一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

お知らせ

2006年09月30日 | Weblog
これから泊りがけで他寺の晋山結制という行事に行ってまいります。

コメントを下さった方には、後日お返事いたします。

どうぞご了承ください。

葬儀について思う

2006年09月29日 | 思い・お寺の活動
葬儀が重なり、今日もお通夜だった。

今夕のお通夜は、前回と引き続き、いや前回以上に法話に気持ちを入れることができた。

そういう時は、話しながら気持ちがどんどん乗ってくる。

そして自信をもって話している自分を感じる。

案の定終わってから、遺族の方々にとても喜んでいただいた。

また、故人を偲ばせるこれ以上ないくらいの快心の戒名を授けることができた。

戒名にも心から喜んでいただいた。

それもこれも、故人のことをしつこいくらいに遺族の方々に聞きまくるおかげだと思う。

聞き取り調査の如く、とにかく根掘り葉掘り聞く。

聞きながら、自作の聞き取り用紙に次々書き込んでいく。

行年、生年月日、出身はもちろんのこと、生い立ち、人柄、容姿、趣味、業績、家族関係、故人との思い出・・・

時にはこの聞き取りが2時間近くに及ぶこともある。

本当なら、生前に親しくお付き合いしていれば、あえて詳しく聞く必要もないのだろうが、残念だが住職歴6年程度では限界がある。

とにかく故人のことが知りたい。

故人のことが好きになりたい。

だから遺族には故人のいいところをたくさん言ってもらうようにする。

人に歴史あり。

どんな人であっても退屈な人生なんてないのだ。

ここまでしつこく聞くのは何故だろうか。

私の場合、読経の時に気持ちが入るかどうかは故人への思い入れの有無にかかっているからだと思う(これは自分が未熟だからなのだが)。

また、戒名も故人の分からないような仏教的な言葉を入れるよりも、できるだけ限られた文字数の中で故人の人柄を反映した戒名にしたいと思う。

さらには、法語も故人の生い立ちや人柄を盛り込んだ内容にしたい。

とは言え、いつもいい戒名、いい法語ができるとは限らない。

法話もうまく行く時ばかりではない。

終わってからも遺族の方でノーリアクションの時もある。

そんな葬儀は、遺族の方でも故人に対して冷めているときが多い。

私もどこか気持ちが乗らない・・・(そんなことでは僧侶失格なのかもしれないが)


遺族、僧侶、葬儀社が、故人への思いやりの気持ちを持つこと。

故人を掛け替えのない「人」として接すること。

そして、故人のためにいい葬儀をみんなで作っていく姿勢。

こうしたことが何より大事であろう。


すべては「まごころ」から生まれるのだ。

明日もいい葬儀になるようまごころを込めたい。

取り留めのない文章になってしまった・・・


それにしても最近、根拠のない?自信が付いてきたような・・・

これも坐禅のおかげなのだろうか。

なんか最近、自慢話が多いかな?

自信過剰な感じかも。

しかし、これもワークの一環なのだ。

プラスのセルフイメージを高めるため。

つまりは「自己承認」。

※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!



最近の坐禅・・・爽やかなひととき

2006年09月28日 | 禅・仏教
最近は毎日、7:00から本朝課(日替わり朝課)、7:30から坐禅という時間割が定着してきた。

暁天坐禅は約20分。

シンポジウムの合宿で知り合ったMさん(予備校講師)がいらっしゃる時は、二人で一緒に坐る(週の半分くらい)。

ちなみに偶然にもMさんのお住まいは寺から徒歩5分のご近所。

ご縁、しかも勝縁と言っていいだろう。

不思議なもので、ひとりで坐るより、やはり二人で坐る方が俄然張り合いが出る。

これが宗門でよく言う、「大衆の威神力」というものか。

本堂縁側で外に向かいながらの坐禅。

実に気持ちいい。

坐禅が終わった後は、文殊菩薩の掛け軸に向かって三拝。

そして、お互い対面して、朝参(朝の挨拶)。

「おはようございますっ!!」

お互いにここではじめて声を出す。

心地よい緊張感のある「挨拶」。

禅寺の流儀である。

まだ、なかなか挨拶が揃わないが、これから阿吽の呼吸でピタリと揃うようになれば素敵だろう。

だが、ここだけの話、Mさんは真面目なのにどこか愉快な感じのする方なので、挨拶の時にMさんの顔を見てしまうと思わず吹き出しそうになることがある。

これには困ったもんだ・・・

私の修行不足のせいだろう・・・。

冗談はともかく、

とにかく毎日坐ること。

一日20分という時間は短いかもしれない。

少しづつ夜坐も習慣化していこうと思う。

これから仲秋になり、初冬、真冬とだんだん寒くなってくるだろう・・・

四季の移り変わりとともに只管に端坐するのみ。

コスモス(全宇宙)とともに坐る。

宣言した1000日不断の坐禅(もちろんMUST化はしないつもりだが)。

1000日が終われば、また1000日、

そしてまた1000日・・・

果てしないロマン・・・


<追記>

恥ずかしながら、毎日坐ろうと思うようになったのは、岡野守也先生のおかげである。
この場を借りて深謝したい。


※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!




やった!牧師さまの息子さんに褒められた!

2006年09月27日 | 思い・お寺の活動
昨日今日と通夜、葬儀がありました。

二ヶ月ぶりの葬儀。

久しぶりの葬儀ということで、今回の法話(通夜後・繰上げ初七日後)は少し緊張もしたし、話があっちこっちに行ってしまい全く自信がありませんでした。

ですが、今日の忌中払いの後席で、故人のご親戚から、思いがけずお褒めの言葉を頂きました。

その方は、牧師様のご子息(50歳くらい)で、やはりキリスト教系の幼稚園の園長をされているとのことでした。

その方が私の法話を評して言われるには、
仏教式の葬儀で、こんなにしっかりしたメッセージがある分かりやすい法話を聞いたことがない。
また、キリスト教式の葬儀のようにとても丁寧に感じた、とのこと。

思いがけない褒め言葉にとても嬉しくなりました(褒め言葉に乗せられやすい)。

ほとんどがお世辞と取らなければいけないでしょう・・・。

とは言え、牧師と言えばある意味、教えへの熱意とそれを伝える弁舌が勝負。

だから牧師の息子ともなれば、当然耳が肥えているはずです。

しかも宗教を超えて法話の思いが届いたわけです・・・

自分と立場を同じくする、僧侶に褒められるのとはまた違った、大きな喜びを感じました。

法話の内容は、まず四十九日の説明。
次にご先祖様をさかのぼるワーク(つながりコスモロジー)を少し取り入れて、そこから私たちの人生の意味について考えるという内容。
合間にいきなり即興で「四摂法」の話をしたり、われながら脈絡に欠ける滅茶苦茶な法話だったんですが・・・。
そして法話の後には、お授けした戒名の説明。これはいつも檀家さんに評価していただいています。

通夜法話、計20分少々。

初七日後の法話は定番の「袖振り合うも他生の縁」(10分)。

きっと下手は下手なりに、熱意が伝わったのかもしれません・・・。

何はともあれ、とても嬉しかったできごとでした。

と言っても浮かれてはいられません・・・

ちゃんとした日本語を論理明確に話せるようになりたいものです。

とは言え、まずは「熱意」。

これだけは忘れずにいたいと思います。


※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!






「言い訳無用」、身命をかへりみず発心修行する、学道の最要なり

2006年09月26日 | 禅・仏教
正法眼蔵随聞記の一節である。

ある人が、「わたしは病身であり、力量もない者で、仏道を学ぶには耐えられません。そこで、仏様の教えの、一番大切なところを承って、家族から離れてひとり住み、世間に交わらずに隠居して、いのちを大事にして病気養生しながら、一生を終えようと思います。」と言ったのに対して、道元禅師が教えて言われた。

先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。

(意訳)
むかし修行をして悟りを開かれた祖師たちは、必ずしも筋金入りの強い体ではなかった。また、いにしえの仏道を学んだ人がみな、特に優れた資質があったのでもない。

<中略>

今生もし学道修行せずば、何れの生にか器量の物となり、不病のものとならん。ただ身命をかへりみず発心修行する、学道の最要なり。

(意訳)
今この一生のうちに仏道を学び、修行しなければ、この次、いつの世に生まれ変わって力量のある人となり、病気をしない人になるというのか。ただ自分のからだのことも命のことも考えず、菩提心をおこして修行するのが、仏道を学ぶ上でいちばん大切なことである。

『正法眼蔵随聞記 水野弥穂子訳』


<私見>

道元禅師ほど「無常を観ずる」ということを、発心修行の根幹に位置づけた祖師はいないのではなかろうか。(「無常」ということを道元禅師は口が酸っぱくなるくらいあちこちで述べている・・・)
だからこそ、道元禅師の開顕する「今」は輝きに満ちているように感じられてならないのだ。それは「無常観」を究極にまで推し進め突き抜けた時に開示する世界なのかもしれない。

「いま(修行を)やらずにいつやるというのか!」

「仏道修行におけるどんな逃げ口上も通用しない」

要は、

「命がけでやりなさい!!!」

道元禅師の燃えるような道心と激しい鼓舞叱咤が伝わってくる。

しかし同時に、「先仏であっても必ずしも優秀であったわけではないのだ(だから君にだってできないということはない)」と、道元禅師はわれわれに厳しくも温かい励ましを与えてくださる。

とは言え、道元禅師の言われるように「身命を省みず」なんていう激しい修行はできそうもない。

これが本音ではないだろうか・・・。

とりあえず、

毎日精一杯生きる。

毎日の坐禅をサボらないようにする!

私はこれで行こうと思う。


※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!

入園説明会

2006年09月25日 | 思い・子どもたち
大仕事が終わった。

今日は来年度入園希望の保護者たちに対する「入園説明会」を行った。

もちろん今日来た全ての保護者がうちの園に入園するわけではない。

保護者にとっては、いわば幼稚園の品定めという面もあるだろう。

だから、こちらにとっては勝負でもある。

はじめに私が、幼稚園の概要、特色、保育理念について話し、次に主任が、具体的な保育活動の内容について説明する。

要はわが園のPRだ。

100人近くのお母さんたち(中にはお父さんもチラホラ)が集まった。

特に力を入れて話したのは、毎朝の全体朝礼の意義とねらい。

中でもきちんと正座をして心を静かに整えることの大切さを話した。

確かに正座してじっと静かにしている黙想などは、子どもにとって始めは「我慢(仏教的な意味での忍耐)」でしかない。

だが、我慢を通して自分の感情をコントロールする力が育まれる。

そして我慢を通して自分の「痛み」を知ることになり、自分の「痛み」を知ることが、ひいては他者の「痛み」を共感することにもつながるということ。

静と動のメリハリのある保育を通して、けじめのつけられる心を育んでいくことを目指しているということ。

恵まれた自然環境の中で五感を使った自然体験が思う存分にできるということ。

寺で運営している以上、宗教行事にも参加するが、特定の教義を教え込んだり、特定の神仏への信仰は説かず、
私たちが無限のご縁によって生かされているという当たり前の事実、つまり「お陰さま」によって生かされているということ(仏教の根本「縁起」)を、日々の保育活動の中で、自然に学んでいくようにしているということ、などを話した。

緊張はしたが、わりと思いのたけの熱弁を奮えたんじゃないかと思う。

私の思いは伝わっただろうか・・・

私はともかく、その後の、頼りになるベテラン主任(四十路後半)の説明は要領を得て完璧だった。

しかも、彼女もまたかなり熱い・・・。


現在の園児数は230人余り。

来年度は何人になるだろう。

できるだけ多くの地域の子どもたちに通園して欲しいと思う。

そして、この園で透明な生きる力をいっぱいに育んで巣立ってくれることを願う。


※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!

ムラサキシキブ

2006年09月24日 | 写真館・花(境内)
玄関のムラサキシキブ(紫式部)。

コムラサキ(小紫)とも呼ぶそうです。

紫の実をたくさんつけます。

とても上品な感じがしますね。


※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!

シオン

2006年09月23日 | 写真館・花(境内)
境内の「シオン(紫苑)」。

好きな花のひとつです。

薄紫色の小菊のような花をたくさん咲かせます。

背が高く、秋風に揺れると風情があります。

持ちがいいので、仏花としても適しています。

※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!



ヒガンバナ(彼岸花)

2006年09月23日 | 写真館・花(境内)
お彼岸と言えば、やはり「ヒガンバナ」でしょう。

本当に図ったかのようにこの時期に花開くから不思議です。

別称は「マンジュシャゲ」。

まだ咲き始めたばかり。

これから境内のあちこちで咲くことでしょう。

お墓に咲いているというイメージから、不気味な花と思う向きもあるようですが、そんな偏見は彼岸花に失礼でしょう。

なんとも美しい造形の花です。


※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!



ハギ(萩)

2006年09月23日 | 写真館・花(境内)
境内の萩の花。

萩が咲くと日本の秋って感じがします。


雑学ですが、秋彼岸にいただく餡子菓子の「おはぎ」は、萩の咲く時期に頂くから「お萩」なんですよね。

同じ食べものでも春彼岸に頂くのは「ぼたもち」。

こちらの呼び方は「牡丹」の花に由来します。

漢字で書けば「牡丹餅」。

納得!って感じですが、実は春彼岸には牡丹は咲いていないんですよね・・・。

旧暦と新暦の違いからくるのでしょう。

ともあれ旧暦の季節感覚も忘れないでいたいものです。


※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
  みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!

にほんブログ村 哲学ブログへ

応援ありがとうございました!