一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

タイに行って来ます!

2008年02月25日 | 思い・お寺の活動
おとといの哈台族!コミュのオフ会は楽しかったです~

第1回にしては大成功といっていいでしょう!ね?

結局9人の参加。

至らない幹事でしたが、みんな盛り上がってくれて助かりました

はじめは、みんな初対面ということもあり、ちょっとドキドキの様子。

でも、すぐに打ち解けて台湾について熱く語り合いました!

また心配したママも必要以上に絡んでこなかったのでホッと一安心^^

二次会にも5人が流れ、大船の高雄から大船の台北に移動

ここでもディープな台湾話に花が咲きました

アーサンごちになりました!

また楽しいオフ会を企画したいと思います。


では、これからタイに行ってきます

9:20のシンガポール航空です!

ちなみにシンガポール航空は、料理が美味しくて航空会社の中で一番スチュワーデスが綺麗だと聞いています

ま、硬派の私には関係ないことですがね

とにかく、微笑みの国タイ、敬虔な仏教国タイで、いろんなことを吸収してこようと思います!

もちろんタイ料理も楽しみです!

しかし、旅行前に寝られない癖をなんとかしたいもんだ

一路平安一路順風万事如意

自分で言っておきます^^

これからの予定

2008年02月24日 | Weblog
以下、昨日23日のmixiの日記の転載です。


今日は、記念すべき哈台族!コミュ第1回オフ会があります!
10名の参加
予想以上に集まってくれて本当に嬉しいです

場所は大船の高雄

すでに常連のマイミクさんにはお馴染みですが、高雄出身の強烈なママのいるお店です^^

性格は可愛いんだけどな

パワフルすぎてパワーを吸い取られるんですよね
マイミクさんも4人連れて行きました
被害にあったかどうかは本人に確認してみないと分かりません

明日は台湾人のマイミクさんも来るので余計楽しみです

まだお連れしていないマイミクさんもいつかぜひ一緒に行きましょ~

あさってはお寺の旅行。

檀家さんを引率して3泊4日でタイのバンコクに行ってきます

まだぜんぜん準備してませんが楽しみです

タイは初めてです

かなりハマるらしいですね


帰ってきて翌日29日は、お別れ遠足。

年長さんと江ノ島に行ってきます

これも楽しみ~

疲れるけどやっぱ子供は可愛い

そして4日は幼稚園の県の立ち入り調査。

一日仕事でさまざまな書類をチェックされ突っ込みを入れられまくります
これが地獄・・・

寿命が3ヶ月くらい短くなる心地がします・・・

というわけで、しばらく多忙な毎日が続きます


学校評議委員

2008年02月16日 | 思い・日常
昨日、近所の小学校の校長先生が、折り入って相談がしたいということでお寺にいらした。

相談とは、私に小学校の評議委員になって欲しいとのこと。

仕事は年に3回~4回集まって、小学校の運営についての話し合いに参加すればいいらしい。

即了承。

「微力でしょうが、私でよければお役に立ちたいと思います」

「勉強させていただきます」


と、答えてからふとわが身を振り返る。

数年前の自分であれば間違いなく断っていただろう。

面倒くさい、自信がない、時間がない、なんで俺が?・・・

断るためのいろんな理由を自分の中につけていただろう。


でも、どうだ。。。

この若さで小学校の評議委員なんてできるのは、住職と園長という立場の賜物だ。

有難いことである。

人生はすべて学び、学び、学びの連続。

自分の可能性には、自分で制約を設けないようにしたい。

少しだけ自分の成長を感じた一瞬であった。

でも、どこかで思う・・・いいのかな俺で・・・

でも、すぐ思い直す・・・いいんだろ俺で♪

~宇宙に意思はあるか~

2008年02月13日 | つながりコスモロジー
11日は、国際花と緑の博覧会記念協会主催の、「宇宙と心」~宇宙に意思はあるか~というフォーラムに出席してきました。

http://www.kosmos-forum.org/next/next14.html

パネリスト
・佐治晴夫(鈴鹿短期大学学長…<専攻>物性基礎論、宇宙論)
・池内了(総合研究大学院教授…<専攻>天体物理学)
・岡野守也(思想家、サングラハ教育心理研究所主幹、法政大学、武蔵野大学、桜美林大学など講師、<専攻>インテグラル思想、仏教心理学、トランスパーソナル心理学、宗教哲学)
・桜井邦朋(元神奈川大学学長…<専攻>宇宙物理学、太陽物理学)
・村上陽一郎(東京大学名誉教授…<専攻>科学史、科学哲学)

今回のフォーラムには、私が親しく教えていただいている岡野守也先生が人文系唯一のパネリストとして参加。
ほかのパネリストは、司会をした、ゆらぎ理論の佐治先生はじめ、宇宙科学や科学哲学の錚々たる顔ぶれの先生方が勢ぞろい。

さすがみなさん超一流の学者だけあって、めっちゃ高度な話、宇宙に関する興味深い話が聞けました(理解のほどは怪しいですが…)。

しかし、なんといってもわれらが岡野先生の話が素晴らしかった~!!
またまた惚れ直しちゃいました^^
やっぱ先生は最高です!
科学者たちを前にまったく臆するところがない・・・。
熱いメッセージがびんびんに伝わってきました。

以下、岡野先生の立場とコスモロジー思想をもとに私見を述べてみたいと思います。
至らない理解、稚拙な表現ですがお許しを・・・。

先生の主張を一言で言えば、最新宇宙科学の成果をもとにして、世界中の人々が共有できる緩やかなコスモロジー(宇宙観)を構築し、現代社会に蔓延するニヒリズム(人生や世界に意味はないという考え方)を超克するということだと思います。

そしてそのコスモロジー(先生はつながりコスモロジーと称す)は、釈尊や、覚りを開いた者(ブッダ)の瞑想的直感によって把握された、「縁起と空」の真理によって裏付けされているわけです。

仏教の「縁起と空」の真理とは、あえて、一言で言ってしまうと、宇宙のすべての存在は無限にひとつながりにつながって一体であるという真理です(一言で言い切ってしまうのはちょっと乱暴ですが・・・)。
これは、たとえば、私とあなたは現われとしては別々であっても、本質的には一体であるということです。
そして、実は科学の分野でも同じようなことが言われています。
「近代」科学では、Aという物質とBという物質はバラバラな存在として捉えられていましたが、「現代」科学によれば、AもBも物質レベルでは別れていても、エネルギーレベルでは一体であるということが分かってきました。
宇宙論的にいえば、私とあなたはエネルギーレベルでは、大宇宙という無限に大きなエネルギーの中で一体(一如)として包摂されるわけです。
ここで、この事実を私たちの生き方にかかわってくる問題に当てはめますと、私とあなたは現われとしては別々に見えるけれど、本質的には一体なんだよ、ということになります。
したがって、これを突き詰めて極論めいたことを言えば、「私はあなた」であり「あなたは私」である、「私は宇宙」であり「宇宙は私」である、と言えるわけです。
これはまさに、菩薩の慈悲の自利利他一如が発現する土台となる事実です。しかし現実の私たちの社会では、人々は争いあったり憎しみあったりする。それは人間のマナ識(煩悩の倉庫のようなもの)によって、「分別する心」が生じてしまうからにほかありません。
イマドキな言い方をすれば、俺さえ得すればいい、お前?「そんなの関係ねぇっ~!」ってなってしまう。。。
こうしたあり方は、宇宙の本質的なあり方からすると不自然であることは明らかでしょう。
しかし逆に、このマナ識を浄化していけば、理論上、宇宙との一体性を意識の上でも取り戻していけます。
その最たるものが覚り(悟り)です。
宇宙と私が一体であれば、他者を傷つけることはそのまま私を傷つけることになり、他者を幸せにすることは私を幸せにすることになります。
これを仏教的に言えば、融通無碍の境地(空)から生じる大慈悲心と言えるでしょう。
とはいえ、仏と同じ究極の覚りは、マナ識の強固な私たちにははるかな高みにあるのは事実です。
いきなりはキツイです。。。
急いで全人類が覚る必要はありません。
地球上の全人類が、いや全人類とは言わないまでも国を動かすリーダーーのような人たちが、覚りとは言わないまでもマナ識を浄化して宇宙との一体性を取り戻していくことで、地球や他者を傷つけることのない平和な世界の実現が図られていくのです。

宇宙の事実から言えば、すべての存在はひとつのエネルギーにおいて一体。
道元禅師もまた瞑想的直感、すなわち覚り体験において「尽十方世界是一顆明珠(いっかみょうじゅ)」ということを言い切っています。
この言葉は、「この大宇宙(私を含んだコスモス)は一個の光り輝く珠である」という意味です。(余談ですが「一顆明珠」は私のブログタイトルにしています^^)ただし、一顆明珠は内も外もない、絶対的な空をあえて比喩的に現した言葉であることは留意しなければなりませんが、それにしても現代科学のエネルギー論と、一顆明珠の表現の緊密性は瞠目されます。
確かに科学のレベルと宗教体験のレベルを安易に同一視するのは危険な面もあります。しかし科学が覚りを開いた宗教者の瞑想的直感が示す教えに、しだいに近づいてきたということは言えそうです。

現代宇宙科学によると、宇宙には自己組織化、自己複雑化という方向性があるということがわかってきました。
137億年前にビッグバンによってできた宇宙(ほぼ定説となっています)。
その宇宙の発展進化の歴史の中で、銀河系、太陽系が生まれ、地球ができて、何十億年もかかってバクテリアをはじめとするさまざまな生命が創発されました。魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類。
シンプルな構造を持つものから、しだいに複雑な構造をもつ生物が創発されてきた。

そして、そうした宇宙の複雑化の最先端に、唯一「心」を持つとされるわれわれ人間がいます。
動物も心を持っていると言えなくもありませんが、自分の「死」を認識したり、美しい景色や音楽をみて感動したり・・・どうやら未来を予測したり、感動したりする高度な心を持っているのは今のところ人間だけのようです。

これはいったい何を意味しているのでしょうか(意味を探ることを多くの科学者が警戒するのですが…)。
宇宙が進化の過程で人間を創発したということは、私たちも小さいながら宇宙の一部であるということです。
ということは、たとえば私が景色を見て感動した場合、「宇宙(景色)が宇宙(私)に感動した」と言えるのではないでしょうか?
また、人間は宇宙を観察し、認識する生物です。
それは、人間がいわば宇宙の自己認識器官、宇宙の自己感動器官ということを示唆しているのではないでしょうか。

結論。
宇宙はなんらかの意思をもって人間を創発した、意思という言葉に異論があれば、ひとつの方向性をもって心を持つ人間を創発したといって間違いはないようです。
ではなぜ?
宇宙を認識するために、宇宙に感動するために、そして、いつか宇宙と一体になるために!

理由は分かりませんが・・・
きっと、宇宙は自分の顔を見たかったんでしょう^^
そして、あ~俺ってかっこいいな~私ってきれいだな~って感動したかったに違いない。
今のところ、人間がいなければ宇宙は自分(宇宙)を認識できないのだから・・・。
そうなると、私たちの存在、私たちの人生に意味がないということは言えなくなります。
つまり、「すべての存在には意味がある」ということ。
それがどんな人であっても。どんな事象であっても、です。
この世界のすべての存在に宇宙的に意味があるということが、現代宇宙論の成果からも読み取ることが可能になったわけです。

それは宇宙科学の飛躍的な解釈だと批判されるかもしれません。。。
また、解釈という時点で、自然科学の枠組みから外れるという批判もあります。

しかし現代人の心の荒廃は進み、深刻な社会問題は噴出する一方です。
同時に人々は生きる指針や、自分の人生の根底となる倫理を失っています。その原因は、現代人が生きる上で大事な、真っ当なコスモロジー(世界観)を失ってしまったからにほかありません。
たとえコスモロジーを有していても、それは近代科学の分離思考に伴う物質主義、虚無的なニヒリズムやエゴイズムに毒された危険なものだったりします。
そこで、現代宇宙論の成果を元に、一定の普遍妥当性のある(完璧ではないが)緩やかなつながりコスモロジー(宇宙観・世界観)を形成すること。そして、つながりコスモロジーを共有することによって、人々の心が豊かになったり社会の平和につながれば、これ以上素晴らしいことはないでしょう。

しかしここで、なぜ、現代科学が人間の新たなコスモロジー(世界観)の構築に導入されなければいけないのか?
人の心を安定させるコスモロジーは、宗教や心理学が担当すればいいんじゃないか?という疑問があるかもしれません。

確かに宗教が平和的な状態で人々の心を平安にしている場合は、現代科学の出番はないでしょう。
ですが、残念ながら伝統宗教はいまやその効力をしだいに失いつつあります。
人々が手放しで、伝統宗教の語る神話的世界観を信じることができなくなってしまった。そうした世界観からいったん離れてしまった人々の心を元に戻すことは不可能に近いでしょう。
また、ひとつの宗教を絶対化すれば、必ず他の宗教や思想を排斥することにもなります。これは、歴史上、宗教が引き起こしてきたさまざまな悲劇を見ても明らかです。
宗教が果たす役割はあります、しかしそれだけでは現代人の心のニーズに完全には応えられなくなってしまったのも事実です。

実際、現代科学は現在のところ事実として、もっとも客観性や普遍妥当性において信頼されている分野です。
幸か不幸か、現代科学のお墨付きがあれば、現代人は心理的に受け入れやすいという傾向があるからです。
ならば、現代科学の成果をもとに人々の心を豊かにするコスモロジー(世界観)を構築しない手はないということです。

知は知のためにあるのではない、自己満足のためにあるのでもない、人類のため、ひいては知は私たちが地球と調和して幸せに暮らしていくためにあるのではないでしょうか。

かなり解説が長くなりました。。。
私の受け止め方が間違っていなければ、だいたい岡野先生の提唱するコスモロジーの要点は上記述べた通りです。

岡野先生は、人々の心を安定させ、心を豊かにする、現代科学の研究成果に基づくいた現代人の信頼に足る(修正可能な)コスモロジーの提唱を行ってきました。

講演や大学の授業などで。

そして、実際に講演や授業を聞いてきわめて多くの人々が、心がさわやかになった、心が元気になったと述べています。
とりわけ大学では多くの若者の支持を集め、教場があふれるほど授業を受ける人の数が増えているそうです。
また私自身も、先生に2年余り前にお会いする前と、今とでは、世界観が明らかに豊かに変わってきているのを実感しています。
人生に対してしらける気分がなくなった。挫折や落ち込みにも強くなりました。

岡野先生は、今回のフォーラムで、現代宇宙科学を代表する学者の先生方にコスモロジーを提示して、一定の共感を得るという狙いを持っておられたようです。
いわば科学者のお墨付きをもらうということにもなりましょうか。

果たして、その結果は・・・

先生ご自身は70点の評価をされました。
私も、各先生によって反応の違いはあるものの、おおむねの部分で同意を得たという印象を受けました。
ただし科学者は、研究成果の「解釈」ということについては、ひじょうに慎重になります。今回のフォーラムの先生方の発言にもそれを感じました。しかし、それはある意味でやむを得ないことです。
なぜなら、科学的な客観的事実を解釈する場合、そこにどうしても人間の主観が混入するからです。厳密な客観性を保持するためには、主観は混じってはならない。

ですが、自然科学が自然科学として独立している時代は終わりました。それはこの時代にはふさわしくありません。
先述しましたが、知は私たちに使われてこそ「知」ということを忘れてはいけません。
さまざまな学問分野が領域を超えてクロスオーバーし、私たちの生き方を根底から支えるようなコスモロジーが構築されれば、私たちはまだまだこの地球上で平和に暮らせるかもしれません。
後世の人々に安心して暮らせるような社会を残していきたいものです。

今回はずいぶん長くなりました・・・。
まとまりのない文章を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

最後に一言。
仏教も残念ながら伝統的な神話的世界観だけでは、現代人に通用しなくなってきました。
たとえば、地獄、極楽、閻魔様とか・・・。
こうした世界観も、まだ人々の救いにとって有用であれば説いていくのにやぶさかではないのですが、もはやよほどのご年配の方にしか通用しないでしょう。
旧態依然のままだったら、仏教はどんどん廃れていきます。
「対機説法、応病与薬」という言葉があります。
つまり、その人の性質や能力に応じて、教えを説いていくというあり方です。
仏教も現代科学のという衣服をまとって、装いを新たにするときが来ているのかも知れませんね。
仏教の核心「縁起と空」の教えをベースとした現代宇宙論に裏づけされたコスモロジーを、ときに応じて説いていく必要性を感じています。

今回、久しぶりの学びの日記でした。

涅槃会法話「無常ということ」

2008年02月13日 | 禅・仏教
先週の日曜日はお寺の涅槃会(ねはんえ)法要がありました。

涅槃会とは、お亡くなりになられたお釈迦様(涅槃)を偲ぶ法要です。

正式には2月15日ですが、当寺では前倒しの日曜日に行っています。

はじめに檀家さんと一緒に、お釈迦様のご臨終の最後の説法をまとめた、遺教経というお経を読み回向を挙げます。

その後で、私の法話30分。

今回は「無常」をテーマに、釈尊の遺教や道元禅師の言葉を引用しながら、自分の死を見つめて生きることの大切さを説きました。

以下簡単に要約します。(覚え書きも兼ねて)

「無常」とはすなわち、この世界に永遠に変わらないものは何一つなく、万物は変化してやまないという宇宙の真理です。
この真理自体は、理性で誰にでも納得できるのではないでしょうか。

たとえば、無常を人間に当てはめれば、われわれ人間は、どれだけ死にたくないと願っても、あるいはどれだけよい医師に掛かったり、効き目のある薬を飲んでも、一日一日、一瞬一瞬、確実に死に向かっているという厳然とした事実があるわけです。

しかし私たちは普通、できれば「死」を遠ざけたい、自分が死ぬ存在であるということを無意識のうちに考えまいとしています。
当たり前ですね・・・。
好んで死にたい人は誰もいないわけですから(自殺願望のある人を除いては…もっともこの人たちも好きで死にたいわけではないわけですが)自分にとって嫌なことを好き好んで考える人はいないわけです。

では、そのように自分の死をずっと無視していたら人生はどうなるでしょうか。
自分の死が自覚されなければ、一日一日が特に有難がられることも大事にされることもなく、ただただ過ぎ去っていく時間ばかりが積み重ねられていくでしょう。
そのような人生は空虚なままあっという間に過ぎ去っていき、いつの間にか死を迎えてしまうのではないでしょうか。
また、そうした人生には、自分の願望をかなえたり、自分が楽をしたり世間の評価を得たりといった私利私欲を満たすための向上心はあっても、そこには修行をして仏に近づいていくという真の精進はありません。

みなさんは、つねに死を見つめて生きるというと、ジメジメとした暗い生き方を連想されるかもしれませんね。
しかし、事実はむしろその逆です。
自分の死をしっかりと見つめることによって、いま・ここに生かされている私の命、そして私の人生が、掛け替えのない尊く有難いものであることに気付かされるのです。
いま、このときの一瞬が掛け替えのないものとして、生き生きと輝きだすのです!
ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、仕事をしたり、会話をしたり、眠ったり・・・ふだん何気なかった日常の一つ一つが生き生きとしてくる。

そうなると、私たちは一瞬一瞬をいかに生きたら本当の意味でよく生きられるのか、ということを考えるようになります。
同時に自然と自分の私利私欲だけを追求して生きることが虚しいものに思えてくる・・・。

私たちの宗祖、道元禅師もこう仰っています。
「学道の人(仏道修行をする人)は、まず須らく無常を観ずべし」と。
つまり、無常を観ずることは、仏教徒にとって何よりも大切な第一歩であり、これを無視して修行を始めることはできないということです。

よく生きるということ、それは私たち仏教徒にとっては一歩ずつ仏に近づいていく生き方にほかありません。
仏教では、この人生はいわば悟りを開いて仏になるための修行期間と捉えます。
ですから私たちは無常を観ずることによって、「私」として生まれたこの一回限りの尊い人生を、仏に近づいていくための修行として使うことに目覚めるのです。

無常を観ずる心を保つこと。
つまり自分が死ぬ存在であることの徹底した自覚こそが、仏教徒の精進修行の第一歩であるということ。

そして、無常を観ずることによって、はじめて私たちは本当の意味での「人生」をしっかりと歩みだすことができること。

以上、無常を観じて生きるということの大切さを、今日の涅槃会を通して感じていただければ幸いです。

と、だいたいこんな感じの法話になりました。実際はもっと口語体ですが。
これに枝葉をつけて30~40分、ちょっと熱が入って長めになってしまいました・・・。
反省点は、無常をもっと砕いて自分自身のことにも絡めて、分かりやすく話した方がよかったかなということ。いささか哲学的になりすぎた・・・。
熱いのよかったが、もっと明るくかつエレガントな比喩(花木とか)を用いて話せばよかったかな。
毎回反省はつきものです。

法話、もちろん自分のことは棚に上げています・・・ハハ・・・

かつては、仏教で説いていることと、自分の生き方との乖離に苦しんだこともありました・・・
当然、法話なんて満足にできませんでした・・・。
法話をすることに罪悪感すらありました・・・。

しかしある時、それでは僧侶の勤めを果たしていることにはならない、自分の至らなさ、ダメさ加減、そうしたものも全部ひっくるめて、仏教の伝達者として、いわばメッセンジャーとして、仏教を伝えていこうと決意したんです。
今でもたまに心が萎えるときもありますが、それも含めての自分として認めていこう。
そしてできるだけ、ベターを目指して努力して行こうと。。。

さて、今回のテーマ「無常」ということ。
「死」に立ち会う機会の多い立場上、一般の人よりは無常を感じ易い環境にあります・・・。

実際、無常が、腹にまでいかなくても胸の辺り?・・・いやまだ喉の当たりくらいかな・・・とりあえず無常が落ちてる・・・これを胸そして腹にまで落とす。最後には全身心に無常の自覚を巡らせる。

そのとき一瞬一瞬が・・・
私の行住坐臥、一挙手一投足が、光明の中に輝き出すでしょう。