一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

気になるスナック発見「チョコビ」

2006年04月30日 | 休憩
もうみなさんは目にされたでしょうか。

コンビニで気になるスナック菓子を発見。

さっそく購入しました。

その名は「チョコビ」

そう、あの「クレヨンしんちゃん」の大好物のスナック「チョコビ」が、(株)東ハトにより商品化されたのです。

おまけにしんちゃんのシールが一枚入っています。

スナックは、キャラメルコーンで有名な東ハトらしく、サクサクの星型コーンパフで、子どもが好きそうなチョコレート味に仕上げてあります。

量は少なめですが、後を引くうまさ。

「クレヨンしんちゃん」への、ひところの異常な熱狂的ブームは終わり、その後人気はかなり沈静化しました・・・とは言えまだまだしんちゃんの存在感は健在。

「チョコビ」スナック、果たして人気は出るでしょうか・・・


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ダッチアイリス

2006年04月30日 | 写真館・花(境内)
境内の花畑に咲いた、ダッチアイリス(別名オランダアイリス)。

ジャーマンアイリスより一足早く咲きました。

ジャーマンアイリスより小ぶりで、花弁が上方にスッキリと伸び上がります。

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牡丹(花の王)

2006年04月30日 | 写真館・花(境内)
檀家さんからいただいた牡丹の花を母が活けました。

まさに「花の王」。

自然の造形とは思えない。

ある意味、芸術です。

則天武后もこよなく愛したという。

黄色はちょっと高価で珍しいようです。

牡丹の花が完全に開くと、直径20センチにもなります。

艶やか(あでやか)と形容するのがふさわしい・・・。

そう言えば、牡丹は美人の代名詞ですね。


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入檀式

2006年04月29日 | 禅・仏教
毎年、当寺では4月29日に入檀式を行っている。
本年で40回目。
先代がはじめた行事である。
入檀式(にゅうだんしき)とは、本年新たに檀家になられた方に、当寺の檀家として、また何より仏教徒としての自覚を持っていただくために行っている、お誓いの式と言える。

実際のところ、これといった信仰心もなく、墓地を求めて檀家になる方がほとんどなので、この式を契機に、仏教徒として、また当寺の檀家としての自覚を持っていただきたいというねらいがある。
正直、この行事のためにいろんな準備があったり、プレッシャーもあったりして、面倒に思うこともある。
よその寺は、改まって入檀式なんてしていないはず。
・・・って思ってしまうのは、マイナスの不毛な想念。
目先の自己都合に従って、楽な方に走ってはろくなことにはならない。
お寺、入檀者、そして私の中長期のメリットを考えれば、入檀式はやるべき意義のある行事である。

差定(さじょう)、式次第は以下の通り。

一、大衆入堂
一、導師入堂
一、上香・普同三拝
一、各家位牌点眼
一、般若心経読誦
一、入信疏
一、懺悔文
一、灌頂洒水
一、三帰戒
一、三聚浄戒
一、十重禁戒
一、四弘誓願
一、入檀者署名
一、贈呈品授与
一、法話
一、普同三拝
一、導師退堂
一、大衆退堂
 
なんて書くと仰々しい感じだが、たいして難しいことはしていない。
かなり自己流にアレンジした差定なので、宗門諸兄からお叱りを受けそうだが。

今回の法話は、「四弘誓願」。
菩薩の四つの大きな願い。
私が教えを受けている、岡野先生の「四弘誓願」の超意訳について話した。
大乗仏教のこの上なく美しい理想が、少しは伝わったであろうか・・・。

式の後は、本日の入檀者と、臨席した当寺の総代、世話人一同、客殿に移り会食をした。
言わば、お披露目である。
本年は恐らく、当寺新記録であろう、11軒の入檀者が新たに当寺のお仲間に入られた。
総代、世話人合わせて42人の会食で、とてもにぎやかな宴席となった。

道元禅師いわく。
人身得ること難し、仏法あうことまれなり、と。
さらに奇特な仏縁あって、当寺と私とのご縁が結ばれたのだ。

このご縁を大事にしていきたい。

このご縁に応えていきたい。

疲れたが、式が終わり、すがすがしい充実感に包まれた。

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祝!禁煙1ヶ月! 

2006年04月28日 | 禁煙
今日で禁煙一ヶ月達成!

自らによくやった!と褒めてやりたい。

その間、禁煙4日目、サングラハの二次会後、自宅に帰って一本付けてしまったが、これはすぐ消したので、カウントしていない。

それ以降、何度も酒席があったが、セーフだった。

いつも酒が入って禁煙に失敗していたのだ・・・。

ここまで無事に禁煙できたのは、強い意志があったからではなく、禁煙のプラス面に絶えず目を向けるように努めたからだ。
また、ブログ読者の方々から温かいご声援をいただき、励みになったのと同時に、ここで挫折したら目も当てられないという、羞恥心も一役買ったように思う。

禁煙一ヶ月。

禁煙して本当に良かったと思う。

ストレスが溜まることもあるが、それはタバコを吸っていた頃も同じ。
タバコをやめてストレスが増えたとは思わない。
むしろ禁煙してストレスに向かっていく姿勢が出てきたような気がする。
タバコを吸っていた頃よりも、現実の困難から逃げなくなった。

確かに離脱症状は辛かった・・・しかし、それも一週間前後。


これまでのプラスの変化をおさらいしよう。

体力が付いた。

集中力がアップした。

よく声が通る(これは僧侶としてデカイ)。

肌艶がいい(なんか、これがいわゆる透明感ってやつ?)。

五感が鋭敏になった。

口臭を気にしなくていい。

服が匂わなくなった。

子どもにも、環境にも優しい。

健康に対する心配が半減した。

外出するとき、タバコに気をまわさなくていい(いちいち喫茶店を探して吸わなければならなかったのだ)。

少し自分に自信がついた。

好奇心が倍増した。


しかし、まだまだ油断は大敵。

やはり飲酒すると吸いたくなる時がある。

これをコントロールするために家で晩酌をはじめたとも言える。


次なる目標は、3ヶ月。

一日一日、吸わない日を積み重ねていこう。

余談だが、禁煙記念のお祝いに、ずっ~と憧れていたペリカンの万年筆(あの定番の緑のやつ)と、ボールペン(これも緑のやつ)を購入した。

私の大好きな夏目漱石も使った「ペリカン」の万年筆(エッセイの中では随分こき下ろしているが『余と万年筆』)。

大きな声では言えないが、ン万円である・・・。

もう絶対に吸えないぞ~

頑張りまっす!


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カロライナジャスミン

2006年04月28日 | 写真館・花(境内)
境内のフェンスに咲いた、カロライナジャスミン。

蔦のようにとても強く、毎年ツル状に延びていきます。

好き嫌いがあるかもしれませんが、このようにフェンスに這わせる咲かせ方が最適でしょう。

その名の如く、甘い香りがします。

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掛川城でご縁にトキメク!

2006年04月27日 | 思い・日常
静岡の教区研修旅行(20日~21日)、帰りの行程で掛川城に寄りました。
目下NHKで放映中の「功名が辻」の山内一豊、ゆかりの城ということでコースの中に入ったのでしょう。
実はここで、個人的なことですが、ちょっと感動したことがありました。
ウッカリ写真を撮り損ねてしまったので、こちらの(先輩ご住職teraさん)ブログをご覧ください。

まずは掛川城の歴史をざっと紹介します。
掛川城は、戦国時代、今川氏が遠江の拠点として築かせたと言われています。
その後、徳川家康に領有され、長じて重臣石川家成が入城し、甲斐からの武田氏侵攻の防御の拠点となりました。
 天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は戦乱によって傷んだ城を復興し、天守閣を建てたということです。
掛川城は、日本一、城主の家柄が変わった城とも言われ、総じて11家26代の居城として栄えました。

さて、何に驚いたか。

天守閣内部に掲示してあった歴代城主の年譜を何気なく眺めていたら、そこに見覚えのある武将の名前があったのです。

掛川城17代城主、北条氏勝の養子、北条氏重(10年間在住)と記載されていました。

実は、北条氏勝は、当寺の開基様なんです(あ、身元ばれちゃうかな…)。お子さんがおらず、氏重という養子を取ったことは、どこかで知っていました。
でも、まさかそのお子さんが、名城掛川城の城主(3万石)にまで出世されたとは・・・驚きでした。

そこで家に帰ってパソコンで調べると、始祖、北条早雲からなる後北条氏は、血縁は途切れたとは言え、唯一、当寺開基、北条氏勝の系統が後代まで存続したことが分かりました。

あ、読者のみなさんには、まったく関心のない事柄かもしれませんね・・・。

ですが、住職にとって開基様の存在というのは、有り難いことこの上ありません。地方の一武将だった、一般にはあまり知られていない開基様の名前を、思いがけず発見して、小躍りするくらい嬉しくなりました。
そして、開基様の系統が後代まで存続したことに、胸が熱くなりました。
(なんと現代までも家は存続していて、その人、北条浩氏は創価学会の第4代会長をつとめたことがあるらしい。これはちょっと複雑な思い・・・だって創価学会・・・)

また、私が開基様に対して、特に思い入れが深いのは、開基様の戒名に、私の名前が2字含まれているからです。

私は在家出身ですから意図して付けた名前ではありません・・・。

これは偶然でしょうか・・・。

不思議な因縁を感じます。

ともあれ、掛川城で出会った、思いがけないご縁に胸がときめきました。

歴史に思いを馳せるというのは、なんともロマンティックな気分になります。

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目標は、誰よりも早く名前を覚えること!

2006年04月26日 | つながりコスモロジー
園児の数が昨年度より、60人増えて、237人になった。

だが、数字で子どもを捉えるだけでは見失うものが多い。

どれだけ園児が増えようが、それによって、一人ひとりに対するかかわりが薄くなってしまっては意味がないのだ。

必然、子どもたちとかかわる時間を昨年度より増やしている。

さて、数少ない取柄のひとつ。

自慢になってしまうが・・・

私は子どもの名前(全園児)を覚えるのが早い。

なぜそんなに早く覚えられるのか、と職員にも聞かれる。

もちろんとりわけ記憶力が優れているというわけではない。

答えは簡単だ。

その子に興味を持つこと。

その子のことを好きになること。

これに尽きる。

さらにコツとしては、子どもに挨拶するときに、「○○ちゃん、○○くん、おはよう!」と必ず一緒に名前を言うようにすること。

「名前は魔法の呪文」というのが私の持論である。

ただ、おはようと言われるのと、その子の名前と一緒におはようを言われるのとでは、受け取る側の喜びに雲泥の開きがあるというもの。

また名前を呼ぶことで、その子との心の距離がいっそう近くなるのを感じる。

植物の名前もそうだ。

名前を覚えることで、いっそう親しみがわき、愛おしくもなる。

名前には「個」を際立たせる作用がある。

私が彼らの名前を呼ぶ。

彼らが私の名前を呼ぶ。

普遍に埋もれていた「実存」が発ち現れる瞬間である。

実存と実存が邂逅する。

子どもをギュッとする。

すると、実存さえも超えられて、融けあう歓喜に包まれることがある。

分化と統合。

統合と分化。

はじめから統合のままでは歓喜はない。

分化があって、はじめて統合の歓喜がある。

本来、人と人との出会いとはそういうものではないか。

コスモスとコスモスの出会い。

美しい分化と統合の進化。

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内山愚童師の墓を訪れて (アナキズムは可能か?)

2006年04月24日 | 禅・仏教
21日に教区研修旅行から帰ってから、その報告をブログ記事にまとめようと思いつつ、日にちばかりが過ぎてしまった。
三日ぶりの更新である。
さて、今回の旅行の大きな目的の一つ、箱根大平台林泉寺にある内山愚童師の墓への参拝。
恥ずかしながら、師の思索と実践については、まだ詳しく学んでいないので、個人的に批評することすらできない。
なかなか記事が更新できなかったのは、そんな理由もある。

だが、じっくりと学んでからでは更新が先延ばしになってしまう。
とにかくも、内山師について読者に紹介し、今の時点での、素朴な感想、及びアナキズムに対する私見を述べてみたいと思う。

内山愚童師とはいかなる人物か。

1874~1911
(明治7~44)明治時代の禅僧(曹洞宗)。
新潟県出身。幼名慶吉。小千谷小学校卒業後、20歳で上京、井上円了家の家庭教師となり、24歳で出家。1904(明治37)神奈川県足柄郡温泉村林泉寺住職となったが、このころから社会主義の研究を始め、禅堂の共同生活を社会に適応させてみたいと思い、幸徳秋水、堺利彦、石川三四郎らと交際を始める。林泉寺に幸徳らが訪れ、そこで秘密出版も行い、また村の青年たちの教育にも当たる。アナーキズムへの関心を深め、’08赤旗事件を契機にアナキストとなる。’09出版法、爆発物取締規則法違反により入獄。’10大逆事件に連座して死刑となった。仏教とアナーキズムを結合させた思想と行動は、日本近代仏教史上特異な存在として光っている。
以上、引用『コンサイス日本人名事典』

まず端的に言って、内山師はその思想と行動において、アナキズムと仏教の融合をはかったと言えよう。
アナキズムとは無政府主義のこと。
この思想の根幹には、性善説に立脚した全面的な「人間信頼」がある。つまり、抑圧的機構としての、国家、政府、法律を廃止してこそ、真に自由な主体性を確立できるということである。
アナキズムが実現した社会では、一切の権威性は認められない。抑圧から自由になった人間は、真の自己実現がはかれると考える。
アナキストの代表的人物は、海外ではフランスのプルードン、ロシアのバクーニン、クロポトキンらが挙げられる。日本では、幸徳秋水、石川三四郎、大杉栄らが挙げられるであろう。

実は、数年前のこと、内山師の存在を知る以前に、アナキズムについて興味を持って少し学んだことがあった。

誤解を恐れずに言えば、私もまたアナキズムの実現した社会に「仏国土」の顕現を夢見た。

究極、アナキズムが円満に機能することができれば、この世は仏国土になりえるのだ。

ただし、あくまでも、「円満に機能することができれば」という条件付である。

残念なことに、ここにアナキズムの、現実感の乏しさが露呈されざるを得ないのだ。もしかりに、一部のアナキストの煽動家の力を得て、革命をなしえることができても、それがすなわちアナキズム革命の成功にはつながらないのである。私たち人間個々が「エゴ」という病を超克しなければ、革命後の新たな社会に必ずや表面的な姿を替えた、別の権威を構築してしまうだろう。その権威が「全体の福利のため」という、美しい仮面をかぶっていれば余計に、隠蔽された権威は民衆への抑圧を強固なものにする。

アナキズムはこの上なく美しい世界像を提示しているものの、人間の本性についてあまりに楽観主義的であり、現実把握に乏しいように感じられてならない。マナ識、アーラヤ識によって染汚された、エゴイズムが跋扈する近・現代の人類の精神レベルでは、無政府社会の実現は夢物語にすぎないのである。
私とて、煩悩によって染汚されたマナ識のせいで、頭ではアナキズムが実現する平等で、自由な社会の素晴らしさをイメージしつつも、一方で、そんな社会は無味乾燥で退屈極まりないんではないか、自己が大衆に埋没して匿名化されてしまうんではないかといった念を抱いてしまうのだ。

また、そうした人間のエゴから派生するさまざまな問題は、例えば、アナキズム的発想に基づく共同体「ヤマギシズム」の悪しき風評からも、顕在化していることが推察される。

では、無政府の実現が当面不可能であるならば、国家レベルでの現実的な落としどころはどこにあるのか。
それは、短期的にエゴの欲求を充足するような形で目先の問題に対処することではなく、30年、50年、100年先の中長期的な、自国を含めた全人類のベターなビジョンを明確に示し、そこから現在なし得る施策を国家主導で実行していくことにあるのではないだろうか。
こうした手法を「バック・キャスト」と呼ぶ。
「福祉国家」から「緑の福祉国家」へ変貌を遂げつつあるスウェーデンが、採っている政治手法であるということだ。(参照『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』著:小澤徳太郎、朝日選書)

少し逸れるが、アナキズムと言うと、ひとつには、おそらく一般に物騒で暴力的なイメージでもって捉えられやすいのではないか(実際には非暴力運動に転化する可能性を秘めているにもかかわらず)。
さらには、マルクス主義革命の失敗とともに、アナキズムもまた葬り去られた過去の思想であるとの誤解があるのではなかろうか。
だが、実はスウェーデンのように、生態系全体の持続を視野に入れた、エコロジー的発想もまた、アナキズムとの関連性を指摘することができるのだ。
ほかにも例えば、自然環境保護・再生資源の活用、巨大開発・機械生産の否定、生態系と調和する農業―工業関連の創出、過剰消費と規格化された生活の拒否、教育・医療・交通・コミュニケーションでの自律性の奪回、等々。その問題意識は、現代の市民運動にも連綿とつながっていると言えよう。

時代を超えてアナキズムの目指したベクトルは、今後もさまざまな様相を伴って先鋭的に世界を牽引していくだろう。ここにわれわれ人類が生き残り、後世へよりよい物を遺して行く鍵がある。

したがって、アナキズムは死んでいない。

アナキズムは、人間性への全面的な信頼に基づいた、徹底した相互扶助の精神に基づく。
この方向性自体は、大乗仏教的観点から言っても実にまっとうで正しいものである。
そういう意味では、内山師の思索と行動は、私には誠に仏教的なものに映る。師は自身の信仰を観念的世界に閉じ込めず、現実世界に実現しようとした、真の仏教者ではなかったか。
にもかかわらず、時の宗門は彼を抹殺する政府の方針に追随し、加担した。
徳富蘆花が嘆息したように、宗門人の誰一人として彼を擁護せんとするものはいなかったのだ・・・。せめて、誰か一人でも、「どうか、(彼に)ご慈悲を」の声を発することはできなかったのだろうか。
思想内容の是非はともかく、せめてもの、それが仏教者としてのあり方ではなかろうか。
内山師の無念を思うとやり切れなくなる。
同時に、当時、私が宗門人として生きていたらどうであったか。官憲に怯むことなく、「どうか、ご慈悲を」の声を発し、内山師を擁護する側に立てただろうか・・・。自問されてならない。

写真は内山師の墓。

処刑されてからずっと手前の石ころが、墓石の変わりに安置されていた。
奥の名前が入った墓石は昭和50年代に有志によって作られたものということ。
なお内山師の剥奪された僧籍と長らく失われた名誉は、近年曹洞宗によって復帰、顕彰されている。

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