当寺本堂に掲げられている山本五十六元帥の書。
「至誠奉公」の扁額。
数十年前、元軍人の家柄だった檀家から寄付していただいたものだ。
正直、9年前に当寺に来たときは、「なんて時代錯誤な、けったいな代物が掛けてあるんだ…」と、どこかで恥ずかしく思っていた。
そう・・・私も当たり前のように、歪んだ戦後教育、自虐史観の洗脳を受けていたのだ。
当時はそのことにすら気付かなかった。
だが、歳を重ねるごとに、学びを深めるごとに、私のこの書に対する思いは着実に変化してきた。
いまや、「至誠奉公」のこの額に対して、なんら後ろめたさを感じることはない。
それどころか、なんと美しい言葉か・・・と感銘されてならないのである。
「至誠奉公」
まさにこれこそ、世界に発揚すべき誇り高き日本精神にほかならないではないか。
「公に対して真心を尽くして行動すること」と訳してみた。
では「公」とは何か?
「公」とは、広く他者と同定しても誤りではないだろう。
「誠」とは、すなわち「まごころ」、「正直」であることにほかならない。
つまり、至誠奉公とは、「他者に対して正直に接し、精一杯のまごころを尽くす」ということである。
戦争時代、「公」はそのまま「国」であった。
この方向性自体に断じて間違いはない。
ただその内容に多くの不幸があったということだ。
つまり、それが悲惨な戦争に結びついてしまったということ。
しかし、これについても現代の視点で一方的に断罪することはできないのである。
当時には当時の選択があったのだ。
それがどうしようもなく悲しく不幸な選択であったとしても、だ。
たとえ過ちであったとしても、否定されるべきではない。
しかし、現代は戦後教育により、「公に真心を尽くす」という、この高邁な日本精神、素晴らしい方向性自体までが否定されてしまった。
日本精神が骨抜きにされてしまったのだ。
いつしか日本人が日本人であることに後ろめたさを感じることが、日本人の良識だとするような考えがコモンセンスとなった。
同時に「国」、「国家」という概念的枠組み自体が危険視されるようになった。
なぜか。
こうした考えが、反日マスコミや、一部の政治家、日教組系教育者、市民団体、進歩的知識人と称する者たちによって流布されたからである。
自分たちの先祖を「悪」と断定することによって、自分たちは正義の味方だと気取る人たちのことである(しかし彼らにもおそらく悪意はない、無自覚のうちに結果としてそうなっているにすぎない、だから余計にたちが悪い)。
彼らは、せいぜい、「市民」という得体の知れぬブヨブヨした概念を持ち出して、国の代用をしようとするのが関の山である。
いったい「市民」ってどこのどいつのことだ・・・。
だから大人も、若者も、どこに向かって歩いていけばいいか分からなくなってしまったのだ。
「至誠奉公」が死語になったとき、崇高な人生の模範は失われてしまった・・・。
そこで結局、「人生は自分の欲望を満たすためにある」、という考えに至ることになる。
そこに充足した「生」はない。
人間は、健全なアイデンティティーを確立することが必要である。
アイデンティティーを確立するとは、自分の依って立つ「世界観の枠組み」を構築すること、と言ってもいいだろう。
これがしっかりと確立し肯定されていないと、人間が生きる上でのベースとなる自信が築けない、また生きていてもどこか虚しくなってしまう。
そして、その虚しさを紛らわすための「気晴らし」が次第にエスカレートしていき、底のない快楽主義に陥ってしまう。
現代はまさに、こうした悪しきデフレスパイラルにあるのではなかろうか。
祖国を愛するということは、「右」でもなんでもない。
その国に生きる人間として当たり前のことではないか。
祖国を愛せない人間は、他国を愛することもできないだろう。
この国を愛し、この国を少しでも良くしていこうと真心を尽くすこと。
それが、ひいては世界を、地球をよくしていくことに繋がると確信する。
そこに繋がらなければ、それはただエゴと目先の利益に踊らされているだけで、長期的な利益とはならない。
国と言う概念は、仏教から言えば確かに「分別知」であろう。
実にここが難しい・・・。
しかし、あえて提言したい。
仏教の立場から言えば、「国家」というものは確かに分別知であり、妄想に過ぎないわけだが、人間は言葉を使う動物である以上、この分別知に依拠しないとまっとうな社会的生活が営めない。
そこで、「国家」という枠組みをMUST化も絶対視もしないが、「国家」が私たちがよりよく生きる上で必要な枠組みである以上は、最大限に尊重していくというスタンスが考えられる。
分別知は、いつも悪者であるとは限らないのである。
まだ、世界人類には「国」という概念の枠組みが必要であり、一足飛びに「世界市民」などというのは、それこそファッション左翼の妄想に過ぎない(過去に私にもその傾向があったと告白しておく)。
「国」という枠組みに囚われないでいつつも、しかしなおかつあくまでも「国」を愛し、「国」のために尽くしていくという生き方。
それは、決してフワフワ「軽い」祖国愛ではない、活き活きと「軽やか」な祖国愛なのである。
そして、そうしたあり方は、そのまま、大宇宙(コスモス)、そして、自分の生き方を荘厳していくことにほかならない。
つまり、「仏国土荘厳」ということだ。
とは言え、われわれ日本人も、心情にばかり傾いた安直なナショナリズムには警戒すべきだろう。
そうなった途端に理性的な判断ができなくなるからである。
隣の韓国、中国は、偏狭なナショナリズムによって世界から孤立し、いずれ自らの首を締めることになる可能性が高い。
日本としての誇りを持ち毅然とした対応をしながらも、彼らと同じ土俵で相撲を取ってはいけない。
つまり、彼らの感情的で不条理な反日に対し、同様な、反韓、反中で対抗してはいけないということだ。
そこに解決の糸口はない。
むしろ日本人は、彼らのような低い位置にいないということを、顕示すべきであろう。
あくまでも未来志向を貫く。
日本人ならそれができるはずだ。
そこに真の日中友好、日韓友好の鍵がある(私は友好を諦めない、両国ともに好きだから仲良くなりたい)と思う。
ともあれ、ナショナリズムを超えた「至誠奉公」の道を模索しつつ実践していくこと。
これがこれからの日本人に課せられた課題となる。
幸いなことに現代、自虐史観の過ちに多くの人が気付き始めてきている。
これを国民総右傾化などという知識人こそ、特定のイデオロギーに縛られている退歩的知識人と言えよう。
私たちは、今こそ「日本人」としての真っ当なアイデンティティーを回復し、「国のために誠意を尽くす」というあり方を目指さなければならないのである。
とは言え、この私に具体的にどんなことができるのか・・・自問されてならない。
今の時点ではとにかく方向性が定まったということだ。
今回の連休は、特に台湾の歴史に関する書物を読むのに費やした(中華圏のポップスを聴きつつ・・・)。
このことは、私の日本人としてのアイデンティティー確立のために、はかり知れない示唆があった。
清々しい気分だ。
新緑がなんと美しく輝いて見えることか。
最後に、日本のことを祖国のように大事に思ってくださる心優しき台湾の人々に、心からの感謝の意を捧げたいと思う。
これからも、この山本五十六元帥の書を大事にしていきたいと思う。
日本精神を伝える言葉として。
<追記>
それにしてもC-POP最高です♪♪
中華圏も最高!
中国語の響き、大好き!
これらを通して、日本語の美しさ、日本のサブカルチャーの良さも再発見しています☆
まとまりのない駄文ですが、今回は久しぶりに力が入りました。
それだけ、私にとって「日本人」と言うアイデンティティーの問題は大きかったのかもしれません・・・。
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