一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

M・エックハルトの言葉

2005年12月18日 | 哲学・思想・宗教
神は一切処に在り、その各々の処において神は全体として在る。かくのごとく神は分割されてない故に、一切のもの、一切の場所は神の唯一の場所である。それ故に、万物はその神的本質によって間断なく神に満たされているのである。
(引用:「神の慰めの書」※M・エックハルト 相原信作 訳 講談社学術文庫)

※マイスター・エックハルト(1260頃~1327)
ドイツの神秘思想家・説教家・ドミニコ会修道士。ケルンでアルベルトゥス・マグヌスに師事し、パリ大で神学博士の称号を得てマイスター(Meister)と呼ばれる。パリ・シュトラスブルク・ケルンで神学を講じ、説教家として活動。彼の汎神論的神秘思想によるその教説28か条が、死の翌年異端の疑いで否認。彼は著作をドイツ語で書いたので、ドイツの哲学用語の祖といわれる。(引用:「コンサイス外国人名事典」 三省堂)
<追記>没後カトリック教会によって、異端となったエックハルトですが、後年異端が却下され(確認できず、いつだか分かりません…)、現在では、トマスアクィナスと並ぶ学聖として祝福されています。
間接的にルターにも影響を与えています。また、フィヒテ、シェリングといった、ドイツ観念論はもとより、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェにも深い関心を寄せられ、20世紀の思想家では、シュタイナー、ブーバー、フロム、ユングらが、共感と関心を寄せています。

前置きが長くなりました。
エックハルトは学生の頃から、心惹かれて読んでおりました。思弁的で難解な文章もありますが、全編通して心に響きます。とても味わい深い。
また私のそれまでのドグマティック(独断・教条主義的)なキリスト教に対するイメージを一変させたのが、エックハルトであったともいえます。
エックハルトを読んでいると、用語や表現の違いこそあれ、その文脈から汲み取られる内容には、仏教、禅との非常な親密性を覚えざるを得ません。当時は安易に、「なんだ!一緒じゃん!!」と感動したのを覚えています。
もちろん問題はそんなに簡単ではないと思いますが・・・。如来蔵思想なんかも絡んできそうなので。
しかし、いいものはいい!
エックハルトが説く、「離脱」とは、内的な私(我意)を離れた、一切の束縛から自由なあり方を説きます。また、自己の外部(被造物)に一切の根拠や目的を求めず、仏教で言うところの、完全に分別知を超え出たところに、私と神との根源的な一如があることを説いているように思います。また、離脱することすら離脱することが離脱であるなんてことも言っており、言語を超えたところを表現しようというあり方が非常に禅的なのではないでしょうか。

さて上記のエックハルトの言葉ですが、私の中では即座に、わたしの属する宗門で、何かにつけ頻繁に唱えられる文言「十方三世一切仏(じーほーさんしーいーしーふー)」が想起されました。
私流にこの文言を訳せば、「時間・空間を含んで超えた「いま・ここ」に一切の仏が遍満している」となります。
上記の文章の「神」を「仏」としても、違和感がない。
呼び方の違いだけで、私には「如来(仏)常住」のことを語っているように感じられます。

キリスト教アレルギーの仏教者の方は、ぜひエックハルトを読んでみてはいかがでしょうか。

また、エックハルトとはまったく性格が異なりますが、わたしはアウグスティヌスの「告白」もドラマティックで好きです。学生の頃、思想的な問題で仏教に行き詰まり、本書に感動して改宗しようかと思ったほどです。半分はジョークですけど(笑)

パパ・ユーア クレイジー

2005年12月18日 | 
「パパ・ユーア クレイジー」 W・サローヤン 伊丹十三/訳 新潮文庫

私の大好きな小説です。

私の好きな本、小説部門10本の指に入ると思います。

小説の中では一番読み返しています。全編通しては5回くらい、断片的に好きな箇所については数え切れません。おかげで本はいい感じでヘタっています。

詩的な感覚が漂う、不思議な小説です。

マリブの海辺を舞台に、父と子が貧しい共同生活の中での「対話」を通して、父は子に、世界の不思議、素晴らしさを伝えていきます。

父親はむやみに自分の主義主張を押し付けることはありません。
子ども自身が、自分で考えたり、感じたりすることの大切さに、気づくよう促します。
ただひとつ、子どもに押し付けて言う言葉は、「お前はミルクを飲まなければいけないよ」ということ。
このセリフ、なぜか笑っちゃいます。この父親のミルク信仰は熱い(笑)

この父親にかかると、ホットドッグ、豆、海、ムール貝、月、パン、船、…etc、さまざまな物に命が吹き込まれ、輝きを放ちます。すべての存在が、とっても貴重で、有り難く、キラキラとした不思議な存在感を帯びてくる。
セリフ自体は、たいしたこと言ってないように聞こえるんですが・・・。
なぜかこころに沁みてきます。

物語の展開は、たいした起伏もなく、淡々と進行します。
唯一イベントとして挙げられるとすれば、父子でオンボロ車に乗り、一晩かけて、ハーフ・ムーン・ベイという、何の変哲もない辺鄙な港町にドライブに行くこと。
この町も、この父にかかると、とっても素敵なかけがえのない町に感じられてくるから不思議です。

また、この父親は子どもとよく言葉遊びをします。
その中で、子どもに韻を踏ませたり、造語をするよう促すのですが、私はそのやり取りの中に、新たな世界観、新たな意味が生成される瞬間のドキドキ感を覚えます。

父親の作る料理も、素材は貧しいものばかりで調理法も至ってシンプル。だけど、かなりうまそうに思ってしまう。文中の料理の説明は、分量など、かなりいい加減なので作ったことはありませんが…いつか試してみようと思います。

小説を通して感じるのは、物質的に豊かでなくても、この世界は、美しさと、不思議と、輝きに満ちていると言うこと。むしろ、周りが物にあふれていると、大事なことを忘れがちになってしまうと言うこと。

この小説は私たちが見失いかけていることを思い出させてくれるような気がします。

全編に爽やかな海風を感じます。軽やかで、優しく、そして、ちょっと切ないほろ苦さ・・・。

著者W・サローヤンはアルメニア系移民のアメリカ人作家です。

小説の父親像はそのまま、著者の人柄を反映していると思われます。

残念なのは、ご記憶の方もいると思いますが、映画監督(「マルサの女」等)として知られる、訳者の伊丹十三氏が自ら命を絶ったこと。自殺はこの小説の内容からは、考えられない正反対の行為です。この美しい輝きに満ちた小説を、翻訳という形で世に送り出しておきながら、とても残念に思います。

伊丹氏の、直訳調のちょっと硬質な素人っぽい訳は、英文学者の翻訳にはない妙味を出していて、かなり名訳です。

就寝前の読書には最適です。好きな箇所を開けば海風の香りを感じます。

よかったら、ぜひご一読ください。