一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

【超訳】延命十句観音経

2013年02月07日 | 禅・仏教
延命十句観音経をスーパー意訳してみました。


延命十句観音経

観世音 
南無仏
与仏有因
与仏有縁
仏法僧縁
常楽我浄
朝念観世音 
暮念観世音
念念従心起 
念念不離心


【超訳】

観音さま。
あなたにすべてを預けます。
私のすべてを任せます。
仏のご縁に導かれ、
仏のご縁に結ばれて、
あなたとひとつになることで、
私は仏に包まれる。
苦しみ悩み、悲しみも
すべてどこかに消え去って、
そよ風のようにすがすがしい。
お日さまのように暖かい。
毎朝、観音さまを念じよう。
毎晩、観音さまを念じよう。
私の心は仏になり、
私とあなたはひとつになる。


この一日の身命を尊ぶべし 

2012年12月15日 | 禅・仏教
この一日の身命を尊ぶべし (道元禅師の言葉を要約)

(原文は、「この一日の身命は尊ぶべき身命なり」 『正法眼蔵 行持巻』)


早いもので今年も残すところわずかとなりました。
不思議なもので、歳を重ねるごとに一年があっという間に思われ、「光陰矢の如し」と言う言葉が実感されてまいります。
まことに人生は邯鄲の夢のごとく、はかなく過ぎ去っていき、そして誰にも等しく死が訪れます。
しかし、死ぬこと自体は決して悪いことではありません。
死があればこそ、この命はかけがえがなく尊いのです。
また、私たちの命、私たちの人生は取替えができません。
だからこそ、私たちは人生の一年、一年、ひと月、ひと月、一日、一日、
いまここの一瞬を、しっかりと大切に生きていかなければならないのです。
それが自分の命、ひいてはこの世のあらゆる命を尊ぶということになります。

折りしも今は落葉の季節ですね。
木々の葉は、葉としての精一杯の役目を終え、静かに散っていきます。
そして春を迎えるとまた新しい葉が芽吹きます。
死は終わりではありません。
命のあり方の変化にすぎないのです。
命を大きく捉えれば、死は新たな命のはじまりと言ってもいいでしょう。
人間が死を恐れるのは、「自分(自我)」と言う妄想の殻にとらわれているからです。
「我」がなくなるのが怖いのです。
この殻にとらわれて我欲のとりこにならないよう、
一日一日、かけがえのない身命を大事に生きていきましょう。
いまここの自分の命に息づくことが、仏の命(永遠の命)を生きることになってまいります。
それは何も難しいこと、特別なことではありません。
まず今日一日の命に感謝をすることです。
そして、ご飯を食べるときは感謝していただき、人には笑顔や優しい言葉をかけるように努め、
仕事に不満を持たず黙々と働き、余暇は童心に帰って思い切り遊ぶ。
ただし、どんなときもいまここの自分の命(自分の生きる姿勢)を見失わないことが大事です。
怒り、愚痴、貪りの心から離れましょう。
なにげない日常の中にも、仏の命は息づいています。
人生のひとときを味わい、一日一日、自分にも人にもまごころをこめて生きること。
それが「この一日の身命を尊ぶべし」ということではないでしょうか。

まずは、静かに深く、息を吐いて・・・吸って・・・いまここの命を感じてみましょう。
それが仏の命に息づくことのスタートです。

自戒の念をこめて。

平成二十四年十一月二十八日              龍寳寺住職合掌

山門伝道板掲載文章

「死と共に生きる―本当の幸せとは何か―」

2012年01月23日 | 禅・仏教
前回の文章を法話用(山門伝道掲示板用)にリニューアルしてみました。

「死と共に生きる―本当の幸せとは何か―」

さて、みなさんの中で幸せになりたくないという方はいますか。いませんね。今回は本当の幸せとは何か?みなさんと一緒に考えていきたいと思います。そこでまず、私たちが幸せになるためにはどんな条件があるか、考えてみましょう。私は大きく3つの条件があると思っています。
一、健康であること。
二、お金があること。
三、人間関係が円満であること。など。
みなさんもこの3つの幸せの条件が整えばきっと幸せなはずだと思われるはずです。しかし、こうした完璧な幸せを全部台無しにしてしまうできごとが一つだけあります。それは「死」です。死んでしまえば、当たり前の話ですが、この人生の幸せがすべて奪われてしまいます。だから私たちは死を何よりも恐れて、ふだんなるべく、自分の死を考えずにいようとするわけですね。
それでは、どうしてすべての命ある者は死ぬのでしょうか。それは、あらゆる物事が移ろい行き、永遠に変わらないものは何一つないという宇宙の法則があるからです。お釈迦様はこの法則を「諸行無常」といいました。いやな言い方ですが、私たちの体もこの諸行無常の法則によって、一年一年歳を重ねるごとに老いていき、死に近づいているということが言えるわけです。
そして、お釈迦さまは、私たちにこの諸行無常の道理をわきまえて、自分の「死」を見つめて生きていきなさいと仰いました。わざわざ「死を見つめろ」なんて、仏教っていうのはなんて暗くて意地の悪い教えなんだと思われる方もいらっしゃるかもしません。ですが、もちろんお釈迦さまは意地悪でそんなことを仰ったわけではありません。ではなぜそんなことを言うのか、結論を言う前に、先ほどの幸せの条件の話に戻りますと、仏教ではそもそも私たちが幸せの条件だと思っているものは、借り物の幸せであって本当の幸せではないと言います。なぜなら、そうした幸せは死んでしまえば、全ておしまい、おじゃんになってしまうからです。それなのに、人間はそうした借り物の幸せに夢中になってしまう。だけど、こうした幸せにとらわれて、こだわっている限りは、人間は本当には幸せになれません。では、本当の幸せはいったいどこにあるか。それは、私たちの「心」、この「心の中」にあります。みなさん「星の王子様」という童話はご存知でしょうか。あの話の中に「本当に大切なものは眼に見えないんだよ」という言葉がありましたが、本当の幸せ、それは、私たちの眼には見えません。なぜなら、幸せは、実は外にある条件などではなくて、幸せだと感じる心の方にあるからなんです。そして、その心の中にある本当の幸せに気付くためには、自分の死と向き合い、死を受け入れることが大事になってくるわけです。どうしてかというと、それは、自分の死を受け入れることによってはじめて、これまで当たり前だと思っていたすべてのできごとが、当たり前じゃなくなってくるからです。つまり、自分の命がいま生かされていることが、本当に有難い、奇跡的なことのように思えてくる。そして、同時にこの私を生かしているこの世界のすべてが有難く、愛おしく感じられてくるわけですね。
ではここで、ある一篇の詩を紹介します。
作家の高見順さんの「電車の窓の外は」という詩です。


「電車の窓の外は」
電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきずいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死ななければならぬ
だのにこの世は実に幸せそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸が詰まって涙が出そうになる

死の淵にある作者の心の声がありありと聞こえてきます。
自分の死を受け入れたとき、逆に世界がいきいきと輝いて見える。そして、この命がかけがえなく尊いものに思えてくる。すると、生き方が変わります。人生の一瞬一瞬を大事に生きるようになるわけです。たとえばご飯を食べるときも、お茶を飲むときも、人と会うときも、仕事をするときもそうです。そうした日常のすべてに有難いという感謝の心がこもってくる。すると自分の外にある幸せの条件に左右されずに、そのときそのときを精一杯生きるようになる。つまり、見せ掛けの幸せではなく、本当の生き方にまなざしが向けられるということです。これが、仏教の説く本当の幸せです。それは死を前にしても決して揺らぐことのない幸せでございます。作者の高見順さんは、末期の病にかかり死が迫ってから真実に目覚めたわけですが、お釈迦さまが説くように、日頃から自分の死への心の準備をしておけば、より早く本当の生き方に目覚めることができるのではないでしょうか。
また、道元禅師も「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と仰いました。
人が生まれて、老いてゆき、そして必ず死んでいくという、この厳かな事実をしっかりと見つめ、見極めていくこと、それが、仏教徒にとって一番根本的な問題であると示されています。
とは言え、いきなり死を見つめろと言っても、やはり抵抗があるかもしれません。ですから、まずは毎日、手を合わせて、生かされているこの「命」に感謝することから始めてはいかがでしょうか。自分の命に感謝するということは、自分の命を見つめることにもつながります。これだけでもずいぶんと心が豊かになり。一日一日の生活に張りが出てまいります。今日の話が、みなさんご自身の命を見つめるきっかけとなれば幸いでございます。ご清聴いただきありがとうございました。  

以上は、布教研修の際に発表した法話です。
長文にお付き合いいただき有難うございました。          住職合掌

死を見つめることの意味について

2011年11月28日 | 禅・仏教
人間にとって、いや、生きとし生ける者すべてにとって、死は避けては通れない厳とした事実であり、これほど揺るぎない確かな真理もほかにない。
そして仏教では、あらゆる存在が生滅変化をし続けるこの真理を「無常」といい、これを見つめることを修行の要としてきた。
無常を自分の側に当てはめてみれば、それはすなわち、自己の「死」を見つめるということにほかならない。
では、解脱を求めんとする出家者はともかく、在家、一般の人々に「死」を見つめ、
受け入れる生き方を敷衍することにはどのような意味があるだろうか。考えてみたい。
 ローマ皇帝であり偉大な哲学者でもあったマルクス・アウレリウスは、人生をいかに宇宙的に意味あるもの、
価値あるものにするかについて生涯をかけて問い続けた稀有な人物である。
彼は人が死に臨むときの態度として、こう述べている。
「死を軽蔑してはならない、むしろそれがやってくるのに微笑みかけなさい。死もまた自然が願うことがらの一つなのだ。
青春と老い、成長と成熟、歯や髭や白髪があらわれること―人生の季節がもたらすそのほかのすべてのことがらと同じように、
われわれの消滅もあるのだ。したがって理性ある人間は、死に対して、軽んじたり、短気になったり、軽蔑してはならない。
彼は、それを自然のもう一つの移り変わりとして待つのである。」
 アウレリウスの哲学には、その根本に宇宙の摂理に対する全面的な信頼があった。
だからこそ、「死」を従容として受け入れることが、宇宙自然の摂理にかない、人の道にもかなうと考えたのである。
また、アウレリウスが依って立つストア派は、宇宙は存在するすべてを包括しているがゆえに、
人間個人も厳密かつ完全な意味において宇宙の一部であるとした。
見方を変えれば、宇宙の事象と人間の行為は異なる次元のできごとではないとも言えよう。
だから、われわれが宇宙の摂理としての「死」を安らかに受け入れることが、
そのままストア派が目指した人間と宇宙との一致をなす行為にもなるのである。
 そして私は、こうしたアウレリウスの哲学的実践を推し進めていけば、
道元禅師の正法眼蔵生死に示されている境地にまで近づいていくのではないかとも考えている。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへに投げ入れて、仏のかたよりおこなはれてこれにしたがひもてゆくとき、
ちからをいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ仏となる(正法眼蔵生死)」。
 アウレリウスの言う、「宇宙・自然」と、道元禅師が説く「仏」は、完全に同定はできないまでも、
その根本には同じ水脈が通っていると言っても過言ではあるまい。
 いずれにしても、宇宙の摂理を信頼して、「死」を受け入れることの中に、人生の迷いや苦悩を離れる鍵があることを、
両者の言葉は示唆しているように思われるのである。
 もっともアウレリウス、道元禅師の言葉を引用しなくとも、「人生、終わりよければすべてよし」ということは、誰しも異論はないところだろう。
なぜなら、死は人生の総決算であり、死を受け入れ、死を安らかに迎えるということが、
これまで生きてきた人生をすべて肯定することにもつながるからである。
しかし、われわれの人生、一寸先は闇であり、いつなんどき命を落とすか分からない。
だからこそ、その時が来て準備するのではなく、日頃より、己の死を見つめることが、死に臨んで恐れ、
慌てふためかないための訓練として必要になってくるのである。
 そしてさらに大事なのは、日々死を見つめることの最大の恩恵が、実は日々の暮らしの中に端的に現れ、人生の質が飛躍的に高まるということである。
なぜだろうか。それは、自己の死を見つめ、人生の有限性を感じている者には、日々の一瞬一瞬がかけがえのないものになり、
日常の一コマ一コマがこの上なく尊く美しいものに感じられてくるからである。
自分の環境が変化するのではない。そのとき、自分の心のあり方が大きな転換を遂げるのである。

ここで一編の詩を紹介したい。

「電車の窓の外は」高見順

電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきずいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた景色が
急に新鮮に見えてきた
この世が
人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死ななければならぬ
だのにこの世は実に幸せそうだ
それが私の心を悲しませないで
かえって私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸が詰まって涙が出そうになる
                終わり     
おそらく詩人は、医者に余命を宣告されたのだろう…。詩人は、おのれの死が近いうちに訪れることを予見している。
そして同時におのれの死を見つめ受容している。
そのとき、これまで慣れ親しんできた世界の景色が一変して輝きに満ちあふれ、こみ上げてくる世界への愛おしさが、
詩人の心、詩人の魂を浄化していく、そんな心象風景がこの詩には現れている。
死に臨んでの本心を言えば、やはり、この世と別れることは寂しいし、悲しかろう。
それが「愛別離苦」というものであり、この苦しみは生易しいことで消えてなくなるものではない。
しかし、自分の死を見つめ、受け入れた時には、個人的な悲しみを含みつつもそれを超えた、この世界、この宇宙に対する慈しみの念が溢れてくるのだ。
それは自我愛の束縛が解けて、他者への慈愛が解き放たれるからにほかならない。
道元禅師は他者と言わずに「他己」という語を用いたが、このときはじめて私たちは、自己と他己が現象的に異なっていても本質的に同じであり、
一体であることに気付くのであろう。他己もまた己の一部なのである。
そこから広がる世界が、果たして輝かずにいられるだろうか。
 命という命は、ひとつの例外もなく致死率100%である。
しかし、人々は誰しも訪れる「死」を遠ざけ「死」から目を背けたがる。
なぜならそれは、人々が死によって自分の物すべてを失ってしまうと考えるからにほかならない。
とりわけ人々は、自我意識と密接に結びついた「私の命」を、私そのものと信じて疑わない。
その結果、人々にとって「命」を失うことは、「私」を失うことと意味が等しくなる。だからこそ人々は、何よりも死を恐れるのである。
 そして仏教ではこうした「私」へのこだわりを「無明」といい、煩悩の根源であることを明らかにした。
私たち人間は無明であるがゆえに「私」という妄想にしがみつき苦悩し、「無我」の真理に気付くことができない。
気付くことができないから、また「私」にしがみつく。いわば煩悩の堂々巡りである。
 だから仏教は自分の「死」を見つめ、受け入れることによって、命の「無我性」に気付かせようとしてきた。
それに気付くと、自己(の命)への過剰な執着がなくなるのと同時に、自己愛が他己へと広がり、世界への慈悲が開かれ、
菩薩道の大乗精神が発露するのだ。
 動物の中で死を自覚できるのはおそらく人間しかいないであろう。「死」を見つめるということ。それはすなわち自己を明らめるということである。
私にはそこに人間として生まれたことの意味があり、さらには、そこに私たちの生き方を飛躍的に高める鍵があるように思われてならないのである。
                 以上

RIVER

2011年10月06日 | 禅・仏教
RIVER

暑さ寒さも彼岸までとは申しますが、お彼岸も終わり急に涼しくなって参りました。
さて、日本人にとってなじみの深い「彼岸」という言葉は、もともと、煩悩のない安らかな悟りの境地のことを言います。
直訳すれば、「向こう岸」という意味です。一方、煩悩や迷いに満ちたこちら側の世界を此岸(しがん)と呼び、
仏教では此岸(煩悩の世界)から彼岸(悟りの世界)へ至ることを目指しております。
そして、そうした彼岸の概念が、西方極楽浄土を信仰する浄土思想と結びつき、彼岸会(お彼岸)という、
法要を営んだり墓参りをする日本独自の先祖供養の慣習が生まれたとされています。
ですが、今回は先祖供養としての「お彼岸」ではなく、原義としての「彼岸」について考えてみましょう。
さて、原義に戻れば、彼岸とは「悟りの境地、悟りの世界」を指しているわけですが、
大乗仏教では、私たちはこの世で悟りを開いて仏になるために生まれてきたと言っています。
つまり人として生まれた以上は誰しも彼岸を目指すことが、人として生まれた使命であるというわけです。

煩悩に満ちたこちら側の岸から、煩悩のない向こう岸を目指すということ。
では、岸と岸の間にあるのは何か?

それは「川」です。
 
私たちの目の前には川が流れています。人は誰しも川を乗り越えて、向こう岸に渡ろうとしているのです。
では、私たちにとって川とは何か?
 
それは「人生」という名の修行です。
 
では川はどこにあるのか?
 
それは私たち一人ひとりの「心の中」にあります。
 
ときには川に押し流されてしまったり、溺れてしまうこともあるでしょう。
しかし諦めないで、何度でも立ち直って川を渡ろうとすることが「生きる」ということなのではないでしょうか。
川を渡るのを諦めることは、人生を放棄することにほかありません。
人は誰しも人生という川を渡ろうとします。
しかし我欲に執着して川を渡っても、向こう岸に着いたと思った矢先、岸ははかなくも崩れ去ってしまいます。
なぜでしょう?それは、煩悩や欲望に覆われた岸は心を安らかにすることはできないからです。
我欲を超えた悟りの境地、仏の境地こそが、揺ぎ無い真実本当の岸、すなわち「彼岸」にほかなりません。
とはいえ、悟りと言っても私たちには絵空事のように遠い世界のことに聞こえます。
では、私たちはどう生きればいいのでしょうか。
それは、私たちが「いま・ここ・自己」を、真っ直ぐに生きるということの中にあります。
私たちには過去も未来も掴むことはできません。

私たちは唯一与えられた、今ここの自己を一瞬一瞬しっかりと生き切るしかない。

だからこそ、ただひたすらに己のなすべきことを務め、今ここの自己の体験を真心込めて味わい尽くすということです。
そこに我欲を離れ、自己を忘れる秘策があるように思われてなりません。

さて、実は禅の考え方では、こちらとあちら、体と心、生と死、迷いと悟りといったように物事を対立させて考えることを批判します。
此岸と彼岸もまた然り。なぜなら、結局のところ対立概念とは人間の妄想が生み出した迷いに過ぎないからです。
ですから、此岸の向こうに彼岸があるというのではなく、
ひたすらに仏法にしたがって生きている「今ここの自己」に悟りの世界が顕現しているというのが、禅の立場と言ってもいいでしょう。
「此岸を徹底して窮めている今ここが、実は彼岸であった」とでも言い表しましょうか・・・。

ところで、実は今回の文章の着想は、今をときめくAKB48の「RIVER」という曲から得たものです。
元気が湧いてくる曲ですので、皆様もよかったらお聴きになってみてください。歌詞を一部紹介します。

  RIVER
  作詞 秋元康

  君の目の前に川が流れる
  広く大きな川だ 
  暗く深くても 流れ早くても
  怯えなくていい 離れていても
  そうだ 向こう岸はある
  もっと 自分を信じろよ

  君の心にも川が流れる
  つらい試練の川だ
  上手くいかなくても 時に溺れても
  繰り返せばいい 諦めるなよ
  そこに 岸はあるんだ
  いつか辿り着けるだろう

  君の心にも川が流れる
  汗と涙の川だ!
  失敗してしまっても 流されてしまっても
  やり直せばいい 弱音吐くなよ
  夢にしがみつくんだ
  願い 叶う日が来るまで      以上

 
私たちは生きている限り人生という川を渡っていかなければなりません。
何度溺れても、何度失敗してもやり直せます。
いつか向こう岸にたどり着ける日が来るまで・・・いや、ひたむきに生きていたら、
いつの間にか向こう岸に着いているのかもしれません。

日々精進していきましょう、この命ある限り。
以上、自戒の念を込めて。 最後までお読みくださいまして有難うございました。


平成二十三年十月五日                       龍寳寺住職合掌

(追記)ちなみに私のAKB推しメンは「きたりえ」です(照)


※拙文は当山門掲示板に掲載したものです。

照顧脚下

2011年04月19日 | 禅・仏教
数年ぶりに、山門伝導板への仏教語の掲示(解説文付き)を再開しました。

これまで行事案内などで誤魔化していましたが、震災で人々が精神的な支えを求めている時に、
自分がすべきことは仏の教えを伝えることしかないと思ったからです。
また、以前からときどき参詣者の方に、
「仏教語の掲示はやめてしまったんですか。楽しみにしていたのに…」と言われていたのでありました。

これまでサボっていた・・・確かに。

また正直、書いていることと自分の生き様との乖離に自己嫌悪もしておりました。


しかし、ヘタレ坊さんでも仏教を伝えることはできる。

いや、ヘタレだからこそ、伝えられることがあるのかもしれない。


再開最初の言葉は、自戒の意味を込めて「照顧脚下(しょうこきゃっか)」という禅語を選びました。

以下、解説文です。


「照顧脚下」または「脚下照顧」とも言う。

この言葉の立て札が、禅寺の玄関などによく置かれています。

 狭い意味で訳せば、足元を見なさい(足元を見て履物をそろえなさい)という意味ですが、さらに深い意味を読み取ってみたいと思います。

それは、

「地に足をつけなさい」。

つまり、自分自身の生き方にしっかりと根付きなさいということ。

真実は私とは別のところにあるのではなく、私の生きかたそのものに顕れる。

これが「照顧脚下」の言わんとしていることではないかと思います。

この頃は、不安な空気が日本全体を覆っていますが、こんなときこそ地に足つけて、自分のなすべきことをなしていきたものです。

一人ひとりの「照顧脚下」が日本再生の力になります。                                         


住職合掌




照顧脚下。

いつもここから。

ここからここへ。

いまここがすべて。

道元禅師の映画「禅ZEN」のご案内

2008年10月24日 | 禅・仏教
来年1月にはついに道元禅師のご生涯を描いた映画「禅ZEN」が全国公開されます。
どんな作品に仕上がっているか本当に楽しみです。
俳優陣も、かなり一流どころ、有名どころの面々が出演します。
主演:中村勘太郎
内田有紀、藤原竜也、村上淳、哀川翔、勝村政信、笹野高史、西村雅彦、高橋恵子などなど・・・。
原作は駒澤大学大谷哲夫先生の「永平の風 道元の生涯」。

この映画は、檀家さんたちの布教教化にもそうとう威力を発揮しそうです。
正直申しまして、檀家のみなさんに道元禅師のことがどれだけ伝わっているか、その教えがどれだけ浸透しているか、はなはだ心もとないとうのが現状です。
住職にもその責任はあるでしょう。
とにかく、檀家さんたちに、この映画を観て道元禅師の生涯に触れてもらえれば、その後の教化もかなりしやすくなるんではと思いました。

そこで、檀家さん宛てに案内文を書きました。


檀信徒の皆様へ
道元禅師の映画「禅ZEN」のご案内

私たち曹洞宗の開祖は、道元禅師です。
みなさんは、道元禅師についてご存知でしょうか。
道元禅師は鎌倉時代、宋の国に渡り、師匠如浄禅師のもとで厳しい修行をされ、ついにお悟りを開かれます。
そして、帰国後は、釈尊から伝わった正伝の仏法である坐禅を、命がけで人々に布教しました。
また、同時に『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という、言葉では語り難い悟りの世界(仏の世界)を言語化した、87巻にも及ぶ大著を著しています。
その内容は極めて難解ですが、そこに説かれた仏の真理は今でもまったく色褪せることなく、世界中の宗教者をはじめ、哲学者や研究者の尊崇を集めています。
まさに正法眼蔵は、人類の宝といっても過言ではないでしょう。
そのご生涯は、この上なく清冽で真摯な求道心に満ち溢れており、私たちに「本当に生きる」とはどういうことかをお示しになられています。
道元禅師の生き様に触れるたび、私たちは、このような素晴らしい宗祖をいただけることを誇りに思わずにはいられないでしょう。

さて、このたび、わたしたちの宗祖道元禅師のご生涯が映画化されることになりました。俳優陣も、素晴らしい一流の方々です。
2009年の1月10日から全国公開されるとのこと。
ぜひ皆様にも、このまたとないご縁に、本作『禅ZEN』をご覧いただき、道元禅師のご生涯に触れていただければ幸いでございます。
また、チケットも優待価格として、通常1枚1800円のところ、1000円でお分けできることになりました。
鑑賞をご希望の方は、○○寺まで文書にて郵送、あるいはFAXにてお申し込みください(電話は間違いの恐れがあるのでご遠慮ください)。チケットはとりまとめて注文の上、後日郵送にてお送りさせていただきます。代金は、恐れ入りますがお寺まで直接お持ちいただくか、郵送にてお願いいたします。
なお、ご親戚、ご友人など、檀信徒以外の方であっても、優待価格になります。どうぞお誘いあわせの上、お申し込みください。
平成20年10月吉日
住職りょう 合掌


いっぱい申し込みがあるといいな~
どれだけの反応があるか楽しみです♪

親しくなる

2008年06月02日 | 禅・仏教
わたしが世界と親しくなる。

世界がわたしと親しくなる。

わたしの中に世界が浸透してくる。

世界の中にわたしが浸透してくる。

たとえば、

眼前に広がる新緑がわたしの一部のような・・・

わたしが新緑の一部のような・・・。

なにかすべてがサッパリとして突き抜けている様子。

それは意識の状態というよりも・・・

からだまるごとの把握のようなもの。

坐が深まるとき、そんな「構え」になることがある(状態というよりも構えと言った方がしっくりくる)。

そうは言っても、坐を解いてしばらく経つと元の木阿弥、感情の虜になってしまうのは相変わらずであるのだが。

だが、かつてと違う点は、

感情の虜になっている自分を見つめる「自分」が育ちつつあること。

相変わらず落ち込みやすい性格は変わらないが、

深く落ち込んでも立ち直りが早くなった。

やはり続けるといいことがある。

無所得無所悟はとうぶん置く。

やらないよりはやった方がいい。

涅槃会法話「無常ということ」

2008年02月13日 | 禅・仏教
先週の日曜日はお寺の涅槃会(ねはんえ)法要がありました。

涅槃会とは、お亡くなりになられたお釈迦様(涅槃)を偲ぶ法要です。

正式には2月15日ですが、当寺では前倒しの日曜日に行っています。

はじめに檀家さんと一緒に、お釈迦様のご臨終の最後の説法をまとめた、遺教経というお経を読み回向を挙げます。

その後で、私の法話30分。

今回は「無常」をテーマに、釈尊の遺教や道元禅師の言葉を引用しながら、自分の死を見つめて生きることの大切さを説きました。

以下簡単に要約します。(覚え書きも兼ねて)

「無常」とはすなわち、この世界に永遠に変わらないものは何一つなく、万物は変化してやまないという宇宙の真理です。
この真理自体は、理性で誰にでも納得できるのではないでしょうか。

たとえば、無常を人間に当てはめれば、われわれ人間は、どれだけ死にたくないと願っても、あるいはどれだけよい医師に掛かったり、効き目のある薬を飲んでも、一日一日、一瞬一瞬、確実に死に向かっているという厳然とした事実があるわけです。

しかし私たちは普通、できれば「死」を遠ざけたい、自分が死ぬ存在であるということを無意識のうちに考えまいとしています。
当たり前ですね・・・。
好んで死にたい人は誰もいないわけですから(自殺願望のある人を除いては…もっともこの人たちも好きで死にたいわけではないわけですが)自分にとって嫌なことを好き好んで考える人はいないわけです。

では、そのように自分の死をずっと無視していたら人生はどうなるでしょうか。
自分の死が自覚されなければ、一日一日が特に有難がられることも大事にされることもなく、ただただ過ぎ去っていく時間ばかりが積み重ねられていくでしょう。
そのような人生は空虚なままあっという間に過ぎ去っていき、いつの間にか死を迎えてしまうのではないでしょうか。
また、そうした人生には、自分の願望をかなえたり、自分が楽をしたり世間の評価を得たりといった私利私欲を満たすための向上心はあっても、そこには修行をして仏に近づいていくという真の精進はありません。

みなさんは、つねに死を見つめて生きるというと、ジメジメとした暗い生き方を連想されるかもしれませんね。
しかし、事実はむしろその逆です。
自分の死をしっかりと見つめることによって、いま・ここに生かされている私の命、そして私の人生が、掛け替えのない尊く有難いものであることに気付かされるのです。
いま、このときの一瞬が掛け替えのないものとして、生き生きと輝きだすのです!
ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、仕事をしたり、会話をしたり、眠ったり・・・ふだん何気なかった日常の一つ一つが生き生きとしてくる。

そうなると、私たちは一瞬一瞬をいかに生きたら本当の意味でよく生きられるのか、ということを考えるようになります。
同時に自然と自分の私利私欲だけを追求して生きることが虚しいものに思えてくる・・・。

私たちの宗祖、道元禅師もこう仰っています。
「学道の人(仏道修行をする人)は、まず須らく無常を観ずべし」と。
つまり、無常を観ずることは、仏教徒にとって何よりも大切な第一歩であり、これを無視して修行を始めることはできないということです。

よく生きるということ、それは私たち仏教徒にとっては一歩ずつ仏に近づいていく生き方にほかありません。
仏教では、この人生はいわば悟りを開いて仏になるための修行期間と捉えます。
ですから私たちは無常を観ずることによって、「私」として生まれたこの一回限りの尊い人生を、仏に近づいていくための修行として使うことに目覚めるのです。

無常を観ずる心を保つこと。
つまり自分が死ぬ存在であることの徹底した自覚こそが、仏教徒の精進修行の第一歩であるということ。

そして、無常を観ずることによって、はじめて私たちは本当の意味での「人生」をしっかりと歩みだすことができること。

以上、無常を観じて生きるということの大切さを、今日の涅槃会を通して感じていただければ幸いです。

と、だいたいこんな感じの法話になりました。実際はもっと口語体ですが。
これに枝葉をつけて30~40分、ちょっと熱が入って長めになってしまいました・・・。
反省点は、無常をもっと砕いて自分自身のことにも絡めて、分かりやすく話した方がよかったかなということ。いささか哲学的になりすぎた・・・。
熱いのよかったが、もっと明るくかつエレガントな比喩(花木とか)を用いて話せばよかったかな。
毎回反省はつきものです。

法話、もちろん自分のことは棚に上げています・・・ハハ・・・

かつては、仏教で説いていることと、自分の生き方との乖離に苦しんだこともありました・・・
当然、法話なんて満足にできませんでした・・・。
法話をすることに罪悪感すらありました・・・。

しかしある時、それでは僧侶の勤めを果たしていることにはならない、自分の至らなさ、ダメさ加減、そうしたものも全部ひっくるめて、仏教の伝達者として、いわばメッセンジャーとして、仏教を伝えていこうと決意したんです。
今でもたまに心が萎えるときもありますが、それも含めての自分として認めていこう。
そしてできるだけ、ベターを目指して努力して行こうと。。。

さて、今回のテーマ「無常」ということ。
「死」に立ち会う機会の多い立場上、一般の人よりは無常を感じ易い環境にあります・・・。

実際、無常が、腹にまでいかなくても胸の辺り?・・・いやまだ喉の当たりくらいかな・・・とりあえず無常が落ちてる・・・これを胸そして腹にまで落とす。最後には全身心に無常の自覚を巡らせる。

そのとき一瞬一瞬が・・・
私の行住坐臥、一挙手一投足が、光明の中に輝き出すでしょう。

<日記>京都五山 禅の文化展

2007年08月24日 | 禅・仏教
今日は、毎朝の坐禅のメンバー4人で、「京都五山 禅の文化展」http://www.kyoto-5zan.jp/を見に、上野の東京国立博物館に行ってきました。

金曜日は20時までやっているということで、ゆっくりと観られました。

同じ禅宗として、わが曹洞宗の側から思うのは、いわゆる禅文化と言われる、書画、茶道、華道、庭園などは臨済宗にはとても太刀打ちできないということ。(ほかのことはともかく)

時に枯淡で、時に華やか・・・

禅の示す小宇宙が、見事にそれらの文化の中に溶け込んでいます。

そうした禅文化が花開いたのは、臨済宗が将軍の十分な庇護を受けられたこと、また京都五山の高僧たちが洗練された大陸文化を積極的に取り入れて、うまく日本的に昇華したからでしょう。

また、京都五山の開山(初代住職)クラスの坐像も多く展示されておりました。

いずれの坐像も室町時代の作にもかかわらず圧倒的な迫力で見る者の心に迫ってきます。

同時に祖師たちが到達していたであろう禅の高い境涯をも感じました。

どのお像もいい感じで枯れていらっしゃる・・・つまり透明。

でも、こうした坐像の印象は観る者によって違うようで、メンバーの一人は、権力におもねって出世を図る欲深さを感じた・・・と言っておりました。

でも、それは、きっと道元禅師びいきの色眼鏡ではないかと思います(汗)
曹洞宗侶として気持ちは分かりますが^^

ともあれ、室町幕府に庇護されて花開いた、京都五山の禅文化の奥深さ、幽玄さを味わえた拝観となりました。


あと、余談ですが、こんなマニアックな企画展に知的な雰囲気が漂う、若くて美しい女性がけっこう来ていたのには驚きました・・・(ちょいCHEER系)


※さてクイズです。

京都五山と鎌倉五山を上位順に言ってください。

答え(答え…はやっ)

<京都五山>

南禅寺(別格上位)
天龍寺 - 第一位
相国寺 - 第二位
建仁寺 - 第三位
東福寺 - 第四位
万寿寺 - 第五位

<鎌倉五山>

建長寺 - 第一位
円覚寺 - 第二位
寿福寺 - 第三位
浄智寺 - 第四位
浄妙寺 - 第五位

覚えておけば、あなたも古都仏教通?