一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

四弘誓願(しぐせいがん)

2005年12月08日 | 禅・仏教
今日は、お釈迦さま(釈尊)が悟りを開いた日です。
と言うと、実はこの命題は、論点先取の誤りをおかしてしまいます。
なぜなら、釈尊という言葉にすでに、釈迦族の悟りを開いた仏、という意味があるからです。
だから正しくは、ゴータマ・シッダルタが悟りを開いた日というのが正しいように思います。
屁理屈はともかく・・・。
今日はお釈迦さまが悟りを開いた日です。(と言った方がやはりシックリきますね)
そして、悟りを開いて覚者(仏陀とも言う)になることを、成道(じょうどう)すると言います。

当寺では、幼稚園行事として本堂で成道会(じょうどうえ)を行っています。
まずは、白いドレスをまとった年長の女の子6人が、「四弘誓願」の曲に合わせて、本尊さまの前で踊ります。これが実にかわいい。天使のようです。天女というより天使ですね。天女だとちょっと大人な雰囲気ありますからね(笑)女の子たちにも、この天使の役は大人気です。やっぱり憧れるんでしょう。それから、成道会の歌をうたい、私が般若心経と、回向をとなえて、みんなで焼香して法要は終わりです。

さて「四弘誓願」とは何か?
これは、菩薩が仏に立てる四つの誓願。
「菩薩」とは大乗仏教が目指す理想像(理想的人間像)です。
大乗仏教に対する、上座部仏教(小乗仏教…現在この言い方は大乗仏教からの差別的な呼称とされ、上座部仏教、及び南伝仏教と言われます)にはない思想です。

四弘誓願(しぐせいがん)

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

上記意訳します。

救われるべき人々は限りないが、必ず救うことをお誓い申し上げます。

断ずべき煩悩は尽きることがないが、必ず断ずべきことをお誓い申し上げます。

教えは量り知ることができないほど多いが、必ず学びきることをお誓い申し上げます。

仏道はこの上なく高いものであるが、必ず完成させることをお誓い申し上げます。

以上意訳引用(「お経 禅宗」桜井秀雄・鎌田茂雄―講談社)

いかがでしょうか。
わたしにはこれら4つの菩薩の誓願はいずれも、俗流に言えば「不可能に限りなく近いけど(いやほとんど不可能だけど)、必ずやってみせます!」というニュアンスがあるように感じられます。これは矛盾ギリギリの表現ではないでしょうか。

もっと言えば、「無理だけど、必ずやり遂げます!」そんな風にも取れます。
こう解釈すると、矛盾そのものになってしまいますが・・・。
しかし、私はここにこそ「菩薩」という像の、はかり知れない壮大さを感じるのです。つまり「永遠」。エンドレス・・・。

普通に考えて、娑婆世界から完全に苦悩がなくなるということはありえません。
しかし、菩薩は、わかっていても決してあきらめない。必ず達成すると誓います。
ということは、菩薩の誓願は、永遠に立てられるということです。

それは無意味なことでしょうか。

確かに、世界から完全に苦しみがなくなって、この世が楽園になるということはないでしょう。
しかし、菩薩が必ずやると誓い、実践することで世界はベターな方向に向かっていく。一歩づつではあっても、ベストに至る事はなくても、限りなくそれに近づいていく。永遠の時をかけて・・・。
それは、私たちひとりひとりが菩薩の生き方を目指せば、間違いなく世界はベターな方向に進んでいくということです。

菩薩が永遠に仏にならないで衆生を救うという意味は、そこにあるのではないでしょうか。

仏になれるけど、あえてならない菩薩。

そこには智慧に裏付けられた慈悲があるから。

衆生の苦を見過ごそうにも見過ごせないんですね・・・。

衆生の苦を永遠に引き受ける菩薩。

大乗仏教は美しい!!!

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ありがとうございました