一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

苦悩の自己同一化

2005年12月11日 | 
自分を悩ます感情、気持ち、思考、記憶、体験とは、すべて自分が専一的に同一化してしまっているものにすぎない。とすれば、その不安の究極的解消は、それと脱同一化することであろう。それが自分ではないことに気づき、すっきりとそれらを脱落させてしまえばよい――それらは見ることのできるものである。ならば、それらは真の見る者、真の主体性ではありえない。それらが真の自己でないとすれば、そこに同一化し、しがみつき、自分自身を縛ることを許す理由などどこにも存在しない。
以上「無境界」ケン・ウィルバー著 吉福伸逸訳、9・超越的自己の章より引用。


さて、私たちは、なぜ不安に駆られたり、恐れたり、悩んだりするのでしょうか?
それは、私たちが、そうした不安、恐怖や悩みの感情を、自分と同一化してしまっているからです。
つまり、そうした時に、不安に感じている自分、悩んでる自分を、自分として疑わない。ん~余計分かりにくくなったかもしれません・・・。苦悩と自分をピッタリ結び合わせてしまっているとでも言えましょうか。

不安、恐れ、悩みは、見つめたり感じたりできるものです。まあ、できるというより、そういう風に感じるものですね。だから私たちは苦しくなるわけで・・・
つまり、言い換えればそうした苦悩は「客観化されたもの(感じられたもの)である」と言えましょう。
客観化されたものは、真の見る者、真の主体性(真の自己)ではないわけです。
苦悩は自己の中で対象化されたものであり、見ている、感じている私ではないと言うことです。
そうであるならば、そうした感情を自分と切り離す、脱同一化することが、苦悩から解放された、超越的自己であるとウィルバーは述べているのだと思います。

難しいことを言っているようで、よく考えれば原理は簡単ですよね。
ご理解いただけない方がいるようでしたら、私の説明がマズイせいです

ウィルバーは続けてこう述べています。

この脱同一化「セラピー」を穏やかにじっくりと追求していくと、これまで自分が必死に守ってきた個的自己全体(仮面、自我、ケンタウロス)が透明になり、脱落し始める。自己が文字通り崩壊し、バラバラになって空中を漂うわけではない。むしろ、自分の個的自己――自分の願望、希望、欲求、傷――に何が起ころうと、生死のかかった事態ではないと感じはじめるのである。こうした表面的な揺らぎ、実体のない空騒ぎに終始する表面の波に左右されない、深層のより基本的な自己が内側にあるからである。

ん~そんな境地に至りたいものです
喜怒哀楽の波の底に「揺るがない深海のような主体」を確保したいですね。
そのためには、日々精進あるのみ。
具体的な精進の内容については各人それぞれだと思いますが。
私の場合、参禅弁道しかないんでしょう

上記のウィルバーの文章を理解することは、言葉による分別知には違いありませんが、実生活上の悩みに対して多少の効果が期待できます。
例えば、なにかに悩んだとき、「あ!この悩みは私とは別物の実体のないものなんだよな・・・(もちろん究極、私も実体のないものですけど)」と思い出せます。少しは悩みも軽くなるでしょう。
それでも、頭で理解してるうちは、本物じゃないし、すぐに元の木阿弥でしょうけど・・・。知らないよりは断然マシです。

実はウィルバーはこの超越的自己より、さらに上層の統一意識を設定しています。仏道修行で言うところの「悟り」と違わないと私は考えます。

道のりは長く、険しい。
この人生でどこまでいけるか。
私の場合、ウィルバーの言うペルソナの時点で、モタモタしてるような気もしますが・・・
頑張るっきゃないですね!!!