葬儀が重なり、今日もお通夜だった。
今夕のお通夜は、前回と引き続き、いや前回以上に法話に気持ちを入れることができた。
そういう時は、話しながら気持ちがどんどん乗ってくる。
そして自信をもって話している自分を感じる。
案の定終わってから、遺族の方々にとても喜んでいただいた。
また、故人を偲ばせるこれ以上ないくらいの快心の戒名を授けることができた。
戒名にも心から喜んでいただいた。
それもこれも、故人のことをしつこいくらいに遺族の方々に聞きまくるおかげだと思う。
聞き取り調査の如く、とにかく根掘り葉掘り聞く。
聞きながら、自作の聞き取り用紙に次々書き込んでいく。
行年、生年月日、出身はもちろんのこと、生い立ち、人柄、容姿、趣味、業績、家族関係、故人との思い出・・・
時にはこの聞き取りが2時間近くに及ぶこともある。
本当なら、生前に親しくお付き合いしていれば、あえて詳しく聞く必要もないのだろうが、残念だが住職歴6年程度では限界がある。
とにかく故人のことが知りたい。
故人のことが好きになりたい。
だから遺族には故人のいいところをたくさん言ってもらうようにする。
人に歴史あり。
どんな人であっても退屈な人生なんてないのだ。
ここまでしつこく聞くのは何故だろうか。
私の場合、読経の時に気持ちが入るかどうかは故人への思い入れの有無にかかっているからだと思う(これは自分が未熟だからなのだが)。
また、戒名も故人の分からないような仏教的な言葉を入れるよりも、できるだけ限られた文字数の中で故人の人柄を反映した戒名にしたいと思う。
さらには、法語も故人の生い立ちや人柄を盛り込んだ内容にしたい。
とは言え、いつもいい戒名、いい法語ができるとは限らない。
法話もうまく行く時ばかりではない。
終わってからも遺族の方でノーリアクションの時もある。
そんな葬儀は、遺族の方でも故人に対して冷めているときが多い。
私もどこか気持ちが乗らない・・・(そんなことでは僧侶失格なのかもしれないが)
遺族、僧侶、葬儀社が、故人への思いやりの気持ちを持つこと。
故人を掛け替えのない「人」として接すること。
そして、故人のためにいい葬儀をみんなで作っていく姿勢。
こうしたことが何より大事であろう。
すべては「まごころ」から生まれるのだ。
明日もいい葬儀になるようまごころを込めたい。
取り留めのない文章になってしまった・・・
それにしても最近、根拠のない?自信が付いてきたような・・・
これも坐禅のおかげなのだろうか。
なんか最近、自慢話が多いかな?
自信過剰な感じかも。
しかし、これもワークの一環なのだ。
プラスのセルフイメージを高めるため。
つまりは「自己承認」。
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