一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

願生此娑婆国土し来たれり

2005年12月05日 | 禅・仏教
願生此娑婆国土し来たれり
(がんしょうししゃばこくどしきたれり)

この言葉は、道元禅師の「正法眼蔵・見仏」の巻にあります。

また、明治期に正法眼蔵の文章を編纂して著した「修証義」という経典の第5章第26節にあります。

「(わたしたち人間は)仏道修行のために(自ら)願って、この娑婆世界に生まれてきた」という意味です。

娑婆世界とは、苦しみの多い「この世」のことです。
この世の苦しみが多いからこそ、私たちはその苦しみから解放されようとします。
そこに、菩提心、つまり悟りを求めようとする心、この世界を幸福にしたいという願いが生じるのです。

もし、この世が楽園で一切苦しみがなければ、私たち人間は、菩提心を起こすことはしないでしょう。


宇宙はひとつ。ひとつながり。一体。

しかし、私たちは言葉による分別知によって、宇宙・世界を際限なく分断してしまった。
そこに苦しみの原因、無明(むみょう)があります。
しかし、同時に、私たちは分別知によって、宇宙・世界を観察し、表現することができる存在です。

このことは何を意味しているのでしょう。

私たちの存在には何か意味があるのでしょうか。

私には宇宙における偶然の連続で、私たち人間が(偶然)存在するとは思えません。
私たちが存在するという現実がある以上、そこに何らかの宇宙的な「方向性=意味」が働いているように思います。

ここに仮説を立ててみます。
宇宙が進化において、人間を創発しなければ、宇宙は、表現されたり、感動されることはなかった。先述した分別知がなければ、宇宙は宇宙のままで客観化されることはないからです。
ここにひとつの宇宙の方向性が見出せると私は考えます。
それは、俗な言い方をすれば、「宇宙は人間に認識されたいがために人間を創発したのではないか」ということです。そして私たちもまた宇宙であるということは、私たち(宇宙)が願ってこの娑婆世界に人間として生まれてきた(創発した)と言うこともできるのではないでしょうか。

しかし、先述したように、私たちが宇宙を認識しようとすれば、同時に分別知の働きで「エゴ(我)」が実体視しされ、さまざまな苦悩が生じます(無明)。そして、そこからくる苦しみに気付いたときに、元来の姿、宇宙と一体であることに戻ろうとします(菩提心)。つまり、私たちは苦があるからこそ、宇宙と一体であること(悟り)に究極の安らぎを求めるのだといえるでしょう。
苦しみがなければ、仏道修行をしようという心は生じません。

「願生此娑婆国土し来たれり」

なぜ私たちがこの世に人間として生まれてきたのか。

あえて、願ってこの苦悩の娑婆世界に生まれてきたのではないか・・・。

拙文を読み、一緒に考えていただけたら幸いです。


※いったんバラバラにしておいて、一体であることを思い出させる。いや、もともと一体であることを体験させようとする。なかなか味なことを宇宙さんはやりますよね~。
あ、宇宙は私でもあるんだった。頭の中、混乱しますね・・・。

とにかく、日々精進あるのみですね!