神は一切処に在り、その各々の処において神は全体として在る。かくのごとく神は分割されてない故に、一切のもの、一切の場所は神の唯一の場所である。それ故に、万物はその神的本質によって間断なく神に満たされているのである。
(引用:「神の慰めの書」※M・エックハルト 相原信作 訳 講談社学術文庫)
※マイスター・エックハルト(1260頃~1327)
ドイツの神秘思想家・説教家・ドミニコ会修道士。ケルンでアルベルトゥス・マグヌスに師事し、パリ大で神学博士の称号を得てマイスター(Meister)と呼ばれる。パリ・シュトラスブルク・ケルンで神学を講じ、説教家として活動。彼の汎神論的神秘思想によるその教説28か条が、死の翌年異端の疑いで否認。彼は著作をドイツ語で書いたので、ドイツの哲学用語の祖といわれる。(引用:「コンサイス外国人名事典」 三省堂)
<追記>没後カトリック教会によって、異端となったエックハルトですが、後年異端が却下され(確認できず、いつだか分かりません…)、現在では、トマスアクィナスと並ぶ学聖として祝福されています。
間接的にルターにも影響を与えています。また、フィヒテ、シェリングといった、ドイツ観念論はもとより、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェにも深い関心を寄せられ、20世紀の思想家では、シュタイナー、ブーバー、フロム、ユングらが、共感と関心を寄せています。
前置きが長くなりました。
エックハルトは学生の頃から、心惹かれて読んでおりました。思弁的で難解な文章もありますが、全編通して心に響きます。とても味わい深い。
また私のそれまでのドグマティック(独断・教条主義的)なキリスト教に対するイメージを一変させたのが、エックハルトであったともいえます。
エックハルトを読んでいると、用語や表現の違いこそあれ、その文脈から汲み取られる内容には、仏教、禅との非常な親密性を覚えざるを得ません。当時は安易に、「なんだ!一緒じゃん!!」と感動したのを覚えています。
もちろん問題はそんなに簡単ではないと思いますが・・・。如来蔵思想なんかも絡んできそうなので。
しかし、いいものはいい!
エックハルトが説く、「離脱」とは、内的な私(我意)を離れた、一切の束縛から自由なあり方を説きます。また、自己の外部(被造物)に一切の根拠や目的を求めず、仏教で言うところの、完全に分別知を超え出たところに、私と神との根源的な一如があることを説いているように思います。また、離脱することすら離脱することが離脱であるなんてことも言っており、言語を超えたところを表現しようというあり方が非常に禅的なのではないでしょうか。
さて上記のエックハルトの言葉ですが、私の中では即座に、わたしの属する宗門で、何かにつけ頻繁に唱えられる文言「十方三世一切仏(じーほーさんしーいーしーふー)」が想起されました。
私流にこの文言を訳せば、「時間・空間を含んで超えた「いま・ここ」に一切の仏が遍満している」となります。
上記の文章の「神」を「仏」としても、違和感がない。
呼び方の違いだけで、私には「如来(仏)常住」のことを語っているように感じられます。
キリスト教アレルギーの仏教者の方は、ぜひエックハルトを読んでみてはいかがでしょうか。
また、エックハルトとはまったく性格が異なりますが、わたしはアウグスティヌスの「告白」もドラマティックで好きです。学生の頃、思想的な問題で仏教に行き詰まり、本書に感動して改宗しようかと思ったほどです。半分はジョークですけど(笑)
(引用:「神の慰めの書」※M・エックハルト 相原信作 訳 講談社学術文庫)
※マイスター・エックハルト(1260頃~1327)
ドイツの神秘思想家・説教家・ドミニコ会修道士。ケルンでアルベルトゥス・マグヌスに師事し、パリ大で神学博士の称号を得てマイスター(Meister)と呼ばれる。パリ・シュトラスブルク・ケルンで神学を講じ、説教家として活動。彼の汎神論的神秘思想によるその教説28か条が、死の翌年異端の疑いで否認。彼は著作をドイツ語で書いたので、ドイツの哲学用語の祖といわれる。(引用:「コンサイス外国人名事典」 三省堂)
<追記>没後カトリック教会によって、異端となったエックハルトですが、後年異端が却下され(確認できず、いつだか分かりません…)、現在では、トマスアクィナスと並ぶ学聖として祝福されています。
間接的にルターにも影響を与えています。また、フィヒテ、シェリングといった、ドイツ観念論はもとより、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェにも深い関心を寄せられ、20世紀の思想家では、シュタイナー、ブーバー、フロム、ユングらが、共感と関心を寄せています。
前置きが長くなりました。
エックハルトは学生の頃から、心惹かれて読んでおりました。思弁的で難解な文章もありますが、全編通して心に響きます。とても味わい深い。
また私のそれまでのドグマティック(独断・教条主義的)なキリスト教に対するイメージを一変させたのが、エックハルトであったともいえます。
エックハルトを読んでいると、用語や表現の違いこそあれ、その文脈から汲み取られる内容には、仏教、禅との非常な親密性を覚えざるを得ません。当時は安易に、「なんだ!一緒じゃん!!」と感動したのを覚えています。
もちろん問題はそんなに簡単ではないと思いますが・・・。如来蔵思想なんかも絡んできそうなので。
しかし、いいものはいい!
エックハルトが説く、「離脱」とは、内的な私(我意)を離れた、一切の束縛から自由なあり方を説きます。また、自己の外部(被造物)に一切の根拠や目的を求めず、仏教で言うところの、完全に分別知を超え出たところに、私と神との根源的な一如があることを説いているように思います。また、離脱することすら離脱することが離脱であるなんてことも言っており、言語を超えたところを表現しようというあり方が非常に禅的なのではないでしょうか。
さて上記のエックハルトの言葉ですが、私の中では即座に、わたしの属する宗門で、何かにつけ頻繁に唱えられる文言「十方三世一切仏(じーほーさんしーいーしーふー)」が想起されました。
私流にこの文言を訳せば、「時間・空間を含んで超えた「いま・ここ」に一切の仏が遍満している」となります。
上記の文章の「神」を「仏」としても、違和感がない。
呼び方の違いだけで、私には「如来(仏)常住」のことを語っているように感じられます。
キリスト教アレルギーの仏教者の方は、ぜひエックハルトを読んでみてはいかがでしょうか。
また、エックハルトとはまったく性格が異なりますが、わたしはアウグスティヌスの「告白」もドラマティックで好きです。学生の頃、思想的な問題で仏教に行き詰まり、本書に感動して改宗しようかと思ったほどです。半分はジョークですけど(笑)