は隙間なく満たされているのだ。
では、なぜ「ダンマ」はふだん顕わになることがないのか。
その原因は、わたしたち人間の「言語化して世界を認識する」作用にある。この作用が、世界の真相を隠しているのである。
人類史開闢以来、ここから、自我意識が生じて、世界を無限に分節化し人間にさまざまな苦悩を生じさせてきたのだ。
ここで鍵になるのは、これを表層意識によって対象化して捉えるのではなく、それをそのまま感得することに違いない。
そのとき、分別知による無明の闇は、完全に払拭され「尽十方世界是一顆明珠」と全宇宙に高らかに宣言されよう。
それは自己の宣言であり、全宇宙の宣言である。

宇宙の進化の先端にいる人間に、いったい宇宙は何を求めているのだろうか。あるいは宇宙の一部としての本来的自己(宇宙)は何を求めているのか・・・。

元々一体であることを覚るため。

ここでさまざまな教学的批判が予測されるが無視しよう。

この方向性自体に誤りはないと確信する。

いざともに行こう彼岸の岸へ!!!

<追記>
今回、久しぶりに少し時間をかけて雑多な思索をしてみました。
別に私はイッちゃってないんで安心してください。
いや~哲学するって身心ともに疲れますね(笑)


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