一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

愛語能く廻天の力あることを学すべきなり

2005年11月30日 | 禅・仏教
「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」
(あいごよくかいてんのちからあることをがくすべきなり)

この言葉は、道元禅師の「正法眼蔵・菩提薩捶四摂法」の巻の文章にあります。

「愛語」は、菩薩の四つの実践項目(四摂法)、「布施・愛語・利行・同事」のうちのひとつです。

愛語とは愛のある言葉、慈愛の念より生ずる言葉と解してよいでしょう。

解釈するにあたって、問題になるのは「天」の意味です。

「天」には、天体、宇宙の意と、天子つまり、絶対的権力者の意があります。

従来、後者の意で解釈されることが多かったようですが、コスモスジェネレーションの私は、前者の意を採りたいと思います。

なんたって、その方がロマンがありますよね!

きっと道元禅師もかなりのロマンチストだったはず!

では、前者の意を採って、私流の解釈をしてみます!

「愛語(愛のある言葉)は、天体の運行、ひいては宇宙の働きを逆転させる(ほどの)力があることを理解し、学ぶべきである」

天体の運行、宇宙の働きを逆転させる!?

なんて、おおげさな~!!

とみなさん思われるでしょう。

実は私もそう思いました。

ですが、ハッ!と気付いたのです。

地球を取り巻く物理的な外部だけが宇宙ではない…。

私(たち)も宇宙だった…。星だった…。

私たちもまた、137億年の宇宙の歴史が詰まった、宇宙の一部。
すなわち宇宙なのです。(この考え方は「つながりコスモロジー」からきています。コスモロジーについて関心のある方、まずはクリック※)
愛語がしばしば、私たちの人生を変えてしまうほどの力を持っているということ。これは誰もが認めるところでしょう。みなさんにも多少なりともそんな経験がおありだと思います。
何が言いたいかと言えば、それはつまり愛語が、(わたしたち)宇宙を、変える力を持っているということです。時に、愛語がそのひとの人生、つまり宇宙を、まるで変えてしまう事だってありえるということです。

愛語が私たちを変えるということは、愛語によって宇宙が変わるということです。

さらには人々が愛語による愛のエネルギーによって、すべて(人生観、価値観、世界観)がプラスに変化していったら、日本、世界、そして地球がプラスに変わっていくでしょう。

こう考えると、愛語って、どえらいスケールの大きな行(ぎょう)に思えてきます。そう思うのは私だけでしょうか

愛語の力は、計り知れません!

愛語って素晴らしい!!!


<追記>
裏を返せば、憎しみの言葉や恨みの言葉などは、愛語とはまるで正反対の作用を及ぼすということですね。
これは、本当に恐ろしいことです・・・。




メリの赤ちゃん

2005年11月29日 | 思い・日常
昨日、メリ(愛犬トイプードル)の赤ちゃんが生まれた。

メリの様子がおかしくなり、動物病院で取り上げてもらったのだ。

しかし、残念なことに死産であった。

胎盤剥離で、赤ちゃんは窒息死してしまったらしい。

メリは自分の赤ちゃんが、死産であったことを(もちろん)知らない。

家に帰るなり、狂ったように泣く。尋常ではない。

ヒ~ン、ヒン、ヒン・・・。クウゥ、クウゥと。

息遣いが荒い・・・。

いるはずの赤ん坊がいないことが、苦しくて、悲しくてたまらない、という気持ちが伝わってくる。

私たちのそばから片時も離れない。

昨晩中ずっと、そんな様子は続いた。

実は2年前、メリがグリを産んだ時も、もう一匹のグラはメリの乳を吸い上げる力が弱く、一日で死んでしまった。

そのときも、かなり興奮した異常な様子だったが、生き残ったグリのおかげで、少しは気がまぎれていたのかも知れない。

今回は、一匹しかお腹にいなかっただけに余計に辛かったのだろう。

そこで、ブリーダーさんの意見を参考に、家族で一計を案じ、グリの赤ちゃんを一匹(二匹のうち)、メリに託すことにした。

もちろん、グリには気付かれないように・・・。

グリの赤ちゃんを、メリに渡した瞬間、それまでの異常行動はピタリと止み、ウットリした至福の表情で赤ちゃんにお乳をあげはじめた。

メリはすぐにお母さんになってしまった。

だが、今度は基本的におっとりで優しいグリが、メリに渡したわが子を探し回る。

家中くまなく・・・。

家族にも、「私の赤ちゃんどこいったか知らない?」とたずねる様にして回る。

これもまた辛い・・・。不憫である。

だから、せいぜい「グリは本当にえらいね~」と猫かわいがりするしかない。

一緒に生活している以上、いずれグリには分かってしまうだろう。

グリは許してくれるだろうか。


それにしても、犬の母性の大きさには驚いた。

自分勝手に堕胎したり、産んだ子どもを虐待したり・・・。

犬の常識から考えたら、そんな人間は非常識、問題外だろう。

どちらが、いったい「畜生」か?

そんなことを考えさせられた。


メリとグリに感謝したい。






悪夢!?(いや、きっと吉兆!!)ウィルバーを読んで

2005年11月29日 | 思い・日常
いま、ケン・ウィルバー(トランスパーソナル心理学の第一人者)の著書、「無境界」(平河出版社 吉福伸逸訳)を読んでいる。

私にとって、はじめての「ウィルバー本」挑戦である。

正直、読み始めるまで、なんだかんだ言っても、心理学者でしょ…アメリカ人だし…とあなどっていたところもあった。

しかし、読んでみたらどうだ。

腰抜かしそうになった。

深い、そうとうに深い・・・。

半端じゃない鋭い洞察。

「世界」を、「統一意識」をなんとか言葉によって表現しようとする凄絶な試み。

熱い。かなり熱い・・・。(語彙が貧弱ですみません

読んでいてしばしば目眩がする。

私は本を就寝前に読むのが習慣である。

おとといの晩、その「無境界」を読んで寝た。

その晩、悪夢を見たのだ。

無意味なことかもしれないが、記憶をたどりながら文章にしてみる。

以下、夢の話なので不条理な文脈はご容赦を。

黒い、重油のようにネットリした海のなかで、醜い顔をした巨大な(50メートルはある)女の化け物が、くねくねと線虫状の胴体をくねらせて、対岸にいる私をあざ笑っている。

私は、「無境界」と、「空=無我」というふたつの塊を、ひとつの団子状にこね合わせて爆弾を作る。

奴をやっつける武器にするために・・・。

化け物に向かって投げる。

一発目の爆弾は惜しくも化け物の顔の寸前に落ちる。

そのとき!今まであざ笑っていた化け物が、突然怒り狂った般若、夜叉の形相で私に襲い掛かってきた。

わたしは全身に総毛立つ恐怖を感じながらも、果敢に二投目を試みる。

「無境界」と「空=無我」で作った爆弾。

見事!化け物の頭に命中!

頭はボロボロと崩れ落ちる。ウルトラマンにやられた怪獣のように。

そこで物語は終わり、私は目覚めて、トイレに向かった。

目覚めた後も、恐怖と興奮がない交ぜになり熱に浮かされたような思いをしばらく引きずった。

これは悪夢か?吉兆か?

何か象徴的な意味があるのだろうか?

夢判断に詳しい方は教えてください。


どっちでもいい。

ただウィルバーが、すごいっ!てことは言える。



卒論2 Ⅰ二元論(独我論)デカルト的パラダイムの問題

2005年11月28日 | 禅・仏教
Ⅰ二元論(独我論)への誘惑

 
 デカルト的パラダイムの問題
  
   コギト・エルゴ・スム
 デカルト(1596~1650)は、近代哲学の父と言われる。
 デカルトによってはじめて近代的な物の観方と明晰判明な精神を手に入れたと評される。そこで私は、近代的精神の幕開けの役割を担ったデカルトの哲学を概略したい。なお、この章ではさしあたり、二元論としてのデカルト的パラダイムの性格を露わにしたいので、多分にこじつけの感がある、神の存在証明等については、あえて触れない。
 デカルトは当時哲学の中心的立場にあったスコラ哲学(キリスト教を理性的に弁証する)の不確実性に不満を持ち、まったく疑い得ない哲学の第一原理から出発し、そこから事物の認識を導き出すような学問を求めた。そこで彼は、哲学から、当時あらゆる意味で支配的であった宗教を除外した。
 彼は「信仰の光」ではなく「自然的理性」によって確実性に耐えうる哲学を構築しようとしたのである。
 デカルトはまず、哲学の第一原理を見出そうとした。そのためには、従来確実だと思われてきた知識を徹底的に疑ってみる必要があった。
 その結果、最後に残ったもの、これは疑い得ないと決定されたもの、それは「私」であった。なぜなら、まさにそのように全てを疑っている「私」は存在すると言えるからである。
 こうして有名な「われ思うゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)が哲学の第一原理として導き出されたのである。
 そして思惟する実体(精神)を見出したデカルトは、理性によって保証された延長を持つ実体(モノ)を導き出して、ここにデカルトの二元論が形成されるのである。
   二元論
 二元論とは、<実体>を二つ立てて<世界>を説明しようとする立場を言うが、これはデカルトによってはじめて明示されたものではない。古くは東洋哲学のインド・ウパニシャッド哲学の梵我一如に、西洋哲学ではプラトンのイデア論に二元論は見出せる。またデカルト以降は、カントの「物自体」と「現象界」などさまざまな二元論が主張されてきた。二元論は、この日常的世界の背後に、あるいは日常的世界とは隔絶した場所に真の存在や、真理を求めようとする動機から発生する。つまり、二元論は常に形而上学の形として現れるといえる。
   
   デカルト的パラダイムの問題
 上に述べたように、二元論はデカルトの哲学に限定されたものではないが、その純粋性において際立っているので、便宜上、これから批判的に考察する二元論を「デカルト的パラダイム」と呼ぶ。
 また特にデカルトの哲学が純粋な客観性を切望する性格を持つことが、従来の本覚思想に基づいた仏教理解の態度と類似することから考えても、この論文の性格上、その呼称を論議のテーマとして扱うことは適切であろう。
 デカルト的パラダイムは、実体としての理性から、自然(モノ)を認識しようとする。このとき純粋で、誤り得ない認識をするためには、個別的、すなわち私的な感覚を退ける必要がある。つまり、無私になって、ありのままの世界を見なければ正しい認識が得られないということになる。
 しかし、仮に正しい認識をし得たとして、それはどのように証明できるのか。自分自身が明証性の根拠となる限り、必然的に正誤の判断も自分の内でしかできないことになる。
 他からの承認が得られなければ普遍的な認識は成立しない。
 これが、デカルト的パラダイムによる認識が成立しないということ、必然的に「独我論」に帰結するということの理由である。
 以上がデカルト的パラダイムの正体であるが、わたしがこれまで、デカルトの二元論の構造と誤謬を述べてきたのは、日本の仏教研究、特に解脱(悟り)という問題に対する解釈において、デカルト的パラダイム(独我論)に立脚したものが非常に多いということを本論で提示するためである。
 次節では、西田哲学におけるデカルト的パラダイム(独我論)を批判的に考察したい。
 

祈りと誓い

2005年11月27日 | 
 今日、11月27日は宮沢賢治の最愛の妹トシが亡くなった日です。

 大正11年11月27日、24歳の若さでした。

今日は、トシに捧げられた詩三篇のうちから、「永訣の朝」をみなさんと一緒に味わおうと思います。

 
 
 永訣の朝


けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
    (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちたゆきのさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしょにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
    (うまれでくるたて
     こんどはこたにわりやのごとばかりで
     くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変つて
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ

(新潮文庫 宮沢賢治詩集)

<所感>

「ああとし子 死ぬといふいまごろになつて わたくしをいつしやうあかるくするために こんなさつぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまつすぐにすすんでいくから」

トシは臨終に際し、賢治にあめゆきを取って来て欲しいと懇願します。
(あめゆじゆとてちてけんじや)
(あめゆきを取って来て賢治兄さん)
あめゆきを急ぎ取らんとして、曲がった鉄砲玉のように外へ飛び出した賢治・・・。
おのれの死に際にもかかわらず、賢治を一生明るくするためにはかれたトシの言葉。
賢治はその言葉に込められたトシの思いに、「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」とこたえ、決意を表明します。

賢治はここで、菩薩の道を歩むことを、己の一生をかけて最愛の妹トシに誓っているのだと思います。

菩薩の道を歩むとは、真実を求め、真実に生きるということでしょう。

私はここで発せられた「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」という言葉の重みに、身の震えを覚えます。

賢治最愛の人トシは、家族と信仰を異にする賢治のよき理解者であり、また作品の価値を認めるかけがえのない人であったということです。


雪の結晶のように清らかで美しい詩です。

純真な真心からの祈りと誓いが伝わってきます。

たましいがこもった真実の言葉は、私たちの心を浄化してやみません。

私は、中学の国語の授業で、この詩と出会いました。
国語科の先生が熱くなって、この詩の感動を私たちに伝えようとしていたのが思い出されます。素敵な先生でした。

今でもこの詩は教科書に載っているのでしょうか。

そうであることを願います。


「忙しい」という言葉

2005年11月26日 | 思い・日常
近ごろ、いままで計画的に仕事をこなしてこなかったのがたたって、あっという間に仕事が溜まってしまった。

書類作成の締め切りにも追われている。幼稚園関係の行政に提出する書類は、財務、運営に関するものなど、山のようにあるのだ…。
タイミングが悪いことには、前から入れていた夜の会合などもバッティングする。

「忙しい」とは「心を亡くすこと」だと、友人が教えてくれた。
その通りだと思う。

「忙しい」と言ってしまうことで、こころに余裕はなくなってしまう。
追い詰められたときこそ、その人の真価が問われる。
忙しいと、つい焦燥感に駆られて、悲観的になりがちである。
いかに、平常心を保てるか。

我が身を省みれば、無為に過ごしている時間が多い・・・。
計画的に仕事に取り組む。
そして、まずは目の前の仕事に集中!
そうすることで先が見えてくる。

やること、仕事はいっぱいでも、環境に惑わされずに、活き活きと主体的に行動すること。
行動が変われば、心も変わってくる。
忙しいか、忙しくないかは、環境が決めることではなく、心が決めることだと思う。
どちらのあり方を選択するかは自分次第であるということだ。

「忙しい」という言葉は使わないようにしたい。

坊さんの類型化

2005年11月23日 | 思い・日常
先だって、仏教ジャーナリストのUさんと、いつもお世話になっている、ご住職お二人と私の4人で会食をしました。

日本料理とそばのおいしいお店で、芋焼酎をいただきました。
ちなみにわたしはけっこうイケル口です…坊さんが威張ることではありませんが…しかしひとつの能力ではあります…笑

これからの寺院、宗門のあり方、進むべき方向性など、みなさんから、とても建設的なお話、ご意見を拝聴し、みなさん頑張ってらっしゃるな…わたしもこのままじゃまずいな…頑張ろう!という思いを新たにしました。


さて、その席の余談の中で、仏教ジャーナリストのUさんが、「宗旨、宗派によって、確実に坊さんに特徴ってありますよね」と一言。一同この話で盛り上がる。

A宗の坊さんは、真面目で偏屈で排他的。だけど、とっても純粋。
B宗の坊さんは、人間味があって気さくである。
などなど・・・。
ちなみに私の所属している宗旨の坊さんにはどんな特徴があるかという話になり、「いい意味でも、悪い意味でも自民党的」「葬儀・法事を優先して、生きている人の利他行ということになると、動きが鈍い」「だが、ここぞと言うとき大教団としての大きな力を発揮する」との意見がでました。

わたしも納得する部分がありました。

私の俗流な分析によれば、次のようになります。
わが宗祖はその境地、その哲学において、容易に人の近づきがたい、孤高のオーラを発しており、他宗の開祖の教えに比べると明らかに一般には親しみにくいものがある。おそらく宗門の僧侶にとってもそれは同じことであろう。だから宗祖の教えを自信を持って人々に伝えることができない。それが、いわゆる布教に対して消極的になったり(私も含めて)、生きている人に対する利他行よりも、葬儀・法事を優先することにつながっているのではと、こう解釈するのですが・・・。

もちろん、安易な類型化はいけません。
偏見と差別の温床にもなりかねませんから。
真剣に捉えることはないし、会話のちょっとした、スパイスくらいでちょうどいいと思います。

しかし、日本人って(私含めて)類型化することが好きな民族なんだなって思います。その際たるものは、血液型占いでしょう。あれは占いというより、完全に日本人の類型化嗜好が反映してますよね。あと、日本人は県民性とかのネタも好きです・・・。それ以外にも、日常の中でいろんなところで類型化は行われてると思います。

私たちは人を類型化することによって、そのひとを一つのカテゴリーに入れることにより、何か安心感のようなものを得ているのではないでしょうか。

でも、類型化された人生なんてつまらないですよね。
類型化されることで、(私は)名無しのゴンベイになってしまうわけですから・・・。

自戒の念もこめて、なるべく人を類型化することなく、その人自身と実存的に関わりたいと思います。いわば、つねに一期一会ですよね。
また、私自身類型化を超え出る実存的な生き方(私固有の生のあり方)を求めて生きたいと思います。かっこつけてますが…笑

※写真は生まれたてホヤホヤのグリの赤ちゃんです。
 見た目はネズミみたいですね。
 グリから赤ちゃんを離すと、とても心配そうな顔をするので、すぐに返してあげなければいけません。

うまれたっ!

2005年11月22日 | つながりコスモロジー
昨晩から愛犬グリ(トイプードル)の調子がおかしかった。

そわそわ落ち着かず、苦しそうに行ったり来たり。

一睡もしていない。

初出産の予定日は20日。

もうそろそろだと思った。

今日になって、なぜか押入れに入りたがる。

母が押入れにスペースを作って、即席のお産の場所を作ってやる。

ハーハー苦しそうな息遣い・・・。

犬だから「やれ、どこが痛いだの、苦しいだの」と言葉を発しないだけに、こちらも心配になる。みていて痛々しい・・・。

午前中いっぱい、苦しそうな顔。かなり深刻な顔である。

午後2時頃に押入れからヨタヨタ出て来て、おもむろに、う○こポーズ。

頭らしきものが出てきた。だけど、なかなか、そこから先が、いきめない。

家族が注意を払いながら赤ちゃんの頭を引っ張る。それでもなかなか出てこない。

グリ~頑張れ~っ!家族中の思いが一つになる。

でたっ~!!!

家族中、興奮と歓喜の声。

元気な男の子。

グリ、本能的に自分の胎盤を食べる。

そうすることで、二匹目の出産が促進されるらしい。

そして、20分後、今度はこちらの力を借りず、するするっと出てきた!

今度は元気な女の子。

その間、母親のメリは、娘のグリのお産が心配でたまらないのか、ずっと吠えていた。

我が家で生まれた正真正銘の箱入り娘、内弁慶のグリが立派にお産をした。

お乳もちゃんと飲ましている。

感動した!!!ちょっとウルウルきた・・・。


犬の「コスモロジー(
ここクリック)」を考えた。

グリにも、無限の犬のご先祖様がいる。

もっとさかのぼると、ネズミに似た原始哺乳類。

つまり我々とご先祖様は一緒である。


グリにしても、グリの無限のご先祖様が命をつないでくれたおかげで、

グリの命がある。

そして、グリと私はこの人生(グリからみたら犬生)でめぐり合えた。

人間と犬の出会いも奇跡であることに変わりないのだ。

今日、グリは命を次の世代につないだ。

10日後には母犬メリのお産が控えている。

いまわが家は、人間3人、犬5匹の8人(匹)家族である。

家族がにぎやかなのはいい。


余談だが、母犬メリは、赤ちゃん犬(孫)から見れば、4歳でおばあちゃん。

グリは2歳のお母さんである。

メリの心情はさぞ複雑だろう・・・。

犬ってすごい・・・。

犬は最高!

※グリのお腹のところにいる、ウ○コの形をしたものが、二匹の赤ちゃんです。
 お乳をやっています。
 携帯写真でわかりづらいと思いますが・・・。
 
 余談ですが、子どもってウ○コとか、ウ○チって好きですよね~
 よく連呼してます(笑)



勤労感謝の日

2005年11月21日 | 思い・子どもたち
毎週月曜日の全体朝礼は、子どもたちに話をする。

今日は「勤労感謝の日」について話した。

キンロウカンシャ、子どもたちには難しい・・・。

だが、あえて挑んでみた。


数年前を振り返れば、園長になった当初は子どもたちに何を話したらいいか、皆目わからなかった。

この寺に来る前までは、幼児と接したことなどなかったから。

たまたま、後継者として入った寺が幼稚園をしていただけのこと。

園の仕事に携わるまで、幼児は私にとって宇宙人に近かったし、どちらかと言えば苦手な存在だった。

しかし、どうだろう。子どもたちの輝きは。

子どもたちとはすぐに心が通う。
(なかなか心を開かない子もいる、そうした子には根気が必要、そして何より必要なのは無条件の愛)

まさに打てば響く竹、こちらが思うようには響かないが・・・。

それでいい。

ふれあえばふれあうほどに愛しくなる。

かわいいの一言に尽きる。



子どもの気持ちをひきつけるには、やはり質問形式で進めるのががいい。

こちらの質問の仕方が、ツボにはまると大いに盛り上がる。

しばしば、盛り上がりすぎて収集がつかなくなることもあるが・・・。

あててあげると喜ぶし、間違っていても、なるべくあからさまに否定しないようにこころがける。

今は子どもに自信をつける時だ。

また、多くの場合、大人のものさしで正誤を判断してしまうことが多い。


導入として「なんで大人になると働くのかな?」と聞いてみた。

以前の私だったら、特に考えもせず「なんで大人になると働かなければいけないのかな?」と聞いていたかもしれない。

だが、これでは、働くことが義務的、他律的である。
仕事と余暇をバラバラに分ける思考パターンである。
仕事は義務で、余暇は楽しみ。
仕事は、生活のため、楽しみのために仕方なくやるものという捉え方。

働くとは、「自己表現」、「自己成長」そのものであろう。
それが、本来的な意味で「働く」ということである。
自分がいかにマイナスの思考パターンに陥っていたか。
子どもに与える影響の大きさを考えると恐ろしい・・・。

最近、論理療法の本を少しづつ読んでいる。
それは、自分の中の内的言語(発話行為も含めて)を意識的に替えていくということだと思う。

質問に対して、
子どもからは「お金をいっぱいためるため~」、「ぼくたちのため~」、「いろんなものをいっぱい買うため~」、いろんな声が飛び交う。

けっこう、現実的である。そこには願望と欲求も含まれているが・・・。

そこで、わたしは3つの働く意味を挙げてみた。

一つ目は「みんなが言うようにお金をもらって、いろんなものを買ったりして、みんなを育てるため」

二つ目は「みんなだけじゃなくて、た~くさんの世の中にいる人たちのため」

三つ目は「はたらいてりっぱな人になるため、自分のためにはたらくんだよ」

この三つ目のりっぱな人というのは、偉い人ともとられかねないが、子どもに伝える適切な語彙が思い浮かばなかった。
あ、いま思い浮かんだ。
素敵な人になるため・・・。これがあったか。

「あさってのお休みは働いてるひとに有難うを言う日なんだよ」
「だから、お休みの日にお父さん、お母さん、いつも働いてくれてありがとうって言ってごらん」「きっと喜ぶと思うよ~」
と最後に言って、今日の話は終わった。

うまく伝わるだろうか。


生徒諸君に寄せる

2005年11月20日 | 
今日は宮沢賢治の一篇の詩、「生徒諸君に寄せる」を紹介します。


 生徒諸君に寄せる



この四ヵ年が
    わたくしにどんなに楽しかったか
わたくしは毎日を
    鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云ふが
    わたくしはこの仕事で
    疲れをおぼえたことはない

 (中略)

新しい風のやうに爽やかな星雲のやうに
透明に愉快な明日は来る
諸君よ紺いろした北上山地のある稜は
速やかにその形を変じよう
野原の草は俄かに丈を倍加しよう
新たな樹木や花の群落が
    

諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君はその地平線に於ける
あらゆる形の山岳でなければならぬ

(中略)

諸君はこの時代に強いられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
むしろ諸君よ さらに新たな時代をつくれ
宙宇は絶えずわれらに依って変化する
潮汐や風、
あらゆる自然の力を用ゐ尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ


新しい時代のコペルニクスよ
あまりに重苦しい重力の法則から
この銀河系等を解き放て


新しい時代のダーウヰンよ
更に東洋風静観のキャレンジャーに載って
銀河系等の外にも至って
更にも透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ


衝動のやうにさへ行われる
すべての農業労働を
冷たく透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踊の範囲に高めよ


素質ある諸君はただこれらを刻み出すべきである
おほよそ統計に従はば
諸君の中には少なくとも百人の天才がなければならぬ


新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ


新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ


諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか


今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先ないしはわれらに至るまで
すべての信仰や徳性はただ誤解から生じたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ、


誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを云っているひまがあるのか
さあわれらは一つになって〔以下空白〕

 
 以上、この詩は未完成のままです。

引用:「新潮文庫、新編宮沢賢治詩集」


 大変豊かな美しいイメージの詩です。
 
 わたしは個人的にこの詩から「透明な生きる力(根源的な)」というイメージが喚起されます。
 
 わたしがこの詩の中で特に好きな箇所は、まず、冒頭の部分、
「この四ヵ年がわたくしにどんなに楽しかったか~わたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない」と、

「新しい風のやうに爽やかな星雲のやうに 透明に愉快な明日は来る」 

「むしろ諸君よ 更に新たな時代をつくれ~諸君は新たな時代を形成するのに努めねばならぬ」、

「新たな詩人よ 嵐から雲から光から 新たな透明なエネルギーを得て 人と地球にとるべき形を暗示せよ」、

「諸君はこの颯爽たる 諸君の未来から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか」です。なんだかいっぱい好きな箇所がでてきてしまいましたが…

みなさんはどこの部分に、心が響いたでしょうか?
 
最近は「コスモロジー」を学んで、よりいっそうこの詩に対する感慨を深くしました。

 ちなみに私はこの詩からヒント(パクリではないと思う…)を得て、卒園児に寄せるコメントに「みんなの透明な“生きる力”育て!」という一言を贈っています。大人になってその言葉から何かを感じてくれるといいなと、淡い期待を抱いてます。

※境内のワンショットです。桜の木の後ろに高々とまっすぐに伸びている木は、「メタセコイア」です。古代から現代に生き残った種であると言われています。植物界のシーラカンスと言えるでしょう。ですが、そんなに珍しい木ではないと思います。
ちっちゃい写真ですので、ブログ上の日付のところクリックすると、少し拡大されますよ!