ここで宗門関係者の批判は覚悟の上で、従来のいわゆる駒澤大学を中心とした宗学、ひいては多くの宗門の師家方の宗乗観に横たわっていると思われる「道元禅師の禅」における見解を、「信」の問題を中心に、板橋禅師の卓越した考察を引用して批判的に吟味したい。
といっても、板橋禅師はこの考察で従来の現代宗学を見事に論駁してているので、私の論じる余地はほとんどないのであるが。
実は本山安居中から何かがおかしいと感じていた・・・。修行で得たものは確かに大きかった。宗門人として誇れる修行体験も語りつくせない。祖山、永平寺をこよなく愛してもいる。なんと言っても祖山永平寺は私の青春だった。
しかし、甘い感傷は置いておくとして、「本山(永平寺)=曹洞宗の代表的な修行道場」と捉えたときにどうしても腑に落ちないものを抱えていた。当時きわめて漠然としてではあったが、これが道元禅師をいただく祖山の修行なのかという疑念がつきまとっていた・・・。もちろん一番の要因は環境のせいではなく、私の道心の欠如によるものだが、しかしそれだけでは説明がつかない、何か根本的な構えがおかしいように感じたのだ。
その何がおかしかったのかが、板橋禅師の文章でハッキリと分かったのである。
はじめに断っておくが、私はここで祖山永平寺の批判や、宮崎禅師(敬慕している)を批判したいわけではない。
現代宗門を取り巻く、今風に言えば「悟り不在のまったりとした生ぬるい雰囲気」が、この近代以降の伝統宗学に起因すると推察し、その影響が祖山の修行のあり方にも少なからず表れているのではないかということを示唆したいのである。
以下、「板橋興宗『<いのち>をほほ笑む』春秋社」より引用
「悟」を無視した宗学でよいか
衛藤博士によれば、『道元禅師を宗祖と仰ぐ曹洞宗教団にあっては、あくまでも修証一如の「信」の上に立った坐禅を行ずることが基本条件であり、その宗学もここに基調をおいて参究されなければならない』、とされる。『「悟」を前提とした坐禅修行であっては、目的達成のための「手段の坐禅」となる。それは、いわゆる宋朝禅であり、臨済流の待悟禅であって、道元禅師の無所得・無所悟の正伝の仏法とはまるで立場が違い、次元を異にする』、といわれる。『道元禅師によって唱導された修証一如の坐禅でなければ、真実の安心は得られないとすることに、宗門人たるの面目がある。「悟」を前提とした坐禅を行ずるようでは、正伝の仏法の真意を見出しえないものであり、それは臨済風の坐禅を行ずるものであって、曹洞宗という宗派存在の意義を理解しない者のやることである』、とまで博士は決めつけている。このような宗学の当然の論理として、正伝の仏法の基本に「信」をおき、「悟」の契機をまったく無視するのである。『「理論の上では頓悟成仏が許されても、実際においては、一介の凡夫が自己の力で如何に努力して見ても、成仏は覚束ない」』(『宗祖としての道元禅師』)
ここではっきりしていることは、頓悟成仏は理論上のことであって、現実のわれわれには不可能に近いという前提に立った宗学である。「悟」は覚束ないものとして、『悟』そのものをはじめから無視した宗学である。この一点をみても道元禅師の主張する仏法を忠実に敷衍した宗学とは絶対に言えない。道元禅師は、機会あるごとに「上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ばず」と、すべての人々に「得道」できる仏法であると説く。悟道のためには人の才能や利鈍の問題ではなく「志」のあるなしがかぎであることを強調しておられる。「如今、各々も、一向に思い切って修してみよ。十人は十人ながら得道すべきなり」(『隋聞記』)
(中略)
また衛藤博士は、正伝の仏法の宗学は「信証一体にその根拠を求むべきである」とし、「証」という字の「さとり」を重視し、「悟」という字の「さとり」については関心を示さない。
(中略)
しかしながら道元禅師は、「竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す」とか、「桃華のさかりなるをみて、忽然として悟道す」と言うように、「悟」という字を非常にしばしば用いている。「証」という字の「さとり」は、身に証明し実感するというような、静かに味わう意味合いが強い。これに対し、「悟」という字の「さとり」は、「豁然大悟」とか、「忽然大悟」とか、あるいは「頓悟」などと熟語にされるように、従来の心意識が突然に脱け落ちることを意味している。 それを「証」と「悟」の区別もせず、「修証一如」を、修行がそのまま「悟」であると誤解した。現代宗学の欠陥は、この「悟」について理解がなく、これを無視しても仏教が成り立つと考えていることにある。
以下次回に続く。
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ありがとうございました!
といっても、板橋禅師はこの考察で従来の現代宗学を見事に論駁してているので、私の論じる余地はほとんどないのであるが。
実は本山安居中から何かがおかしいと感じていた・・・。修行で得たものは確かに大きかった。宗門人として誇れる修行体験も語りつくせない。祖山、永平寺をこよなく愛してもいる。なんと言っても祖山永平寺は私の青春だった。
しかし、甘い感傷は置いておくとして、「本山(永平寺)=曹洞宗の代表的な修行道場」と捉えたときにどうしても腑に落ちないものを抱えていた。当時きわめて漠然としてではあったが、これが道元禅師をいただく祖山の修行なのかという疑念がつきまとっていた・・・。もちろん一番の要因は環境のせいではなく、私の道心の欠如によるものだが、しかしそれだけでは説明がつかない、何か根本的な構えがおかしいように感じたのだ。
その何がおかしかったのかが、板橋禅師の文章でハッキリと分かったのである。
はじめに断っておくが、私はここで祖山永平寺の批判や、宮崎禅師(敬慕している)を批判したいわけではない。
現代宗門を取り巻く、今風に言えば「悟り不在のまったりとした生ぬるい雰囲気」が、この近代以降の伝統宗学に起因すると推察し、その影響が祖山の修行のあり方にも少なからず表れているのではないかということを示唆したいのである。
以下、「板橋興宗『<いのち>をほほ笑む』春秋社」より引用
「悟」を無視した宗学でよいか
衛藤博士によれば、『道元禅師を宗祖と仰ぐ曹洞宗教団にあっては、あくまでも修証一如の「信」の上に立った坐禅を行ずることが基本条件であり、その宗学もここに基調をおいて参究されなければならない』、とされる。『「悟」を前提とした坐禅修行であっては、目的達成のための「手段の坐禅」となる。それは、いわゆる宋朝禅であり、臨済流の待悟禅であって、道元禅師の無所得・無所悟の正伝の仏法とはまるで立場が違い、次元を異にする』、といわれる。『道元禅師によって唱導された修証一如の坐禅でなければ、真実の安心は得られないとすることに、宗門人たるの面目がある。「悟」を前提とした坐禅を行ずるようでは、正伝の仏法の真意を見出しえないものであり、それは臨済風の坐禅を行ずるものであって、曹洞宗という宗派存在の意義を理解しない者のやることである』、とまで博士は決めつけている。このような宗学の当然の論理として、正伝の仏法の基本に「信」をおき、「悟」の契機をまったく無視するのである。『「理論の上では頓悟成仏が許されても、実際においては、一介の凡夫が自己の力で如何に努力して見ても、成仏は覚束ない」』(『宗祖としての道元禅師』)
ここではっきりしていることは、頓悟成仏は理論上のことであって、現実のわれわれには不可能に近いという前提に立った宗学である。「悟」は覚束ないものとして、『悟』そのものをはじめから無視した宗学である。この一点をみても道元禅師の主張する仏法を忠実に敷衍した宗学とは絶対に言えない。道元禅師は、機会あるごとに「上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ばず」と、すべての人々に「得道」できる仏法であると説く。悟道のためには人の才能や利鈍の問題ではなく「志」のあるなしがかぎであることを強調しておられる。「如今、各々も、一向に思い切って修してみよ。十人は十人ながら得道すべきなり」(『隋聞記』)
(中略)
また衛藤博士は、正伝の仏法の宗学は「信証一体にその根拠を求むべきである」とし、「証」という字の「さとり」を重視し、「悟」という字の「さとり」については関心を示さない。
(中略)
しかしながら道元禅師は、「竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す」とか、「桃華のさかりなるをみて、忽然として悟道す」と言うように、「悟」という字を非常にしばしば用いている。「証」という字の「さとり」は、身に証明し実感するというような、静かに味わう意味合いが強い。これに対し、「悟」という字の「さとり」は、「豁然大悟」とか、「忽然大悟」とか、あるいは「頓悟」などと熟語にされるように、従来の心意識が突然に脱け落ちることを意味している。 それを「証」と「悟」の区別もせず、「修証一如」を、修行がそのまま「悟」であると誤解した。現代宗学の欠陥は、この「悟」について理解がなく、これを無視しても仏教が成り立つと考えていることにある。
以下次回に続く。
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ありがとうございました!
本山の修行方法にかかわる今回の記事、文字通りの門外漢には細かい事情はわからないわけですが、内部から、このようなある意味核心(つまり痛いトコロ)を衝く発言をするというのは、かなり勇気が要ることであり、また好ましくない反応も十分予想される試みであると推察します。その気合いに敬意を表します。
部外者で、そういった自己成長ないしトランスパーソナル的な修行的実践ということを学んできたものとしては、その究極に“覚り”という体験がなければならないことは、ある種自明のこととすら思えてきているところですし、道元禅師が言葉を尽くして語っていることの核心にそういう体験があるということは、テキストの読みとして間違いないと思いました。
(『道元のコスモロジー』岡野守也著、大法輪閣、参照)
その伝統を継いでいるはずの曹洞宗で、「『悟』を前提とした坐禅を行ずるようでは、正伝の仏法の真意を見出しえないものであり」、「『信』の上に立った坐禅を行ずることが基本条件であ」る、ということが公式見解とされているとすれば、それには少なからぬ驚きをおぼえます。
それでは何のために坐禅をするのか、わからないことになってしまうと思います。そこのところはどうなっているのでしょうか?
いろいろな批判的反応があると思いますが(なければないで、そっちのほうが問題かもしれませんね)、正当かつ刺激的な試み、応援しております。楽しみにしております。
勇気ある発言、心から賛意と敬意を表します。
秋月龍先生は、しばしば、「正法眼蔵・道元の思想には、4つの柱がある。身心脱落、本証妙修、只管打坐、威儀即仏法、の4つだ。現代曹洞宗学には、肝腎の身心脱落が抜けている。そこが問題だ」とおっしゃっていました。
私も、そう思います。身心脱落が脱落したのでは、坐禅もただ坐っているだけになりますよね。ただ坐っているだけでは、「一顆明珠」は覚れない、でしょう? 山水経の読めない「本証」とは何のことでしょう?
まあ、このこともまた、私はmust 化してこだわるのはもう止めましたが。
「修せざるには現れず、証せざるには得る事無し」とのお示しに反し、今の宗門人にはしっかり坐ることが欠けていると思えてなりません。
初心の方に示す「修証一如」は、身心脱落した悟後の修行「証上の修」とは違います。そこにあまえて行を忘れてはならないのです。僧侶が、一番自己を律することを忘れています。お経の功徳を説く前に、自分がどうなのかをよく考えてみないといけません。市井の寺の私たちこそが、修行を忘れてはならないのだと思います。
こないだは現実でもどうもでした!いつも励ましの言葉を有り難うございます!
私もまだまだ勉強不足で、いや修行不足というべきかな・・・この問題についても完全に腑に落ちているわけではないんですよ・・・。
ただ現代宗門人の多くは『参禅はすべからく「身心脱落」なるべし』という本筋を見失って、只管打坐、修証一等という言葉を凡夫的にあまりにも表面的に捉えてしまい、抜け殻禅に陥っているのではないかと思うのです。
もっとも坐禅をしているだけ、かなりマシな方だと言うべきですが・・・。
自戒の念を込めて。
このシリーズ、期待してください。
まさに仰るとおりだと思います。
身心脱落がなければ、一顆明珠はどうやって覚るのでしょう・・・。
現代宗門には、ただ、坐っているだけの抜け殻禅でさえも、そのまま仏の姿だといって開き直っているような傾向があります・・・。
それはある意味でその通りなんですが、あくまでもそれは、仏の立場から言えることであって、凡夫の分別知によって、都合よく解釈することの危険性を認識する必要性があると思いますます。
秋月先生が言われるように、おそらく人間の行いは自覚無自覚を問わずすべてが「本証妙修」なんでしょうね。だけど、これを坐禅を通して自覚体験(身心脱落)しなければ、本当の意味で「本証妙修」ということは言えないわけですね。
それを衛藤博士、榑林博士からなる伝統宗学は、道元禅師が必死の弁道の末に捉えた参学の大事の上澄み、つまり悟りの果実だけを取り出して、本証に対する無条件の「信」ばかりを強調する。
この「信」には分別知の香りがプンプンします。ヒステリックであるほど余計に・・・。
道元禅師は「信」でさえ、「仏果位にあらざれば、信現成にあらず」と示されているのです。
おかのさん、ここは少しはmust化するのもいいのではないでしょうか~(笑)なんて~
敬愛する大先輩がコメントをお寄せくださって感激です!拙文お恥ずかしい限りですが・・・共感してくださりとても嬉しく思います!板橋禅師の考察を読んでハッとしました。なんだか分からないけどおかしいな~と思っていたことを、言語化してくれたような。毀誉褒貶が伴う板橋禅師ですが、この文章を読み私はさすがは板橋禅師だと思いました。こんなことを率直に述べてたら、敵が出るのは当然でしょう・・・。
ですが、りんしょうさんが述べられていましたが「まずは悟らせよう」という動きがあるとのこと。嬉しい驚きですね。これは指導者の体験の有無や質も問われることになりそうですが・・・。
常套句の「わが宗門の坐禅は、無所得・無所悟の坐禅である」との言葉。
宗門人は、この言葉を凡夫の立場から無責任に振り回して、どれだけの雲衲や在家の人々をケムに巻いてきたでしょうか。そして、どれほど多くの道心を挫いてきたことでしょうか。
ご指摘の通り「修せざるには現れず、証せざるには得る事無し」というお示しをしっかりと受け止めて、不染汚の修証としての坐禅が必須であるということを自覚したいと思います。
ありがとうございました!
どちらも良しとする不安定なバランスこそが悟りとしか言えないのかもしれません。正解はなしでしょう。
板橋老師はご著書にて身心脱落の経験がなければ悟りの世界観を確信することは難しいと書かれています。一方で澤木興道老師などはそのような体験に価値は無いと一刀両断に切り捨てます。どちらが間違いとは言えないと考えます。確信が持てない人に確信が持てないまま苦しみ続けよとは言えませんから体験(意味)をつかまえ、それをいわゆるアイデンティティにするのは仕方ないことではないかと。
その他に、アタマで仏教を語る学者の類がいるわけですが、これは問題外ですね。