一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

共存共栄、そして共生へ

2006年01月31日 | 思い・子どもたち
携帯からの投稿です。
今日は市の私立幼稚園協会の会報に掲載する原稿を、ご近所の幼稚園の園長先生に依頼をしにお伺いした。
私にとっては大先輩の園長先生である。
この少子化のご時世に園舎を立て替えたり、保護者に対する補助金の増額を市に陳情したり、かなりやり手で、実行力のある方である。
思うに真摯に教育関係の仕事に携わる経営者は、自分個人の利益を求めない。
つまり私腹を肥やそうとはしない。
子どもはもとより保護者、そして地域社会の多くの人々の利益を考え、行動している。
活字から学ぶことも大事だが、感性のアンテナを磨いて人と接していく中で自分を高めて行きたい。

私の園が属している、市内の私立幼稚園協会は風通しが抜群である。
お互いに腹の内を探りあったりしない。保育料の額さえ、公表して情報交換している(当園は安過ぎるから上げてくれと冗談混じりに言われることもあるが…)。
まさに共存共栄の精神である。

こうした姿勢は、他の業界には通用しないのだろうか。
奪うより先に、与えること。
これが人としての真実の生き方ではなかろうか。
最近の経営者の不正事件を聞くに付け情けなく思う。
同時に我が身を省みて自問しなければならない。

※写真は赤ちゃん犬の寝ているところです。

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ありがとうございました!



板橋興宗禅師(前総持寺貫主)の「道元禅師の禅」に対する一考察(「信」の問題を中心にして)Ⅰ

2006年01月30日 | 禅・仏教
ここで宗門関係者の批判は覚悟の上で、従来のいわゆる駒澤大学を中心とした宗学、ひいては多くの宗門の師家方の宗乗観に横たわっていると思われる「道元禅師の禅」における見解を、「信」の問題を中心に、板橋禅師の卓越した考察を引用して批判的に吟味したい。
といっても、板橋禅師はこの考察で従来の現代宗学を見事に論駁してているので、私の論じる余地はほとんどないのであるが。
実は本山安居中から何かがおかしいと感じていた・・・。修行で得たものは確かに大きかった。宗門人として誇れる修行体験も語りつくせない。祖山、永平寺をこよなく愛してもいる。なんと言っても祖山永平寺は私の青春だった。
しかし、甘い感傷は置いておくとして、「本山(永平寺)=曹洞宗の代表的な修行道場」と捉えたときにどうしても腑に落ちないものを抱えていた。当時きわめて漠然としてではあったが、これが道元禅師をいただく祖山の修行なのかという疑念がつきまとっていた・・・。もちろん一番の要因は環境のせいではなく、私の道心の欠如によるものだが、しかしそれだけでは説明がつかない、何か根本的な構えがおかしいように感じたのだ。
その何がおかしかったのかが、板橋禅師の文章でハッキリと分かったのである。
はじめに断っておくが、私はここで祖山永平寺の批判や、宮崎禅師(敬慕している)を批判したいわけではない。
現代宗門を取り巻く、今風に言えば「悟り不在のまったりとした生ぬるい雰囲気」が、この近代以降の伝統宗学に起因すると推察し、その影響が祖山の修行のあり方にも少なからず表れているのではないかということを示唆したいのである。

以下、「板橋興宗『<いのち>をほほ笑む』春秋社」より引用

「悟」を無視した宗学でよいか
 衛藤博士によれば、『道元禅師を宗祖と仰ぐ曹洞宗教団にあっては、あくまでも修証一如の「信」の上に立った坐禅を行ずることが基本条件であり、その宗学もここに基調をおいて参究されなければならない』、とされる。『「悟」を前提とした坐禅修行であっては、目的達成のための「手段の坐禅」となる。それは、いわゆる宋朝禅であり、臨済流の待悟禅であって、道元禅師の無所得・無所悟の正伝の仏法とはまるで立場が違い、次元を異にする』、といわれる。『道元禅師によって唱導された修証一如の坐禅でなければ、真実の安心は得られないとすることに、宗門人たるの面目がある。「悟」を前提とした坐禅を行ずるようでは、正伝の仏法の真意を見出しえないものであり、それは臨済風の坐禅を行ずるものであって、曹洞宗という宗派存在の意義を理解しない者のやることである』、とまで博士は決めつけている。このような宗学の当然の論理として、正伝の仏法の基本に「信」をおき、「悟」の契機をまったく無視するのである。『「理論の上では頓悟成仏が許されても、実際においては、一介の凡夫が自己の力で如何に努力して見ても、成仏は覚束ない」』(『宗祖としての道元禅師』) 
 ここではっきりしていることは、頓悟成仏は理論上のことであって、現実のわれわれには不可能に近いという前提に立った宗学である。「悟」は覚束ないものとして、『悟』そのものをはじめから無視した宗学である。この一点をみても道元禅師の主張する仏法を忠実に敷衍した宗学とは絶対に言えない。道元禅師は、機会あるごとに「上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ばず」と、すべての人々に「得道」できる仏法であると説く。悟道のためには人の才能や利鈍の問題ではなく「志」のあるなしがかぎであることを強調しておられる。「如今、各々も、一向に思い切って修してみよ。十人は十人ながら得道すべきなり」(『隋聞記』) 
(中略)
 
 また衛藤博士は、正伝の仏法の宗学は「信証一体にその根拠を求むべきである」とし、「証」という字の「さとり」を重視し、「悟」という字の「さとり」については関心を示さない。 
(中略)
 
 しかしながら道元禅師は、「竹にあたりてひびきをなすをきくに、豁然として大悟す」とか、「桃華のさかりなるをみて、忽然として悟道す」と言うように、「悟」という字を非常にしばしば用いている。「証」という字の「さとり」は、身に証明し実感するというような、静かに味わう意味合いが強い。これに対し、「悟」という字の「さとり」は、「豁然大悟」とか、「忽然大悟」とか、あるいは「頓悟」などと熟語にされるように、従来の心意識が突然に脱け落ちることを意味している。 それを「証」と「悟」の区別もせず、「修証一如」を、修行がそのまま「悟」であると誤解した。現代宗学の欠陥は、この「悟」について理解がなく、これを無視しても仏教が成り立つと考えていることにある。 
 
 以下次回に続く。

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ありがとうございました!


ドラッカー名言集『仕事の哲学』より

2006年01月28日 | 自己啓発
数ある自己啓発(啓蒙)本の蔵書のうちドラッカーは本書だけである。

なんとなく買ってしまっていたこの手の本。

いつのまにかコレクションになっていたりする。
マーフィー、ウェイン・ダイアー、ジェームズ・アレン、齋藤孝・・・etc

実際共感もするし、ハッとするようないいことも書いてあるんだが、なかなか思うようには身につかない・・・。

近年は、自己啓発本はあれこれと開拓しないようにしている。

自分にとって効果がなければ意味がないから・・・

読むだけでは自己実現できるはずがないのは当然だ。

本の内容を実証するためには、
まず自分の現状に合ったものを1~2冊選ぶ。

そして、その内容を最低一年間は徹底的に実生活に導入するような方法がいいのだと思う。


さて、ドラッカーは、自己啓発家の中でも「いぶし銀系」だろう。

マーフィーのように、おいしい話はぶらさげない。

リアリスティックで取っ付きにくいが、
シンプルな仕事の哲学を、切り口鮮やかにスパッと言い放つ。

いくつか紹介したい。

<すべては責任から始まる>
「成功の鍵は責任である。自らに責任をもたせることである。あらゆることがそこから始まる。大事なものは、地位ではなく責任である。責任ある存在になるということは、真剣に仕事に取り組むということであり、仕事にふさわしく成長する必要を認識するということである。」

<成果が自己実現の前提となる>
「成果をあげる者は、社会にとって不可欠な存在である。同時に、成果をあげることは、新入社員であろうと中堅社員であろうと、本人にとって自己実現の前提である。」

<成果をあげる人の共通点>
「成果をあげる人とあげない人の差は、才能ではない。いくつかの習慣的な姿勢と、基礎的な方法を身につけているかどうかの問題である。」
「成果をあげる人たちは、気性や能力、職種や仕事のやり方、性格や知識や関心において千差万別である。共通点は、なすべきことを成し遂げる能力を持っていることだけである。」

厳しいが味わい深い言葉である。

ドラッカーは自己実現と仕事の本質を見抜いている。

これから自己啓発のカテゴリーは、自己啓発家の名言の紹介をしていきたい。

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ありがとうございました!


東明慧日禅師

2006年01月26日 | 禅・仏教
今日は、法要を中心に学ぶ宗侶有志の会で鎌倉散策に行ってまいりました。

私が日頃お世話になっているガイド役のご住職の案内で、鎌倉の旧道、いわゆる七つの切通しのうち、四つを歩いてまわるなど、得がたい体験をさせていただきました。
鎌倉時代往時の風景を想像しながら歩く鎌倉は、格別にロマンを掻き立たせられます。

初めに立ち寄った円覚寺では、塔頭寺院の白雲庵のご住職の案内で、特別に本堂に安置された東明慧日禅師坐像(写真:国重要文化財)を拝観させていただきました。

東明慧日禅師について
東明慧日は、中国曹洞宗宏智派の高僧。白雲山宝慶寺住職を経て(1309)に北条貞時の招請によって来日した。当時の鎌倉は臨済宗一色になっており、中国禅林のように各派の共存により活性化を図ることをねらっていた。時頼が道元禅師の招請に失敗したあと、貞時は東明慧日を招き、肥前国の善光寺、肥後国の寿勝寺を開いたあと、建長寺や円覚寺(第十世8年間)に住し、円覚寺内に塔頭(白雲庵)を構えた。後に白雲庵文壇を作り五山文学の拠点となった。東明の門弟の別源円旨は康永元年(1342)朝倉氏に招かれて越前に活動し、曹洞宗宏智派の隆盛が見られた。
(ガイド役ご住職作成のパンフレット引用)

宏智禅師の流れを汲む曹洞宗の東明慧日禅師が円覚寺(臨済宗円覚寺派本山)の住持になる。
とても感慨深いものを感じました。
時の執権貞時の命とは言え、宗派を超えた交流があったことにほっこりと心が和む思いがします。
来日当時、臨済宗一色だったであろう当時の鎌倉五山の状況をみて、この地に曹洞の禅風を興そう、という禅師の気概は否応なしに高まったことでしょう。

また本日は道元禅師の降誕の日、道元禅師鎌倉行化顕彰碑で一同、般若心経を挙げました。

鎌倉時代に思いを馳せた一日となりました。

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ありがとうございました!



金柑

2006年01月25日 | 思い・四季
こないだ駅の近くの八百屋さんに金柑が出ていたので買って帰りました。

今が旬のものなんですね。

金柑は皮ごと頂けるし、ほのかな苦味と甘みが凝縮していておいしい。

みかんにはない味わいがあります。

種が多いのが難点ですが。

数日前から風邪気味だったのですが、金柑を毎日たくさん食べていたら、治ってしまったようです。

きっと金柑の栄養のおかげでしょう。

昔は母が甘露煮にしてくれたのを食べたりもしましたが、ナマでいただくのもおいしいですね。

金柑さん有り難う。





チャールダーシュ

2006年01月24日 | 音楽
 旋律は鮮明に記憶しているのだが、曲名が分からないヴァイオリン曲があった。

 なんとなく東欧のジプシー風だとの印象を受けるのだが、曲名が分からない。

 とにかく、この曲、超絶技巧系の中においても、そうとう激しく熱い曲なのである。ジプシー風なのでメチャくちゃノリがよく、クラシックの雰囲気からはかなり逸脱している。単純で通俗的ではあるが・・・

 これまで当てずっぽうで、「ハンガリーなんとか」など、そっち系のヴァイオリン曲が収録されたCDを聴いてみても、肝心なその曲はなかったのである。

 ずっと曲名が知りたかった。
 
 しかし、ついに先日、その曲名が判明したのである!
 
 モンティ作曲の「チャールダーシュ」!

 たまたま付けたテレビでヴァイオリニストの高嶋ちさ子が、この曲を演奏しており、テロップに曲名が出てたのだ!

 さっそくアマゾンで、「チャールダーシュ」が収録された、ラカトシュというヴァイオリニストのCDを購入した。

 これが熱すぎるほど熱い。かなり激しい。チャールダーシュの中でもそうとうに逸脱した演奏である。これを聞いたら他の演奏者のものはお上品に感じられてしまうだろう。好みに分かれるところだ。

 ちなみにチャールダーシュは、ハンガリーの農村の一杯飲み屋チャルダで踊られる舞曲だそうだ。
 演奏者のラカトシュはジプシー・ヴァイオリンの名門の出で、メニューインなどの超一流奏者に絶賛されたという。

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空也上人

2006年01月23日 | 禅・仏教
「一たびも南無阿弥陀仏という人の 蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし」

――いかなる人であろうと、一たび南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず蓮の上にのぼらないものはいない(極楽往生できないものはない)――

この和歌を書いた石塔婆を、平安京の囚獄でもあった東市の市門に建てた僧。

その名を「空也(くうや)(903―972)」と言う。

私が憧憬を抱く仏祖の一人である。

わが国ではじめて、貴賎上下を問わず念仏往生を唱導した人。

わが国ではじめて上人(しょうにん)と呼ばれた人。

京の都を行乞をして、得るものがあれば病人貧者に施し、己を捨て去り、ひたすらに易行念仏を説いて庶民を勧化し、京の人々に「阿弥陀聖(あみだひじり)」、「市聖(いちのひじり)」と敬慕されて止まなかった人である。

上の和歌が書かれた石塔婆を読んだ、罪人の心中はいかばかりであったろうか・・・
地獄に落ちるは必定であろう我が身でさえ、一たびの念仏で極楽往生できるのだ。
それが京の市民の宗教的、精神的な支えであった空也上人の言葉であれば尚のこと、罪人が激しく感涙にむせんだであろうことは想像に難くない。


空也上人の生涯は多く謎に包まれており、また上人本人の著作も伝わらず、その教えは思想としての結実を見ることはなかった。

だが、法然上人より200年も先駆けて、口称念仏という究極の易行道を他者救済(利他)の一念で推進した空也上人は、「日本浄土教の祖」と言っても過言ではないであろう。
空也上人の市井における口称念仏による万人救済の菩薩道の発露が、歴史(人々)に潜在力(唯識の言葉を借りれば、種子として)として蓄えられたために、鎌倉時代に至り法然上人において専修念仏の教えとして見事に花開くことができたのではなかろうか。
また、時宗の祖一遍上人は、念仏者、空也上人の「捨ててこそ」の境涯に自己の宗教的アイデンティティーを求め、空也の「文」という念仏聖としての所懐を護持していたという。

さて、ここに空也上人のエピソードを紹介したい(孫引きです)。

 昔、神泉苑の水門外にひとりの病女があった。年たけ容色衰えているのを、上人 はあわれんで朝夕これを見舞い、袖の中に籠を隠し、その好みに応じて生臭物な ども買い与えて養生させた。ふた月して病女はようやく元気を取り戻し、何か取 り乱してものも言えぬ風情である。上人は女に何を思っているのか問うと、女は 精気が内のこもって、上人と交接したいのです、と答えた。上人はしばらく考え ておられたが、遂にこの女と交わってよいとの気色を示された。病女は嘆息し  て、われは神泉苑の老狐、上人は真の聖人、といいおわって、忽然として姿を消 した。その臥(ね)ていた薦席(こもむしろ)もたちまち消えてしまった。(堀 一郎『空也』)(引用:松本史朗『仏教への道』東書選書)

 長くなるが、このエピソードに対する松本史朗氏の優れた述懐を以下引用する。
 
 これは、とくにドラマティックな話ではない。ここには、自己の手や足を切断したり、高所から身を投じたりといったような捨身の外的な要素はまったく含まれていない。しかしはっきりいって、これほど恐ろしく、また深い話はない。このエピソードにおいては、空也はすでに京都の市井において、「市聖」、「阿弥陀聖」と呼ばれ、民衆の絶対の信頼を得ている。口にはつねに南無阿弥陀仏と唱えながら、もし布施を受ければみずからそれを用いることなく、貧者や病人に施し、また水の乏しいところには新しく井戸を掘ったりなどしたので、人はみな空也を敬わざるをなかったのである。空也は、このような慈悲の行為のひとつとして年老いた病女の世話にあたっていたものであろう。病を治すために生臭物なども買い与えたと言うところに、例えば戒律と言うような外面的なきはんなどにとらわれずに、ただ相手の苦しみを救おうとする空也の慈悲の深さが現れている。しかるに、病が癒えた老女が望んだことはなんと空也と性的な関係がもちたいということであった。自己というものをまったく捨てて念仏に没入し、ただ利他の行ひとすじに生きてきた空也にとっても、これは驚きであったであろう。空也が生涯女性を知らなかったことは、京都六波羅蜜寺にある彼の木像からもじゅうぶんにうかがい知ることができるし、第一、彼は生まれ落ちて以来、性的なことなど心に思ったことさえなかったであろう。彼はそれほどまでに聖人だったのである。また、かりに空也が老女の頼みを聞き入れて彼女と交わったりしたら、どのようなことになるのか、考えてみるといい。聖人の堕落の話ほど、人々を喜ばせるものはない。彼の名声は一夜にして消えうせ、ごうごうたる非難と軽侮の声がわき起こって、いままで人々に敬われていた彼は、反対に、人々に石をもって追われるようにになるであろう。そして彼のおかげで、せっかく京都の人々の間に根付いたと思われた念仏の習慣もたちまちに消えて、ただ嫌悪の対象となるであろう。こういうことを空也が考えたかどうか。伝記にはただ「しばらく考えた」というところが、おそらくもっとも尊いところなのであろう。空也もまた人間である。迷いがないといえば嘘になる。おそらくは暗い小部屋のかたすみで、笑っている醜い老婆を前に、美しい子どものような顔をうつむけてじっと考え込んでいる空也の姿を想像すると、何かぞっとするようなすごさにとらわれる。しかし、空也はついに決意する。彼は勝ったのである。彼は他人への愛ゆえに自己のすべてを完全に捨て去ったのである。自己の名声をも、そしてまた、自己の清らかさをも。いわば彼は、自己を十字架にかけ、そして殺したのである。それゆえにこそ、初めて「上人は真の聖人」といわれることができたのである。私は、これほどまでに深い愛の話を、あまり聞いたことはない。これほど徹底的な自己放棄、これほど無私の愛がどこにあるであろうか。私はこの話を読んで初めて、彼の像のあの「恍惚」と評される不思議な表情の謎が一部解けたような気がしたのである。

 以上の松本史朗氏の文章は、一エピソードに対して、あまりにドラマティックで空想的な美化をしていると捉える向きもあるだろう。しかし、私はこの文章を読み、氏の捉えた空也上人像の美しさに大きな感動と深い共感を覚えた。(※ただし、氏の思索における断定的で原理主義的な仏教理解にはいささかの疑念を感じざるを得ないのだが…本書は同じ著者が書いた本とは思えない)

私は、歴史のテキストを客観的史料に基づいて、正確に判断するという作業の妥当性をあまり信用しないし、そのことに重きを置かない。なぜならテキストを解釈する時には、少なからず読み取る側の主観なり価値観が含まれてしまうからである。さらに言えば、論拠とするその史料すら、その作者の主観による読み取りが行われているともいうことができるのだ。
ならば、史料に示された事実に反した解釈でなければ、一見素朴に感じられるテキストの内容から、自由にイメージを飛翔させ、躍動する宗教的な“命”にまで昇華させることの方が、むしろ自己・他者の「生」にとって、価値があると考るからである。

さて、空也上人のかほどに強烈な慈悲心はいずこから生じたものだろうか。

私は、それは間違いなく空観に基づいた智慧から生じたものであると考える。
上人は二十歳で尾張(愛知県)国分寺において出家して沙弥(しゃみ)となり、自ら「空也」の名を称したとされる。詳しくは後述するが空也という名前は『十二門論』のなかの「大乗の深義は空なり」という言葉に由来すると考えられる。
空也上人と仏教の根本思想「空」との関係。これは従来省察されることは少なかったようだが、着目すべき事柄であるように思う。
鎌倉時代以降の浄土宗・時宗の中には、空也は最初に三論宗を学んだという説が繰り返し伝えられている。法然から弁長・良忠と続く浄土宗の第三祖良忠は、その著『浄土宗要集』の中で、空也は『発心求道集』という書物を遺し、そこには空也が「三論宗吉蔵を常に礼拝し、浄土宗の善導にも常に随順すべきである」と書いていると述べている。以後、空也が三論系の念仏者であったとする伝承は江戸時代の浄土系学者にまで繰り返して論じられている。三論宗はインドの龍樹の『中論』と『十二門論』、弟子の提婆の『百論』の三つの論書を拠りどころとした、般若経の空の思想に基づいた教義を信奉する宗派で、わが国では奈良時代までもっとも有力な宗派であったとされる。また、空也の出家した尾張の国分寺が三論教学の寺、元興寺の系統であったことから考えても、空也が出家の前後に三論を学んだ可能性はきわめて高いといえよう。(引用、参照:『阿弥陀聖 空也 石井義長 講談社選書メチエ』)

以上のように、空也上人の念仏は、大乗仏教の根幹、「空」思想に裏付けられたものであるということができるのではないであろうか。ここで「空」について詳しく論じる余裕はないが、簡潔に言えば「空」とはからっぽ、虚しいということではなく、すべての現象は関係性の中で生起しており、それ自体の力で成立する固有の実体はないとする真理である。
この世界(全宇宙)が空なることを全身心で体現していけば、自我への執着はなくなり、他者の救済がそのまま自利となる。そこに菩薩の自利利他行が現成するのである。

空也上人はまさにその名の通り、口称念仏を通して「空」なることを全身心で体現した稀有な上人である。
そして、その念仏の行は「空」であるがゆえに必然「慈悲」の行であった。
「空」を覚ることは、そのまま智慧と慈悲の一如を示すのである。

私たちの祖先にこれほどまでに「美しい人間」がいたことに驚嘆する。
また私は、「空」を体現することがこれほどまでに「美しい人間像」を現出せしめたことに大いなる救いを覚えてならない。

『空也上人誄(るい)』では空也上人についてこう語っている。
「尋常(つね)の時、南無阿弥陀仏と称えて、間髪を容れず。天下また呼んで、阿弥陀聖となせり」と。

京都東山、六波羅蜜寺の空也上人像(運慶四男、康勝作:鎌倉時代)は、そんな上人像を見事に表している。
己を捨て去った恍惚とした空也上人像の口元からは、六体の阿弥陀仏が出現している。これはもとより、上人の発した南無阿弥陀仏の六文字の名号が、阿弥陀仏となって現れたものである。
南無阿弥陀仏、すなわち永遠のいのちと一如になった空也上人がそこにいる。

ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる『道元禅師「正法眼蔵 生死巻」』

京の人々にとって、阿弥陀聖・空也上人の称える念仏の姿は、阿弥陀仏の具現化として自然に感得されたのかもしれない。

最後に道元禅師の言葉でこの記事を終わりたい。

菩提心をおこすというは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。『道元禅師「正法眼蔵 発菩提心巻」』

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長文を読んでくださいまして有り難うございました。
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良寛さまの詩歌 1

2006年01月22日 | 禅・仏教
昨日、就寝前に30分坐禅をした後、習慣となっているベッドでの読書の時間に、良寛さまの漢詩を読みました(参照:サングラハ心理学研究所ブックレット№4「良寛の四季」岡野守也著)。

千峰凍雲合 せんぽう とううんがっし

万径人跡絶 ばんけい じんせきたゆ

毎日只面壁 まいにち ただ めんぺき

時聞灑窗雪 ときにきく まどにそそぐゆき


静まりかえった雪国(越後)の情景が凛とした冷気を伴って、ありありと思い浮かばれます。

良寛さまの暮らした越後を含め、北陸などの日本海側の冬景色は、山々にかかる雲さえ凍りついて感じられるほどの冷気に包まれています。

私の修行した永平寺でも、冬の間は、骨まで凍りつくような寒さと、気が滅入ってしまうほど暗い雲が垂れ込めた曇り空が続きます。

しかし、この詩には、冬に対する嫌気のようなものは微塵も感じられません。

そこには厳しい冬の情景と一如になっている良寛さまの姿があります。

雪深い越後では、昔のことですから今のように除雪車もなく、完全に雪によって道はふさがれ、人の行き来が絶たれてしまうことは当たり前のことだったのでしょう。
五合庵でひとり暮らしの良寛さまは孤独です。

ですが、この詩には孤独の寂しさや感傷は感じられません。
訪れる人もなく、毎日、只、面壁して坐禅をする良寛さまの姿が、凛とした冬の孤独と一つになって浮かび上がってきます。

そして同時に、時折聞かれる窓に灑がれた雪が、静まりかえった冬の沈黙をより一層際立たせているように感じます。

良寛さまの身心と冬の情景がピッタリ一つになっている。

この詩から、「冬(景色)は冬(自己・良寛)」としか言えないような境涯を感じました。

論理的な日本語になってませんが・・・

坐禅をした後だったせいか、ジンワリ心に沁みました。

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