一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

新井白石について―②

2014年05月16日 | 哲学・思想・宗教
郷土ゆかりの偉人、新井白石にどハマり中です!

当代一の大儒学者、漢学者であったのみならず、大胆な政治改革者であり、優れた歴史家、散文家でもあった新井白石。

多岐に渡る著作は膨大で、博覧強記とはまさにこの人のためにある言葉。

また西洋や外国への洞察も深く、宣教師シドッチに500年に一人の人物と言わせしめ、
上から目線の朝鮮使節たちを、圧倒的な学識の深さ、論理の鋭さで、ギャフンと言わせてしまう・・・。快感(笑)

そして何より素晴らしいのは、国を動かすほどの絶大な影響力を持ちながら、白石が決して私利私欲を求めなかったこと。
俸禄はなんとたったの1000石。その気になれば大名にだってなれたろうに・・・。
白石には、この国をよくしたいという一念しかなかったのだろう。

また、庶民への人情に満ちたエピソードもいくつかあり、白石の温かい人柄が伝わってくる。

日本人の誇りとして、もっと評価、顕彰されるべき人物だと思います。

後藤文雄神父

2014年02月18日 | 哲学・思想・宗教


後藤文雄神父とその活動が昨日の産経新聞の朝刊で紹介されていました。

AMATAKというNPO法人を立ち上げ、長年カンボジアに学校を作る活動をされています。

以前、ご縁があって食事をご一緒する機会があり、私も微力ですがその活動を支援しています。

実際は、とても気さくで人間味のある神父さん(^-^)

自伝の著書も面白いので、よかったらぜひご一読を。

後藤神父が立派なのは、カンボジアに学校を建てても、その活動を通してカンボジアの人々に布教をしないこと。

カンボジアは基本的に仏教国。その国の精神的なものを尊重したいと仰っていました。

神父の無私の奉仕には、宗教(言葉)を超えた真の愛(慈悲)があるように思います。

イエスもまた言葉(教え)による束縛から人々を解放した、真実、愛の人でした。

エホバの証人の方たち

2007年07月25日 | 哲学・思想・宗教
夕方本堂の戸締りをしていると、小ぎれいな身なりをした品のいいご夫人二人がやってきました。
おや、これはもしかして・・・
直感は当たりました。
「ものみの塔」、通称「エホバの証人」の方たちです。
どこそこで行われる大会の案内で来たとのこと。

彼らの信仰について否定をする気は全くありません。
しかし、どうして彼らがお寺にまで足を運んでくるか、その神経が分からないのです。
というのは彼らがきわめて原理主義的であり、彼らの信仰の根底に、自分たちの信仰だけが絶対に正しく他の神や他の信仰を認めないという考えがあるからです。
どうして、そういう方々がお寺に来て自分たちの布教活動をしなければならないのか、しかもこの私に向かって・・・。

私は彼女らに言いました。
「あなた方は、ご自分たちの教えが、自分たちの神が唯一絶対に正しいと思っているわけでしょう? 他の神や、他の教えは間違っていると・・・。私はそうは思っていない。キリスト教の教会に行けば、ちゃんとキリスト教のやり方でお祈りします。 じゃあ聴きますが、あなた方はいまここで、この寺のご本尊さまに手を合わせることができますか? もしそれができたら、お話も伺いますし、そのパンフレットも受け取りましょう。」
と聞いたら、案の定いいえできません・・・と答えました。
「そうですか。だったら、どうぞお引取りください。あなた方は失礼なことをしているとは思いませんか。」
それでも何か言おうとする彼女たちに、
「いや!聞く耳を持ちませんから、お引取りください!」と言ったら、やっとすごすごと帰っていきました。

原理主義的宗教は、必ず他の宗教を排斥しようとします。自分たちだけが唯一絶対に正しいと信じ込んでいるわけですから、当然と言えば当然ですけど。。。
しかし、そうした宗教のあり方が人類史においてさまざまな悲惨な争いを引き起こしてきたのは自明の事実です。
私は現代こそ、他宗教間の根底に流れている共通した霊性を通して、交流すべき時期だと考えています。

宇宙はひとつですから、どれが正しくてどれが間違っているということは究極には言えないし、各宗教はただ現れ方が異なるだけで本質は一緒なのだと考えています。
これについては、とてもここで一言では言えません・・・。

その点、「ものみの塔」は時代の流れに逆行しています。というか、宇宙の流れ、人類の進化に逆行しているように私には思えるのです。自分たちの信仰に誇りを持つことは素晴らしいことだと思います。しかし、それは他の信仰を認め、尊重するということが前提です。
異質な他者として、他の信仰を認めない宗教に賛同することはできません。もちろん存在することは認めますが・・・。

彼女たちには可哀想な気もしましたが・・・寺の住職が毅然とした態度を取ることは彼女たちのためにもなるでしょう。

C神父 司祭叙階30年のお祝い ―1

2007年06月18日 | 哲学・思想・宗教
ブログを通じて知り合ったカトリック信者のacquaさん、そして彼女の友人のC神父。

これまで、表面上の宗教の違いを超えた、互いの宗教の根底にある霊性を通した交流をさせていただいている。

と言うと、大げさかもしれない。

禅、道元禅師、イエス、釈迦、聖フランチェスコ、良寛・・・私たちの中にそれらを隔てる本質的な意味での壁(断絶)がないと言うことだろう。


さて、昨晩は3人で、C神父の司祭叙階30年のお祝いをした。

場所は、新宿三角ビルのイタリアレストラン、「スパッカナポリ」というお店。

北イタリア、ベルガモ出身のC神父を唸らせるほどのイタリア料理。

料理長はじめ、お店の人々も気さくで、肩肘の張らない素敵なお店である。

しかも店内から新宿の夜景を見渡せる素晴らしいロケーション。


食事の前にはじめてカトリックのミサに参加させていただいた。

今回は多少略式ということであったが、法衣を纏ったC神父は、私たちがプレゼントしたストラを肩に掛けてミサを執り行ってくださった。

厳粛な中にも心温まるミサであった。

途中聖書の中でも私の好きな場面のひとつ、ルカ福音書(ルカ7・36~8・3)を神父が朗読した。

少し長くなるが引用したい。

あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこでイエスがその人に向かって「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話になった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されたことの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


涙で塗らした髪で、イエスの足をぬぐう女。

女の思い、女の行いを静かに受け止めるイエス。

罪人の行為、それを受け入れるイエスを訝しく思う周囲。

彼らの意を察して、明言するイエス。

「あなたの罪は赦された」と。

しかし、女の涙ながらの行為にすでにイエスのゆるしがあるのだ。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

この言葉で、完全に女は救われたのだ。

イエスは彼女のすべてを受け止めた。

それは罪人として蔑まれていた女にとって、はじめてのことだったに違いない。

まごころからのイエスへの思いが、彼女を救ったのだ。


私には残念ながら、この感動をうまく言葉で伝えられない。

しかし、この場面一つとっても、行間から、静かだが、同時に雷の如くほとばしるイエスの愛が感じられてならないのである。

今風に言えばこれは「あなたは、すべてオッケーなんだよ」というメッセージである。

それは、愛そのもののイエスが言うからこそ、はかり知れない重みをもって心に迫ってくるのである。


17:30から23:00まで、ゆっくりと会話を楽しみながら食事をした。

食事の終わりの方でacquaさんに促され、ためらいつつもイエスの復活について私の思いをC神父に打ち明けた。

「イエスの復活」はクリスチャンにとってもっとも重大なできごとである。

しかし、私にとってもそれは同じであった。

復活をどうにかして自分の中で昇華するかが、私がイエスとより親しくなるためには必要だったのである。

ここで、私の復活の捉え方について具体的には述べない。

だが、端的に述べれば、私は、外側に現象されるような物質的なイエスの復活よりも、精神的な、もっと言えば弟子たちの全心身にありありと脈打っているような復活の方が、より本質的で、霊的であると感じているのである。

私のこうした復活観は、私の師事する岡野守也先生のイエス像、また、acquaさんに紹介されたジャコモビッフィ師の言葉によって作られたものである。

C神父に話しているうちに、イエスへの思いが溢れてしまい涙が頬を伝う・・・。

イエスはやはり私にとっても特別な方らしい・・・。

C神父は、否定も肯定もせずに静かに、真摯に私の思いを受け止めてくださった。

C神父とも、acquaさんともこれまでよりいっそう心の距離が縮まったように感じられて嬉しかった。

素晴らしく豊かなひと時であった。

ワインを3人で3本も空けてしまった。

しかも、リキュールやグラッパを何杯も。

前日もたらふく飲んだにもかかわらず・・・。

というわけで今日は午前中は仕事にならないと諦めて、ゴロゴロしてしまった。


※写真はacquaさんにいただいた十字架。
C神父に祝福していただきました。


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観自在とは異人にあらず、汝、諸人是なり。

2007年06月03日 | 哲学・思想・宗教
観自在(観世音菩薩=観音のこと)とは異人にあらず、汝、諸人是れなり。何をか観自在といふ。眼を開けば森羅万象ありありと現はれ、耳に通ずることは無量の音声間断なし。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官のこと)皆な是の如く十万無量の事、一事に対すれども一として見ぬこともなく、聞かぬこともなし。
江戸期、曹洞宗の天桂伝尊禅師(1648-1735)の言葉。



人間は、たとえどんな欠陥があるにせよ、どんな弱点をもつにせよ、またその他のいかなる事情のためにも、いずれにせよ決して己自身を神から遠く隔たっていると考えてはならない。「教導説話1―17」

不動の離在は人間をば神との最大の等しさにもたらすのである。神が神であるのは彼が不動の離在をもつが故であり、彼はこの離在から、彼の純粋性と単一性と不変性とを得ているからである。さればこそいやしくも人間が神に等しくなる――一個の被造物が神との等しさを持ちうる限りにおいて――べきであるなら、それは離在によってでなければならない。このものこそ人間を純粋性の中に、純粋性から単一性の中に、そして単一性から不変性の中に引き入れる。これらのものは神と人間との間に等しさをもたらすのである。「離在について」
『神の慰めの書 M・エックハルト 講談社学術文庫』


「遍界不曾蔵」(へんかいかつてかくさず)という禅語がある。

いま・ここ・自己を見失わないように。
真理は、全宇宙どこにも隠されていないのだから。


エックハルトの説く「離在」とは神の空性を指しているのだろう。
人が離在によって空性であるとき、神と人間が等しくなるということ。


そのとき、観音は異人ではない。
私、あなた、全世界が観音である・・・。


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フランクル哲学の禅語的アプローチ (雑感メモ―1)

2007年05月31日 | 哲学・思想・宗教
ヴィクトール・フランクルのロゴセラピー哲学。
3つの原理の一つ、「創造価値」についての小考察。

①創造価値とは・・・自ら主体的に人生の価値を創造していくという原理。

一、はたして環境世界はこの私に絶対的に与えられたものなのだろうか。
ひいては、環境世界に付帯する意味・価値とは絶対的なものなのだろうか。

初めに結論から述べれば、環境世界自体に先天的な意味・価値はない。
あくまでも意味・価値は、自己が創造していくものである。
そして、創造の過程において、自己は自己を取り巻く環境世界を形成していくのだ。
人生に意味・価値を投げかけ、環境世界を形成していくのは、この自己自身である。だが、にもかかわらず、私たちは往々として、自己の外側に自己とは無関係に環境世界が存在して、それ自体に先天的な意味が備わっていると錯覚してしまう。
ひいては、その錯覚が私たちの人生における虚無感(ニヒリズム)にもつながっている。
環境の中にあらかじめ決定された絶対的な意味・価値を捉えてしまうと、人生は硬直化し、すべての行動が主体性の欠落したものとなってしまうからである。
実存の喪失。
そのとき人は環境の奴隷に堕してしまう。
つまり、環境によって自分の人生が左右されるということだ。

環境に対して、自己が介在しない特定の意味を認めると、すべての行動・体験は代替可能になり、「私がやっても、他の誰かがやっても結局同じこと(同じ意味)」ということになる。
すなわち人生体験の匿名化、意味・価値の無化である。
これが、虚しさ(ニヒリズム)の根源と言えよう。

また、環境自体にあらかじめ絶対的意味を捉えてしまうと、行動・判断・解釈することによって、意味・価値を主体的に創造していくという人間の本来的なあり方が失われてしまう。
そうなると、トラブルや、災難に遭うたびに、「私はついていない・・・」と自分の人生を恨めしく思うようになる。
しかし、ある「できごと」を、「トラブル」や「災難」と決めているのは、「できごと」の方ではなく、私たち自身なのではないだろうか。
極端なことを言えば、私たちの解釈を外れて、すべての体験自体には、いかなるトラブルも災難もないということさえ言えるのである。

ここで良寛和尚の言葉が思い浮かんだ。

「しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」

災難に逢ったら、災難と一つになること。
災難を災難として、遠ざけようとすればするほど、「災難」は対象化され自己と相反するものとして浮かび上がってくる。
だが、災難(と思われる体験)と自己が一つになれば、災難と自己を分けることがなくなり、災難という意味そのものが消える(もしくは小さくなる)ということである。


「他不是吾(他は是れ吾にあらず)」という禅語がある。

端的に示せば、「他人のしたことは自分のしたことではない」ということ。
道元禅師が宋で出会った、天童山の典座和尚から発せられた言葉でもある。
「他不是語」についての過去ログ※アクセスURL

「くだらない」と思える仕事がある。
その仕事を「くだらなくしている」のは誰か?
ほかならぬ自分である。
自分が(こんな仕事は)くだらないと決めてはじめて、くだらなくなるのである。
したがって、仕事自体にア・プリオリに「くだらない」という意味が付与されているわけではない。
では、反対に「かっこいい」と思える仕事はどうだろうか。
これも同じことが言える。
その仕事自体が、ア・プリオリに「かっこいい」という性質を有しているわけではない。
私が、「かっこいい」と思うことによって、その仕事は「かっこいい」という意味を有するようになる。
つまり、仕事、ひいては私を取り巻く環境は、ア・プリオリに絶対的な意味を有しているわけではなく、人間の解釈によって流動する極めて相対的なものだということが分かる。

どのような仕事も、まさに、いま・ここ・この瞬間に、私がなすべきものとして立ち顕れている。
その仕事は、ほかの人の前には立ち現れてはいない。
いま、ここで、この私においてなされている、私と一体の仕事であり、私と分離不可能な仕事である。
仕事が・いま・ここの・私とともにある、ということ。
本来的な意味から言えば、本来、仕事は仕事ですらないのだ(仕事を自己と切り離すことはできないのだから)。
仕事とは本来、すなわち私である。
しかし、私たちはしばしば、自己と仕事を切り離す。
切り離して、仕事をほかの仕事と比較しようとする。
そこに根本的な認識錯誤があるのだが。。。

しかし、必ずしも切り離すこと自体が悪いというわけではない。
あくまでその行為に対して「自覚的」であれば、時に自己と仕事を切り離すことが自己実現のために有用な場合もある。

繰り返すが、私と仕事はつねに一体である。
したがって、代替可能な私がありえないように、誰がしても同じ意味を有するような代替可能な仕事もありえないということになる。
仕事とともにある私がどのようなあり方をしているかで、仕事の意味が変わる。
仕事の意味が変われば、私の意味も変わる。
そして、この循環に目覚めることこそが、真に主体的に環境を創造していく生き方、「創造価値」に自覚的に生きるということにほかならないのである。


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「至誠奉公」 山本五十六元帥の書に思う

2007年05月06日 | 哲学・思想・宗教
当寺本堂に掲げられている山本五十六元帥の書。

「至誠奉公」の扁額。

数十年前、元軍人の家柄だった檀家から寄付していただいたものだ。

正直、9年前に当寺に来たときは、「なんて時代錯誤な、けったいな代物が掛けてあるんだ…」と、どこかで恥ずかしく思っていた。

そう・・・私も当たり前のように、歪んだ戦後教育、自虐史観の洗脳を受けていたのだ。

当時はそのことにすら気付かなかった。

だが、歳を重ねるごとに、学びを深めるごとに、私のこの書に対する思いは着実に変化してきた。

いまや、「至誠奉公」のこの額に対して、なんら後ろめたさを感じることはない。

それどころか、なんと美しい言葉か・・・と感銘されてならないのである。

「至誠奉公」

まさにこれこそ、世界に発揚すべき誇り高き日本精神にほかならないではないか。

「公に対して真心を尽くして行動すること」と訳してみた。

では「公」とは何か?

「公」とは、広く他者と同定しても誤りではないだろう。

「誠」とは、すなわち「まごころ」、「正直」であることにほかならない。

つまり、至誠奉公とは、「他者に対して正直に接し、精一杯のまごころを尽くす」ということである。

戦争時代、「公」はそのまま「国」であった。

この方向性自体に断じて間違いはない。

ただその内容に多くの不幸があったということだ。

つまり、それが悲惨な戦争に結びついてしまったということ。

しかし、これについても現代の視点で一方的に断罪することはできないのである。

当時には当時の選択があったのだ。

それがどうしようもなく悲しく不幸な選択であったとしても、だ。

たとえ過ちであったとしても、否定されるべきではない。

しかし、現代は戦後教育により、「公に真心を尽くす」という、この高邁な日本精神、素晴らしい方向性自体までが否定されてしまった。

日本精神が骨抜きにされてしまったのだ。

いつしか日本人が日本人であることに後ろめたさを感じることが、日本人の良識だとするような考えがコモンセンスとなった。

同時に「国」、「国家」という概念的枠組み自体が危険視されるようになった。

なぜか。

こうした考えが、反日マスコミや、一部の政治家、日教組系教育者、市民団体、進歩的知識人と称する者たちによって流布されたからである。

自分たちの先祖を「悪」と断定することによって、自分たちは正義の味方だと気取る人たちのことである(しかし彼らにもおそらく悪意はない、無自覚のうちに結果としてそうなっているにすぎない、だから余計にたちが悪い)。

彼らは、せいぜい、「市民」という得体の知れぬブヨブヨした概念を持ち出して、国の代用をしようとするのが関の山である。

いったい「市民」ってどこのどいつのことだ・・・。

だから大人も、若者も、どこに向かって歩いていけばいいか分からなくなってしまったのだ。

「至誠奉公」が死語になったとき、崇高な人生の模範は失われてしまった・・・。

そこで結局、「人生は自分の欲望を満たすためにある」、という考えに至ることになる。

そこに充足した「生」はない。

人間は、健全なアイデンティティーを確立することが必要である。

アイデンティティーを確立するとは、自分の依って立つ「世界観の枠組み」を構築すること、と言ってもいいだろう。

これがしっかりと確立し肯定されていないと、人間が生きる上でのベースとなる自信が築けない、また生きていてもどこか虚しくなってしまう。

そして、その虚しさを紛らわすための「気晴らし」が次第にエスカレートしていき、底のない快楽主義に陥ってしまう。

現代はまさに、こうした悪しきデフレスパイラルにあるのではなかろうか。


祖国を愛するということは、「右」でもなんでもない。

その国に生きる人間として当たり前のことではないか。

祖国を愛せない人間は、他国を愛することもできないだろう。

この国を愛し、この国を少しでも良くしていこうと真心を尽くすこと。

それが、ひいては世界を、地球をよくしていくことに繋がると確信する。

そこに繋がらなければ、それはただエゴと目先の利益に踊らされているだけで、長期的な利益とはならない。


国と言う概念は、仏教から言えば確かに「分別知」であろう。

実にここが難しい・・・。

しかし、あえて提言したい。

仏教の立場から言えば、「国家」というものは確かに分別知であり、妄想に過ぎないわけだが、人間は言葉を使う動物である以上、この分別知に依拠しないとまっとうな社会的生活が営めない。

そこで、「国家」という枠組みをMUST化も絶対視もしないが、「国家」が私たちがよりよく生きる上で必要な枠組みである以上は、最大限に尊重していくというスタンスが考えられる。

分別知は、いつも悪者であるとは限らないのである。

まだ、世界人類には「国」という概念の枠組みが必要であり、一足飛びに「世界市民」などというのは、それこそファッション左翼の妄想に過ぎない(過去に私にもその傾向があったと告白しておく)。

「国」という枠組みに囚われないでいつつも、しかしなおかつあくまでも「国」を愛し、「国」のために尽くしていくという生き方。

それは、決してフワフワ「軽い」祖国愛ではない、活き活きと「軽やか」な祖国愛なのである。

そして、そうしたあり方は、そのまま、大宇宙(コスモス)、そして、自分の生き方を荘厳していくことにほかならない。

つまり、「仏国土荘厳」ということだ。

とは言え、われわれ日本人も、心情にばかり傾いた安直なナショナリズムには警戒すべきだろう。

そうなった途端に理性的な判断ができなくなるからである。

隣の韓国、中国は、偏狭なナショナリズムによって世界から孤立し、いずれ自らの首を締めることになる可能性が高い。

日本としての誇りを持ち毅然とした対応をしながらも、彼らと同じ土俵で相撲を取ってはいけない。

つまり、彼らの感情的で不条理な反日に対し、同様な、反韓、反中で対抗してはいけないということだ。

そこに解決の糸口はない。

むしろ日本人は、彼らのような低い位置にいないということを、顕示すべきであろう。

あくまでも未来志向を貫く。

日本人ならそれができるはずだ。

そこに真の日中友好、日韓友好の鍵がある(私は友好を諦めない、両国ともに好きだから仲良くなりたい)と思う。

ともあれ、ナショナリズムを超えた「至誠奉公」の道を模索しつつ実践していくこと。

これがこれからの日本人に課せられた課題となる。

幸いなことに現代、自虐史観の過ちに多くの人が気付き始めてきている。

これを国民総右傾化などという知識人こそ、特定のイデオロギーに縛られている退歩的知識人と言えよう。

私たちは、今こそ「日本人」としての真っ当なアイデンティティーを回復し、「国のために誠意を尽くす」というあり方を目指さなければならないのである。

とは言え、この私に具体的にどんなことができるのか・・・自問されてならない。

今の時点ではとにかく方向性が定まったということだ。


今回の連休は、特に台湾の歴史に関する書物を読むのに費やした(中華圏のポップスを聴きつつ・・・)。

このことは、私の日本人としてのアイデンティティー確立のために、はかり知れない示唆があった。

清々しい気分だ。

新緑がなんと美しく輝いて見えることか。

最後に、日本のことを祖国のように大事に思ってくださる心優しき台湾の人々に、心からの感謝の意を捧げたいと思う。

これからも、この山本五十六元帥の書を大事にしていきたいと思う。

日本精神を伝える言葉として。


<追記>

それにしてもC-POP最高です♪♪

中華圏も最高!

中国語の響き、大好き!

これらを通して、日本語の美しさ、日本のサブカルチャーの良さも再発見しています☆

まとまりのない駄文ですが、今回は久しぶりに力が入りました。
それだけ、私にとって「日本人」と言うアイデンティティーの問題は大きかったのかもしれません・・・。

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マルクス・アウレリウスの言葉―2 親切の本質について

2007年03月22日 | 哲学・思想・宗教
つまり、ひとに親切を施してその上何をお前は欲するというのか。おまえの「自然」に即して事をなしたことで十分というのでなくその報酬をおまえは求めるのか。あたかも、目がものを見るからといい、足が歩くからといって報酬を求めるように。これらのものは、これこれのある仕事〔を果たす〕ために生じてきたのであり、その仕事そのものの固有の成り立ちに従って果たすならばその固有のもの〔目的〕を獲得する、そのように人間もまた、人に親切を尽くすべく生まれついた者ゆえ、ひとに何か親切なことをするとき彼は自分の成り立ちがそのためのものであることを果たしたのであり彼本来のもの〔目的〕を手にしているのである。

『マルクス・アウレリウス「自省録」講談社学術文庫』

アウレリウスは、後期ストア哲学の影響を受けた古代ローマの皇帝。

「哲人皇帝」とも称されます。

ん~実に深い・・・

と思いませんか?

ここでは、
「親切はただ端的になされるもの」
「ひとが親切をすることのただ中に、ひとの存在理由が十全に果たされている」
「そのほかにどんな報酬を求めようというのか」
ということが示されています。

心したいですね。

ローマ皇帝という立場にありながら、かくも深く哲学的思索を巡らしていることに驚かされます・・・。

ある意味、奇跡ですね。

アウレリウスの「自省録」は、ほとんどが箇条書きのような文章なので、ちょっとした時間があるときに手軽に読めます。

折りに触れて読みたい書です。

示唆に富んだ珠玉の言葉に溢れています。


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応援ありがとうございました!



至福のひと時(acquaさん、C神父との坐禅と語らいのひととき)

2007年02月23日 | 哲学・思想・宗教
昨日はブログをきっかけに親しくさせていただいているacquaさんと、イタリア人のC神父が当寺にお越しくださいました。

はじめに、うららかな陽だまりが射し込む本堂でともに約30分間坐禅をしました。

清々しい気に身心が満たされた、あっという間の坐のひととき。

坐禅が充実しているときは決まって時間が経つのが早く感じられます。

その後で一緒にゆっくりとお話をさせていただきました。

なんと!C神父は駒澤大学仏教学部の大先輩(もっともC神父は大学院の修士課程ですが)。
(acquaさんから以前聞いたかもしれませんが・・・すっかり忘れていました。)

宗門人なら知らない者はいないであろう、宗門の碩学、鏡島元隆先生、河村孝道先生、酒井得元先生、奈良康明先生から親しく仏教学、正法眼蔵を学ばれたとのこと。

卒論は道元禅師と聖フランチェスコの比較研究。

日本に来る前から仏教に大きな関心があり、来日してからは禅に惹かれて、ついに駒澤大学の門を叩いたとのこと。

参禅経験も長いようでとても坐り慣れていらっしゃいました。

C神父とお話をしていて感じたのは、すでにC神父の中ではキリスト教と仏教の間に、根底における霊性の相違を認めていらっしゃらないということ。

穏やかに、しかし明瞭に「表現の違い」と仰っておられました。

なんということでしょうか・・・。

なんて素晴らしいのでしょうか・・・。

ここにも思いを共有する宗教者がいるとは・・・。

イエスさまとお釈迦さまが用意してくださった出会い。

仏縁とイエス縁の巡り会いとでもいいましょうか。

私たちの心が開いているからこそ招き寄せた出会い。


もう宗教は対立の時代ではなく、対話の時代に入っています。

もっと言えば、「共感の時代」かもしれません。

お互いがお互いを認め合い、お互いを好きになる。

そして、交流を通して底に流れる霊性を共有するということ。


カトリックのacquaさんとC神父には当寺に参拝いただき、ともに坐禅をさせていただいたことを何より誇りに思います。

まさに法喜充満の体験でした。


夜は岡野先生のコスモス・セラピーの講座。

終わってミーティングルームで一杯。

MさんとO町で一杯。

これほど学びが充実した日は久しぶりです。


acquaさんの真っ直ぐな瞳と、C神父の純朴な温かい眼差しを思い浮かべながらの記事。

BGMにはリヒター指揮のバッハ「マタイ受難曲」を聴きながら♪(宗教的感情の密度が極めて濃い。感動します。受難なのになぜか元気になる。)

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応援ありがとうございました!






フランクルの言葉―1

2007年02月20日 | 哲学・思想・宗教
人生はたえず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。ですから、どんなときでも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由選択にゆだねられています。人生は、『最後の息を引き取るときまで』意味のあるものに形づくることができるといってもいいでしょう。人間は、息をしているうちは、そもそもまだ意識があるうちは、人生が出す問いにそのつどそのつど答えていくという責任を担っているのです。それは、人間存在とは意識存在、責任存在にほかならない、という人間存在の重要な根本事実を思い出せば、なんの不思議もないことですが。(『それでも人生にイエスと言う』V・Eフランクル 春秋社)


しばしば人は、実存的な苦悩に目覚めたときに、「人生に意味はあるか?」、あるいは「人生にどんな意味があるのか?」という問いを立てようと試みます。
しかしフランクルは、私たちの人生そのものに、言わばア・プリオリ(先天的・潜在的)に何かの意味が内在しているのではなく、人生の方から私たちに意味を実現するよう、なんらかの可能性を提供しているのだと述べています。
なぜなら、「人生」は、私たちに意味実現の選択を提供せずにはおれない構えを本質的に有しているからです。
その源泉となる人生の構えとはすなわち、人生の「有限性」、「一回性」ということにほかありません。
そもそも、わたしたちの人生が有限でなく一回限りでなければ、「行動・態度を選択する」ということの意味がなくなってしまいます。
私たちはこうした人生の根本的構えにおいて、そのつどそのつど(一瞬一瞬)、体験を通して意味を実現することに責任を担わされた存在(責任存在)であるということを自覚しなければならないでしょう。

まとめましょう。
人生に意味があるのではなく、人生の方が私に一瞬一瞬、そのつどそのつどの意味実現の場を提供しているということです。
意味を実現するか否かは、この私の意識の選択にかかっているということ。
したがって、「つねに自分の人生に責任を持つ」ということ。
こうしたあり方こそは、先述した人生の本質から考えて、まさに私たちの「本来的な生」を開示しているのではないでしょうか。


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